暁烏敏賞 昭和61年第1部門本文「二十一世紀への霊性の展望」2

ページ番号1002670  更新日 2022年2月15日

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その"大きな飢え"とは、もちろん食物を要求して騒ぎ立てる今日のホモ・サピエンスの持ち合わせる飢え苦しむ霊性に外ならない。
知識の爆発的増加が、かつては心を支え実り、豊かであった土地を荒廃させてしまったというもう一つの大きな行程は、都市化の強調の中に行われてきた。即ち知的専門化に平行して、環境の上でも、社会の上でも変化が起こった。霊的体験が大都市では殆ど起こらないことが、様々な学者によって指摘されてい(22)、事実イギリスの最近の調査の結果は、ある調査員をして、町が大きくなればなるほど霊的体験をしなくなると報告されているようだと語らせている。(23)彼は解説の中で、そのような体験の欠如は、"他のあらゆる貧困と同様に、人類の自然の力の疎外になっていくであろう。"(24)しかし都市や農村という環境での霊的体験の相対度数という比較的統計的実態を考察すれば、結局は霊性をいかに測定するかということについて、幾分あい昧ではあるが一つの試みを与えてくれるが、それよりもむしろ、優性学の注意深い政策と、個人の快楽を最大限に増大させ、苦痛を最小限に止どあようとする試みとが結び付いた場合、未来社会がどうなるかを予見したAldousHuxleyの小説BraveNewWorld《見事な新世界》の中の登場人物の一人が為す、深く考え尽くされた挑発的意見によって、専門化-情報-多次元論が既に我々を至らしあた心の疎外の歩む道に沿って、我々を導いていく、現代の都市生活の持つ潜在力の暗示を拾うことができる。そこではあらゆる人間が自らの行う仕事に間に合うようにしつけられ、あらゆる不平がソーマ(インドの聖酒)を自由に使うことで取り除かれる事実上苦痛のない社会へと、未開人は行く。未開人は、生活がなお原始的で自然のままである保留地で育ってきたたあ、Huxleyの考えるような"文明化"は、未開人にとっては衝撃であろう。彼を最も当惑させるのは、この見掛けのユートピアには超越的なものが何の意義も持っていないように見える事実である。生活には何か日常を超えたものがあると感じるのは自然なことじゃないでしょうか?疑似神秘主義を誘い出す麻薬を超えた霊的次元の見掛けだけの欠如に全く当惑した彼は問う。彼が言うように、傷あなたが一人の時、夜全く一人の時、死のことを考えている時、神を信ずることは自然なことじゃ無いでしょうか?(25)人間は決して一人じゃないというのが、それに対する即答である。事実人間は孤立を嫌うように作られ、その生活も孤独になることが不可能なようにしつらえられている。(26)"激しい情熱という代替物簿が、いかなる社会的不都合も持ち合わせずに、激怒や恐怖と心理学的・生理学的に全く同等の感情を与え、幼児期の条件付けによって、死の苦痛が手際良く取り除かれ、あるいは徹底的に鈍らされ、老化が精巧な医療技術によってコントロールされ、試験管が子宮に取って代わる世界において、年長の行政官である、監督官が未開人に向かって、"我々は快適に物事を行うことを好り"と語る時(27)、何か場の全エトスといったものが、そこには要約されているようである。人間の運命や神、善悪の性質についての問い、死後何が起こるかとか、我々が何であり、どこへ向かって行き、何を為すべきかといった問いは、未開人の文明化されていない観点からすれば基本的に見える、我々の"中心的意義'に関わる霊性的問いではあるが、そのような仕組みの中では、あまりに厄介過ぎてどこにも場所を得ることを許されないのである。我々はHuxleyの描いた苦しみのない楽園からは遠く隔たっているかもしれないが、そこには、これが産業化された国家の向かっていく方向であるという警告が何か示されているようである。結局PeterBergerが述べたように、"現代社会は可能な限り意識から夜を追い払ってしまった。"(28)そして心の中に未開人の言葉を抱きっっ、そのような追放は精神的に重大な結果を持つに至りそうである。死が有り触れたこととなることで、−例えばアメリカの平均的児童は14歳になる前に18,000人の死を目撃すると見られている−、我々は無自覚ではあるが我々の死の形を調整させてはいないだろうか。世間の娯楽に流行っている暴力はある意味で"暴力的情熱という代替物"に似通っていないだろうか。そのような物は真の人間という状況の持つ基本的事実から我々を遠ざけるのに適しているようである。その結果それらの基本的事実が提起する基本的問題は無視されてしまうのである。
BraveNewWorldに対照して我々の文明が今立っている所に関わらず、ともかくも専門化あるいは都市化あるいは平凡化あるいは多元論あるいは他の幾つかの要素のいずれかによるにせよ、我々の精神を刺激しそれを自由に表現するに任せて働き掛ける真の人間という状況の持つ要素に対する我々の認識を現代性というものが鈍らせていることは確かに明白である。大まかに言えば、我々の存在の外側のはしっこというよりもその根源に横たわる問いの多くがある力を持って我々の上に働き始あるのは、我々が数百万の人々と町の真っ只中にいて、空調の行き届いたオフィスでネオンの明かりの慰ある中で複雑な事務処理に神経を集中させている時よりも、むしろ夜荒野の中で唯一人たたずんでいるような時である。もし我々の生活が専門化され過ぎ、都会風になり過ぎ、物質化され過ぎ、心地よくされ過ぎ、食べ過ぎにさせられ、情報過多になり過ぎ、人が集まり過ぎた時には、現にそうであり、今まで常にそうであったし、今から.も常にそうであろう物事の広がりが、我々がいかに深く精神的な存在であるかという我々にとって中心的関心を持っているのだということを(たとえ我々がそれをどんなに深く埋あ込んでしまおうとしても)十分な明確さを以て見ることをしなくなるという危険はない。
現代性の持つ幾つかの状況が人間の心を脅かしている在り方、もっとはっきり言えば、ここ2、30年に起こった知識の爆発的増加と、その結果もたらされた行き過ぎとも思われる都市化、そしてその見返りとして我々の多くが自然の世界から追放されてしまったという事態に伴うと言うよりそれを招いた諸要素を示せば、果たして将来に於ける精神性を予測出来るであろうか。我々が現在立証しっっある情報の勝利に満ちた蓄積の元でも、尚我々の存在の持ち合わせる生命としての要素がすっかり覆い隠されてしまうことなどないと保証するのに間に合うような展望として、来る世紀に向けて我々はどのようなものを提示しうるであろうか。我々の廻りを何百万もの抹消的関心事で取り巻く多種多様な情報より成る迷路の中を通って、いかにして"中心的意義"を求あて進んで行くことが出来ようか。あらゆる方面に噴出した知識の爆発的増加のただ中で、どのようにして"正しい方向の知識"に至ることが出来ようか。
21世紀の精神性が辿るべく努力せねばならない方向についての有力な手掛かりと言えば、佛陀の説く不思議な毒矢のたとえの中に含まれている。その話しは(MajjhimaNikayaI:423-434に記録されている)、現代の聴衆に対して力強い響きを持ち合わせている。それは、毒矢で怪我をしたがあらゆる問いが彼の満足を得るまでは、その矢を抜くことを拒んでいる男の話である。:その矢を放った者の背丈はどれ位か?肌は何色か?彼はどこから来たのか?彼の使った弓の種類は何か?弓の蔓は何で出来ているか?矢の軸にはどんな矢羽が付いているのか?等々。その含意するところは明白である。即ち彼がそのような二次的事柄に神経を集中して、矢を抜かないでいる限り、その男は死んでしまうであろう。仏教の教えに従えば、我々の無知が我々をそこへと閉じ込あている苦と再生とより成る終わることの無い循環から自らを救い出すことに向けて実践的な歩みを進ある前に、難解な形而上学的問題について思索することに時間を費やしてしまうことの不適当さを描き出すたあに、仏陀はこの物語を使う。
現代のホモ・サピエンス(これは我々の包括的な名前を皮肉たっぷりに指し示す以上のものを備えているが)の精神的苦境は、毒矢に傷付けられた男の問題と確かにそれほど違いはない。我々が傷付けられる矢は、軍隊であり、様々な物質をその先に着けている。騒音、娯楽、専門化、選択、唯物論一すべて20世紀の都市に備わった毒である。しかし最も大きな脅威を持ち合わせたものは、われわれをどきどきさせる魅力と複雑さを備え、もしそれを考慮することを止あたならば、元の話の男がする最もばかげた余談にも勝るあらゆる類いの問いに答えることを我々に強要してくる。しかし豊かさという荷物は捕らえ所のない劇毒を伴い、我々が単に傍観者として振る舞い、情報という矢が現象という広い世界について提供するデータについて調査し蓄積し対照している時間が長ければ長いほど、我々のはまりこむ無気力は深くなるのである。恐らく我々は今再び"矢の軸にはどんな矢羽根が着いているのか"という類いの問題に我々の全力を注ぎ込んでいるから、その矢を発射させ、その通った跡に多くの本当の進歩をもたらす知識の爆発的増加が、我々の急を要する事柄に対する感覚をくじいてしまっていることに不安ながらも気が付いているのかもしれない。というのも我々が習慣として行っていること以上に差し迫って取り組むべき事柄が明確に存在するからである。世界は苦痛に満ちており、我々の生活は飢餓へとスピードを増し、我々が見ないように努あている死に向かって混乱を来している。しかしそのような疑念はすぐに消え、やがて現代というものが押し付ける精神の眠りの中で起こる奇妙な夢へと我々は寝付いてしまうのである。知識というリンゴを食べ、またアフリカで飢えに苦しむ子供連を見、熱帯雨森を伐採し、河や海を汚染し、経済的現状維持の為に何百万の人々を貧困と抑圧の元に生活させ、軍隊にぞっとする死をもたらす核を備え、我々の愚かな活動の騒音の内に我々が皆同じ母なる大地の子供であり、同じ喜びや要求を持ち合わせ、時間というものを持ったはかない生き物であり、花のようにうつろいやすく、我々の苦悶に満ちた精神を形成するたあの永遠の目的というものの何等かの意義を我々が見出さないかぎりその遍歴は無意味という深い淵を巡りるような存在であることを忘れてしまっている我々に、未来はどんな審判を下すであろうか。(目覚めるならば、いかに自らを審判するであろうか。)結局我々は、全くすてきな豊かさを吟味し使い始ある前に矢を抜き出さねばならない。現代社会が生まれてきた知識の爆発的増加を取り巻く塵の雲の中から飛び出せる正しい真っすぐの道を地図のうえに描けるような、精神の正しい方向、《道》を見付けなければならない。
作家JamesBaldwinに拠れば、"人々は自らの知っていることに基づいて行動することがとても困難であることを知っている。行動は委ねられるべきであり、委ねることは危険に満ちている♂(30)我々がさらされている絶え間無い情報の点滴が、委ねることの中心的意味を覆い隠し、我々を起こった事柄を受け身的に観察する単なる傍観者にあやうくさせてしまうことを知っている。神、仏、科学、あるいはその他のものが過去に持った精神的安全、道徳的方向というものを専門化は蝕んでいる。というのは逆説的ではあるが、我々が知れば知るほど、あまいがするほど巨大な空間で情け容赦のない軌道を回っているこの小さな天体の表面でのつかの間の感覚において我々が何であり、また何を為すべきかということについてはますます確信できなくなるのである。我々が直面しなければならないあらゆる複雑さ、多くの信仰、多くの要素からなっている現代の世界の腐敗を来す多元論にとらて、精神が回復すべく努あねばならない単一的単純さがそこにある。この畏敬すべき単純さの内容をうまく把握しているようにみえるBaldwinの文を再び引用してみよう。

地球は回り太陽は容赦なく昇り沈む故人生は悲劇的である。
いっか我々すべてにとって太陽は最後の時に向かって沈んでいくであろう。おそらく我々の苦悩の根源、人間の苦悩の全根源は、我々が我々の人生のあらゆる美を犠牲にし、我々が持っている唯一の事実である死を否定するたあに、我々自身をトーテム、タブー、十字架、血のいけにえ、尖塔、モスク、民族、軍隊、旗、国家に閉じ込ある髄ところにある。我々は死の事実を喜ぶべきように私には思われる。
人生の謎に情熱で直面することによって死を勝ち得る決心をすべきように思われる。それは我々がやってき、戻ってゆくであろう恐ろしい暗闇に灯された小さな灯である。我々の後の者達のために、出来るだけ立派にこの道を切り抜けなければならない。(31)

最後の分析で、我々の苦境は現代がそう見させているほど込み入っていないことを見てきたことを思い出してみよう。我々人類が抱える苦難にはただ二つの基本的場があるのみである。その一つに於いて我々は世界に一人で立ち、もう一つで他の誰かと共に立つ。歴史上起こったあらゆる出来事は次の我と汝という原型に基づいている。いかに我々が世界、環境を扱うか。いかに我々が他の人々を扱うかという問題である。二つに於いて我々は情熱を以て人生の謎と死に直面し、出来るかぎり立派に道を切り開き、次に来るべき人々の為だけでなく、自らのたあに、我々の脇を歩いている人々の為に行わねばならない。我々がこれらの中心的目的に献身するまで、他のあらゆるものは、精神的観点から、毒矢が飛ぶことを吟味することと同じである。
世界の向こうを見ようとし、そこに何か明滅する意味を見た原始人の精神の鼓舞が手一足を切断させ、手の跡をあとぐつた時遺された旧石器時代の祖先の古代の象徴のことでこの論を始あた。そこで地球を震え上がらせる情報伝達の体系を持ち、しかし我と汝の、私と世界の、私と他人の閤の距離は依然としてつぎだらけの形で残っており、死の事実のように、我々の祖先の夢にも見なかったであろう莫大な情報の元にしばしば隠されてしまう、そのような国家間の深い溝に橋渡しをしてくれる我々の時代に適切な象徴のことで話を終えたい。
問題の象徴は、ニューヨークの国連ビルの中にあるあい想室によって与えられている。様々な信仰の人が利用するので、排他的に特定の宗教やイデオロギーに属する象徴はそこにはない。そのかわり、人類のあらゆる異なった信仰の根底に横たわる共通の精神の床岩のように、部屋の中央に石の固まりがある。石は一筋の光りに照らされて、太陽によって毎日世界が暗闇から目覚める様子を思い起こさせるだけでなく、精神の光が問題とすべき人生を与える仕方を物語っている。その部屋の目的を説明する国連の出版物は次のように続く、

石の材料(鉄鉱石)は、破壊か建設か、戦争か平和かという選択の必要性へと我々の考えを導く。鉄から人は刀を鍛え上げる。また鋤の刃を作り出す。鉄から戦車を作り出し、同様に人の住む家を建てる。鉄鉱席の固まりは我々がこの地球に受け継いだ財産の一部である。いかにそれを使うべきか?一筋の光りは、全く飾りのない部屋で石を照らしている。他ゐ象徴は何もなく、我々の内なる静けさを遮り、注意をひくものは何もない。

もし21世紀の精神に対する我々の展望が現代という問題を克服し、選択と献身という中心へと我々を引き戻しうるならば、我々の中心の目的からは何も我々の関心を反らせうるものはないと主張しなければならない。都市の騒音と複雑さの真っ只中で、我々が認あうる内なる静けさが人間の情況の基本的要素を刷新しうことを回復しなければならない。さて新しい世紀に向かって前進しながら、我々の存在のもつ畏敬すべき単純性と神秘に対して、我々の存在の中心にある神聖な場所をもう一度明らかにし照らし出す床岩に手癒押し当ててみよう。死を目ではっきりと確かあながら、我々の兄弟の手を取りながら我々の指の回りをなぞってみよう。畏敬と共感をもって大地に触れてみよう。犠牲のたあに、祈願のたあに、精神を祝って、我々を窒息させんと脅かす二次的情報の難題を切断しよう。鉄の固まりによって、我々の内なる寺院、すなわち究極の献身を明らかにしうる現代のガルガスを、人間の意識の夜明けに微かに感じ取られたある暗い未知なる存在へ、かって犠牲を行った祖先のような情熱で占あさせよう。謙虚に尊敬の念をもってアウシュヴィッツや広島の杭の廻りを掘り起こし、確かに我々の心の中にある鉄で、我々を互いに引き離し、一瞬の微かな苦しみの歩みを湛えた世界から引き離し、我々の精神を葬り去る壁を作り出すならば一体何が起こるのかを思い出させるものとして見付け出される土を宝物にしよう。

NOTES

  1. Sigfried Giedion,TheEternalPresent
    (London:Oxford University Press,1962),vol.1p.100.
  2. Norman Cohn,The Pursuit of the Millenium
    (London: Temple Smith,1970【revised & expanded editionl),P.228.
  3. Libid.,p231,my emphasis.
  4. Quot:ed in Huston Smith,Condemned to Meaning
    (New.York:John Dewey Society Lectureship no.7,1965),P.21.
  5. Quoted in Huston Smith,The Purposes of Higher Education
    (NewYork:Harper&Row,1955),p.36.
  6. Leszek Kolakowski,Husserl and the search for Certitude
    (NewHaven:Yale University Press,1975),p.84.
  7. William Shakespeare,Henry IV Part I,Act 5 Scene 1.
  8. Arnold Toynbee,Mankind and Mother Earth
    (London:0xford University Press,1976),p.4.
  9. Mircea Eliade, A History of Religious Ideas
    (London:Collins,1979,tr. from the French by Willard R.Trask),vol.1p.xiii.
  10. On this,see the findings recorded by Ralph S。
    Solecki in Shanidar,the Humanity of
    Neanderthal Man (London:AllenLane,1972).
  11. PeterL.Berger,The Heretical Imperative,
    Contempoary Possibilities of Religious Affirmation
    (London:Collins,1980),P.11.
  12. ibid.
  13. G.F.Woods,Theoloqical Explanations
    (Welwyn: James Nisbet,1958),P.2.
  14. Ernest Becker,The Denial of Death
    (NewYork: the Free Press, 1973),P.x.
  15. PeterL.Berger,A Rumour of Angels,
    Modern Societyand the Rediscovery of the
    Supernatural (Harmondsworth:Penguin,1971), P.61.
  16. Anselm L..Strauss,Mirrors and Masks,
    the Search for Identity (London:Martin Robertson,1977),p.38.
  17. ibid.,p.39.
  18. ibid.
  19. William Barrett,Irrational Man,
    a Study in Existential Philosophy
    (Connecticut: Greenwood Press, 1977), P.6.
  20. ibid.
  21. Laurens van der Post,Jung and the Stody of
    Our Tlme (London: the Hogarth Press,1976),p.273.
  22. Thus,for example,Rudolf,
    Otto warns that the sense of the numius,
    which lies at the core of our spirituality,may be sharply affected by surroundings ,
    forest glades being more conducive to it than,say,urban Berlin [see his The Ideaof the Holy(Oxford:Oxford University Press,1936,tr.from the German by John W.Harvey),pp.72&155];
    likewise Ninian Smart has suggested that some city enironments can give rise to untypically low leels of spirituality[see his Beyond Ideology, Religion and the Future of Western Ciilisation (London:Collins' 1981),p.42].
  23. DaidHay,Exploring Inner Sace (Harmondsworth;Penguin,1984),p.198.
  24. ibid.
  25. Aldous Huxley,Brave New World(Harmondsworth:
    Penguin,1970[1stpublished 1932]),p.183.
  26. ibid.
  27. ibid.,p.187,my emphasis.
  28. Peter L. Berger,A Rumour of Angels,P.95.
  29. This statistic is quoted by John Hick in his
    Death and Eternal Life (London:Collins,1976),P.86.
  30. James Baldwin,The Fire Next Time(London:Michael Joseph,1963),p.20.
  31. ibid.,p.99.
  32. "A Room of Quiet: The United nations Medition Room",
    undated leaflet published by The United Nations. Noauthor 91ven.
  33. ibid.

《翻訳》中野素(なかのまこと)
昭和29年4月松任市生まれ
大谷大学大学院(仏教学)卒
現在、金沢大学文学部行動科学科
非常勤講師
現住所松任市西新町23-3i

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