暁烏敏賞 昭和60年第1部門本文「時間と行動そして自己」3
第1回暁烏敏賞入選論文
第1部門:【哲学・思想に関する論文】
4、そして自己
こゝまで、我々が毎日を生きてゆくために感覚的に不安に思っていた死や人生の短さの問題について考え、人生に豊かさと広大さをものにするには毎日毎日を実在感をもって行動すれば得られるのではないかと述べて来ました。そして、次に、人間の行動にはいくつかのサイクルがあり、常に健全サイクルを廻っていれば、毎日を満足し、自信をもって生活することが出来るということを述べました。こ〜で、より基本的な疑問が出て来ます。すなわち、人生の短さを嘆いたり、健全サイクルで行動しなければ安心して満ちたりた毎日を送れない主体としての人間についてです。人間とは個人とは何か、その中の一人として自己とは何かと云うことです。ぎりぎりのところ自己とは、自分とは何であるかと云うことが問題になります。
私の手、私の足、私の目、,,-……「私の」という所有格のもつものは私自身ではありません。あくまでも、私に付属したものです。私の身体も変らないようですが、毎日摂取している食物によって置き換っており、厳密には昨日の私の身体と今日の私の身体とは違っているはずです。しかしながら、私の身体は私そのものを内臓しているはずであり、これは厳然とした事実です。それではこの私の身体の中で不変のものあるいは連続して継続するものは何かを考えて見ますと、それは身体を構成している極めて多くの原子が実際に位置している原子の配列ではないかと思われます。この配列の仕方は死ぬまで変らず継続しており、しかも、私だけがもつ配列であり、これによって、他の人と区別がつくのではないでしょうか。この配列の仕方を個人はそれぞれの父母から遺伝子として受け継いで来ており、これがぎりぎりの自己というものの一面であると思われます。
一方、自己とはこのような配列という静的なもののみでなく、我々の感覚からはもっと動的でしかも能力の向上も期待出来て、変化してつかみどころのない面ももっているように思われます。こゝで、人間というものと電子計算機とを対比して考えることにします。計算機に長く面倒な計算をさせますと、あたかも考えているかのようです。そして、ある時間の後、プログラムの命令の計算が終れば、プリンターに結果を印刷します。同じ計算でも高速の計算機では速く計算します。また、プログラムの作り方の上手、下手により、計算時間に差が出て来ます。すなわち、ある計算を行うのに計算機のハード的な能力や大きさと教え込まれたプログラムの優劣によって、計算の速さや結果等に差がついて来ます。我々人間はハード的には上述した原子の配列で能力がきまると思われます。そして、ソフト的には生まれてこの方遊び、学びそして経験した知識が整理されて脳に蓄えられており、これが計算機のプログラムとデータに相当すると思われます。豊富な知識が整理されていれば優れたプログラムと数多いデータが教え込まれた計算機のようなもので、ある外部からや内部からの要求の入力に対して行動が始まり、適切な出力すなわち結果や判断が得られることになります。また、計算機では別のプログラムを教え込ませれば、計算の実行により別の結果を出すことになりますが、我々人間では、計算機や算盤のように「御破算で願い上げまして、」と云うように、すべての知識を白紙にし、別の知識を教え込ませるということは簡単に出来ません。
このように考えて来ますと、ぎりぎりの自己とはハード的には自分だけの原子の配列そのものであり、ソフト的には経験により身につけた知識・知恵そのものであると思われます。一卵性の双生児はハード的には全く同じ自己と考えられますが、生まれた後の経験や感じたこと学んだことが全く同じであるということは考えられません。従って、ソフト的には互いに異なっており、しかも年と土ハにこの差が大きくなり、別々の人格をもつようになるのではないかと思われます。
人間というもの、自己というものを「我思う、ゆえに我あり。しと云ったデカルトに比べ、何と割切ったものになってしまったでしょうか。科学は我々に新しい世界を開いてくれたとし同時に、我々に現実暴露の悲哀をも味わはせてくれている訳で、我々は.これらに耐えてゆかなければならないと思います。
そして、こゝで再び本質的な問題にぶつかることになります。このような配列や知識そのものの人間が何故その維持する時間の短さや知識の大小を嘆くのか、あるいはこのような人間像をもつ人間の存在意義は何かということです。個人がいて、行動をすることとその目的というこの三つの要素は論理的に閉じなければならないように思われます。これは解のない問題であるかも知れませんし、あるいは無数に解がある問題かも知れません。しかし、考えなければ収まりのつかない気持です。
行動の中に何かのための準備の行動とそのものの行動があるように、存在理由の中にも何かのために有意義であると云うものとそのものだけで有意義であると云う理由があるように思われます。しかしながら、前者の何かのためと云う場合には、その何かのための何かについて再び存在理由が問われることになり、結局、そのものだけの意義や理由からは逃がれることは出来ない様に思われます。
我々が働く理由として、生きてゆくためと云うことを良く云います。これは大きな理由です。殊に、生きてゆくことが、大変で困難である状況にある人々あるいは、あった時代に生きた人々はこれ以外に大きな理由はないと思われます。ある人達はあきらめと無常感をいだいて、毎日を力一杯生き、そして宗教的立場より、現世を死後の幸福へのステップと意義付けをしました。
しかし、現在、我々は科学の進歩により、物質的には、二・三百年前の庶民にとっては極楽としか思われないような生活を享受しています。このように豊かになった国々の人々にとって、この生きるためと云う理由は無意味となり、何のために生きて行くのかという問に置き換えられます。また、国のため、社会のためと云っても、国や社会を構成している人間そのものに意味がなければ、その集団である国や社会にも意味がなくなってしまうのではないでしょうか。そして、再び人間個人の意義が問われることになります。
ギリシャの哲人アナクサゴラスは「何のために人は生れて来たか。」と問われて、「天を見るために、世界全体を支配している規律を見るために。」と答えたと云われています。当時のギリシャでは奴隷がいて、貴族達は生きてゆくための努力はする必要がなかったのかも知れません。そのために、次の問題である人生の意義や理由について考えたのかも知れません。しかし、答えは如何にも趣味的です。しかしながら、人生の本源的な意義はその人自身の楽しみにあるのではないかと思われます。自分の感情や意欲を満たしてくれるものを求めるためにあるように思われます。そして、このもとめるものは種属保存や個体保存という目的をもたないものであるように思われます。
デカルトは「我思う、ゆえに我あり。」と云いましたが、「思う」と云う広い意味での行動により、ある高い認識が出来、彼は知的な興奮と共に感激もし、自己の実在感を味わい、そして楽しみ、人生の意義を感じ、心が満たされたに違いありません。仏教でも、世の中のあらゆる理を明らかにし、認識し、悟ることにより、この理から超越することを理想としているように思われます。この考え方の中にも、高い認識と恍惚とも云うべき知的興奮があるのではないでしょうか。
釈迦は人間を含めたあらゆる生き物の世界において、好きになったり、嫌いになったり、怒ったり、喜こんだり、助けたり、殺したり、生れたり、死んだりしている生き物を総合的に洞察することにより、生命の保存則とも云うべき六道に輪廻する生命の実像を明らかにしました。そして、生き物は互いに食物連鎖で生態系をなしていると土ハに、一方の個々の生命は悲しみ、病におかされて死んでゆくことを見て、深い同情を寄せております。この矛盾が彼の内的必然として、自らを思索に強いていったものと思われます。そして彼は六道に輪廻しているものについて、争いや憎しみそして病や死を個々に考えても解決は出来ないと考えたのではないでしょうか。この矛盾を弁証法的に止揚し、一挙に解決したのが悟りではないでしょうか。更に大きな立場から、般若心経の知恵として有名な「色即是空、空即是色」ということを悟ったのではないでしょうか。これを私流に解釈すれば、宇宙は想像を絶する複雑さとエネルギーでもって、大規模な現象が起っていますが、この現象の中には基本的な法則が隠されており、この法則によって支配されている(現象即是法則)。そして、逆に、この基本法則はまた複雑な現象として現れる(法則即是現象)。このことは一つの実体を現象で見るか、隠れている中の法則で見るかだけの違いで表裏一体で不可分であるということではないかと思っています。これはまた、人間は宇宙の中に現象の一部として現れ、知識の一部として人間は基本法則という知識に含まれ、支配されて一体となっているということを示しているのではないかと思います。釈迦がこれら宇宙を支配している原理を見い出し、認識したときの知的興奮は想像に余りあります。
このような偉大な人達が感じた知的な喜びだけでなく、我々も毎日行っている本を読んだり、何かを作ったり、あるいは旅行をしたりする中に楽しく心が満たされるものがあります。さらに、このような好きな事だけでなく、生きてゆく努力の中にも、生きてゆく辛さを離れて、付随した新しい発,見や楽しさがあります。これらの事柄は、社会全体にとって何ら新しいというものではないかも知れませんが、個々の人々にとっては新しい経験であり、新しい知見とその可能性を秘めており、その人個人にとっては新しく認識した多くの情報を蓄えられることになります。これが楽しみであり、生きがいでもあるように思われます。とのように考えて来ますと、人生そのものの意義は知的な認識への楽しみ、好奇心を満たしてくれる楽しみにあるよ気うに思われます。
ところで、このような知的認識の楽しみが人生の目的であるならば、何故、原子の配列と知識というものが、知的認識に楽しみを見い出すのかということが問題となります。新しい概念が新たな問題を提起いたします。
「ものには基本的には自己持続性と自己完結性を満たすことが合目的的であり、この目的に沿っている限り楽しくもあり、善である」という一般法則のようなものがあるように思われます。物理の力学には慣性の法則があり、物体は外から力が働かなければ、運動はそのまま持続する性質があることを明らかにしています。情報にもその情報を維持する性質があるのかも知れません。もし、あるとすれば、個人のもっている情報は次々と忘れ、失われてゆくので、これを維持するためには次々と新しい情報を入手して補ってゆかなければなりません。それ故、情報としての人間が自己持続性に向って行う行動は人間を生き生きとさせるのではないでしょうか。
また、自分が獲得し、維持して来た経験や知識をハード的に自己の延長である子供や孫に伝えることは明らかに自己の延長であり、自己の持続性と自己のより完結性への行為となるため、合目的性をそなえており、極めて喜ばしいことになっているのであろうと思われます。もし、我が子でなく、他人の若者が自分の経験や知識を受け継いでくれるならば、これも自己の延長と考えることが出来、喜ばしいことには何ら変ることがないであろうと思われます。
このように考えて来ますと、知識そのものとしての人間も、この知識を持続し、発展させ、その知識をより完全なものに完結させてゆく自己完成過程に喜びを感じ、人生の意義を感ずるのではないかと思われます。しかし、行動様式の基本サイクルのところでも述べたように、このような生きがいのある線に沿って、厳格に生きている人は極めて少ないと思われます。大部分の人達は大部分の時間を人生の意義に沿った使い方をしていないでしょう。しかしながら、行動の中に、少しでも、一時でもこの生き方を行っている人は満足して生きているだろうと思われます。なんとなれば、人間の生きる目的に合致していますから。このように、人間は融通がきゝ、幅の広いところがあるのではないでしょうか。
私は素人でありながら、無謀にもあまりにも大きな問題と取り組みすぎたようです。森本哲郎さんの云われている事実の因果律でもって、科学の立ち入らなかった価値の因果律に踏み入ってしまいました。そして、何のためと問うこと自体無意味な問題に敢えて飛び込みました。これは背反事象の一方に立ちながら、もう一方の決して起り得ない面を引きずり出して比較しているようなもので、全く意味のないことかも知れません。しかし、とにかく比較をして「こちらの面の方が価値がある。」「これで良かったのだ。」という事を納得したいためだったかも知れません。それなら初めから結論は決っていたことになります。私も人生の短さを嘆き、自分の死を恐れ、何とかしてこれから脱却したいと思っているのだろうと思います。
私の身勝手な議論の展開に理解し難いところが沢山あるかも知れません。しかし、私は私なりに、集合論では興奮し、あたかも自分の身体の境界がすうっと空間全体に拡がったように感じたことを覚えていますし、また、行動様式の基本サイクルでは何度も何度も流れ図を書き直しながら、次第に確信を持つようになっていったときのことを喜びをもって思い出しでいます。そして、自己とは体験した知識の集大成であると思ったのは、薄暗い計算機室で一人で徹夜をしながら、長大な計算をしていた時に感じた実感です。これらはすべて私を興奮させ、新たな知的な世界を覗かせてくれたものです。しかし、これらの試論におけるテーマの結論や仮説は実在感として私に重みを感じさせてくれるまでには数年から数十年たってからでありました。
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