暁烏敏賞 平成5年第1部門本文「義理と人情 日本文学の普遍的価値」2

ページ番号1002633  更新日 2022年2月15日

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第9回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

(4)『三國志演義』の義理と義気

同じ義理と人情の関係についても、中国的エートスにおいては、その風景はかなり違ってくる。その恰好の題材を我々は三國志演義のうちに見い出すことができる。
一般に中国人は「義理」と「人情」を秤にかけて葛藤するという場面は少ない。なぜなら義理と人情の重さは始めから勝負がついていて秤るまでもなく義理が重たいと考える。それが中国文化なのである。
人情の概念を構成する要素のうち、親子の情は人情というよりも「孝」という徳として特別視されており、男女の情は性情と呼ばれることが多く、したがって人情といえば中国では一般には「利害の欲」を意味して使われているのである。
例えば、黄巾の賊を平げるのに劉備は関羽・張飛らと義兵をし挙げて官軍に馳せ参ずる。平定が一段落して論功行賞となった時のこどである。

雋表奏孫堅劉備等功、堅有人情、除別郡司馬上任去了、惟玄徳聴候日久、不得除授。(羅貫中『三國演義』(上)正中書局P10)
(朱)雋表奏すらく孫堅劉備功を等しくす、と、堅に人情あり、別郡司馬に除せられ任に上り去きぬ。惟だ玄徳のみ聴き候うこと日 久しきも、除捜せらるるを得ず。(吉永訳以下同じ)

功が同じであるのに、孫堅に行賞がなされ劉備に音沙汰がないのは、「堅に人情」があったからだという。この「人情」とはつまり袖の下(賄賂)のことなのである。任官しようとする者にはお上に対してそれぐらいの「人情」を示さねばならぬと言ちなうのである。
因みに「人情」のこの用法は現代中国でも盛んに使われ「送人情」(スンレンチイン)と言えばプレゼントするの意味なのである。
これはまことに中国的である。さあらん、羅貫中は「人情の利に勢くこと古も猶ほ今のごとし」(同上P7)と述べているのである。
つまり、中国でいう「人情」とは、人と人とが利害関係(利益を享受しあう関係或いは何らかの形で利を媒介としてつながる関係)に入りたいと望み、或いは現に入っている時に示される"心づかい"なのである。
これに対して利害関係なしになされる"心づかい"こそ「義気」なのである。次の一節は、丁原に仕える呂布に董卓に寝返ることを勧める李粛が呂布の幕舎に来て交わすやりとりである。李粛は董卓より名馬の赤兎馬を呂布に送るように託されていて、これを呂布に示したのである。

布見了此馬大喜、謝翻日・・「兄賜此良駒、將何以為報。」
粛日・・「某為義気而來、量望報乎」(同上P22)
(呂)布此の馬を見了りて大いに喜び、(李)粛に謝して曰わく「兄此の良駒を賜う、将た何を以て報いと為さん。」
と。粛曰わく「某義気を為して来たる、量に報いを望まんや。」と。

この李粛の「義気」にほだされた呂布は、義父の丁原への「義理」を捨てて董卓に寝返ることを決意し、丁原の首を「報い」として董卓の門に帰するのである。
李粛の「義気」はもとより仕組まれたもので純粋なそれではない。その本質は「人情」に他ならないのである。しかし、これを「人情」として李粛が持って行ったならば、呂布の心はこれほどにも動かされなかったであろう。呂布には少くともこの時点ではそれはまこうことない「義気」と見えたのである。つまり彼の主観的論理としては、「自分は李粛の義気に応ずるに(丁原を斬るという)義気を以ってしたのであって、裏切りなどとは笑止千万」ということになる。
中国人には義気を示されるともうどうにもまいってしまう、という所がある。関羽はその典型である。彼は劉備の二夫人のゆ安全と劉備の在所が分かればすぐにも往くという条件で天子にくだ降るという名分のもとに曹操に身を寄せる。曹操は関羽に並々ならぬ「義気」を示す。これに対して関羽はこれを「人情」と解してこの借には戦の働きで返せばよいと割り切ろうとする。
しかし、五関に六将を斬って劉備のもとに駆けつける関羽に対して、曹操は真情溢れる「義気」を示し、関羽の心はついにこれを恩義と感じてしまっていたのである。この曹操の義気に対して、彼は赤壁の戦いで惨憺たる敗北を喫して生命からがら落ゆるちのびる敵将曹操を華客道にて包囲した際に、「義もて繹す」という義気を示してしまうことになるのである。
羅貫中はその際の関羽の心理の動きを言動に即して見事に描いている。やや長文になるので拙訳のみを記してみたい。

(曹)操 其の(思義を説けば関羽を口説けるという程�cの)説に従い、即ち馬を縦ちて前に向かい、身を欠めて雲長(関羽)に謂いて曰わく「将軍 別かれて来恙無きや。」と。霊長亦た身を欠めて答えて曰わく「関某軍師(孔明)の将令を奉じて、丞相(曹操)を等ち候うこと多時。」
と。操曰わく「曹操兵敗れ勢危し、此に到るも路無し、望むらくは将軍昔日の情を以て重しと為せ。」と。雲長日わこうむすでく「昔日関某丞相の厚恩を蒙ると雖も、然れば巳に顔良を斬り、文醜を誅し、白馬の危を解き、以て報いを奉ぜり。
今日の事、豈に敢えて私を以て公を廢せんや。」と。操日わく「五関に将を斬りし時を、還能く記るや否や。大丈夫 信義を以て重しと為す。将軍 深く『春秋』に明かなり。豈に庚公之斬の(弓の師の師に当る)子濯孺子を追うの事(子濯孺子が病により弓を射れぬのを見て『汝の道を以て汝を害するに忍びず』と見逃した)を知らざらんや。」と。
雲長は是れ義重きこと山の如きの人なり、当日の曹操の許多の恩義と後来に五関に将を斬りし時とを想い起こせば、如何ぞ心を動かさざらん。又曹軍の惶惶として皆涙を垂れんと欲するを見れば、越 心中に忍びざる(の思い)を発せり。是において馬頭の勒を回らし、衆軍に謂いて日これわく「四方に展開せよ。」と。這ぞ是れ曹操を放つの意思分めぐらすなわつ明なり。操雲長の馬を回すを見て便ち衆将と一斉に衝きて将に過り去かんとす。云々。(同上P373)

霊長関羽の胸中に「義理」(軍師の命)と「義気」とがせめぎあうさまが手に取るように窺える。むしろ曹操の言い分は情理を兼ね備えていて関羽はこれに通り一遍の答え方しか出来ず、春秋の義をたてに取られてついに義気の方へ心が大きく傾いてゆき、眼の当りの曹軍の兵士のさまを見ては惻隠の情は押さえ難く、ついに「義気」は「義理」を凌いで発動されてしまうのである。
いわばここには

義理と義気とを秤にかけりゃ
義気が重たい漢の世界

が在ると言ってよいであろう。これが三国志の世界なのである。
三国志演義の登場人物の中で、劉備や曹操はもとより孔明よりも関羽は、知識人・大衆双方に人気があるという点では最大のヒーローである(庶民レベルでは張飛インテリでは孔明の人気も高いが)。しかも、彼らの中で廟に祀られてそれが民間信仰にまでなっているという点では、どの登場人物も関羽には及ばない。
その秘密はもはや明らかであろう。つまり関羽こそは、「義理と義気とを秤にかけ」て葛藤し、しかも「義気が重たい」として義(気)に生きるという、中国人の美意識を鮮烈に体現した人物であるからなのである。関羽の生きざまこそ中国人のエートスを「つの典型として表現し得たものだと言えよう。

(5)義気と人情

日本人のエートス(精神、或いは道徳的気風)が義理と人情の葛藤にその美意識を働かせるのに対して、中国人のエートスは義理と義気との葛藤に大きな共感を示している。
しかし上来の叙述が示唆しているようにこの義気と人情は全く異質なものではない。むしろ両者は重なる所を持っている。
一つは両者とも内発的なものである。人情は情であるが故にもとより内発的であり、義気は気即ち身体的かつ精神的エネルギー(のみなちずそれは宇宙万物を構成するエネルギi的存在でもある)であるからやはり内発的である。
二つには義気はもとよりであるが、人情もまた己の利害を顧みないで発動することがある(例えば男女・親子の情の場合)という点である。
したがって「義理」が社会的に共有される客観的理念としての性格を持つのに対して、「人情」や「義気」は個人に即して発動する主体的かつ主観的なものであるという点で共通する面を持つと言えるであろう。
にも拘らず、この両者にはやはり決定的な違いが存在すると言わねばならない。それは何かと言えば、「義気」とは「義を体現した気」であるからこれが発動には義即ち論理が必ず働いている。つまり「義気」は言葉のないところには働かない。言葉=論理によって喚起された倫理性が気を発動させるところに「義気」は生じる。したがってこれは能動的であり積極的なものとして、自己主張性をもって立ち顕れるのである。
これに対して「人情」は「人の自然の情」であるから論理を持たない。必ずしも言葉の媒介を必要としないいわば"無定形"なものである。それ故にその発動は受動的であって自己主張性をもって立ち顕れるのではなく、消極的な顕れ方をするのである。
例えば先述の『心中天網島』の小春は、しきりに「義理」を口にする。しかしこれは言い換えれば、彼女の胸中には「義理」を圧しようとする「人情」の力が溢れようとしているのを辛うじてこの「義理」を課することによって抑えようとしての心の働きがそうさせるのだと解し得よう。何よりも小春は「人情」に引きずられて治兵衛と心中するにも拘らず「人情」そのものについては一言も語っていないのである。「人情」は言葉=論語を持たぬが故に「義理」の陰画として作用することによってその力を顕すのである。
この「義気」と「人情」の質的な差は、実は中国文化と日本文化との質的な差であると言ってよいであろう。この両者の異質性は両国の文化の歴史性の相違に由来すると考えてよいと思われる。
古典文化を開花させた都市国家の時代を、中国はその古代帝国の成立に先行して数百年に渡って所有している(春秋戦国時代BC8世紀〜BC3世紀)。自然を人為の体系に組み込むという文化の営みが嘗てなく盛んになされ人知の営みが古代社会の一つの到達点に達するのがこの都市国家の時代である。これに続く秦漢の古代帝国はその遺産を継承して量的拡大と効率化を最大限に押し進めることによって登場する。そのノウハウは全て都市国家時代の原理に基くと言ってよいのである。
この都市国家文化の時代において人の内的自然たる「人情」は徹底して倫理化=論理化され、文化の体系に組み込まれてゆく。
例えば、この時代に活躍した思想家の一人である孟子はこう述べている。

口の味におけるや耆むを同じくするものあり。耳の声におけるや聴くるを同じくするものあり。目の色におけるや美しとするを同じくするものあり。心に至りては濁り同じく然りとする所なからんや。心の同じく然りとする所の者は何ぞや。謂らく、理なり、義なり。聖人先に我らの心の同じく然りとする所を得るのみ。故に理義の我らが心を悦ばしむること、猶ほ甥豪の我らが口を悦ばしむるがごとし。(『孟子』告子上)

ごちそうが味覚を悦ばせるように、義(理)は心を悦ばせると言うのである。
このような文化による「人情」の教化の成果が心情の発動は必ず義によって導かれるというエートスを育くんだであろうことは想像に難くあるまい。したがってこのような義の領導からはどうしても漏れてしまう利欲や性欲が、中国における「人情」の概念を形成することとなったと考えられるのである。中国では「義理」と「人情」では勝負がついてしまっているのは当然であろう。
これに対して日本においては、都市国家時代は存在しなかったのであり、周知のように狩猟採集型生活様式の時代がほとんどそのまま小規模の古代帝国(そのノウハウは中国文化を受容した)の時代へと継承されてゆく。したがって日本文化においては、人情の自然が中国文化におけるように徹底した倫理化=論理化という教化の時代を経験せずに、いわば殆んど自然のままにその文化を通底するものとして存在してきたと言ってよいであろう。
日本的「人情」が無定形であり言葉・論理になじまず、ネガティブに作動するというのはまことに歴史的な観点から見れば、理由のあることなのである。

(6)日本文学の普遍的価値

歴史的観点からすれば、日本人にとって「義理」は二重の意味で他律的な理念であったことが明らかであろう。一つは社会的道徳的理念としての他律性であり、今一つはそれが外来の原理であるという点で他律的なるものであったのである。
これに対して「人情」は日本文化に通底する土着的なるもの内発的なるものである。したがってこの両者のせめぎあいと葛藤というものは日本文化の普遍的現象(時代を越えて常に立ち顕われる現象)であると言えよう。
例えば、近代の文明開化以降はこの「義理」は欧米の価値観・道徳観・社会理念という装いを凝らして立ち顕われてくる。この新たな「義理」と日本的なる「人情」の葛藤こそが近代巳本文学が問題とした中心テーマであったのである。
日本人は和魂漢才から和魂洋才に乗り換えただけなのであって、その文化のうちに孕む「義理と人情の葛藤」という図式は全く変わっていないのである。
しかも日本的「人情」は無定形であり言葉になじまぬものであり消極的に機能するものであるが故に、外来の原理である「義理」と目に見える形で論理的に拮抗するわけではない。表面的には日本人は砂に水がしみ込むかのように中国文化や欧米文化を受容したと見える。しかしそこには無定形な「人情」との葛藤が目に見えない形で存在していたのである。
実は日本人自身が自らのうちに内在するこのようなエートスに対して無自覚であったのである。それというのも「人情」は言葉・論理を所有しないものであったからであり、これをいかに表現すべきかは、日本文化のエートスを鋭敏に察知した鋭い知性たちにとっては常に大きな問題であったのである。本居宣長の「もののあはれ」論がこのような歴史的課題への内在的な立場からする回答であったのは多言を要すまい(外在的につまり外来文化の言葉を借りての答え方も幾度かなされてはきたがそれにはやはり限界があった)。
確かにこの無定形な日本的エートスを日本文化固有の言葉で語ることは至難の技であり、この課題は今もなお存在し続けている。
しかし今一つの道を通して実は日本人は自らのエートスを巧みに表現してきたのである。それはつまり外来の原理たる「義ネガ理」への陰画として「人情」を作動させることによってこの日本的なるエートスを表現するという手法である。近松の文学に内在する手法はまさにこの方法である。
したがって「義理と人情の葛藤」というこのあり方こそ、日本文化に内在する普遍的テーマを巧まずして表現し得たものであると言えるのである。
一体、文学の普遍的価値とは、それを翻訳すれば異文化の人々にそのまま理解し得るというレベルで論ぜられるものではない。果たしてゲーテのファウストがダンテの神曲が何の抵抗もなく理解し得る日本人などいるであろうか。むしろそれは日本人にとって大きな抵抗を乗り越えて理解されてこそ意味があるのである。
即ち文学の普遍的価値とは、その文化に内在する固有のテーマ、しかもそれはその文化に普遍的に内在するテーマ、を巧まずして表現し得ている処にこそ存在すると言わねばならないであろう。
かかる普遍的価値を体現する文学が世界の異文化の人々に読まれることによって、異文化への理解と共感、関心と興味、を喚起することこそが文学の持つ普遍性なのである。
この意味で、近松の文学はまさに日本文学の普遍的価値を体現し得ているのである。そしてその故にこそ文学としての普遍性を獲得し得ていると言ってよいと考える。もとより紫式部の文学もこのような観点からこそ評価されるべきなのである。

本稿了

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