暁烏敏賞 昭和60年第1部門本文「時間と行動そして自己」2

ページ番号1002676  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第1回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

3、人間の行動様式

我々は毎日を生き、生活のためや暇つぶしのためや、その他種々の目的あるいは無目的のために自分の時間を埋めています。これはちょうど、テレビの番組編集者が毎日のテレビの番組をうめて駆かなければならないのに似ています。このように、人間は生きてゆくためには自分のもっている時間というものを必ずうめて行かなければならない存在であり、これは老若男女すべての人に当てはまることです。そして、人は誰でも、いそがしい人はいそがしい人なりに、暇な人は暇なりに、これからどうしょうか、どう生きて行こうかと自問することが必ずあると思われます。目の前の近い未来のことから、遠い将来のことなどを考え、そして、期待と不安が心の中に入り湿ることになると思われます。
ここで、二、三の仮定のもとに人間がたどる行動を一般化して考えると図2のようなフローチャートを書くことが出来ます。
ここで設けた仮定というのは、

  1. 人間は自分の行動の結果として、実績というものを考える。
  2. 実績をもった人だけが自信をもつ。
  3. 人間は常に他人と比較しながら、満足し、あるいは不満をいだきながら生きている。

というものです。

さて、図2に示したフローチャートについて述べます。このフローチャートはこれからどうしょうかというところがら始まります。この出発点(A点)に立った人は将来に対する期待と不安が心の中に湧いて来るでしょう。この時点で行動に関して一つの分岐があることが伴ります。これを計画分岐(P分岐)と呼ぶことにいたします。すなわち、具体的に計画を立てるか立てないかということです。もし、計画を立てた場合、次は実行することですが、ここでも、一つの分岐があります。この分岐を実行分岐(E分岐)と呼ぶことにします。立てた計画を行なう行動をおこすか、あるいはおこさないかです。もし、行動をおこせば結果の良い悪いは別として、必ず結果が出て来ます。そして、うまく行った場合には、他人から見て些細なくだらない事柄であっても、心晴れやかに、勇気百倍、新たな計画へと進むことでしょう。そして、新たなことを実行することになるでしょう。これがうまく行けば、また新たな成果が生まれることになります。
このようにして自分の時間を次々にうめている人は実績も出来、これに基づく自信がつくということになります。そして次の計画も冷静に、合理的な分相応な計画を立てることが出来るように思います。このような行動サイクルをここでは健全サイクルと呼ぶことにいたします。この健全サイクルを年相応の数だけ経て来た人はそれ相応の経験と実績をもっており、自信にあふれた充実した毎日を送ることが出来ると思われます。

一方、P分岐にもどりまして、もう一つの道筋を考えて見ましょう。期待と不安に心がゆれ、具体的に計画を立てなかった場合、大抵、少し考えて見ようという態度を取り、具体的に計画に必要な作業をすることを延ばすことになります。この場合、この少し考えて見るということは、」ただ"考える"ポーズをして時間の過ぎ去るのを見送っている場合が極めて多いと思われます。考えるということは具体的な作業が伴わなければなりません。囲碁の名人達が碁盤を見つめて長考に入ったとき、唯、漫然と碁盤を眺めているのではなく、一つづつ具体的にあらゆる可能な石の置き方を何日か先まで検討するという作業をやっていて、我々素人がどうしょうか、どこに置こうかと同じ考えを浅くどうどう廻りをやっているのではないと思われます。従って、作業を伴わないで考えるということはポーズのみで迷っていることに等しいのではないかと思われます。それ故、このような態度、すなわち、このような行動を選んだ場合、何も行動をおこさない訳ですから、何ら結果は生まれて来ません。

そうこうするうちに時間はどんどん過ぎてゆき、何か妙手を用い、頭の良い、うまくやれる方法はないかと再び"考える"ことになります。この考えることも作業を伴わないので、ポーズのみとなり、当然、結果は出て来ません。勿論、成果の上るはずがありません。もう一度、「おれは他人と違って、頭も良く、着眼点も良いのであるから、きっとうまくやれる方法が見付けられる」と思い、これを探し始めることになります。しかし、余程の天才でなければこんなものは見付けられるものではありません。このサイクルをなまけものサイクルと呼ぶことにいたします。一度、このサイクルに入ると、「おれは他人よりきっとうまくやれる筈である」という自惚れのため、仲々このサイクルから出られないのではないでしょうか。そのうち、健全サイクルの人々は成果を出し、他人にも認められるようになります。

「おれは主体的に生きているから、他人の成果などは眼中になく、全く気にならない。」と云いながら、やっぱり他人と比較し、多少気落ちもし、自信もなくし、焦り気味となる筈です。そして、「何とか差をうめたい」「何とか成果を出したい」と思い、一気に差をつめることを考えます。このときにまた一つの分岐があります。この分岐をノイローゼ分岐(N分岐)と呼ぶことにいたします。ここで行動をおこすと一かばちかの大博打をうつことが多くなります。いわゆる"考える"習慣のついた人が仕事をするとき、仕事を進めるのに不可欠な種々の準備を考え、行なうことが面倒となり、この途中の面倒な事柄をすべて省いた超省力化した仕事をしょうとします。しかし、非常に仕事に慣れた人でも、そのような手抜きのまま仕事をなし遂げるのが難しいのに、まして"考える"(ポーズのみ)のが上手な人には荷が重過ぎ、結果は明白です。そして、この失敗を他人に知られないようにして、もう一回博打をうつことになります。そしてまた失敗を繰返すことになります。これをじり貧サイクルと呼ぶことにいたします。このサイクルを何回か廻るうちに、「体験なしにはうまく行かないなあ。」と本心は感ずるようになりますが、身についている習慣という暴君(ロシアの文豪。プーシキンは、」習慣は世人にとって暴君であると云っています)は気嫌の良い声で、「おまえは他人よりうまくやれる筈だから、考えてごらん。」と"考える"ことをすすめることになります。そして、N分岐より破滅への道へと入ってしまうでしょう。

健全サイクルを廻っている人達と比べ、自分はみじめであると感じ、どうしてこんなことになったのであろうと、また考える。他の人から、「君だって出来るよ。簡単だから。」と云われれば、簡単だからが妙に気になる。そして「少し"考えて"から」と云う事になります。また、「考え過ぎだ」と云われれば、「犬や猫でもあるまいし、考えもせずにやれるか。」と反論することになります。このような精神状態ではもう自分の事で一杯であり、自分の事をどうしてやろうかということのみとなります。そして、他人をうらやましさとしての対象としてのみ考え、その人の立場などを考える余裕は全くなくなってしまいます。ますます自分本位の考えに凝り固ってしまい、自分自身動きが取れなくなってしまいます。そして、次第に病的な症状を示すようになるであろうと思われます。このような状態での行きつく先は自分で自分にピリオドを打つしか残された道はなくなってしまいます。本当に悲しいことです。

ここでは典型的な場合について考えて来ましたが、実際にはこのような極端な場合は極めて少ないと思われますが、また一方で、いつもいつも健全サイクルのみを廻っている人も少ないでしょう。誰でもなまけ心はあり、仕事を手抜きしてなまけものサイクルに入ることもあるでしょう。ただ、健全サイクルの行動習慣をもっている人はもう一度出発点のA点に立ち帰り、健全サイクルにもどることが容易と思われます。

ここで、三つのサイクルの特徴と相互関係を考えて見ることにします。健全サイクルは苦しくも楽しいサイクルであり、なまけものサイクルはじり貧サイクルへの前段のサイクルであり、やり切れない感じを受けます。じり貧サイクルは溺れた者にも似て適切な手助けが必要でしょう。そして、これらなまけもの及びじり貧サイクルはフローチャートから分るように、出口の極めて少ないサイクルであり、しかも、健全サイクルのどの時点からでもこれらのサイクルに移行する可能性をもっているサイクル群だということが云えます。キリスト教の聖書に書かれているように、「亡びに到る門は広い」ということが云えます。一寸、怠れば、なまけものサイクルからじり貧サイクルへと落ちて行きます。そして、再び健全サイクルにもどることが出来ないとなれば、地獄へ落ちて行くように救いのないものとなります。しかしながら、人間は気持の持ちよう次第でこれらいずれのサイクルの何処からでも、この基本的サイクルの出発点に立つことが可能です。正確には出発点に立てないという理由はないということです。そして、出発点からP分岐点、E分岐点を努力により健全サイクルへと流れ、行動することによって、成果も出て来るものです。このようにして、健全サイクルにもどって来ることに何ら支障がありません。人間はこのような可能性を秘めた極めて柔軟な存在であり、ここに一つの救いと希望があると思われます。

次に、行動の結果としての成果と他人のそれに対する評価について考えて見ることにします。健全サイクルでは自分の成果を他人の成果と比較するように考えております。本当に自信があり、明確な目標にもとつく計画にそって行っているならば、出た成果を他人と比べる必要はないかも知れません。しかしすべての人間はこのように強い人間ではありません。自分の成果を他の人の成果と比較し一喜一憂しているのではないでしょうか。そして、自分の成果を他人に認めてもらいたいという欲望をもっているのではないでしょか。そして、.自分の成果を他人に認めてもらいたいという欲望を持っているのではないでしょうか。自分でも成果があったと思い、これを他の人達が認めてくれたとき、自分につながるのだと思われます。このように、人は誰でも自信を持ちたいと願っていると思います。しかしながら、赤ん坊の一挙一動を見つめている母親のようには誰も見てくれないのが世の中であり、むしろ、他人の成功や失敗をそれ程気にしていないのが現実ではないでしょうか。それ故、良い成果が出た、うまくいったと云っても、直ぐに高い評価としてはね返って来ず、むしろ、拍子抜けの感をいだくのが落ちであろうと思われます。世の中には母親のような人はいないと云うのが本当でありましょう。

しかしながら、他人からの評価は何らかの形で必ず現れるものです。一般に、行いの結果が、これが良い結果であれ、失敗であれ、他人の評価として自分にもどって来るまでには時間遅れがあり、遠廻りをして、直接にはもどって来ません。しかも、もどって来たときは、一部のみが強調されたり、大切なところが抜けていたり、歪曲された形で本人も驚くような形となってもどり、単純な形でもどって来るものではありません。あるいは、極めて漠然としたものとなって、本人も気がつかない場合もあると思われます。更に、その成果以前の行いの評価も同時にされながらもどって来るものであると思われます。

このように、一つの行いの評価はその行いそのものに対してだけなされるのではなく、その行い自体とその行いを行った人の両方に対して、時間的、空間的な広がりについて評価されるので非常に複雑です。しかし、必ず何らかの評価が来るものです。従って、いつもなまけものサイクルを廻っていた人が発奮して、一度健全サイクルを廻り、良い成果を出したとしても、仲々本人が期待したような評価は得られるものではありません。上述した時間遅れについての現象も、理屈としては分っていても、感覚的には納得することが出来ず、結局止めてしまい、再びなまけものサイクルからじり貧サイクルにもどってしまうことが多いと思われます。一寸の事を行い、良い評価を強要するのは甘たれのすることのようであります。しかしながら、行った行動が皆の関心のあるものであれば、速い応答もあるかも知れませんが、他人の事を気にしながら、それ程関心のないのが人間でしょう。従って、他の人からの反応は極めで遅いものとなるのが自然なことだと思います。これはあたかも、情報が慣性をもっているように考えると良く理解出来るのではないでしょうか。

今までは、個人が行動する場合についての行動様式について考えて来ましたが、ここでは幾人かの人達が、それぞれの行動サイクルを廻っているとき、その人達の行動様式の間にはどんな相互作用が働くかを考えて見ることにします。

昔から、「類は類を呼ぶ」と云われ、「同病相憐れむ」という諺があります。行動サイクルでは、それぞれ同種サイクル間の相互関係は緊密であり、異種サイクル間では疎遠な関係であるように思われます。同じサイクルを共にたどりつつ、ある人間同志では目標が異なっていても、やり方や時間のつぶし方に類似性があり、互いに理解することが出来ると思われます。従って、「何を考え、何をやろうとしているのか分らない。うさん臭い奴だ」という不安はなく、心を許して付き合うことが出来ます。
たとえば、健全サイクルの中を行動している者同志では、設定された目標をそれぞれもっており、そのやり方があり、これに従って行動を行っており、他人に知られて恥しいことは原則的にはありません。それ故、互いに理解も出来、当然実績も積んでおり、話もはずむことになると思われます。一方、なまけものサイクルやじり貧サイクルをたどっでいる人達は何となく気心が知れ、互いに触れて欲しくないものを持ち、互いにそれを知っているが、不文律としてそれを口に出さない。これが思いやりと思い、互いに気持を察し、心が安らぐのであると思われます。このように、これらのサイクルでも、同じサイクルをめぐる人達同志では、自分を変えるという努力をする必要もなく、自分達の行動様式を是認し合いながらつき合う事が出来、建設的ではないが、落着けるのであると思います。

ところが、もし、健全サイクルの行動様式の人達の中へ、なまけものまたはじり貧サイクルの行動様式の人が入っていった場合、行動についてゆくことが出来ず、あれよあれよと思っている間に成果の差が出来、健全サイクルの人は「何を考えているのか理解出来ない」と次第に無視して、行動を続けることになるでしょう。一方、なまけもの等のサイクルの人は、「頭の単純な人にはついては行けない。人生の機微も分らないようでは話にもならない。我々は精神的にはより豊かで思いやりのある精神循動をしているのだ」と考え、自分の習慣の中にとどまります。しかし、心では健全サイクルの人から何か云われるのではないかと不安な状態であり、常に云い訳を考えているようなことになるのではないかと思われます。逆に、なまけものやじり貧サイクルの人達の中へ健全サイクルの人が入って行った場合はどうなるであろうか。自分の意見が皆の意見と悉く異なり、自分の考え方が間違っているのではないかとまず疑問に思い、そして自信をなくすことになるのでしょう。しかし、その後では、やはり自分のやり方が正しいと思い、健全サイクル的なやり方をするでしょう。しかし、考え方の違った人達の中にいることは不安と緊張があり、落着けないでしょう。そして、そのグループから離れることになるだろうと思います。

このように、人間は基本的には不安な緊張のある人間関係を常に避けようと行動するものではないかと思われます。従って、「類は類を呼ぶ」ということになります。行動様式それ自体は不安も緊張もないものであるが、それぞれのサイクルを廻っている人達は他のサイクルの中では不安と緊張を強いられるため、同じ社会の中で顔を合わせながら、互いに独立して分離した形で行動を取るようになります。そして、これらの行動様式が次第に習慣を形づくり、容易に変えることが出来なくなり、その人の性質として、その人を表すことになるのではないかと思います。このように、行動様式は変えることが難しいため、ある種の大きな慣性をもっていると云うことが出来ます。

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