暁烏敏賞 昭和60年第1部門本文「時間と行動そして自己」1

ページ番号1002675  更新日 2022年2月15日

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第1回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 時間と行動そして自己
  • 氏名 池田 長康
  • 年齢 53歳
  • 住所 茨城県筑波郡
  • 職業 工学博士

1、序

我々は毎日、毎日を生きており、生きてゆくためには、生の営みとしての行動を行い、毎日の瞬間瞬間を埋めています。ある人は時間を埋めるという意識は全くなく、大変忙しく残り仕事量と残り時間とを比べながら、所謂時間に追われて生きています。そうかと思えば、為すこともなく、唯ぼんやりと時間の経過を待ち、時間をつぶしつゝ生きている入もいます。しかしながら、いずれの人達も人生は短いといって嘆いています。確かに人間は死への存在であり、高々百年余りの有限の生しか生きられないことは厳然たる事実です。しかし、短い、長いはすべて基準となるべきものがあって初めて云える事です。人生は短いと云っている人の基準は何でありましょうか。我々が知り得た無限という莫大な時間に比べているのでしょうか。それならば短いのは当然であり、比較すること自体が無意味です。毎日を忙しく動き廻っている人達はもっと現実的な基準と照し合せながら、そう云っているのでしょう。しかしながら、張り合いのない毎日の生活を送っているような人達が「人生は短い」と云った場合には、本当に人生が短いのではなく死への不安が彼にそう云わしめているのではないでしょうか。このように人間が「時間が短い」と云った場合には、心理的な要素が入っていることは明らかでしょう。
また、観点を変えて、過去の時間と人間の行動としての歴史を見れば、人類は今までに生きてゆくため、極めて多様なことをやって来ております。素晴らしい文明や文化を築いて来たと同時に修羅や地獄そのものゝ戦いや争いを繰り返して来ています。
これらの個人の行いや人類の歴史から、すべての飾りや付属したものを取り除き、純粋なしかも単純なものだけにすると、人間鳳不安をいだきながら行動し時間を埋め、生きて来たということになるのではないでしょうか。
それで、この論文では、まず、人間的な時間論を述べ、次に、人間の基本的と思える行動様式について述べ、次に自分とは何かを電子計算…機との対比で考えて見る事にいたします。

2、人間的時間

生きているものはすべて、有限な時を経れば死を迎えます。しかるに、一方では、人間はこの有限な人生の何万倍、何億倍の大きい数を認識しています。そしてこの大きな数と自分の有限な人生とを無意識に比較し、人生は何と短いのであろうかと嘆いています。仏教ではこれから、仏に帰依するようにすすめております。朝に紅顔可憐な少年も夕べには白骨となることもあり、人生は無常であると。反対に、ある人達に快楽的な刹那主義へと走っております。「人生は楽しまなくちゃ。」と欲望に身を委ねています。そして、人生のたそがれが訪れると文豪ゲーテのファウストのように良心を売ってでも若返りを願うことになります。あるいは、中国の絶対君主のように家来に不老不死の妙薬を探させることにもなります。しかし、二〇〇年も三〇〇年も生き長らえたという人間は未だ聞いていません。やはり人生は有限なのです。で・も人は誰でもこの有限性を越えたい。こう書いている私自身も越えたいと願っています。古今東西の諸賢人や哲学者達はこの点について悩み、それぞれ自分なりの結論を出して、後世の人々への贈り物としたのではないでしょうか。
こゝでは、無限というものを扱った数学の集合論について少し述べ、これから導かれた結論を我々の毎日の生活、人生に適用するならば、我々の人生が如何に素晴らしい無限性をもっているかについて述べたいと思います。この集合論を開拓したのは前世紀の中頃に活躍したドイツの数学者カントールです。無限というものは有限と違って、異様と思われる性質をもっています。彼がこのことを発見した時、発表を躇賭したと云われています。
今、1、2、3、・・・・・100、・・・・・と無限に続く自然数からなる数の集りである集合を考えて見ることにします。無限に続く数の集りですから、個数は無限です。この中から、例えば、偶数だけを取って来て、新たな一つの集合を作ることにします。すなわち、2、4、6、・・・・・200、・・・・・と無限と取って来ますと、この集合も個数は無限にあります。これら二つの集合を見ますと、後の偶数だけを取った集合はもとの集合の部分であることは明らかです。しかるに、こゝで、物が同数であるといしう事はどういうことであるかを考えて見ます。りんごとみかんが同数であるということは、りんごとみかんそれぞれ一個づゝ対を作り、ちょうど過不足のない場合、りんごとみかんは同数であるということになります。この方法を無限に続く自然数とその中の偶数に適用することにします。1には2、2には4、3には6、・・・・・100には200、・・・・・対応させて対を作ってゆきます。これから、自然数の集合の中のいかなる数にも、偶数からなる集合の中に対応する数が一つあることが分かります。このように、無限というものは全体とその一部の部分とは個数が同じだけあるという奇妙な性質を持っていることが分かります。
更に、驚くべきことは、どんなに小さな部分を取っても、全体と個数が同じだけあると云うことも分かります。今、自然数を1000おきに取って来た部分集合を考えて見ることにします。そして、もとの自然数と対応させて見ます。1には1000、2には2000、3には3000、・・・・・100には100000、・・・・・とこの部分集合も自然数の中から、いかなる数を取って来ても、必ず対応する数が一つあることが分かります。1000おきにとった小さいと思われる部分集合も自然数全体の集合と個数が同じだけあることが分かります。このように、無限では、全体とそのいかなる小さい部分であっても個数が同じだけあることが分かります。
さて、次に、有限な線分の上の点と無限に長い線の上の点とは同数であることを簡単な幾何学的な図から示しましょう。図1には有限な長さの線分OAと無限に長い直線OAとをO点で接続してあります。A点から少し離れ、OXに平行な点Sを考えます。このS点から、線分OAに交わるように線を引きます。すると線分OAとはA1点で交わり、無限直線OXとはX1で交わります。これは線分OAの一点と無限直線OXの一点とが対応していることを意味します。また、無限直線OX上の任意の一点X2とS点を結べば、必ず線分OA上に対応する点A2があります。このように無限直線上の如何なる点も有限な線分OAの点と対応します。すなわち、有限な線分上の点の数と無限直線上の点の数とは常に対をなし、同数であることが分かります。これも無限というもののもつ性質の一つです。これらが集合論と呼ばれる数学の一分野における初歩的な結論の一つです。

更に驚くべき結論を集合論は引出します。直線上の点の集りと無限に広がりをもつ平面上の点の集りとは同等であることを、更に、無限に広がる三次元空間の中の点の集りとも同等であり、時間を含めた四次元空間の中の点の集りとも同等であることを明らかにしています。これまた、有限の線分と無限の広がりをもつ時間・空間とも同等であることを意味しています。カントールがこの論文を発表した時、当時の数学の大御所からは無視され、非難きれ、中々受け入れられず、後年には、カントール自身頭に異常さえきたしています。新しい概念を見付け出した者の宿命なのでしょうか。
有限の短い線分と時間を含む広大な空間とが同等である。何だか狐か狸にばかされた様な気もします。しかし、結論は真なのです。たゝ、こゝで、有限なものと無限なものとが同等であるというには一つの条件があります。すなわち、有限なものにも無限個の点の集まりを含むということが前提になっています。さて、この理論を人生というものに適用して見ましょう。人生において「無限個の集まり」に相当するものは何であるかということになります。これは難しい問題であると思いますが、私には、一瞬一瞬を充実させて生きているかどうかという生の実感そのものではないかと思います。この生の実感の中には無限の充実した生の瞬間がつまっており、切れ切れの時間の経過ではなく、分割出来ない一連の生命のいとなみがあり、無限の充実した"生点"とも呼ぶべきものがあるのではないかと思われます。従って、毎日毎日を充実して送ることが、無限の時間、全宇宙と同等の重みをもって生きていることになると思われます。
このように、人間の一生は素晴らしいものです。一生が五十年であろうが、七十年であろうが、八十年であろうが、毎日毎日を充実した生活であれば、十年や二十年の長短は問題ではありません。如何なる人間も皆生き方次第でこのような可能性をもっているのです。
更に、素晴しい救いは、今まで如何にふしだらな人生を送って来た人でも、今からでも一瞬一瞬を充実して生きれば、有限の時間は如何に短くても良い訳でありますから、今までの過去の時間は問題ではなく、すべて全宇宙と同等になることが可能なのです。しかしながら、毎日を不満と怒りで貴重な時間をつぶすのが日課という生活をしていたらどうであろうか。集合論的に云えば、有限個の点の集りからなる線分と同等の人生ということになります。当然、無限の直線と同等の人生となることなんか不可能です。無為徒食の生活からは人生の短さを嘆く毎日があるということは明白な結論です。そして来るべき死への恐怖から、何事にも手がつかず、再び、無為徒食の毎日を送ることになり、非惨な悪循環にはまり込んでしまうのではないかと思われます。
人生は有限であるのは見掛け上であり、実質的には無限と同等であるということを認識し、体得して、毎日を充実した、楽しい生活をすべきではないかと思います。レオナルド・ダ・ヴィンチは「良く過された一日が幸福な眠りをもたらすように、よく費やされた人生は幸福な死をもたらす。」と云っています。充実した人生は全宇宙と同等であり、大きな仕事をなし終えた満足感で満ちあふれるでありましょう。釈迦も来たるべき死に対し、「なすべきことはなし終えた。今や無常の理に従おう。」と云って、入滅したと伝えられています。人生という部分集合から宇宙全体の集合に帰ってゆく。ソクラテスもまた悠然と毒盃を仰ぎ死におもむいたのは有名な話です。無数の星を包含する星雲が無数に浮ぶ大宇宙と同等の偉大さをもつものとしての人間はその終りにおいてもそれにふさわしい終り方をしたいと思っています。
このように考えて来たとき思い起すことは、明治時代、日光の華厳の滝に投身自殺した一高生藤村操のことです。彼は『悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯をもって、此大をはからむとす。ホレーシオの哲学、寛に、何等のオーソリティを値いするものぞ、万有の真相は唯一言にして悉す。曰く「不可解」、我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。始めて知る大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを。』という言葉を残して、身を投げた。私は彼にこの集合論を読ませてやりたいと思いました。有限な短い人生も無限の長さ、無限の広がりをもつ空間と同等であるということを感じ取ってほしかったと思います。
このような集合論的な認識のもとに、我々の人生という時間を考えるならば、個々の人生は大宇宙と同等であり、毎日の生活で感ずる諸々の不安などは低次元の問題として消し飛んでしまうのではないかと思われます。何よりも自分で納得し、全力でぶつかる毎日、すなわち、人生を送ることが、極めて常識的な結論でありますが、人間的時間の最適な過し方ではないかと考えています。

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