第八回島清ジュニア文芸賞「散文賞」(高校生の部2)「万年氷月華鏡(まんねんひょうげつがきょう)」

ページ番号1002714  更新日 2022年2月15日

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松任高等学校 三年 桑島 唯子

セツちゃん、そしてイテルくん。
どうやら私はうまく夏を乗り切ることができたみたいです。

休暇をもらった。そうした理由は一昨日まで遡る。
私は夜の自然公園にいた。高層ビルが密集している都会の中にあるここは夏でも夜になればある程度涼しくなる。仕事に行き詰まったときなんかによく来るのだ。ここ最近それはほぼ毎日である。規則的に立ち並ぶ電灯と静寂。ここからまっすぐ行けば公園中心の池にたどり着く。ベンチに座るよりも池の柵に寄りかかって夜空を見上げるほうが好きなのだ。
しかし先客がいた。学生だろうか、一人の少年だった。
私は目を疑った。マフラーとボンボンが付いたニット帽という季節はずれの暑苦しい格好で、しかも私のように柵に寄りかかるのではなく、まさしく池の上にいたのだ。近づいてみると池の表面が凍っていた。何がどうなっているのかわからなかった。
少年はスケートを楽しんでいた。彼が履いていたのはスケート靴ではなくただのブーツ。そのブーツの底に氷でできたブレードで滑っていた。
氷面を蹴る。砕氷が飛び散り光る。欠けた月の下で、スケートリンクと化した池は彼だけのステージであった。マフラーを翻し、少年は華麗に跳んだ。四回転ジャンプを成功させ、池の中心でスピンした。だんだん回転速度が落ち、そして止まった。その姿に釘付けになっていた私は思わず拍手をしてしまい、その音はよく響いた。私の存在は既に気づいていたらしく、笑顔で答えてくれた。
「こうやって会うのは初めてだね」
少年は柵越しに話しかけてきた。“こうやって”ということは前にも会ったことがあるのだろうか。
彼の周りにはとても細かな雪の結晶が浮遊していて、電灯でキラキラと輝いている。
「どこかで会ったかな?」
「最初に君と会ったのは五年くらい前かな。よくここに来るよね。僕もここは好きだよ。ここらの地域では一番空がきれいな場所だから」
年上である私を君呼ばわりするのは少し不快であったが、それは顔には出さないでおく。五年前ということは私が就職した頃だ。
「うん、ここにいたら落ち着く。なんかいろいろと忘れられる感じ」
私は背中を柵に寄りかからせた。これが結構楽なのだ。
「仕事とか?」
少年は見事に当ててみせた。忘れることができるといってもそれは一時期的なものだ。朝になって仕事場に向かえばすぐに全身に圧し掛かってくる。
「どんな仕事してるの?」
「ファッションデザイン」その気はなかったのだが、どうしても気だるそうに答えてしまった。
「それって服の模様とか考えるんでしょ? 楽しくないの?」
彼が考えているものとは少々違うのだが、そこはいちいち触れない。今はあまり仕事のことは考えたくはないのだ。そのせいで唸っていると、彼はまた違う質問をしてきた。
「最後に休んだのいつ?」
「え?」
「もしかしてちゃんと休んでないんじゃない?」
そういえば最後に休んだのはいつだろう。一応、毎週日曜日は休日になっているが、ほとんど頭を捻らせながら机上に置かれた白紙と向き合っているのではないか。だがそれはしょうがないことだ。
「そんなに休んでいられないの」
新作発表会に間に合わさなければならないのだ。チーフに任された一人として期待に応えなければならない。なのにコンセプトとかイメージとか、まるっきり頭に浮かばず髪を掻き毟るだけなのだ。しかも過去最高だという今年の猛暑とセミの騒音がより私を参らせる。
少年は「思い切って休んでみたら?」と微笑みながらとんでもないことを言い出す。私としては初対面である相手にそんな心配は無用だ。こちらの忙しさを知らないくせに。まったく、私も学生時代に戻りたい。眉間にしわを寄せ、無意識に口を尖らせていた。
「いったん全部頭から出しちゃってさ、夜だけじゃなくて昼間にも街中を散歩してみようよ。きっといいことあるよ」
“イテルヒョウギ”と名乗った謎の少年はその後私を気遣ってか仕事の話から逸らした。だがその口ぶりはまるで私に休めと言っているように聞こえた。私はそのときは決して鵜呑みにしなかった。
ところが次の日の朝、チーフからいきなり五日間の休暇を命じられてしまった。理由を問うと、返ってきた言葉は「少し頭を冷やしてみなさい」、それだけ・・・・。
そして今朝。目覚めは最悪だった。しばらく放心状態でベッドから出られなかった。だがデザインを考えなくてはとうなだれながらリビングのテーブルに向かおうとする。何も浮かばない。不本意な休暇ではあるが、らちが明かないので仕方なく外へ出かけることにした。

向かったのはいつもの公園。私が住んでいるマンションから数分でベランダからでも見える場所にあり、出勤するときは必ずここを通るのだ。平日でも夏休みの真っ只中なので親子連れが結構いる。最初は池に行こうと思ったが、炎天下で柵も暑くなっているだろうから木陰になっている近くのベンチにでも座ることにした。太陽が真上にあり日差しが強い。セミがジージーと鳴いている。虫取り網を振り回してはしゃぐ子供。
そして、いつの間にやら私の隣に人一人分あけて座っている女の子。十歳くらいだろうか、白のワンピースにぶかぶかの白のキャスケットを被っている。彼女自身も色白ときた。首飾りを下げていて先端には貝紫の五角形の枠にはめられた水晶が装飾されている。まるでルーペのようになっている。よく見ると銀色の雪華の飾りが付いたヘアピンを前髪に留めている。
彼女は両拳を膝に置いて池の方を眺めていたと思いきや、近くに立っている時計柱を見て困ったような表情を浮かべた。待ち合わせをしている相手が来ないのだろうか。汗が幾筋も額から流れ手の甲に落ちる。何となく目が虚ろで頬が赤くなっている。大丈夫なのだろうか。心配になった私は水道まで小走りで行き、持っていたハンカチを濡らした。
「これ使って」
水で濡らしたハンカチを女の子に差し出した。私も暑さでうまく愛想笑いができなかった。彼女は何も言わずに受け取り、火照った顔を拭った。
「ありがと」
少しスッキリした顔になった。面映いようすでハンカチを返す。ぬるくなってしまっているが私もそれで顔を拭く。
「誰かと待ち合わせ?」
せっかくなので暇つぶしに話をしかけてみる。彼女は小さく頷いた。
「何時に約束していたの?」
女の子は真剣な顔で一言。
「日の出」
一瞬何を言ったのかわからなかった。日の出、というとあの日の出だろうか。
「えっ、そんな朝早くに待ち合わせしたの?」
もしも本当の話だとすればだ。今は夏だ。どれだけ早い時間に朝日が昇ることか。それよりちょっと待て。その日の出とは今日のだろうか。それとも——
「早く来すぎたあたし」
私は呆れてしまった。つまり、待ち合わせしたのは明日なのだ。それに連れ添いらしき人もいない。
「だって、久しぶりに会えるんだよ! ちょっとしか会えないけどすっごく楽しみにしてて、あたし眠れなくて、早くここに来たかったの!」
彼女は必死に訴えた。よっぽど親しい相手なのだ。
「でもなんで日の出なの? もっといい時間帯があるでしょ?」
「カギロイちゃんは今忙しいの。だから日の出にしか来れないの」
カギロイ。それが待ち合わせしている相手だ。どうやら外国人のようだ。だが、そんな時にしか暇がないとは一体何をしているのだろうか。
「でもずっとここにいても仕方ないよ。夜中も一人でいるつもり? 最近世の中物騒だし」
私も夜によくここでふらつくので人のことは言えないのだが。
「だから一旦家に帰ったら?」
彼女は口を尖らせる。
「グワツが助けに来てくれるもん」
また外国人だろうか。カバンとか持ってないしどうやってその人と連絡を取るのだろうか。家に帰る気もないようだ。
「親は心配しないの?」
彼女はキョトンとした。
「オヤって?」
私は言葉を詰まらせた。彼女の家柄や事情を何も知らないのに、どうやら話の中に突っ込みすぎたようだ。しかし脱水症状や熱中症のことを考えるとこのままここにいさせるのもどうかと思う。結構彼女は頑固そうなのでどうしたものか。私も口を尖らせた。彼女はずっと私の顔を見つめている。
「じゃあ、こうしよっか。まずはもっと涼しいとこ行こう。なんか冷たいものでも食べてさ。それからどうするか考えよう。ずっとここにいたら溶けちゃう」
「それは大変! 早く行こう!」
彼女は血相を変えて立ち上がった。そんなに慌てなくてもいいのだが。
そもそも見ず知らずの大人相手の誘いに軽く乗ってはいけない。いけないのだが、これは仕方のないことなのだ。これは誘拐ではない、断じて誘拐ではない。

彼女は“セツ”と名乗った。
私とセツは公園から一番近いショッピングモールへ入り、一階フロアのカフェに落ち着いた。冷房がよく効いている。私はアイスコーヒーを、セツはオレンジジュースとバニラアイスを頼んだ。セツはストローで氷をいじり、カチャカチャと音を出す。
私はセツにカギロイと再会したらどうするのか訊ねた。滅多に会えないようだし、時間も限られている。
「えっとね、あたしのお月さまとカギロイちゃんのお日さまを交換するの」
また不思議なことを言う。とりあえず納得したフリをした。セツはストローに息を吹き込んでジュースにブクブクと泡を立て始める。まるでおしとやかさが感じられない。
「それ、きれいだね」
今度は彼女が身に着けていた首飾りに注目した。
「これ万年氷っていうの」
「それって水晶の名前?」
「ううん、絶対に溶けない氷」
水晶とは少し違うものらしい。水晶のように鮮明でツヤがいいものほど高価で貴重で、その名の通り冷たい物質ではあるが、あの蒸し暑い街中ではあまり効き目が感じられなかったという。ちなみに彼女が身に着けているヘアピンも万年氷でできているそうだ。
「あたしホントに暑いのダメ」
セツはバニラアイスを中心から食べ始める。ドーナツのように穴が開き、溶けたアイスが中に溜まりだす。飾りのミントは皿の隅にへばりつかせている。
「氷点下ならある程度平気なんだけどなぁ」
何気なく呟いた台詞に、コーヒーを口に含んでいた私は思わずむせてしまった。
どこまで本当のことを言っているのかよくわからない。この子の生まれはそんなに寒い地域なのだろうか。カギロイという子と待ち合わせをしていたという話はあの必死さから本当のことだと思うが。
「日の出までこれからどうする?」
もう一度彼女に聞いてみた。セツは「えっとねぇ」と言いながら残しておいたミントを口の中に放り込んだ。
「ここにずっといたい」
「でもここ夜の十時までだよ」
それ以前にその時間までこのショッピングモールでうろつくのはきつい。それに店員に怪しまれたくはない。するとセツは「あっ」と声を上げる。
「あのね、公園で聞いたんだけど、今日ハナビっていうのがあるんでしょ?」
そういえば今日はお祭りで、午後八時から花火大会があると昨日後輩が言っていた。川沿いに屋台も並ぶそうだ。
「うん。じゃあ夜になったらいこっか」
問題は花火大会のあとだ。夜に街中をうろつくのは危ない。
「さっき言ってたグワツっていう人は今来れないの?」
彼女をよく知る人と合流できればなんとかなるだろう。しかしセツは「来てると思う。たぶん外にいるよ」と言う。
窓側の席に座っていたので外の様子を窺った。幾人もの通行人が流れている。「どんな人?」と訊ねてみたが「真っ白」と答えただけだった。
「犬じゃあるまいし。どうして一緒にいないの?」
「あのね、あたし黙って来たの。でもお兄ちゃんならわかってくれるし、グワツも勘がよくてものすごく心配性なの。だからグワツはすぐ探しに来るんだけど、遠慮しちゃって近くで見てるんだよ。それにおねえちゃんもいるし」
言い訳にも聞こえるのだが、半分でも信じてみようとは思う。
カフェをあとにした私たちは二階フロアへ上がった。
私はショーウィンドウの前で立ち止まった。のっぺら顔のマネキンがポーズをとって並んでいる。彼女らが着ていた婦人服には見覚えがあった。独立した後輩がデザインしたものだ。どうやら無事に軌道に乗っているに違いない。
「どうしたの?」
顔を見上げたセツの姿もガラスに映る。こうしてみるとまるで親子だ。
「おねえちゃんは今悩みがあるの」
どうやら私は気持ちが顔に出やすいタイプのようだ。また無意識に口を尖らせてしまっていた。
「どんな悩み?」
「私が先に走っていたはずなのに、いつのまにかみんなに追い越されちゃったの」
仕事のことを詳しく言ってもわからないだろうからそれなりに理解できるように説明した。
「その人たちの方が足速いんだ」
悪気なしに言っているのはわかるのだが、本当に気が落ちる。へこむ。
「どうしたらいいんだろうねぇ」私はおどけながらわざとらしく言ったがこれは本音だ。どうすればスランプから抜け出せるのだろう。
「じゃあねぇ、ソリに乗る!」
「ソリ?」
「そう。それでグワツが引っ張るの。そしたら早いよ、みーんな追い越しちゃう! でもちゃんと掴まってないと飛ばされちゃうよ」
偽りのない笑顔で提案してくるセツに私は苦笑した。今度はトナカイ扱いだ。いや犬でもそうか。
「だめだよそれじゃあ。私だけズルイじゃん」
「ズルくないもん。みんなソリに乗ってもいいことに気づかないのが悪いもんね」
その悪気のない笑顔はどことなくだがイテルに似ている気がしてきた。

どうして平日の今日にお祭りがあるのだろうか。祝日でもないし、何か縁(ゆかり)でもあるのだろうか。そのようなことを屋台がやっている場所へ向かいながら喋っていた。その質問にセツは思い出したかのように答えだす。
「あのね、お兄ちゃんが言ってた。川に明かりを流すんだって。その明かりがおかげさまの帰り道になるんだって」
“おかげさま”とは黄泉の国に住んでいるヒトだという。おかげさまは光を好むので、だから明るいところに現れる。つまり影のことなのだ。
「でもお日さまよりもお月さまのほうが好きなんだってさ」
だから今日の日の入りから明日の日の出にかけておかげさまは帰っていくという。花火を打ち上げるのは川の位置を知らせるためだ。
「おいてけぼりになったおかげさまはどうなるんだろうね?」
セツは首を傾げた。私も「さぁ」と同じように首を傾げる。
どちらかというと私は幽霊の類は信じてはいない。信じてはいないのだが、先日のイテルのこともあってよくわからない。結局あの日、はぐらかされて一体何者なのかを聞けなかったのだ。
「わぁスゴイ、ちっちゃな家が並んでる!」
どうやら屋台は初めてのようだ。空がオレンジに染まっていくにつれて明かりが灯される。既に大勢の人で賑わっており、中には浴衣を着ている人もいる。今は夏なんだなぁとあらためて感じさせてくれる。
「スゴイスゴイ!」
セツは人ごみの中へ走っていく。慌てて私は追いかけた。ここではぐれてしまっては今までの時間とお金が無駄になってしまう。自分は偽善者なんだとも思った。
セツはある屋台の前で立ち止まる。
「うさぎカステラだ!」
声を上げたそれはウサギの形をした人形焼。隣には金魚すくいがあるのだが、目に入ってない。娯楽よりも食である。
私は二つ買った。セツは大きな口で頬張る。「何か入ってる!」と言った気がした。人形焼の中には甘さ控えめの白あんが入っていた。セツはこれを気に入ったようで満面の笑みで口をもぐもぐさせた。おいしそうに食べるなぁとその表情を見ていると、どこからか視線を感じた。周囲を見回すがそれらしい人影はなかった。
時間が経つのは早いものだ。空一面が夜になっている。腕時計を見るともう七時半を過ぎていた。そろそろ花火が見える場所へ移動する。
石造りのアーチ橋に到着し、セツは大人たちをかき分けて手すりで身を乗り出す。この橋の上が一番眺めが良いので早くから親子やらカップルやら集まっていた。向こうにも同じ橋が掛けてある。両川沿いに屋台の明かりが並んでいるのがハッキリと見え、川の上には屋形船が浮かんでいる。風が涼しい。昼間の猛暑が嘘のようだ。
やがて赤い光が一筋、空へ放たれた。菊の花が大きく咲いた。
歓声を上げる人々。セツも飛び跳ねる。「おかげさまー」とか「おかげさまでしたー」と叫ぶ年配の人。セツもそれにならう。どうやら“たまや”とか“かぎや”とかではなく、そう言うのが風習のようである。
牡丹が咲く。蜂が飛ぶ。土星が浮かぶ。星たちが飛び散って消えていく。
ある程度花火が打ち上げられると、視界の向こうからいくつもの淡い光が流れてきた。屋形船からも灯篭が流され、灯火は蛍のように橋の下をくぐっていく。
私もそれに見入っていたが、また誰かに見られているような気がしてならなかった。犬でもトナカイでも、いるならいるで姿を現して欲しかった。
「おかげさま、ちゃんと国に帰れたかなぁ?」
セツは呟いた。

時計を見ると既に九時である。花火大会も終わり、また屋台へ向かう者、帰宅しようとする者も出てきた。セツはまだ遠くへ流れていく灯篭を眺めている。
灯火もとうとう点々になり、人も私たちだけになった。
これからどうしたものか。そうだ、いっそ時間になるまで私の部屋に待たせよう。どうせ私のマンションはここから目と鼻の先だ。
「ねぇこれから」
言いかけた私は続きの言葉を忘れた。セツが手すりのところでぐったりとしていた。それだけではない。セツは黒い霧のようなものに覆われていたのだ!
私は慌ててそれを払おうとした。鳥肌が立った。まるでスライムに手を突っ込んだように生温い。思わず「ひぃっ」と声を上げて手を引いてしまった。
なんだこの不気味なものは!
セツの身が危険なのは一目瞭然。意を決して彼女を引っ張り出した。そのまま私に寄りかかるセツ。
「大丈夫!?」
セツは小さく頷いた。だが顔が真っ青なのが明かりがなくてもよくわかった。
黒い霧は地面に溶け込むように消えた。逃げろと即座に脳から危険信号が発せられる。私は彼女の細い腕を取って走り出した。
屋台の人ごみの中を突っ切る。何人かにぶつかってしまい睨みつけられるがそれどころではない。
屋台が途切れ、人影もまばらになっていく。このまま川沿いに進み賑やかな大通りへ出よう。そこなら安全だ。
しかし私は動けなかった。前方にまた黒い霧が現れたのだ。川から這い上がっている。道を大きく遮断し、ドーム状に広がろうとする黒い霧から細い触手が何本も生えてこちらに向かってくる。気がつくと触手は足元の地面からも滲み出てきていた。私は悲鳴を上げた。霧の中で得体の知れない“目”と合ってしまった。瞬く間に血の気が引いた。
もと来た道を引き返し、必死に逃げた。
するとおじいさんが孫と思われる幼い男の子を連れて歩いていた。
「ここにいたら危ないです!」
私は叫んだ。
「へぇ?」おじいさんが間の抜けた声を出す。「どうかなさいましたか?」
「黒い変なものが襲ってきます!」私は立ち止まり、危険を知らせた。
「黒い?」
おじいさんは私の背後をうかがうが驚きもせずに目をぱちぱちさせるだけ。男の子が「じいちゃん、はやく」とおじいさんを急かす。
「はて、犬か何かですか?」
「そんな・・・・」
愕然とした。私たちにしか見えていないのだ。その触手はおじいさんの顔を貫通して私たちへと伸びる。男の子の足にもすでに黒い霧がまとわりついているのに平気だ。
「よ、夜は気をつけてください!」私はそう言い残してまた走り出した。
私たちの足音だけ聞こえる。
そのときセツが転んでしまった。立とうとするが力が入らないようだ。片膝を強く擦り剥いた為に血が出てしまっている。
よくわからないが、あれはこの子が狙われているのは間違いない。私は一つの仮説が浮かんだ。
あの黒い物体、おそらく“おかげさま”はお日さまよりもお月さまが好きだという。だったら渡してみたらどうだろうか。セツは“お月さま”をカギロイと交換するためにやって来ているのだ。しかし、そんなことなど言えるはずがない。
「乗って!」
私は彼女をおんぶした。
息が切れては足を止める。また走り横腹が痛くなっては足を止めてまた走る。いったい何ヶ月分の運動だろうか。
やっと自然公園に戻った。もう少しである。ここから列のルートで帰ろう。
池が視界に入った。中間地点である。
池のある広場に出た瞬間。
私の影から黒い霧が大量に吹き出した。そして電灯の影からも次々と湧き上がる。見る見る間にひとつの形にまとまっていく。それはとてつもなく大きな蛇のようだ。やがて上半分は六本の触手、四枚の羽、そして二本の触角が伸びたかと思うと夜空に羽ばたいて私たち目がけて飛んできた。
巨大な黒い怪物は私たちを阻んだ。頭部らしきところがパックリと開いて、ふたつの燃えるようなギラギラと輝く大きな眼球が現れた。そのふたつの赤い瞳孔は同時に私を捉えた。
膝がガクガクしている。心臓もバクバク鳴っている。無理に走ったからではない。——恐怖だ。動けない!
黒い怪物は私たちの上に覆いかぶさろうとした。
もう駄目だと観念したそのとき。
「来た!」セツがあえぐように呟いた。
極寒の風が吹き荒れて思わず目を閉じた。まぶたを上げると広場中が一面の氷の世界と化していた。よく見ると、広場の池を挟んで黒い怪物と白い毛並で金色の双角を持った巨大な猛獣が対峙していた。次の瞬間、白い猛獣は唸り声を上げながら鋭い爪を立てて黒い怪物に噛み付いた。
黒い怪物は痙攣を起こし、体をうねらせながら凍りついていき、最後には動かなくなってしまった。そして白い霧となって消えた。
「なに? なに?」私は呆然と立ち尽くした。だがとにかく今の内だ。私はその場から逃げ去った。

「もうだめ、疲れた」
私はセツをゆっくりと下ろし、ベンチに座らせた。気がつくと、いつもの公園に戻っていた。
「大丈夫かな、あの黒いのもう来ない?」
「大丈夫だよ。グワツは隊長だもん」
「隊長かぁ。それはスゴイね」
あの白い猛獣こそグワツだったのだ。“真っ白”とか“ソリを引っ張る”とかよくよく考えてみると人間としての表現をしていなかった。だが“隊長”というのはどういう意味なのだろうか。他にもあれがたくさんいて、その中のリーダーということだろうか。
あのような架空上の生き物だと思っていたものが突然現れたのに今は冷静でいられる。
私は無理やり足を動かし水道へとふらふらと歩み寄り、ハンカチを水で濡らす。膝の傷を拭く為だ。「二回目だ」とセツは痛みを我慢しながら小さく笑った。
セツは隣に座った私に寄りかかった。見ると小さく寝息を立て始めていた。
時計を見ると十時が過ぎていた。夜明けはまだまだ来ないし明日にもなっていない。もう少しだけ休んでからマンションに帰ろう。
ぐったりと背中を後ろに寄りかからせた。私は空気をいっぱいに吸い込む。大きなため息が空に広がった。するとまぶたが重くなり始め、意識もゆったりと遠のいていく。
電灯が私たちを静かに照らす。木々の枝が風でさわさわとゆれる。それもだんだん聞こえなくなった。

私は目を覚ました。
太陽の光が樹林の間から差し込み、公園を照らし始めた。朝だ。池の水面が藍白に光る。温かい風が吹き、私の髪をなびかせる。
風が吹いた方向を見ると、一人の女の子が立っていた。
セツと同い年だろうか。背丈もそれほど変わらない。違うのは小麦色に焼けた肌で、半袖短パンの動きやすい服装。活発そうな雰囲気である。黄金色のヒマワリのヘアピンを横髪に留めていた。
「えっと、カギロイちゃんかな?」
「セッちゃんは?」その第一声には心配な気持ちが含まれていた。
「ほらセツちゃん。カギロイちゃんだよ」私はセツを起こしてあげた。
「セッちゃん!」
「カギロイちゃん」セツは立ち上がった。足がふらついてしまうので私が両肩を支える。カギロイも心配そうな表情を浮かべながらセツを抱きしめた。待ちに待った再会だった。
「そうだ。お月さまあげなくちゃ」セツは自分が身に着けていた銀の雪華のヘアピンを外した。カギロイも同じく自分のヘアピンを外す。
「つけてあげるね」
「あたしも」
セツはカギロイに銀の雪華ヘアピンを、カギロイはセツに黄金ヒマワリのヘアピンを髪に留めてあげた。セツはつけてもらったヒマワリを優しく触る。「わぁお日さまだ・・・・! ありがとう!」
カギロイはその笑顔を力強い目で見た。
「今度はあたしが会いに来るね」
その瞬間、カギロイは半透明になったかと思うと宙に浮きながら黄金色に発光した。私はあっけにとられた。だんだん髪の長い大人の女性の姿へと変化していったのだ。その姿はまるで女神のように思えた。カギロイは私たちを見下ろしている。輝いているため表情がハッキリとは見えなかったが、確かに微笑んでいた。
やがて彼女は分散して暖かい風になった。
「ほんとうにありがとう。おねえちゃん」セツは振り向いて微笑んだ。
「どういたしまして、なのかな?」
私も微笑み返した。首を傾げながら。
するとセツは今度は白い歯を見せながら笑った。
「おんぶして!」小さな両手を大きく差し出した。元気を取り戻してきたようである。
「しかたないなぁ。さぁ、乗りたまえ」
彼女に背を向けてしゃがみ込み、思わず柄にもない口調で喋ってしまった。セツは吹き出して大笑いしながら私の背中に飛び込んだ。足の痛みを堪え、私は「よっしょ」と声を出した。気のせいだろうか、彼女が軽く感じる。地面を見ると、彼女が立っていた位置に彼女の足跡ができていた。地面が湿っているのだ。それは何を意味しているのかよくわからなかった。
「そうだ。あたしブランコに乗りたい」セツが肩を軽く叩いてくる。私は彼女の足跡から気を逸らし、歩き出した。
ブランコにたどり着くと彼女ははしゃぎながら片方のブランコの上に立った。私は危ないのではと注意したが、「平気だもん」と膝を曲げ伸ばししてゆっくりとこぎだした。私はその様子を隣のブランコに座って見守る・・・・。彼女は気持ちよさそうに歌を口ずさむ。

贈ろう貴女に向日葵の花束
花言葉は知らないけれど
あの日の空を思い出すでしょう
プリムラを窓際に添えましょう
朝もきっと銀白の平原
歩きませんかオーロラの季節

私はハッとした。小さな水滴が朝日に反射されるようにキラキラと光っている。セツの姿が透けていくのだ。まるで蒸発していくかのように。
「セツちゃん!」
私は叫んだ。セツはブランコをこぐのを止めない。彼女は髪をなびかせながら私の方へ顔を向けた。とても楽しそうな無邪気な笑顔で。
「なあに?」
それが最後の言葉だった。セツは笑い声と一緒に消えてしまった。彼女が消えてもブランコはまだ揺れていた。そこから小さな水滴がいくつも跳ねた。
私はしばらくポツンとこの場所にいた。

今夜も自然公園へと向かった。、またあの少年に会いたくなったのだ。
池の辺が視界に入ってきたが、それはいつもと変わらない姿であった。氷が張られていないのだ。彼の姿はない。
私は柵に寄りかかり、夜空を眺めた。
すると微かに肌寒くなった。もしやイテルがやって来たのだろうか。地面を削るような鈍い金属音がした。横へ見向くと、イテルではなかった。
霜を置いたような真っ白の短髪で碧眼の青年だった。黒の手袋に浅葱色の上着。立ち襟には雪の結晶を象った襟章。全体的に軍服をイメージさせた。先程の金属音は滑り止めのスパイクの音だ。
彼は軍帽を取り深々と頭を下げた。
「先日は白姫(しらひめ)さまの身をお守りいただき誠に感謝いたします! 無事に筒姫さまとの約束をはたすことができました」ハキハキとした声で一気に言い切った。
突然見知らぬ相手に頭を下げられてどう対応してよいのやら困った。
「あの、どちらさま、ですか?」
彼は姿勢を正した。
「あ、あらためて紹介させていただきます。自分はグワツヒョウジンといいます」
「え?」
グワツ・・・・。聞き慣れてしまった名前。あの白い猛獣の名前だ。
グワツは申し訳なさそうな表情を浮かべた。「あの時はどうもすみませんでした。かなり驚かせてしまったようでして」
やはり。この青年とあの白い猛獣は同一なのだ。白髪と碧眼以外まったく姿が異なっているということもあるが、随分と雰囲気が違う。猛獣の姿のときは絶対的な威厳を感じさせられたのに、今は何とも腰が低く思える。確か彼は隊長のはずでは。
「当たり前じゃないの。本当に怖かったのに! どうして早く来てくれなかったの」
「申し訳ありません」グワツは本当に申し訳なさそうにもう一度頭を下げた。「それで、あなたに是非お詫びとお礼をしたいということで、これを白姫さまから承りました」
私に歩み寄るグワツ。彼の背丈は高く、肩は私の頭よりも上にある。彼は懐から水色の包みを取り出し私の手に握らせた。
包みを開くと首飾りが出てきた。セツが身に着けていたものと同じものだ。貝紫の枠が電灯の明かりに反射している。
「実はおかげさまはそれを狙っていたのです。ですが安心してください。もう二度とあなたの前に姿を現すことはありません」
わたしもう二度とあのスライムに触るのは御免だ。
「それを持ってニ日後の夜にまたここに来てください。あのお方がまたおいでになります。なにせ満月ですから」
グワツは「それでは失礼いたします」と今度は頭を軽く下げて軍帽を被り、背を向け歩き出した。
「あ、待って」
私は慌てて彼を呼び止めた。
「あの子、元気?」
私は何よりもセツの安否を知りたかった。
彼はにっこりと微笑んだ。
「またうさぎカステラが食べたいと仰っておりました」

二日後の夜。雲ひとつない星空。その中でいつにも増して月が大きく丸く輝いていた。
「やぁ、久しぶり」イテルは池の柵に座って私を待っていた。その前にもスケートを楽しんでいたのだろう。氷のブレードが電灯に反射していて、池にも氷が張ってあり滑った跡がくっきりと残っている。
「ねぇ、あなたって偉いの?」
会うなり訊ねてみた。グワツが彼に対して“あのお方”と言っていたことからグワツよりも結構立場が上なのだ。
私は少しだけグワツはえらいと思った。明らかに年下の子が自分よりも位が上だというのに全く不服そうには見えなかったのだ。むしろ直属でなくても仕える身分として誇りを感じているかのようだった。とはいえ、彼自身やカギロイのようにイテルも真の姿はまた別にあるのかもしれないのだが。
「知ってる人は僕のことを冬帝(とうてい)とか、冬の神様って呼んでるけど、それほど偉くはないと思うよ」
正直な笑顔だ。おそらく下っ端の下っ端に対してでもこのような笑顔で接するのだろう。イテルは「だって」と言葉をつなげる。
「ただ役目を果たしてるだけだもの。でもこの国にとっても僕らは欠かせない存在だね。君たちが余計なことをしない限りだけどさ」
「余計なことって?」
「いろいろ。こっちも後始末が大変なんだよ」
そうか。彼らは季節のヒトでありチカラであり、自然そのものなのだ。ここに来るのはほんの息抜きで、普段は要の存在として振舞っているのだろう。
「そんなことよりもさ。それ、月華鏡でしょ?」イテルは私が身につけていた首飾りを示した。
「げつがきょう?」
またしても初耳の単語が出てきた。これは万年氷ではないのか。
「万年氷の中でも一番貴重なものなんだよ。それを月にかざしてみて」
「これを?」
「早く早く」と急かされたので私は慣れない手つきで月華鏡と呼ばれる首飾りを首から外し、言われたとおりに夜空に向かって差し出してみた。ちょうど満月が枠の中の水晶に収まった。
すると、月の光が吸収されたかのように水晶が黄金色に染まった。そして内部で光が何重にも屈折し合って星のように銀と淡い瑠璃色に輝いた。光の粒は一点に留まらず、まるで万華鏡のよう。今まで見たことがない幻想に私は目を奪われた。
「ね、すごいでしょ?」イテルは私の表情に満足げだ。
「これ、ホントに貰ってよかったのかな・・・・」
私なんかが持っていてもいいのだろうか・・・・。
「いいんだよ。そうやって純粋に感動してくれる人が今持ってるんだから」
久しぶりに聞いた純粋という言葉に苦笑してしまった。だが満更でもなかった。
仕事に就いて間もない頃は夢中でやってやるんだと真っ直ぐな気持ちだった。それがだんだんと、好きでめざしたはずの仕事に追いまくられ、後輩に追い抜かれていき、ただ仕事をこなそうとするだけになり、いつしか純粋な自分を見失っていたのかもしれない。今は違う気がする。どうしてなのかはよくわからないが、結果がすべてなのではない、純粋に今を取り組む糧こそがなによりも大切なように思える。きっとそうだ。
「それにねぇ!」
気がつくとイテルは柵を飛び越え池の上に立っていた。私の方に正面を向かせたまま池の真ん中へと滑っていく。
「めったにいないんだぁ! あいつが心から好きになる人間! それが証拠だよぉ!」
私はまだ淡く光る首飾りをじっと見つめた。
イテルは体を回転させ氷面を蹴り、軽やかなステップを踏んだ。

五日ぶりの出勤。同僚たちとあいさつを交わしながらまっすぐチーフのもとへ行く。
「おはようございます。さっそくですが、見てもらいたいものがあります」
私はちょうど電話を終えたチーフに一枚の紙を手渡した。彼女は何か奇異なものを見たかのような顔でそれを受け取る。
「二つでワンセットなんです」先手を打った。それは私がデザインした二人分のドレスだ。
ひとつは裾がゆったりとした純白のセミロングドレスと羽織、同色のショール。ドレスには大きめの雪華模様の刺繍を。そしてヘアバンドに近い大き目の銀のバレッタとかんざし。もう一つはクリーム色のミディアムドレス。頭と胸、右手のグローブにはオレンジをベースにしたコサージュを施してある。特にヒマワリがアクセントである。
「何かテーマでも?」表情のない声で話すチーフ。彼女はこの冷静さで数々の窮地を乗り切ってきたのだ。
これが許可をもらえる確信はない。だが自信はある。
「夏と冬の女神です」
背後で誰かが小さく吹き出した。何とでも言えばいい。
チーフは何も言わずにデザインを凝視していた。私も同じように彼女の顔を見つめた。
私はズボンのポケットに入れてある月華鏡を握りしめた。ひんやりとした感触がとても心地よかった。
チーフは顔を上げ、それから私をしっかりと見た。彼女はにっこりと、そしていつもは冷静で笑わない彼女がにっこりと微笑み、「いいんじゃない」と呟いた。
今年の新作発表会はきっと成功させてみせる!

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