暁烏敏賞 平成6年第1部門本文「「団七踊り」の生命力「奥州白石噺」の系譜とその思想にふれて」2

ページ番号1002624  更新日 2022年2月15日

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第10回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

2、「奥州白石噺」の成立と展開

1、史実と巷説

二人の百姓娘の仇討ちは、はたして史実なのであろうか。史実であるとすれば、それは、具体的に、いつどこで起こったどのような事件であったのだろうか。また史実でないとしたら、いつ、だれがっくりだしたのだろうか。とにかく、「奥州白石噺」の成立過程は、興味深い課題でありながら、ほとんど明らかにされていない。
これまでに、何人かの人達が、この課題に取組んだ。代表的な論者として、次の三人があげられる。

  1. 松村操編『実事諌』(明治十四二八八一年刊)「宮城野信夫の実説」
  2. 平出鏗二郎著『敵討』(明治四十三・一九一〇年刊)「陸奥国仙台白鳥明神社前姉妹の敵討」みたむらえんぎよ
  3. 三田村鳶魚著『芝居ぱなし』(大正十五・一九二六年刊)「宮城野信夫」

三人は、いずれも、世間一般に「宮城野信夫の敵討」として知られている物語が、実は実録体小説作者や浄瑠璃・歌舞伎作者たちによって大きく創作の手が加えられたものであることを指摘し、同時にこの物語のもとになった事件が享保八(一七二三)年に実際にあったことを指摘している点で共通している。
松村・平出両論文は、ほとんど史実の説明におわっているが、三田村論文は、それをふまえつつ、浄瑠璃・歌舞伎への発展過程を明らかにしょうとした労作である。しかし、三田村氏は、浄瑠璃・歌舞伎の成立・発展の過程について詳述しながら、ついに史実と芝居との間をつなぐ確かなパイプを見出すことができなかった。ただ、研究の方向として実録体小説に着目することの重要性を指摘しているのは、卓見と言わねばならない。
事件の実在の根拠としてあげられるほとんど唯一の史料が、本島知辰『月堂見聞集』に見られる次ぎの記録である。

仙台より写し来り候敵討ちの事
松平陸奥守様御家来片倉小十郎殿知行の内、足立村百姓四郎左衛門と申者、去る享保三成年、白石と申す所にて、小十郎殿剣術の師に、田辺志摩と申、知行千石取り候仁これあり候に行逢ひ、路次の供回りを破り候とて口論に及び、彼の四郎左衛門を田辺志摩打捨て申し候。此の節、四郎左衛門に二人の女子あり。姉十一歳・妹八歳。早速に領内を立退き、仙台に住居致し、陸奥守様剣術の師瀧本伝八郎殿と申す方へ姉妹共に奉公に罷り出、忍々に剣術を見習ひ、六か年の間、剣術習練致し候。
或る時、女部屋に木刀の声頻りに聞え申すに付き、伝八郎不審に存ぜられ、伺い見られ候所に、右の二女剣術稽古仕り候様子に候。伝八郎子細を尋ね申され候えば、報讐の心入り候由申し候に付き、伝八郎感心浅からず、此よりいよいよ似て修業致さ
せ、密かに秘伝申聞され候由なり、高千石、此の度御加増弐千石、瀧本伝八郎名を土佐と改む。
右の次第は、当春陸奥守様へ、彼の二人の女が寸志を遂げさせたき旨、御願い申上げられ候に付き、右敲き田辺志摩と引合され、仙台の内白鳥大明神の社前、宮の前と申す所に矢来を結ひ、当卯(享保八年)の三月、双方立合い勝負仰せ付けられ候。
仙台御家中衆、警固検分これあり候、姉と志摩と数刻討合ひ、二人替る替る相戦ひ候て、程なく志摩を袈裟切りに切付け申し候。姉走り掛かり止めをさし申し候。
殿様御機嫌斜めならず、此の女子共家中へ養女に給うべき旨仰せ出され候処、二女共に堅く御辞退申し上げ俟て御受けを申さず候。父の敲き志摩を討ち候事、元より罪遁れず候。願わくは如何様とも御仕置きに仰せ付けられ下され候様に申上げ候えなば、猶以て皆々感心いたし候。さて、瀧本氏二女に向ひ、委細に様子を申聞かせ、殊に太守の御意を違背申すべきにあらず。
某も時の主人たり。剣術の指南の恩、彼是れ以て我が申す義そむくべからずと申され候えば、漸々了簡に随ひ納得仕り候。依て御家老三万石伊達安房殿へ姉娘を引取り申され候。当年十六歳。高知らず大小路権九郎殿へ妹娘手疵養生仰せ付けられ候。
当年十三歳。
右の書付け、実否の義存ぜず候え共、仙台より写し参り候由、世間風説これあり候故、留置き候。以上

二人の娘たちの父親が無礼討ちにされたのが、享保三(一七一八)年であり、仇きを討ち果したのが、享保八(一七二三)年三月であって、時に姉十六歳、妹十三歳であったというのが、内容の骨子である。
一見してあまりに出来すぎた話であり、事実であるとはにわかに信じがたい内容であるといわざるをえない。
『月堂見聞集』は、月堂・本島知辰が、元禄十(一六九七)年から享保十九(一七三四)年に至る三十入年間にわたって、天変地異、政治や社会、出来事、行事や風俗などを詳細に記録した見聞雑録である。材料の多くは自ら実見したものであり、元禄・享保期の世態・風俗を知るための好個の史料とされているものである。(3)
ただ、この記録については、筆者自身が、「右の書付け、実否の義存ぜず候」と断っている通り、事実を確認したものでないことは明らかである。と同時に、「仙台より写し来り候由、世間風説これあり」と記述されているように、二人の百姓娘の仇討ち話が、仙台から伝わってきた風聞として世評に上っていた事は、事実として確認してよいであろう。
二女敵討ちの経過について書かれたもっとも古い文献がこのような巷説という体裁を取っていることが、史実確認の作業を困難にしている最大の原因である。
この事件そのものを実証するにたる史料は、現在のところ存在しない。この事件の実否やその内容、歴史的位置づけ等については、今後の研究にまたざるをえない。

2、実録体小説

この事件が史実として確認できるとしたら、きわめて特異な事件であったことは言うまでもない。
実否のことはともかく、この話が、「仙台女敵討ち」として、各地に喧伝され、大変な評判を呼んだことは、否定することのできない事実である。
『月堂見聞集』の記述は、享保八(一七二三)年の五月から七月の時点で、すでにそのような状況が存在したことを物語っている。
士農工商の厳重な身分制度のもとであえいでいた当時の民衆にとって、百姓の娘たちが武士の不当な仕打ちに対して公然とたたかいをいどみ、艱難辛苦の末ついに仇きを討ちとったというこの話は、胸のすくような痛快な話題であったに違いない。
それが、東北の片田舎の村で貧しい百姓の小娘たちによって引き起こされたことであれ、いやそうであればあるほど、重大事件として、民衆の口から口へと伝えられていったのであろう。
民衆のさまざまな願望や意志が付け加えられながら……。
やがてこれが、物語としての体裁をととのえて、実録体小説の形にまとめられ、「奥州白石噺」が成立する。
実録体小説とは、国文学者中村幸彦氏の定義によれば江戸時代を通じてもっぱら写本で伝わり、読者はもっぱら貸本屋を通じて鑑賞するのが常態であった小説的作品である。内容が、将軍家や大名家の秘事に関したり、時の政治向きにわたって流言蛮語的性質をもったものが多いので、刊行が許されず、写本でさえしばしば取締りの対象とされた。(4)
『奥州仙台女敵討』『奥州仙台領白石女敵討』『白石女敵討』等と題する数多くの写本が伝承されている。明和三(一七六六)年から慶応二(一八六六)年まで、明治以前の年号が明記されているものだけでも数十種を確認することができる。さまざま
な表題がつけられ、体裁もまちまちであるが、内容はほとんどまったく同じである。(5)
寛永十二(一六三五)年、片倉小十郎領奥州白石在郷逆戸村の百姓与太郎(田地十二石)が、十六歳と十三歳になる二人の娘と田の草取りをしている最中、妹娘が投げた田の草の泥水が、ちょうど通りかかった白石藩の武士志賀団七(領地二百石)の袴にかかり、父与太郎はその場で無礼討ちにされる。命からがら逃げ帰った娘たちから話を聞いた母親も、病が重って間もなく世を去ってしまう。残された姉妹は、庄屋をはじめ村人の好意で、田畑を売り払って旅に出る。江戸にのぼり、当時江戸第一の武芸者として知られた由井正雪(ゆいしょうせつ)の弟子となり、その加護のもとに五年間、姉の宮城野は鎖鎌、妹信夫は薙刀の修業をつみ、正雪のはからいによって、藩主の認許を得、寛永十七(一六四〇)年、白石の河原にはりめぐらされた竹矢来の中で、みごとに団七を討ち果す。後に、慶安四(一六五一)年、由井正雪が丸橋忠弥と共に企てた幕府転覆事件、いわゆる慶安事件に破れて打ち首となった際、仇討ちの直後に髪をきって尼となっていた姉妹は、その首をもらいうけ、駿府の弥勒町にある菩提院に葬り、その側に庵をむすんで追善供養をいとなんだ。
由井正雪のいわゆる慶安事件の顛末をつづった実録体小説が『慶安太平記』であるが、この中に「奥州白石噺」がそっくりそのままおさまっている。登場人物の名前や地名、年代はもちうん、話の筋書きや文章表現にいたるまで『奥州仙台女敵討』にまったく同じである。
幕末の写本には、「奥州白石女敵討ち発端の事、井びに同胞の娘武術修業の事」「同胞の女敵き志賀団七を討取る事、井びに同胞の者尼となる事」の二章にわけて編録されているが、『慶安太平記』の最古の写本と考えられる東京大学図書館所蔵の宝暦七(一七五七)年の写本には、「奥州仙台女敵討の事」の】章としておさめられており、表題までまったく同じである。
「奥州白石噺」のみを独立にあつかった『奥州仙台女敵討の事』と、『慶安太平記』の中に組み込まれた一章とは、まったく同じものだということが確認できる。であるとすれば、前者が後者のなかに組み込まれたか、あるいは後者の一部が独立して前者となったか、ふたつの場合が考えられよう。
前後の関係は別として、享保八(一七二三)年から数えて三十四年後の宝暦七(一七五七)年には、「奥州白石噺」が、物語としての体裁をすっかり整えて、さかんに読まれていたことが推測される。
いまだほとんど調査されていないが、『慶安太平記』と『奥州仙台女敵討』の写本類は、全国各地に膨大に残存しているのではなかろうか。
伝承されている写本は、どれも手垢で真っ黒によごれ幾人もの稚拙な筆跡でかなづけさたものが多い。多くの人たちによっ
てくりかえしくりかえし読まれたであろうことが想像される。

3、浄瑠璃・歌舞伎と浮世絵

宝暦(一七五一〜六三)・明和(一七六四〜七一)・安永(一七七二〜八○)と、「奥州白石噺」は、民衆の問に広く深く浸透していった。この人気・評判をあてこんで、やがてこの物語が浄瑠璃・歌舞伎の題材としてとりあげられ、目論見どおりの大当を取ることになる。
その最初が、紀上太郎・馬事焉馬・楊容黛合作の浄瑠璃『碁太平記白石噺』である。安永九(一七八○)年正月、江戸外記座で初演され、同じ年に歌舞伎として森田座で上演された。(代 )物語は、『慶安太平記』をもとにしながらも、時代を南北朝時代にとり、事件の筋はもちろん、登場する人名や地名等も大きく書きかえられている。逆戸村が逆井村に、与太郎が与茂作に、志賀団七が志賀台七に、由井正雪が宇治常悦にといった具合である。
由井正雪の登場する慶安事件と、楠木正成の登場する南北朝の動乱とを結びつけ、これに白石女仇討ちを組み入れるという複雑な筋だてになっているが、作者たちがもっとも意を注いだのが、二女の仇討ちの部分であったことは、「白石噺」という外題や、「姉は宮城野、妹は信夫」という角書きからも充分に察せられるところである。
第四段、百姓与茂作が代官志賀大七に手打ちにされる逆井村の「田植えの場」から、第八段、姉妹が、宇治常悦の邸内で剣術の修業をし、常悦等の助力によって大七を討ち本懐をとげる扇ヶ谷「仇討ちの場」までの五段は、ほぼ『奥州仙台女敵討』の筋にしたがって、二女の仇討ち物語として展開されている。
浄瑠璃・歌舞伎の「白石噺」が、実録体小説の内容とくらべてもっとも大きく異なる点は、父親が殺された際に、姉娘はすでに数年以前に年貢未納の貧しさを救うために江戸の吉原へ身売りされており、父母の死後、妹娘が姉を尋ねて江戸にのぼり、吉原の遊廓大黒屋で傾城となっている姉宮城野に再会し、大里屋の主人惣六の協力で仇討ちに立ち上がることになっている点である。
今をときめく評判太夫となっている姉と、奥州訛りの田舎娘ある妹が、不思議な縁にみちびかれて再会する「揚げ屋の場」は、この作品中の名場面としてもっとも人気を博した。
『碁太平記白石噺』は、明和・安永という年代に浄瑠璃・歌舞伎がもったひとつの記念碑的な作品であった。そこには、江戸・上方の町人文化が到達しえた優点がくっきりとあらわれている。
もっとも注目すべき点として、封建支配下の農民生活の貧しさ苦しさがくっきりと描きだされていることをあげなければならない。
第四段、「田植えの場」で、夫与茂作を殺された女房のお小夜は、病臥の床で嘆き悲しむ。
「過ぎし年の水損旱損、仕慣れぬ業に辛苦の迫り、未進の替りに姉娘は、
君傾城の憂き勤め、親の水牢見て居られず、孝行からの勤め奉公、やうやう
未進は納めても、納め兼ねた貧の病、さぞや娘が心にも、今日や迎ひにくる
事か、明日やとばかりに在所の空、ながめて暮さん可愛やな………」
さらに、第七段「揚げ屋の場」で、妹に再会した宮城野は、わが身の不幸を振返って慨嘆する。
「これ妹、さだめし常々母さんのお咄にも聞きやらうが、たしかそなたが
五つの年、父さんは水牢とやらのお咎め、その御難儀を救わんため、母さん
と談合の上、八年以前にこの身を売って人出に渡り、はるばるここに流れの
身。ああ思へいんがば思へば世の中に、わしほど因果な者はない。」
歌舞伎の舞台に東北の百姓娘が、東北訛りのセリフそのままで登場するこの作品は、それだけでもきわめて特異な性格をもっているが、特に過重な年貢の負担にたえられない農民が水牢に入れられ、娘が身売りされねばならない苛酷な状況を率直とろに吐露したセリフは、民衆文化としてのこの作品の性格をきわだたせる上で重要な役割をはたしている。
士無水四(一八五一)年初演の『東山桜荘子』(佐倉義民伝)にさかのぼること七十年、町人文化の代表である浄瑠璃・歌舞伎に、農民生活の苛酷な実態と民衆のなげきといかりの声が反映されていることに、この作品のもっとも重要な歴史的意義を見ることができよう。
『碁太平記白石噺』は、初演以来大評判となった。いろいろな改作も加えられながら、江戸・上方を中心にさかんに上演され、さらに全国各地に広まっていった。(7)
地方都市金沢でも、たびたび上演された記録が残されている。(8)
さて、浄瑠璃・歌舞伎の隆盛と並行して、役者たちの舞台姿を描いた浮世絵の流行を見たが、豊国・国周・国芳・国貞・芳
年・芳廉等多くの絵師たちが、『碁太平記白石噺』の役者絵に腕をふるった。
寛政六(一七九四)年五月から翌七年一月までの約十ヵ月間、すいせい江戸浮世絵界に彗星のごとくに登場し、百敷十枚の錦絵・版下とうしゅうさいしゃらく絵を残して、かき消すように消えた東洲斎写楽が、はじめて世かたきうちのりあいばなしに問うた二十八枚のうち七枚が、『敵討乗合話』の登場人物をけらずおおくびえ描いた作品であった。二十八枚の大版雲母刷りの大首絵は、写楽の全作品中もっとも優秀な芸術性の高い粒よりの作品群で、写楽の技巧の秀抜さと役者の的確な演技のとらえ方に注目されるものである。
『敵討乗合話』は、寛政六年に、江戸の桐座で初演された『碁太平記白石噺』の翻案である。
中山富三郎の宮城野、松本米三郎の信夫、二世市川高麗蔵(後の五世松本幸四郎)の志賀大七、四世松本幸四郎の肴屋五郎兵衛等七枚の大首絵には、登場人物の性格とそれを演ずる一人一人の役者たちの個性がみごとに描きわけられ、大絵師写楽の面目が躍如として息づいている。(9)
東洲斎写楽の最初の作品の題材として、宮城野・信夫が取り上げられていることは、興味深い事実である。たまたまその時期に江戸の舞台にかかっていたというだけの理由であろうか。
ちなみに、写楽の役者絵を出版した葛屋重三郎、志賀大七を演じてモデルの一人になった二世市川高麗蔵等は、『碁太平記白石噺』の作者紀上太郎・鳥亭焉馬、妓楼主大黒屋庄六、蜀山人大たなんぽ
田南畝等と密接な交友関係にあった。(10),なぞの絵師といわれる写楽の実像を解明するための何らかの手がかりがえられそうにも思われる。

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