第九回島清ジュニア文芸賞「奨励賞」散文(中学生の部2)「心は季節のように」
美川中学校 二年 山田 菜摘
——あるところに忍の中の忍と呼ばれる者がおりました。
その者は感情が無く、仕えた主のためならばどんな酷いことも眉一つ歪めずになんでも行います。
たとえば敵国に戦に必要な情報を仕入れに隠密としておもむいたり。必要とあらば暗殺も行います。ときには村一つ燃やしつくしたことさえあります。
そんな彼は任務が終わり、帰国をしようとしたときに、何の気まぐれか、ある女の子を拾いました。その女の子はよく笑いよく泣く子でしたので、忍も次第に感情を取り戻していきました。
この物語は、孤独な忍と、不思議な少女の物語。
「……激しくなってきたな。国境まであと一息だというのに」
叩きつける様な激しい雨の中、木々の枝から枝へとものすごい速さで移動する人影があった。影は人でありながら、徒人では決してありえない速さで不安定な足場を踏み外すことなく駆け抜けていく。そして、淡々と国への最短距離を走り続けていた。
影は一般に忍と呼ばれ恐れられている。
——忍とは、その名の通り主の影となり忍ぶもの。主の意思を最大限に決行するための闇の存在。無いものを在るものとし、在るものを無いものとする。故に忍には意思——感情——は必要ないものとして、育てられる。
なかでもこの男は異端の存在であった。忍の里に生まれたものは、幼児のうちから忍として育てられる。なかには想像を絶する厳しい修行に耐えられなくなる者も少なくはない。しかし、彼は幼いときからどんな修行にも耐え、年の数が二桁を超える頃には里の大人の実力を上回った。その里では彼を期待や恐れを込めて「麒麟(きりん)の氷河」と呼んだ。
「……これ以上進むのは無理か」
どれほど走っただろうか。雨は止むどころか益々激しさを増し、もはや一寸先を見ることすら難しいほどになっていた。雲がかかってただでさえ暗かった空の向こう側は、もうとっくに夜だろう。氷河はこれ以上進むことを断念し、近くの小さな洞穴に入った。
ピシャンと服から水滴が零れ落ちて辺りに音が反響する。音のはね返り具合からそんなに奥は深くないだろうと判断した。入り口に生えている草に踏まれた跡があることからもしかしたら獣の住処かとも想ったがこの分ならば大丈夫だろう。もしかしたら、山のふもとの猟師たちの休憩所なのかもしれない。
氷河は口元を覆っていた布をはずし固く絞った。そして、一つ息をつくと壁に背中を預け座り込んだ。
「帰るのは早くて明日の朝か」
報告が遅くなるな、と心の中でため息を吐く。続いて、休み無しで走り続けていた疲れがどっと体を襲った。今日はもう寝ようと決めると瞼を閉じた。ゆらゆらとやってくる睡魔に身を任せる中で、ふと、瞼の裏に銀の糸が散らばった気がした。
——そういえば、奴を拾ったのもこんな雨の日だった。
雨の中、凍えるように身を丸めて。まるで隠れるように茂みの中にいた。どんよりとした空の向こう側に浮かぶ、月の様な、長い銀の髪をもった少女。
確かあの時も任務帰りだった気がする。今では見慣れた銀髪があの時は人じゃないもののように思えたのはよく覚えている。
霞む意識の中でそう思ったのを最後に、本格的に襲う眠気に身を任せ眠りに落ちた。……はずだった。
「キリン、キリン。何でこんなところで寝てるの?」
耳元で聞こえる高めの澄んだ声。ついでに感じる、髪を引っ張られている感触。沈みかけていた意識が瞬時に覚醒する。弾かれたように顔を上げすぐさま立ち上がると、驚いたように眼を丸くしている少女の姿があった。
「…………なぜシキがここにいる」
いきなりの事についていかない頭を叱咤し何とか言葉を紡ぐ。その問いかけにも答えず、シキと呼ばれた少女はにっこりと笑うとすぐさま氷河に抱きついた。そして、嬉々とした声を上げる。
「キリン、久しぶり!元気だった?ご飯はちゃんと食べた?」
にこにこと笑って質問するシキを氷河は冷静に自身から引き剥がす。こんな時でもまず食べ物の心配をするのが彼女の性格を雄弁に表している。きょとんとするシキの肩をつかむとため息を一つこぼした。続いて、どこか彼女のことを呆れたように見ていた瞳が一変する。
「……俺が質問をしている」
答えろ、と冷ややかな声色で告げる氷河。その眼差しにはどこか殺気のようなものさえ含まれているように感じられる。誰もが息を呑むような雰囲気の中、小さな静寂がその場を支配した。ピチャン……、と水滴が落ちる音があたりに響き渡る。しかし、そんな中でもシキは動じた様子がなく、笑みを崩さなかった。
「何でって、キリンを探しに来たに決まってるじゃない。雨が酷いし、匂いが薄いし大変だったんだから!」
さも当然というように続けるシキの様子に氷河は眉をひそめる。……奴が話を聞かない生物ということを失念していた。動かない氷河にシキは首をかしげる。そして、彼の眉間をぐりぐりと押す。
「……何をする」
「そんなに皺ばっかりよせてると取れなくなっちゃうよ?」
「大人しくしていろ」そう言わんばかりに氷河の瞳の鋭さが増した。しかし、そんなことも気にすることなく彼女は氷河の手を引いて洞穴の出口に向かって歩いていく。その突拍子のない行動に再び眉間に皺を刻むが、ふと引かれた手の冷たさに気づいた。生物特有の温かさが感じられない、冷え切った華奢な手。
「……シキ。いつから俺のことを探していた」
呼びかけに振り向いたシキはニコリと一笑みするだけで、その問に答えることはしなかった。そしてパッと繋いでいた手を離すとくるりと回る。それと同時にシキの体を柔らかな光が包み込んだ。その光に氷河は思わず眼を細める。
「行こうよ、キリン。雨が上がっているうちに」
どこか凛とした彼女の声が聞こえた。やけに大きく聞こえたのは、辺りを埋め尽くしていた雨音がなくなったからだろう。出口に眼を向ければ、そこには今まで厚い雲に覆われていた澄み渡った夜空だけが広がっていた。久しぶりに見た瞬く数多の星は、競い合うかのように目の前で微笑む少女と同じ色に輝いていた。
夜も深まり、草木も眠る丑三つ時。無事に城までたどり着くと、眠りにも付かずに待っていた仮の主人に報告を済ませた。
そのあと自分たちの住処の小屋までたどり着いた二人は濡れた服を着替え、夏だというのにかかわらず囲炉裏に火をつけ、冷えた体を温めていた。そして、今に至る。
シキが熱いと文句を言ってきたが、無視をした。体調管理が大切な忍にとって、風邪を引くなどもってのほかなのだ。風邪を引き、任務で全力を出すことができないのならば、今ここで汗をかくほうがよっぽどましだ。
「……眠ったのか」
雨が再び降りだしたことを告げる雨音に耳を傾けながら、案の定、頬をつたう汗を拭い、先ほどまで文句をたれ続けていた少女に眼を向けた。今までの無邪気さが微塵も感じられない安らかな寝顔。どこか見てはいけないものを見ている気がして眼を背けた。
そして、じわじわと浮かび上がってくる彼女についての疑問に答えを探そうと、深く思慮の世界へと自らの意識を落としていった。
——九尾。狐が万の時を生きるとコレになるといわれている。最初は一本の尾が、最終的に九本まで増えた妖。凄まじいまでの妖力を誇り、三国をまたにかけたといわれる大妖怪。それがシキの正体だという。
正直、信じられない。
どう見たって目の前の少女に大妖怪なんて言葉はあてはまらないし、何よりもまず妖の存在を容認していないのだ。だいたい、九尾が髪を拭くために渡した手拭でなんか遊ばないだろうし。何かとつけて飯の準備をせかしたり、空腹を訴えるような眼で見てきたりしないだろう。
だが、頭から否定してしまってはつじつまが合わないことが出てくるのもまた事実。
現に彼女には摩訶不思議(まかふしぎ)な力があるのだ。
基本的に自分は目の前で起きたこと、見たこと、聞いたことしか信じない。信じるに値しないのだ。他人が聞き、見たことなぞ自分に何の徳がある。人間は欺き、自らの利にのみ動く生き物だ。もちろん、自分は例外だ、なんて善人ぶる気はさらさらない。利益があるから、仮の主人のもとで働く。そのためならば村一つだって歴史の闇に葬り去る。破壊し、殺し、欺く。だからこそ、人間は信じるに値しないのだ。
自分にだって部下がいる。だが、それがなんだ。奴らの報告を鵜呑みにしているわけではない。信用して、馬鹿を見る。こんな人間は山のように見てきた。自分の手元にある情報から考え、裏づけされたものがなければ動かないだけだ。
その考えがあるからこそ、このことに目を背けるわけにはいかない。
なにも、シキの力を疑っているわけではない。現に今日、奴は雨を止めて見せた。そもそも奴と初めて会った時にその力は見ている。
一月ほど前の雨のふった日。シキは虫の息で茂みの中に落ちていた。もとい、居た。別に、表現が間違っているわけではない。落ちてきたのだ。曇天の空の上から。
「……この辺りのはずだが、いったいどこへ……」
鬱陶しいほどの雨がふる。叩きつけるかのようなそれに視界を奪われながらも目的地に着いた氷河は気配を絶ちながら辺りを注意深く見渡した。
目的は落下物の捜索。先ほど、任務が終わり国への帰路を急いでいる時に見た空から落ちてきたもの。何もない空から落ちてきたそれは、自分の距離感が正しければこの辺りに落ちたはずなのだ。
何もないところから落ちてきたということは、普通のものではないということだ。そのようなものを放って置けば、戦や自分に何かしらの影響がある可能性が高い。
そう考えて探しに来たものはいいのだが、肝心の『モノ』がないのだ。
「勘違いか」と考えて、頭を振る。自分がそのような現実離れした勘違いをするはずがない。そもそも、忍にとって大切な、五感の一つである視覚が、幻覚を見るような間違いがあっては廃業モノの問題だ。
そう思い直し、再びモノ探しに集中する。その時、荒い息遣いが近くの茂みから聞こえてきた。
(動物か……)
はずれか。あんな高いところから落ちてきたものが生き物のはずがない。それに、もし生物の類であったとしても、生きているはずがないのだから。
そう想いながらも氷河は音のするほうへと歩いていった。おおかた鹿などの大型な動物だろう。
しかし、その思考は茂みの中を見たときに覆される。
(……女?)
そこにいたのは一人の少女だった。歳は十五、六程だろうか。息を荒くし、丸くなっていた。この辺りでは見ない服に身を包み、さぞかし美しかっただろう銀の長髪は泥に汚れ、頬は赤みなどとうに失くし青白くなっている。
(この髪色、特異な着物……海の外の国の者か。なぜここに?一人でいるということは逃げてきたか……)
氷河は最初に感じた驚きなどなかったかのように瞬時に少女を観察した。
その間も少女は荒い息を繰り返し今にも力尽きそうなほどに見る見る弱っていく。
氷河はその様子を無表情に眺めていたが、不意にしゃがみこみ彼女を抱きかかえた。
(しばらく様子を見るか)
情報を得るというのならば、この状態を脱さなければなるまい。
そして彼は、名も知らぬ少女を自分の住処である小屋へと連れ帰るべく、下りてきた闇の帳に溶け出すように音もなく駆け出した。腕の中の完全に冷え切り、震えている小さな命を無意識のうちに強く抱きしめながら。
小屋に連れ帰るとすぐさま服を代え、濡れた髪を拭い、囲炉裏に火をつけた。
そして、主への報告を記した密書を伝達用に飼っているミミズクへ持たせ、飛ばした。急ぐようにと念を押して。
それが終わった頃には少女の頬に赤みが戻り、高熱が出ていた。氷河は薬棚から数十種類の薬草を取り出しすり合わせ、薬を調合していく。今回造ったのは熱さましに疲労回復、そしてある程度の栄養を補えるもの。それを人肌の湯で煎じたものを少しずつ少女の口に含ませていく。その強烈な苦みに反射的に吐き出そうとするのも許さず、粘り強く確実に飲ませていった。何とか全てを飲み下したのを確認すると、今度はよく冷えた水につけた手ぬぐいを額に乗せる。すると、強張った彼女の顔がすっと緩まった。
そこまでを見届けて氷河はふぅと息を吐いた。この分なら三日後にはある程度は話せるまでになるだろう。
そして自分も少し休もうと上着を取りに行こうとした。
「……ねぇ、どこに行くの…?」
そばで聞こえた覚えのない声に一瞬固まる。それを振り払い声の聞こえたほうへと振り返ると、そこには先まで死の淵を彷徨っていた少女が横たわっていた。その手には自分の服の端がしっかりと握られている。
何が起こった。確かにさっきまでは眼の前の少女は死の境にいたはずだ。いくら的確な処置をし、奴の自己回復機能が優れていたとしてもここまでの回復はありえない。
その筈が、こいつはどうだ。熱でやや潤んだ目ではあるがこちらをハッキリと見て話し、あまつさえ腕を動かせるまでに回復している。
あまりの出来事に深く思考の世界へと入り込んでいた氷河は彼女の一言に現実へと引き戻された。
「……どうしたの?」
「……ッ!貴様…何者だ……」
先ほどまでの呆けていたであろう顔をすぐさま引き締め、常に隠し持っているクナイを取り出し彼女の首筋に突きつける。勢いあまりついた傷から、赤い血液が一筋零れ落ちた。
「……わたし…?私はシキ」
「そんなことを聞いているのではない。お前は何だ」
「何って言われても……シキはシキだもの」
痛みも気にせず答えた彼女の口から出た答えは望んでいたものではなかった。さらに問い詰めても質問の意味が理解できないのか、首をひねり同じ答えを繰り返すだけだ。
「……そんなことよりもいっしょに寝ようよ」
「なぜ俺が貴様の様なえたいの知れないものと共に眠らなければならない」
「だって今は夜でしょ」
「ね?」といって微笑む少女はたくらみなどなにも無いように見えた。しかし、だからといって共に眠る理由も無いので問答無用で引き剥がそうと裾をつかんでいる手をとった。だが、どんなに力を込めても外れない。ちらりと少女——シキ——の顔を見ても別段力を込めているようには見えない。それどころかきょとんとしている。
なんなんだこの女は。驚異的な回復を見せたかと思ったら、こんな子供っぽいことをするし、思いのほか力も強い。
しかしそれよりも、別にいいかと思っている自分自身が信じられなかった。こんな見ず知らずの、しかも人間かどうかさえ怪しいモノのとなりで眠るなんて。
「ねぇ……寝ようよ」
「……しかたない。見張るためだ」
そうだ。これは見張るため。それにこの少女がなにか不審な動きをしたときに側にいればその分対処しやすい。
そう『理由』をつけて氷河はシキの隣に横になった。その姿を見るやいなや少女はニッコリと笑みを浮かべた。
「ねぇねぇ…名前はなんていうの?」
「名前なんてものは無い。他人は麒麟の氷河と呼んでいるようだがな」
シキに背を向けて瞼を閉じているといきなりシキが口を開いた。
その問に別段意味ないだろうと適当に答えてやる。すると意外そうな声が返ってきた。
「そうなんだ……。だったら私が考えてもいい?」
突拍子の無い問に氷河は無言を通した。すると、その無言を肯定ととったのか、シキが嬉々とした声で語り掛けてくる。
「えっとね……。直ぐには決められないから、決まるまではキリンって呼ぶね」
「おい…、おれは貴様に決めてくれなんぞ言ってはいない。それに呼ぶなら氷河と呼べ」
「……おやすみ…キリン」
シキは氷河の言葉を気にもせずに眠りについた。熱がまだあるのか、やや乱れた寝息が聞こえてくる。氷河はしばらくの沈黙の後大きなため息をつき、くるりとシキの方に体を向けた。そして、彼女を『見張る』ためにその場で一夜を過ごした。握られた手を振りほどくことが出来ないまま。
ちらりと見た雨上がりの綺麗な空には、満月がぽっかりと浮かんでいた。
「キリーン!朝だよ朝!今日は私と遊んでくれるって約束したじゃない!!」
外から聞こえる小鳥の鳴き声をかき消すように少女の声が小屋一杯に満たされる。その声に弾かれるように瞼を開いた氷河はきょろきょろと辺りを見渡す。
「どうしたのキリン、きょろきょろしたりして」
「いや……なんでもない。飯にするか」
「やったー!」と喜びの声を上げ飛び跳ねるシキ。この光景は彼女を拾ったときから変わらない。そのシキに急かされるようにして氷河は簡易な朝餉を作ろうと起き上がり台所に立った。
それにしても懐かしい夢を見た。考えているうちにいつのまにか眠ってしまったらしい。四十八苦、考えていた内容が反映された夢なのだが、不思議と嫌だとは思わなかった。しかし、奴は変わらない。たしか、あの次の日もこんなふうに起こされた。内容は『お腹がすいた』だったが大して変わりはないだろう。現にシキは隣に来て待ちきれないといった顔で見てくる。
「待て」
「うん、って私は犬じゃない!」
「大して変わりもないと思うが」
うなり声を上げて反論を試みるシキはやはり動物に似ていた。そして開いた口を閉じさせるために一口大に切った干し肉を放り込んでやれば幸せそうな顔で黙り込んだ。
「やはり変わりないと思うのだが」
「へ?」
「なんでもない。出来たぞ」
ほくほくと湯気を立てる朝餉にシキは文字通り跳ねて喜んだ。そして定位置に座り込み、やはり幸せそうに食べ始める。
「おいしい!やっぱりキリンは料理上手だね」
おいしい、おいしいと言って食べるシキに対して氷河は黙々と食べ続ける。笑顔で食べていたシキがふと思い出したように箸を止める。
「今日はどうするの?せっかくお殿様がくれた休みなんだから有効に使わないと」
そうなのだ。今日は仕えている主人が『たまには休め』といって与えられた休暇。どうやら、シキは俺の事を訊きに主人のところにまで行ったらしい。
『麒麟よ、任務へと励むのはよい。なにより某(それがし)が与えた仕事なのだから文句は言えん。しかし、たまには休むことも必要なのだ。なによりシキが寂しがっているだろう』
咎めるような口調で主人に『休め』を言い渡されては反論が出来るはずもなく。必要は無いと思いながらも半ば押し付けられるような形で今日は休日となった。
主人はシキのことを俺の報告で知ってからはまるで自分の子供のように可愛がっている。その入れ込みようは俺が任務でいないときにシキを城におきたいと言うほど。
しかし、それは俺が許さなかったのと、シキ自身が拒否したことでなしとなっているが。
「俺はどうでも。シキが決めれば良い」
「うーん……今日はキリンといっしょに居られれば良い」
予想外な答えに、食べ終えた食器をもって歩いていた足を止める。もっと色々言われることは覚悟していたのだ。『川遊びをしたい』とか、『城下に行きたい』とか。それに初めての一日休暇応えてやろうとも考えていたというのに。
「本当にそれでいいのか」
「ヘンなキリン。いつもはもっと簡単なものにしろって言ってくるのに」
「そうだが……」
「いいの。今日はキリンといっしょに居られれば満足なんだから」
「……おかしな奴だ」
そう言うとシキは珍しくむくれもせずに、ただ笑ってうなずいた。
そしてこの一日、本当にシキは俺にくっついて回った。
飼っている動物の世話をしたり、夏独特の植物や昆虫を見て回ったり。碁を打って負けて涙ぐみ、意味もなく森を走った。
そんなとりわけ何をしたということもない一日に、シキは泣いて怒って、喜び、笑った。
そして今は、遊びつかれて眠ったシキに抱きつかれている。
「………」
どちらかといえば重いし、腹に巻きついた腕が苦しい。しかし、不思議と嫌ではなかった。
「……俺はどうしたのだろうな」
そんなちぐはぐなは思いに頭をひねりながらも、シキの寝息に同調するように氷河もまた、深い眠りへとおちていった。
氷河はふわふわと浮かんでいるような眠りの中で違和感を感じていた。
意識とは切り離された体が感じる確かな風。それは冷気を帯びたかのようにひんやりと冷たい。
(……風……それに感じるは冷気…か。……シキッ!)
感じるのは冷気。つまり、共に眠っていたはずのシキの体温が感じられない。
氷河は瞬時に意識を覚醒させ、跳ね起きた。あけた視界に飛び込んできたのはいつも鍛錬などで使われている森に大きく開いた草原。木々は強い風にざわざわと呻き、氷河の聴覚を包む。
「これは……、シキ、シキッ!返事をしろ!」
出来る限りの大声で彼女の名を呼ぶ。しかし返ってくる声はなく、ざわざわとした音が辺りを包んでいるだけだった。
「くそっ!」
氷河は居なくなったシキを探すべく足に力を込める。
「どうしたのじゃ人間。そのように声を荒げてからに」
耳元で聞こえた艶やかな声に氷河は無意識のうちに飛びのき、持っていたクナイを投げつける。しかし、それは標的に当たることなく空しく風を切り地面に刺さった。それを尻目にくすくすとした笑い声が横から聞こえる。
「おお、怖い怖い。あたったらどうするのじゃ」
言葉とは正反対の楽しげな声に氷河は再び飛びのこうと力を込める。だが、それも空しく支配下にあったはずの両の足は地面に縫いつけられたかのように動かない。
「くっ!貴様…何をした!!」
「そう怒鳴るでない。これじゃから人間は嫌いなのじゃ。大声ばかり出してなにが面白いのか妾には理解できぬ」
少々不機嫌さが伴う声と共に現れたのはこの世のものと思えない美女だった。ふわふわとした見たことのない布に身を包み、流れるような銀の髪をゆったりと結んでいる。両の金に輝く瞳はついと細められていた。
「貴様……貴様がシキをどこかにやったのか」
誰もが眼を奪われるであろう美しさにも眼を留めず、氷河は辺りに殺気をほとばしらせて、射殺すかのように美女を睨みつけた。その視線をひるむことなく受け止めた女は細めた眼をわずかに開き、面白そうに口の端をあげる。
「ほう……いい眼じゃ。大切なものを奪われた時の憤慨の眼」
くすくすと再び笑い始めた女に氷河は更にクナイを投げつける。しかしそれは、またもや当たることなく地面に突き刺さった。
「そう怒るな、麒麟と呼ばれし人間よ。妾の名は月下。人間には空狐と呼ばれし存在よ」
空狐とは、全妖狐のなかでも最大の力を持ち、神となりし存在。彼女は自らをそうだという。
そのことを証明するかのように彼女の耳は狐のそれと同じものだった。
「その空狐がなぜにシキを…」
「空狐と呼ぶな人間。妾には月下という名前がある。それに、そのシキとやらはここにおるわ」
そういって月下がちらりと見た場所に視線を向けるとそこにはうつむいているシキが居た。
「シキ!」
氷河が呼びかけるとシキはびくりと肩を振るわせるだけで顔を上げることはなかった。その様子に氷河は再び月下に視線を向ける。
「月下!シキに何をした!?」
「何も……と言っては嘘になるやも知れぬな。ただ、コレに記憶を戻しただけよ」
「どういうことだ」
「コレはシキではなく式。妾の力を分けて作った式だ」
月下はシキを人外のものだという。そして自分の作った式だと。月下はこの大陸にやってきて、人々に災いを広めた九尾が封印され、砕かれた殺生石のことをよく知ろうと使いを出した。しかしどれだけ待っても帰ってこなかったために探しに来たという。そして、ようやく見つけた式は記憶をなくしており、それを昨夜戻したのだと言う。
「こやつは前にこの国を混沌へと導いた九尾の遺した力に影響を受け、自分を九尾だと思っておったのじゃ」
次々に明かされるシキの秘められし過去に氷河は瞠目した。
「シキ……本当か」
ゆったりとした、しかし鬼気迫った氷河の問にゆっくりと顔を上げる。そして、あげられたシキの顔には涙がいくつも筋になって零れ落ちていた。
「本当なの…キリン、私は月下様の式。九尾じゃなかった」
「そんなことはどうでもいい!!」
いきなりの激昂にシキはびくりと肩を揺らす。
九尾かどうかなんてどうでもいい。疑問も解決した。あの不思議な力が神から分けられたものだというのならば納得もいく。ぐだぐだと居座られていたのには迷惑していたはずだ。これでシキは月下に引き取られ、いつもの生活が戻ってくるのだ。
それなのに、何故俺はシキに行ってほしくないと思う。それにこの眼が燃えるように熱いのは何故なんだ。
激昂からピクリとも動かない氷河にシキは戸惑ったように何度も名前を呼ぶ。
その様子をしばらく見つめていた月下が不意に口を開いた。
「そこまで我が式を必要とするか…人間。ならば妾も鬼ではない、一度だけシキを手元に置く機会をやろう」
その言葉に氷河は再び月下を見つめた。月下は一つ頷くと顔から笑みを消し、氷河の頬に手を添える。
「名を……呼べばよい。式には名がないのだ、名前を与えて縛ってしまえば式は妾の手元を離れることが出来る。しかし、ただ呼ぶだけでは駄目なのじゃ。神の式を縛るほどの言霊を込めなければならぬ」
それは今まで妖怪を信じていなかった氷河にはあまりにも条件が悪かった。止めようとするシキを制止し、氷河はうなずいた。その眼にはもはや芽生えた感情への戸惑いはなく、強い決意の色だけが宿っていた。その瞳にシキは上げかけた腕を下ろし泣きそうに顔をゆがめた。
「いい眼じゃ。ならば妾の教える通りに言の葉を紡ぐのじゃ」
氷河は月下から教えられた言葉に自らの言霊を乗せる。紡ぐのは今まで過ごした日々と芽生えた想い。
「空狐・月下が式。我がもとにおくものなり。汝には名を与える。名を——四季」
真の通った声が辺りに響く。風が止み、木々はざわめくのをやめた。出会ったときと同じ満月が輝き出す。
そして草原はまばゆい光に包まれた。
「ねぇねぇ!おなか空いたよ!」
「先程朝餉を食べたばかりだろ。我慢しろ」
「我慢できない!それにさっきじゃないよ、二刻も前!!」
あの日から今日で五日目。前と変わらぬ日々を二人は送っていた。
唯一変わったのは、二人の間に壁が無くなったということ。
「仕方ない……。干し肉で良いならあるが」
「いい!ちょうだい!!」
差し出された干し肉を四季は口にほうり込み一生懸命に口を動かす。その様子を氷河は呆れたように、だがどこか優しいまなざしで見ていた。
「ふう、ありがとう」
「いや。おちついたか?」
「うん!もう大丈夫」
にこりとシキは笑顔を浮かべた。その反応に氷河は一つ頷くと持っている手裏剣を磨く作業にもどった。しゅっしゅっ、小屋には布と金属が擦れる音だけが響く。
「ねぇ……私、本当に迷惑じゃない?」
しばらく面白そうに見ていた四季が呟く。淡々と単調な作業を繰り返していた氷河の手が止まる。
「貴様……それをまだ言うのか」
瞬時に不機嫌さをあらわにした氷河に四季はごくりとのどを鳴らす。氷河が四季に対して貴様と言ったときは必ず怒っているのだ。確認したかっただけなのだが怒りの壷を適格に突いてしまったらしい。
「うっ……。でも、忍がこんなやつと小屋で住んでちゃまずいんじゃ……」
「いまさら」
かなり適当に投げ返された答えに四季は答えに詰まり黙り込む。しばらくの沈黙の後、氷河の大きなため息が静寂を破った。
「そんなことは百も承知だ。それとも貴様はここから出て行きたいのか」
鋭さを伴った声に四季は必死で首を横に振る。
「……なら、いいだろう」
「……じゃあ、何で私の名前は四季になったの?これくらいは教えてくれてもいいじゃない」
再び作業を開始した彼に四季は非難がましく疑問を投げつける。これは答えてもらえなくとも仕方がないとは思っていたのだが、あの運命の日からの疑問だったので問わずにはいられなかったのだ。その質問に初め、氷河は無視を決め込んでいたのだが、四季のまっすぐな視線に負けたのか持っていた手裏剣と磨き布を床におく。そして四季と向き合い真剣な表情で四季を見つめた。
「お前が……俺にとっての『四季』だからだ」
「私が……?」
きょとんとした表情で聞き返す四季に氷河は頷いてみせる。
「お前を拾うまでは感情なんぞどうでもいいと思っていた。実際忍には必要ないからな」
外でざわざわと葉がこすれる音が聞こえる。
「それなのに俺は正体不明のお前を拾い、なおかつこの家に置いた」
今なら分かる。自分が何故四季を拾ったのか。壊れそうで恐ろしかったのだ。硝子細工のような華奢な命が今にも消え入りそうで。今まで無数に消してきた命が、自分を——『忍』の自分じゃなく、個々の命として初めて必要にしてくれているように感じた。『感じた』のだ。
「今まで世界は黒と白のみだった。それが、お前が来てから色がついたように明るくなった」
妬み、恨み憎しみのみがこの世界にあると思っていた。だが、瞼を閉じると浮かぶのは、色のついた夏の思い出。これがどんなに幸せなのか…今ならばハッキリと分かる。
「感情ができたんだ。忍の俺に。それがどんなに禁忌のことだとしても俺はもう後悔はしない。……昔の俺は理解が出来ないと思うがな。……心は『四季』のようだと思う。春夏秋冬があるように喜怒哀楽がある」
今までは任務に支障があるかどうかだけを考えて感じていた季節。それが、今度から移り変わりを楽しむことが出来る。それは隣に居て暖かさをくれる少女のおかげ。
「これらは全てお前のおかげなんだ、四季。だから俺はお前に心の意味を込めて四季と名づけた」
話し終えると氷河は再び視線を手裏剣に戻しそれを手に取ろうとした。しかしそれは暖かな手によって阻まれる。
「四季……?」
「ありがとう。私……こんなにいい名前がもらえたなんて嘘みたいだよ」
視線を上げると、そこには満面の笑みを浮かべる四季が居た。
「だから……私も名前をあげる」
今度は氷河がきょとんとする番だった。その反応が予想外だったのか、四季は拗ねたように声を上げる。
「何よその反応……。あっ!もしかして約束忘れてたんじゃ」
泣きそうに顔をゆがめる四季に氷河はあわてて否定する。ほっとしたように胸をなでおろす彼女はやはり気にしていたようだ。
そうして、少女は一つ深呼吸をすると氷河と両手を繋ぎ真剣な顔つきになる。
「私にとって……貴方は空みたいなの。だから空!」
「ね?いい名前でしょ?」と誇らしげに胸を張る四季に氷河はぽかんとした。
なにやら柄にもなく少しドキドキしていた自分が馬鹿みたいだ。
「それじゃあ遊びに行こうよ!」と、パッと手を引いて外へ自分を連れ出そうとして歩いていく彼女の背中を見ながら氷河はため息をついた。耳まで真っ赤に染めている四季を見てしまっては文句が言えるはずもなく。
「卑怯だな……」と呟いた。
空。それが俺の名前。思い返して、思わず眼を細める。季節によっていくつも表情を変えていく大空。それは俺にこれ以上になくあっていると思った。
本当の由来は今度じっくり聞きだしてやろうと心で思いながら、いつの間にか遠くへ行っていた四季の後を追う。
名前を呼べば、振り向いてニッコリと笑う彼女につられたように、空は、笑った。
——あるところに忍の中の忍と呼ばれる者がおりました。
その者は感情が無く、仕えた主のためならばどんな酷いことも眉一つ歪めずになんでも行います。
たとえば敵国に戦に必要な情報を仕入れに隠密としておもむいたり。必要とあらば暗殺も行います。ときには村一つ燃やしつくしたことさえあります。
そんな彼は任務が終わり、帰国をしようとしたときにある女の子を拾いました。その女の子はよく笑いよく泣く子でしたので、忍も次第に感情を取り戻していきました。
女の子は忍に名前をくれました。恐怖や怨念を表した通り名なんかじゃない、優しい心のこもった名前をくれました。そして、感情をくれました。笑顔を、涙をくれました。
——女の子の名前は「四季」といいました。
——忍の名前は「空」といいました。
孤独な忍が大切なものを手に入れたある年の夏でした。
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