第十回島清ジュニア文芸賞「奨励賞」散文(中学生の部2)「鏡 記憶と忘却」
美川中学校 三年 山田 菜摘
ふわふわと玉のような光が辺りに浮かんでは消える。何もないところから生まれた粒子がまた何もないところに消えていく。赤や青または黄色といった、色の違いがある以外にその光に違いはない。
そんな光の群れの中に一つだけ息をしているモノがあった。人の形のした『それ』は深い翠の髪を無造作に揺らし、規則正しい吐息に合わせて胸を上下させながら宙に浮いている。『それ』が生み出す以外にかすかな音すら聞こえない、永遠とも思えるその空間は突如破壊されることになる。
『もういやだ!こんなことやってられっか!』
どこからともなく空間を揺るがすような怒声が響く。同時に宙に浮いた『それ』が床へ落ちた。白く、あるかどうかさえ分からない床はゴンと鈍い音をたてて落ちてきた『それ』を確かに支える。
『何で俺ばっかりこんな目に遭うんだよッ』
堰(せき)をきったようにあふれる声により光の玉は粒子となって霧散していく。正体の付かない声は止まることなくエゴの塊のような言葉を紡いでゆく。そんな様子を知らぬようにゆったりとした動作で座り込んだ『それ』は打ち付けた腰をさすり欠伸(あくび)を溢(こぼ)していた。
『もういやだ、全部全部……大っ嫌いだッ!』
始まりと同じような声を最後に空間に元の静けさが戻った。最初から我関せずといった様子で舟をこいでいた『それ』は声の途絶えからたっぷり十回分の深呼吸程の時間がたったあと、不意に顔を上げた。
「大嫌いねぇ……。また大げさに言うもんだ」
大きく伸びをし勢いをつけて立ち上がる。長い間動かしてなかったせいか関節がばきばきと鳴った。眠気を散らすように数度頭を振る。
「めんどくさいけど、やりますか」
そんな少年少女ともつかない声が辺りに木霊した次の瞬間には、白い空間には動くものはなくなっていた。
そして、何もなかったかのように、光だけが点滅するように浮かんでは消えた。
「だーーーっ!!チクショウ、あちぃんだよ!」
ジリジリと太陽が照りつける。それは地球が太陽の周りを回るいわゆる公転という現象が深くかかわり、一年に一度必ず来る夏という四季ゆえの仕方がない現象だ。だが、そんなこと知ったこっちゃない。暑いものは暑いし、特に日本の夏なんてじめじめして気持ちいいもんじゃない。
恭介は解けかけたアイスを歯で削り取り用無しになった棒を部屋の隅に置いてあるゴミ箱めがけ投げ捨てた。風は無く、湿気とともに蝉の鳴き声がまとわりつくような錯覚に陥るほど近く聞こえる。普段なら熱された室内をすばやく冷すエアコンも、もともと不調だったものが最近の連日稼動により故障中なのである。急遽(きょ)運んで来た扇風機なんて快適さになれた現代中学生には気休めにもならず、夏を強調する道具にしかならなかった。
今年の夏は例年に比べて涼しい方らしいがそんなことは実際に暑さに直面している恭介には関係の無い情報だった。
「あーーッ!良いことねぇな。ったく……、あのくそ暑いグランドで球蹴ってるよりはマシか……」
振り返ればこの人生、サッカーばかりしていた気がする。最新の思い出といえば中学最後の大会に左足の怪我で出ることはできなかったことか。もとは好きで始めたサッカーだったが中学ではコーチの方針についていけずに反発してばっかりだった。どうせ言っても無駄だろうから心の中でのことだが。
今は痛みも無く生活には支障をきたさないが右足よりも反応速度が遅れている事実は変らない。今頃は後輩がコーチにしごかれながら汗を流している頃だろう。日陰も無く止まることなく走り続けているなんてご苦労なことだ。
今年はそんな肉体的苦痛が無い代わりに勉強が更に増しているのだが、こんなくそ暑い中やってられるものか。恭介は少しでも涼をとろうと寝返りを打った。
《なーんかつまんないなぁ》
「……ッ!!」
不意に聞き覚えが無い声が聞こえ慌てて体を起こす。扉を振り返ってもあいた形跡も無い。
《もうちょっとなんかないワケ?世界が自分をいじめてるんだーとか、世界征服したいのに予算が無いんだーとかさ》
扉は静寂を保ち辺りを見渡しても人の姿は無い。それどころか生き物一匹いないのだ。しかし声はどこからとも無く聞こえてくる。クローゼットの中やベッドの下、果ては山になった洗濯物の中まで見たがそんなところにいるはずも無く。
「なんなんだよ気味ワリーな。暑さからの幻聴か?」
《ちがうよー。やだやだ、人間ってば自分がありえないって想定したことが起きたら直ぐに考えること放棄するんだから。そんなんでよく過酷な生存競争生き抜いてこられたよねぇ》
頭を押さえて自問自答すれば、直ぐにやけにのんびりとした声が返事をする。僅かな希望も打ち砕かれ恭介は苛立ちを隠しもせずに叫んだ。
「だったらなんなんだよ、逃げも隠れもしねぇからさっさとでて来いよ変質者!出てこねぇとカボチャといっしょに煮込むぞ!!」
最後の音が小さく糸を引く。興奮から肩で息をしながら返答を待つ。しかし先程とはうって変わって待てど返事は一切無く、蝉の大合唱だけが変らず響いていた。
汗がフローリングに落ちる。心拍数の上昇とともに体温が上がり汗が頬をすべる。何もない空中を睨むが、物音一つ聞こえずに時間だけが過ぎる。ついに恭介は痺(しび)れを切らし再びベットへと腰掛けた。硬いスプリングが体重を受け止め、反動で落ちた汗を袖で乱暴に拭う。
「……結局気のせいかよ。ただでさえ暑いってぇのに余計な体力使った」
風によって風鈴がちりんと可愛らしい音を鳴らし恭介の心をなだめた。
つまりは幻聴だったということか。それならば返事をしてもおかしくないように思う。幻聴というのはその人の深層心理が関係していたりするらしいから、ないこともないだろう。それにしても自分の深層心理はどうなっているのだろう。よく分からないことを永遠と一人語りし、(幻聴がいちいち返答を聞いていても怖いと思うが)やけに世界にこだわりっていたし、ついには人類の駄目だしまでし始めた。進路には特に興味は無いのだが自分は意外と世界に進出したがっているのだろうか。しかもそれは学者希望。
(……ダメだ、暑さで思考までおかしくなってやがる)
だいたい、なんでかぼちゃが口から出たんだ。そうとう頭にきてるのかもしれない。
悶々と余計なことばかり浮かぶ思考を無理やり遮断する。
窓の外から冷気を帯びたような風が吹いた。その涼しさに引き寄せられるようにサッシの上に頭をのせて目を閉じる。日のさす方向が変ったのかまぶしさは感じない。
「こんな状態でお昼寝したら首痛めて起きた瞬間から気分ブルーだぞ?」
「うわっ!!」
間近に聞こえた声に驚いて体を起こす。途端、鈍い音がして額に激痛が走った。
「いったー…何するんだよキミ!いきなり体起こすなんて……舌噛み切っちゃったらどうしてくれるんだ!」
「——ッ!うるせぇ、だれでもいきなり人の顔が目の前にあったらビビるに決まってるだろうが!!」
鈍い痛みを残す額に手を当て、身勝手な主張をする相手を睨みつけるべく顔を上げる。
そこにいたのは真っ白な一人の人間だった。つばの大きな白い帽子を被り、見たことも無いがどこかスーツに似ているこれまた白い服を着ている。そのくせ髪は深い翠色で、長い前髪の間からのぞく非難の色をたたえた瞳は不安定そうな紫色をして、そこだけがやけに眼に留まる。日本人よりも白い手は顎の辺りを押さえているから、さっきぶつかったのはあそこなんだろう。
「そんなことないさ!自分だったらそんなことしないもん。キミがビビりなだけでしょ」
「馬鹿いうな、だいたいテメェ誰だよ!?」
噛み付く勢いで怒鳴れば不法侵入者は目を瞬かせた。そして窓から上半身だけを出していた状態から一気に体を起こし部屋へと入室を果たす。着ていた服がふわりと広がり、履いている底の厚いブーツがフローリングに当たり小さく音が鳴った。土足での堂々とした入室に声を上げようと声帯を振るわせる。
「これは失礼。挨拶もせずに無礼な所業をお許しください。罪滅ぼしとして貴方の問に答えるならば、自分は番人をしている者。この度は貴方を我が世界へと導きに参りました」
怒りは声にならなかった。帽子を取り胸に当て、伸びた背筋を自然と曲げて礼をする姿は見たことも無いはずの英国紳士を思い浮かばせる。束ねた長い翠色の髪が流れるように宙に舞う姿に圧倒され声が出なかったのだ。先ほどまでの適当な雰囲気から打って変わった洗練された仕草に一瞬にして飲まれるのを感じた。不意に上げられた顔を見てまた、嘘だ、と思う。さっきまで紫の色を浮かべていたはずの瞳はいまや凛とした翠へと変っているのだ。
「な、に、言ってんだよ。我が世界とか、つれていくとか頭おかしいんじゃねぇのか」
必死になって動くことを拒否した喉から声を絞り出す。いままで声一つ出すのにこんなに苦労したことがあっただろうか。それでも意地で合わせ続けていた瞳は一切ゆるがない。
「おかしいことなど一つも。自分は貴方に呼ばれたのでここにいるのですから。以上の理由によって貴方に拒否権が存在しないことをご了承ください。では、時間ももったいないのでまいりましょう」
何なんだ、と叫びたかった。なんで居ないのに声が聞こえたんだとか、どうやってつかまるところが無い窓の外から入ってきたんだとか、いきなりなんで真面目になるんだとか。連れて行くって何のためにとか、オレが呼び出したなんて記憶に無いとか、拒否権が無いなんて横暴すぎる、聞きたいことなんて腐るほどあったのに。それらはすべて音にならない。いきなり暗転する視界の端で最後に捕らえたのは、部屋の隅に埋めた筈の大嫌いなサッカーボールだった。
かすれた視界が最初に捕らえたのは曇り一つ無い白だった。つづいて息苦しさに胸元のシャツを掻き握る。そして呼吸できない原因を急いで殴り飛ばした。
「ぶはっ!…ッはぁ、はぁ……」
「あ。やっと起きた。もう少し起きなかったら呼吸困難であの世行きだったかも知れなかったんだよ」
殴られた衝撃でしりもちをつきながらも、よかったねぇ、といけしゃしゃあと発言する人物を思い切り睨む。恭介が涙目だったからか元々耐性があるからか分からないが、気にも留めてない様子の相手はにこにこと笑みを浮かべ続けている。
「ふざけんな、マジで死ぬかと思ったんだぞ…」
「大丈夫、大丈夫。人間ってそう簡単に死ねないからさ」
「あの世行きって言った奴は誰だよ」
鼻をつまんでいきが出来ないようにしていたくせに、自分は関係が無いといわんばかりにへらへらと笑みを絶やさぬ相手に肩を落とす。白の人物はそれ以上言葉を発さずにただただ恭介を見つめている。そのことが気になったが今は考える余裕も無い。早鐘のごとく打っていた心臓が元の拍子を刻む頃には、停止していた思考が少しずつ復旧し始めていた。
周りを見るとそこには白い空間が広がっていた。先ほどから黄色い球体が視界を掠(かす)めていたが、今は緑色のものが多い。何もないところから現れて、上まで上ったと思ったら粒子になって消えていく。空間に終わりは見えずどこまでも続いていくように思えたが、床もあるかどうか判別できないほど白いので分からないだけかもしれない。暑くは無く、逆にひんやりとした感覚はあの白いのが現れた瞬間に感じた風によく似ている。場所は分からない。しかしなぜか自分のもといた世界とは違うということはぼんやりと理解した。
隣で何をするでもなくたたずんでいる不審者に眼を向けると、三日月のような唇がゆっくりと開かれた。
「現状整理はOKかな。では改めて初めまして。察しのとおり自分が此処に君を連れてきました。質問があるならこたえてあげるよ」
「………。ここはどこだ。テメェは誰なんだ。オレをここに連れてきてどうするつもり……」
「わわっ、多いよ。質問は一つづつするのがモラルってヤツでしょ。んー…まぁいいや、まずは一つ目。ここはキミのいた場所じゃないってことはなんとなく理解してるかもだけど、簡単に言うと人間がここに存在することを認めない世界」
「存在することを認めない世界…だぁ?」
いきなりの突拍子の無い発言に言葉を繰り返す。不審者は一つ頷くと話を続ける。
「そうだよ。つまり存在するのにその存在が認められてない場所、あるのに絶対この場所に足を踏み入れようとしない世界。キミには難しいかな」
答えにはならない抽象的な発言に理解は進まない。問うような視線で見つめてもそれ以上詳しく説明する気が無いのか首を傾げて見つめ返してくるだけだった。
「分かったってことにしといてやる、で、次の答えは?」
「自分が誰なのかってのは説明したじゃんか。口調変わってびっくりしたのは分かるけど、少しぐらい真面目にやっとかないと怒られるの。自分が。分かる?……重ねて言うと自分は君の思ってるみたいな存在じゃないよ」
「立派な不審者以外になんだって言うんだよ」
「ひどっ!ちゃんとお辞儀もしたのに失礼だなぁ」
「土足で窓から断りもしないでなにが失礼だ、このバカ」
「あれ?…うーん、でも玄関なかったんだもん仕方ないじゃん」
「は?あっただろうが、くだらねぇ言い訳してんな」
首をひねり疑問符を飛ばす勢いで考え込む相手に先を促す。
「わかんねぇならどうでもいいから次!」
「キミをここに連れてきた理由…だっけ。えーと、キミが呼んだから…じゃ頷いてくれなかったんだよね。じゃあ個人的な理由も聞きたいワケ?」
「そうだ」
「うー…うるさかったから黙らせようと思って」
頬を掻く相手から出た台詞に愕然とする。うるさかったからってなんだ。初対面なうえにいきなりやってきて訳のわからないことを口走って自分の怒りを買ったのは目の前の相手だというのに。
おかしなことばかりが続いて理解に必死になっていた頭に一気に血が上る。元々沸点は低い性質なのだがこいつはとことん自分の怒りに火を点けるのが得意らしい。反射的に出した拳は相手の顔に触れはせずに受け止められる。ハッとして見た表情にはやはり笑みが浮かんでいて、それが余計に火をあおる。
「そんなにすぐ手を出さないの。自分だって殴られるのは気分悪いしさ、キミの手だって痛いでしょ。これからしばらくは一緒にいるんだから仲良くしようよ」
「…は?」
「言ったでしょ、ここは君のいた世界とは違うんだ。右も左も分からない状態でうろうろするの?ここから十メートルもないところでいきなり床がなくなっているかもしれない。もの凄く凶暴な獣がいて食べられちゃうなんてことがあるか、ないか」
「………」
「だから、仲良くしましょ」
人食わぬ笑みで語りかけてくる自称門番に毒気を抜かれる。なんとなくこの笑みは怒りをぶつけるのが馬鹿らしくなるのだ。先ほどまでこの笑顔が癇に障って仕方なかったと言うのに、本当におかしい。おかしいことばかりだ。
恭介は舌打ちを一つすると掴まれていた拳を振りほどく。試しに一度鋭く睨みつけてみたのだがやはり表情が崩れることは無かった。掴まれた感覚が残る拳をさすりなんとか気を紛らわせる。
「………財前恭介」
「はい?」
「財前恭介、オレの名前だよっ!いやだけどお前と居なきゃなんねぇんだろうが、いつまでもキミじゃムズムズするんだ。……お前のは?」
ぼそりと吐き出した言葉に直ぐに理解が出来なかったらしく間抜けな声で聞き返してくる。その反応にいたたまれなくなり怒鳴るように詳しく言い直す。少しばかり八つ当たりが過ぎたかと思ったが、きょとんとした表情から声を上げて笑い出す始末だ。前言撤回、こいつに二度と遠慮なんかするもんか。
笑うなと言う意味をこめて睨んだが見えていないのかついには転がり始めた。いいかげん腹が立って軽く蹴飛ばす。
「いたた、ゴメンって。意外と律儀なんだね、キミ。でも困ったなぁ、自分にそんな都合の良い名前が無いんだよ。だからキミが付けてくれる?文句は言わないからさ」
笑い終わって再び身を起こす様子を眉をひそめてみる。都合の良い、という点が気になったが聞いてみるとあるにはあるがとてつもなく長いらしい。そんな長い名前を覚えられる気はしないし、腑に落ちないながらも適当に名づけてやることにした。
「………じゃあ、白」
「シロ?わかった、よろしくね恭クン」
最初のイメージである曇りの無い白色が強くて、どうせ呼ぶのは自分だけだろうとあまり考えずに決める。先に言っていた様に単純な名前でも文句は無かったが最後の言葉が引っかかった。
「なんだよ、それ。なんか気持ち悪い」
「アハハ、気にしないでおこうね。あと、ここではあんまりフルネームは言わないほうがいいし身の上話もやめたほうがいい」
「連れて行かれちゃうからね」と付け足す白に背筋がぞくりとする。不意に見えた瞳は紫でも翠でも無く、覚めるような赤だったからだ。蛇に睨まれた蛙のように思わず固まった恭介に白は歩み寄ると頭をくしゃりと撫でた。泣き止まない赤子をあやすように優しくたたく。
「怯えなくても大丈夫。さ、行こうか」
向けられた笑みを見るとなぜか安心した。さっきまでの硬直が嘘だっかかのように心の奥でほっとする。
開かれた瞳は再び優しげな翠色を浮かべていて戸惑う。問おうと開いた唇が言葉を吐き出す前に踵(きびす)を返されタイミングを逃してしまう。風も無いのにふわりと宙を舞う白の上着を掴むと、振り返った白は小さく頷いた。
気に食わないけど今はこいつについて行くしかないらしい。正体を掴めないし、この上なく適当で端々の発言がむかつくし、人間ですらないのに人の疑問はさらりと避ける。こんな奴についていくなんてもしかしたら何よりも危険なのかもしれない。でも、今はそれしかないから、流されてるなんて分かってるけどいつの間にか手からすり抜けた白を追う。
もしかしたら本能的な部分で分かっていたのかもしれない。こいつがどんな存在で、オレにどんな影響を与えるのかを。
さわさわと心地よい風が吹く。春の陽気にほのかにまだ冬を遺したような風が頬をくすぐった。木々の間からこぼれる木漏れ日が横たわる恭介にまだら模様をつける。空から照らす太陽は熱くもなくちょうど良く体を温め寒いことなんかもなかった。その天候から昼寝の場所の出来まで全てが恭介好みで、柔らかなまどろみの中で惰眠をむさぼっていた恭介は神様にでもなった気分だと小さく呟いた。小鳥が囀(さえず)る声が余計にのんびりとした気分にさせる。
ここに来てからもう三日。最初はどうなるかと思ったが住めば都のレベルではない。ここにあるのは全て恭介が望んだもの。簡単に言えば好きなものであり、嫌いなものなんて一つもないのだ。今は楽しそうに話している小鳥たちだって恭介が嫌えば話を止め、消えうせるだろう。
そんな穏やかな世界を唯一ぶち壊すことの出来る白い影がゆっくりと現れた。
「恭ークーンッ!いつまでお昼寝してんのさ」
大きな声で呼ばれて思わず眉間に皺を寄せる。せっかく気持ちよく昼寝したというのになんだというのだ。まぁ、たいしたことではないだろうと高をくくり無視を決め込む。その様子に気づいているはずなのに何度も何度も名を呼ばれ体をゆすられ、勝手に話が進められていく。それでも反応をしなかったらいきなり音が止んだ。
やっとあきらめたかと息を吐いて寝なおそうと寝返りをうつ。
「リンゴーッ!!」
「うるせぇーっ!!」
鼓膜を突き破るような声に叫び返す。反射的に起き上がった体を白に向けて思い切り睨む。そんな恭介の視線もどこ吹く風と白は再び繰り返した。
「リンゴ食いたい。だしてよ」
「はぁ?勝手に探してもいで食え」
「冷えてるのが良いんだって!ねぇいいじゃんか」
このまま無視するといつまでも騒いでいそうな相手にため息をつく。こんな様子を見ていると初めて会った時にのまれそうになった自分が馬鹿らしくなってくる。
とにかく黙らせようと手のひらを開きそこに二つのリンゴをイメージする。時間をおかずにどこからともなく現れたリンゴを白に渡すと喜んでかぶりついてきた。無邪気としか言いようのないその姿に再びため息をつく。
——この世界は恭介の意思によって組み立てられている。白が此処に来て最初に恭介に要求したのは世界を生み出すことだった。勿論そんなことできるかと思い切り噛み付いたのだが、白は想像するだけでいいのだとさも簡単そうに言う。そんなもので世界が出来てたまるかと恭介は食い下がったのだが取り付く島もない白に仕方なく従ったのだ。
すると本当に思い描いた世界が出来た。追加して願えばその通りに書き換えられる。そのお手軽さに当初は頭を抱えたものだ。
しかし慣れれば都合がいいのは明らかで今は不自由なく過ごす生活を堪能している。白が此処の操作を出来ないのは恭介が拒んでいるからなのであろう。詳しく聞くことはなぜか禁じられたので聞くことは出来ないがそう思っている。
「よっぽどリンゴ好きなんだな」
「自分に好きなものなんてないけど?」
「は?」
シャリ、と冷たく冷えたリンゴが喉を潤す。文句なく美味しいそれに渇いた喉は歓喜した。ここの白いリンゴは普通の赤いリンゴよりも甘く、夢中でかぶりつく。そうして喉の奥へと押し込んでいたのだが思わぬ発言に顔を上げて、正面でリンゴの皮をむくこともせずに美味そうに丸かじりしていた白を見た。見つめられた白はキョトンとした顔で首を傾げる。
「何言ってんのお前。さっきリンゴリンゴ言ってたのはテメェだろうが」
「だって食べたかったんだもん。冷えてるとさらにいいなぁ、うん」
「だもんじゃねぇよ、しばくぞ」
「わぁ、またそんなこと言う。そんなことばっかり言ってると女の子に嫌われるぞッ」
からかいの色を含んだ笑みを浮かべながら額を弾かれた。コンという音とともに手についていたらしい果汁が顔にかかる。手の甲でそれを拭いながら、納得しきれない心のうちをぶつける。
「ごまかすんじゃねぇよ。じゃあ、なんでリンゴ食いたいなんて」
「だから食べたかったんだってば。もっと詳しく言うならあの甘酸っぱさと新鮮さを無言で語るシャリシャリ感に出会いたかった。自分ってば、時々無性に食べたくなるもんがあってさ。恭クンはない?」
「変な言い回しすんな気色ワリィ。食いたくなんなら少なくとも好きなのだろ。バカなこと言ってんじゃねぇよ、バカ」
恭介が横目で見れば、「チッチッチッ」と言いながら立てた人差し指を振る。手元から視線を目の前の恭介へと向け、食べかけのリンゴを見もしないで指先に乗せくるくると器用に回す。馬鹿にした感満載のしぐさに恭介は眉をひそめた。
「たしかにこのリンゴは気に入ってますけど、好きじゃないんだなーこれが」
「……つまり気に入ってるのは好きのうちに入らないって?」
「まぁ、自分はね」
笑みを浮かべ再びリンゴへと意識を戻す白。ふざけた感じにいちいち突っ込んでいたら話が進まないと我慢して進めたのに、返ってきた返事は発した本人を表すような適当さ。幸せそうに口を動かす白の顔にめがけ、恭介は果肉を削られ芯のみとなったリンゴを投げつけた。
「あだっ!何すんだ恭クン、汚いなぁ」
「ふざけんなこのスットコドッコイ。食べたいとか何かしたいって思うっつーことは少なからず好んでるからそう思うんだろうが。あと次馬鹿にしてみたいな態度とったら本気で殴るからな」
「アハハ、本音が出てるぞ。それに今時の若者はスットコドッコイなんて言わないと思うんだけどなぁ。さては恭クンおばぁちゃんっ子…」
問答無用で恭介の拳が白の頭に鈍い音を立てて落ちた。白がその痛みに唸り声を上げながら悶絶し、芝生の上をごろごろと転がりまわる。
「自業自得だバカ白。はっきり言え」
白は一通り転がると「仕方がないなぁ」と言いながら口を開く。
「好きになるっていうのは妥協することだって位置づけてるからさ。嫌いならもっとよくしようと思うでしょ?好きになったら滅多にそれ以上を求めようとはしない。でも嫌いって言葉はもっと嫌い。大嫌いなんて全否定する言葉でしかないもん」
恭介はいまいち理解できずに頭をひねる。
「前から思ってたけどお前の言ってることって分かりづらいうえに矛盾してんだよ。どうにかなんねぇのか」
「ひどいよ恭クン、っていうかいいじゃん。それが自分なんだからさ?それに恭クンには関係ないと思うんだけどなぁ」
痛みのあまり涙目のまま説明していた白は袖で目じりを拭うと、床に頬杖をついて恭介を見上げた。
「……ッ!——あぁそうだったな。大体テメェは元々意味わかんねぇ生き物だったもんな。…関係ねぇし、興味もねぇ」
「うん。それでいいんだよ恭クン」
にこりと笑みを浮かべる白に言いようのない感情が小さく生まれた。心臓の直ぐ近くでうごめくような感覚にその真上あたりのシャツを握り締める。
そんな恭介の些細な変化などどうでもいいいうように、白は無邪気な、それでいて読めない笑みを浮かべ続けた。
そんな話をしてから一ヶ月ほどたっただろうか。毎日川遊びや虫取り、自然に飽きたらテレビゲームをして過ごしたが飽きてしまった恭介は暇をもてあましていた。本来なら新作の漫画を読んだりしたいのだがそれはいくら願っても現れなかった。どうやら恭介が知らないものは出すことができないらしい。それは食べ物の要求にも通ずるので飽きてしまった。
「退屈……」
ひんやりとした芝生に寝転がる。ちなみに気候は春に固定してあるので一ヶ月前から変わらない。眠りすぎて睡魔はこないが眼を瞑って一息つく。
「やっほー、ずいぶん暇そうだねぇ」
小さな笑い声とともに聞きなれたこえが鼓膜に響く。恭介が瞼を開くとそこには恭介を覗き込むようにして笑む白の姿があった。
「うるせぇな。あたりまえだよ、やることねぇんだ」
棘とともに素直に返された台詞に白は苦笑をこぼした。恭介の隣に腰を落とすと大きく伸びをする。吹く風に身を任せ、髪が頬をくすぐるのにくすぐったそうに身をよじる。
白の行動の意味が恭介に読めないのは変らなかった。どれほど話をしても次の行動が読めない。きっとこれからもそうだろうと思う。だって恭介には白の行動が意味のあることには到底思えなかったからだ。
だから次に白から出た台詞も意味が解らなかった。
「自分って実はすごい存在なんだよ。人間から強く望まれていて、尚且つ怖がられてるの。それってなんだと思う?」
恭介は何もいわなかった。白が一人語りをするのは決して珍しいことではない。ただ白から提示してきたルールを破る内容だったのには多少驚いたが、それだけだ。暇つぶし程度に耳を傾ける。白も答えは求めていなかったのか反応を待たずに話し出す。
「忘却だよ。近い存在は何体か居るけど自分はそれ。人間って生き物は都合のいいことだけ覚えていたいから嫌な事は直ぐに忘れたがる。本当に忘れたら二度と帰ってこないのにさ。……ということで、そろそろ潮時かなぁ。キミにもわかっただろうし」
「は?」と恭介は白を見上げた。窺う表情には特に変化がなく口だけが回る。
「気づいたんじゃないの、飽きたんでしょ?この世界にさ。つまり、自分自身に」
恭介は目を見開いて身を起こす。耳に馴染んだこの声が意図することを理解できなかったのだ。確かにこの世界は恭介の考えで作られてはいるがそれとこれとは別だろう。
戸惑う恭介をそのままに白の話は進んでいく。
「楽しいからやって、飽きたから消して。気に食わなかったら消して、そしてまた欲しくなったっていって生み出す。……何も考えずに消去されるモノの気持ちって考えたことないでしょう」
「何言ってんだよ。此処は想像の世界なんだろ?だったらそれくらい」
「キミが消したのはモノだけじゃないよね?いつだったか蝉の声を聞きたいとか言って足したかと思ったらうるさいって言って削除してた。川遊びのための滝つぼも遊び終えたら消した。あそこにたくさんの魚が泳いでたのはいくらなんでも覚えてるだろ」
「キミが消したの」とわざわざ付け足す白の顔は苛立つほどに綺麗な笑顔だった。恭介は思わず立ち上がって言い返す言葉を探す。しかし見つかるはずもなかった。全て本当のことなのだから。
「生きてた……?」
「もちろん。だってキミが創造したのはぜんまい仕掛けじゃなくて生きた本物でしょ」
言葉を失うというのはこういうことなのだろう。言い返したいのに言い返す言葉が見つからない。なにか言わなければと思うのに喉が凍り付いて恭介の指示なんて聞いてくれなかった。
ここは恭介が望んで作り上げた世界であり、恭介に嫌われたらここにはもう居ることはできないのだ。それはつまり、命を消してしまうことさえも望むだけで可能だということ。
ああ、どうして気がつかなかったんだろう。こんなに都合のいい世界があるその向こうには思う以上の代償が存在していたって少しもおかしくはなかったと言うのに。
地平線がぼろぼろと崩れ始める。それにも気づかず恭介は拳を強く握り締めた。強すぎて爪が皮膚を突き破り赤い血が滴っている。鈍い痛みが広がるがそんなことどうでもよかった。こんなもの、今まで意識されずに息をするように刈り取ってこられた命に比べたら軽いもんだろう。いや、軽くないはずがないのだ。意識されなかった辛さは自分が一番分かっているではないか。
厳しい父親は本当に褒めてほしいことを褒めてくれることは少なかった。たとえテストでどんなにいい点をとっても悪い方の叱りしかしない。得意なことは当たり前だとされ、苦手なことは怒られる。母は大げさに褒めも叱りもしない。学校では目立つ方ではないし、行いの悪い方ばかりかまわれている気がする。大人は勝手なのだ。世間定義の普通のことを必要以上に求めてくるくせに、それを本当の意味で普通にこなしている人間には見向きもしない。面と向かって言えなくて、そんな状態に嫌気がさしていて無気力な日々を過ごしていたというのに。
自分だって同じ事をしていたのでは、嫌っていたものと同じではないのか。
———こんなことなら、いっそ自分は、
「ハイ、自虐的になるのはそこまでね」
聞きなれた声が思考を強制的に停止させる。いつもはのんびりとした声には焦りが含まれていて妙な違和感があった。白のほうを見ていたはずなのにいつの間にか爪先を眺めていたらしい。ハッとして視線を上げれば予想どおり少し焦りの表情を浮かべた白が恭介の手をとっていた。血が出る程握りしめられていた拳をそっと開かせる。血が滲むその場所を認めれば、いつもひらひらと宙を舞っている裾を引きちぎり包帯の変わりに巻いた。白が常に付けていた白い手袋に赤い色が滲む。
その様子をどこか他人ごとのように見つめていた恭介は、手当てが終わっても微動だにしなかった。その恭介の頬を容赦なく白は引っ叩く。パチンと音がして恭介がよろけた。たたかれた頬を押さえて痛みの原因を作り出した相手を見上げる。そこには軽蔑の視線を向ける白が居た。
「ハッ、キミってこの程度だったの。罪の意識で一杯一杯って感じ?」
「だって……ッ!」
お前は教えてくれなかったじゃないか。そう叫びそうになった恭介は更に冷たくなった瞳に喉を凍りつかせた。風で揺れる髪の狭間から見える今の白の瞳の色は冷めた青。
「教えてくれなきゃ何も出来ないんだって言いたいワケ?バカらしすぎて笑っちゃうよ」
口とは裏腹に笑み一つ浮かべられていない。責める口調さえなく、淡々と紡がれていく言葉。
「甘いって言うのは今更だからやめてあげるよ。ただ、自分まで消えようとしたのは気に入らないんだよね」
冷めた青がぐにゃりと歪み奥から赤がにじみ出てくる。
「消えるのは簡単だけど生み出すのは大変なんだよ。いいんだね、消えても。自分は知らないし覚えててあげない。君が生きた軌跡を誰よりも鮮明に覚えて、喜んで悲しんで、感じていけるのは君しかいないんだ」
瞳が赤くなり終わる頃には言葉に険しさが僅かだが滲み始めていた。叩かれた頬がいまさらながらじんと痛み始める。何かを求めるような視線に恭介は必死になって声を絞り出す。
「消…えたくない。…忘れ去られるなんてイヤだ、覚えていてほしいんだ…ッ」
掠れるような声。生気のなかった恭介の顔に赤みが差す。徐々に大きさを増す声の続きを白は催促したりしなかった。頷きもせずひたすらに待つ。
「…忘れられたくないんだ。オレは、今だって、生きてるんだッ!」
ザァと風が吹き付ける。あまりに強いそれに恭介は強く眼と瞑(つぶ)った。そしてそっと眼を開けると、そこは白が恭介を連れてきた白い空間だった。しかし、光の球体だけが浮かんでいたはずのその場所には見たこともない光景が広がっていた。
「…なんだ…これ…」
そこにあるのは恭介だった。色づいていただけの光は見たことのある光景ばかりを映していたのだ。いや、違う。あの赤ん坊はわからない。でも幼い姉が隣に居て両親が抱いているのだから自分だろうとは思う。別の光には泣いている自分が居た。真っ青なユニフォームを着てぼたぼたと隠しもせずに涙を流している。あれはジュニアの県大会で負けた時だろうか。笑っているのは初めての遊園地。犬に追いかけられて姉に助けを求めているものもある。興奮が収まらないのはきっと大好きなサッカーチームが優勝したときなのだろう。
「オレの…記憶…?」
「へー、こっちの恭クンってばおばぁさんに甘えてるよ。可愛いなぁ」
「あ、見るな!」
死ぬ前に見るような走馬灯のような光景をただじっと見つめる。すると聞こえてきた声に慌てて視界をふさぐように白の前に立って両手を広げた。必死になっていて無意識に見てしまった白の瞳は燃えるような赤ではなくいつもの翠へと変っていてハッとする。
「ムダなのにぃ。ま、いいや。どうやら馬鹿なことする気はなくなったみたいだからね、許してあげるよ。これがキミの記憶。そして軌跡であり、これからの生きる糧」
変らないポーカーフェイスだが発せられた声は真剣さを帯びている。白は一歩下がると両手を広げてクルリと回った。本来なら左右平等になびくはずの服の裾が不恰好に見えた。それと同時に光がはじけた。赤や青、黄色や緑、紫やそれらが混ざったような色が等しく輝いて二人の周りを包む。柔らかな光が個々に主張しつつも調和した不思議な景色に眼を奪われる。
「さぁ、キミはどうする?選択肢的にはここに残って全てを支配しながら永遠のときを歩む。もう一つは元の世界に戻って理不尽さともどかしさに絶望しながら終わりまで歩む。更にあげるならここで全てを嫌って消える」
さまざまな光に照らされた白の瞳の色は読めない。それでも長いようで短い時をともに過ごしてきた間には感じられなかった独特の雰囲気に飲まれそうになる。初めて会ったときみたいに急激な変化があったわけじゃないのにその感覚は止まらない。とぼけた振りして何もかもを見抜いているはずの白は威圧感を緩めることもしてくれなかった。
——でも、それでいいのだ。これ以上馬鹿な真似をして見放されたくない。
後ずさりそうになる足に力をこめる。逃げたくないから、目の前の相手に怯えたくないから、虚勢を張ってでも白の目を見据えた。それでも泣き言を言いそうになるのを下っ腹に力を込めて耐える。
気のせいだろうか。覚悟を決めたら痛いほどに向けられていた視線が和らいだ気がした。
「オレは、戻るよ。あんな世界は…好きじゃない。でもここで生きるのもオレにはキツイみたいだ」
沈黙があたりに広がる。真剣にはなった言葉は白に届いたのだろうか。不安になって白の肩に触れようと手を伸ばした。しかしその手は意思に反して白に触れることはなく通り過ぎる。あまりのことに声を上げて自分の手を見ると見慣れたはずの手は光に包まれて透け始めている。
次々起こる変化についていけなくて白を見れば情けない笑みを浮かべて頬を掻いていた。
「おい白!これどういうことだよ!」
「キミが選択したとおりもとの世界に戻る前兆だよ。戻るのはキミと自分が出会った日だから安心していい。ちなみにキミがここに来たのはキミが呼んだからっていうのは本当だよ。キミの叫びがうるさすぎてここまで聞こえちゃったから。……あーあ、久しぶりのお仕事が終わって清々するよ」
だんだんと恭介を包む光が強くなる。言葉の途中に挟まれた事実には文句の一つも言いたいのだがそれはこの際無視してやろう。なんせこれが最後なのだから。
——最後?
消えなかったことに対する安堵感と同時に湧き上がる不快感に首をかしげた。自分は戻れてほっとしているはずなのに光が強まれば強まるほど胸を締め付ける感情は強くなる。そしてその正体は白の瞳を見たときにはっきりと形を持った。
なんだ、寂しいんだ。
目の前の不思議な番人を名乗る生物に会えなくなることが寂しい。からかわれてばかりだったから認めるのは癪だが、そう簡単に切り替えることが出来る浅い関係のままでいるにはともに過ごす時間が長すぎたし、永遠の別れを告げるにはあまりに唐突過ぎる。たとえ訳が分からなくても白はずっと一緒に居てくれた。喧嘩は絶えなかったが、笑いあっていたことも少なくはないのは変えようのない事実なのだから。
相変わらずしまりのない顔をして首を傾げる白は戸惑っているように見えた。でもそれも好都合だ。
「おい、白!お前が来てくれてよかったよ。馬鹿ばっかりしたけど楽しかった」
「へ?恭クン…」
「全身真っ白が視界に写らなくなるのは寂しいっていってんだ。お前といた時間は忘れない。意地でも忘れてやるもんか!だから、そんな顔してんなよ」
だんだんと視界がかすむ。もうこの世界にいられる時間は短いらしい。自分で決めたことなのにこんなふうに思うなんて勝手だと笑った。白の顔を正確に窺うかがうことは出来ないが、だからこそ叫んだ。帰ったら後輩の練習でも見に行ってやろう。鬼コーチのもとで頑張っているのだからドリンクでも手土産にして。大嫌いなサッカーにまた触れてみるのも悪くないと思えたのだから。
「—————————ッ!!」
恭介の声の余韻を残して光が消える。
再び音がなくなった空間に白は一人で立っていた。笑おうとして失敗して、怒ろうとして失敗した。訳のわからない表情をかくすようにして帽子を深く被る。
「……盲点だったわけじゃないけど、今度から眼帯でもつけとこうかな」
確かにせっかくの読めない表情も瞳の色で分かってしまっては意味がない。少なからず感情にたずさわっている存在の特徴とはいえ直接言われると癪なものは癪なのだ。
あーあ、と声を漏らしてふらりと浮かび上がる。飽きたはずの眠りへの体制もここ最近の濃い生活によって懐かしさが帯びる。のんきに欠伸をして目を閉じた。気まぐれに起きたらあの人間の様子を見に行ってみるのもいいかもしれない。また馬鹿なことをしていたら思い切りからかってやろう。
そんな必要がないのは白自身が分かってはいるが、もしも会ったときは何もなくても全力でからかうことも解りきってる。
そしてまだらな光が浮かぶ空間に再び整った寝息のみが響いた。
夢の中に響くのは聞きそびれた決意と、願ってもいなかった誘い。
《嫌いなんて簡単に言わない。成長すんだから見に来てみろよ》
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