暁烏敏賞 昭和62年第1部門本文「法然の信と親鸞の信について その構造上の比較」1

ページ番号1002663  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第3回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 法然の信と親鸞の信について その構造上の比較
  • 氏名 足立 幸子
  • 年齢 24歳
  • 住所 京都市北区
  • 職業 大学院生

「善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(註1)「善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや」。これは、親鸞を特徴づける思想である悪人正機説を示すものとして、あまりにも有名な『歎異抄』の中の一節である。それに比べて、法然が『消息文』中、「罪人ナホムマル、イハムや善人オヤ」(註2)といい、また、『選択本願念仏集』(以下、『選択集』という)の中でも、「重罪なほ滅す、いかにいはんや、軽罪をや」(註3)と述べているのは、類似の表現方法によるとはいえ、法然の思想を特徴づけるものとして、それほど重視されてはいない。しかし、法然が親鸞の直接の師であり、親鸞がその影響を大いに受けたということを考え合わせるならば、上掲の二人の表現の差異に注目していくことは、親鸞に於ける絶対他力の思想の特徴を理解する上で、極めて重要であるように思われる。なに故に親鸞は敢えてこのような表現方法をとったのであろうか。(もちろん『歎異抄』は親鸞自身の著作ではなく、その弟子である唯円が見聞をもとに著したものとされる作品ではあり、親鸞の言葉を正確に伝えるものかどうかという問題はあるが。)
仮定と結論をそっくりそのまま入れ替えたこの二人の文章に於ける表現の違いは、法然と親鸞の思想の違いを、そのまま表わしていると思われる。そこで親鸞は、師・法然の表現に倣いつつも、それを新たに構成し直すことによって全く異った内容を言わんとしている。いわば、自分の思想が、材料を師から継承しつつも、内容は異なるものである、という親鸞の意図をこの表現は、示しているといってよいであろう。ここで、材料とは、弥陀の願力によって衆生が救われるのだ、という"他力'の教えであり、内容とは、その"他力ノの教えをなぜ信ずるかという"信"の構造である。
法然の浄土宗及び親鸞の浄土真宗は、共に浄土門といわれ、その思想の中心をなす弥陀の願力をたのむ"他力"という点に於て、もう一方の聖道門と区別される。以下、本論では、法然と親鸞の"他力"と、"信"の構造について、それぞれ、前者はその主要著書である『選択集』及び『消息文』から、後者は『顕浄土真実数行證文類』(以下、『教行信證』という)信巻及び『歎異抄』から明らかにし、更に、親鸞が法然からいかなる点を継承し、いかなる点で更に一歩進めたかを考えていくことにする。。これは、親鸞を特徴づける思想である悪人正機説を示すものとして、あまりにも有名な『歎異抄』の中の一節である。それに比べて、(註2)法然が『消息文』中、「罪人ナホムマル、イハムや善人オヤ」といい、また、『選択本願念仏集』(以下、『選択集』という)(註3)の中でも、「重罪なほ滅す、いかにいはんや、軽罪をや」と述べているのは、類似の表現方法によるとはいえ、法然の思想を特徴づけるものとして、それほど重視されてはいない。しかし、法然が親鸞の直接の師であり、親鸞がその影響を大いに受けたということを考え合わせるならば、上掲の二人の表現の差異に注目していくことは、親鸞に於ける絶対他力の思想の特徴を理解する上で、極めて重要であるように思われる。なに故に親鸞は敢えてこのような表現方法をとったのであろうか。(もちろん『歎異抄』は親鸞自身の著作ではなく、その弟子である唯円が見聞をもとに著したものとされる作品ではあり、親鸞の言葉を正確に伝えるものかどうかという問題はあるが。)仮定と結論をそっくりそのまま入れ替えたこの二人の文章に於ける表現の違いは、法然と親鸞の思想の違いを、そのまま表わしていると思われる。そこで親鸞は、師・法然の表現に倣いつつも、それを新たに構成し直すことによって全く異った内容を言わんとしている。いわば、自分の思想が、材料を師から継承しつつも、内容は異なるものである、という親鸞の意図をこの表現は、示しているといってよいであろう。ここで、材料とは、弥陀の願力によって衆生が救われるのだ、という"他力'の教えであり、内容とは、その"他力ノの教えをなぜ信ずるかという"信"の構造である。法然の浄土宗及び親鸞の浄土真宗は、共に浄土門といわれ、その思想の中心をなす弥陀の願力をたのむ"他力"という点に於て、もう一方の聖道門と区別される。以下、本論では、法然と親鸞の"他力"と、"信"の構造について、それぞれ、前者はその主要著書である『選択集』及び『消息文』から、後者は『顕浄土真実数行證文類』(以下、『教行信證』という)信巻及び『歎異抄』から明らかにし、更に、親鸞が法然からいかなる点を継承し、いかなる点で更に一歩進めたかを考えていくことにする。

1 法然の"信"構造

法然の主著である『選択集』は、その最後の部分で述べているように(註4)、当時の政界権力者の一人である九条兼実の要請によって書かれたものである。九条兼実が仏教に深く帰依し、法然とはかなり親密な関係であったことは、『愚管抄』(註5)並びに『玉葉』(註6)から知ることができる。その兼実の要請に応えるという目的で『選択集』は、「専修念仏」を第一とする法然の思想のすべてを網羅し、なおかつわかりやすく、あたかも説法のような形をとって書きつづられており、法然の"信"構造の特徴をさぐる上で好個の著述であり、『消息文』もまた、事柄に応じて、とりわけ"他力"の意味と"信心"とについて、法然の思想の基本的立場をより明細に、遺憾なく伝えている。
『選択集』第一章「道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、しかも聖道を捨てて正しく浄土に帰するの文」、それに続く第二章「善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文」で、法然は、読誦・観察・礼拝・讃歎・供養等々数多くある行のうちから、「独り称名念仏をもって、正定の業とする」(註7)と述べて、自らの基本的な立場を明らかにしている。それは、「称名念仏」が、「かの仏の願に順ずるが故」(註8)であり、「称名念仏はこれかの仏の本願の行」(註9)だからである。このことは、
『消息文』でも、

「念仏の行はかの仏の本願の行にて候」(註10)
「イヅレノ行トイフトモ、念仏ニスギタル事ハ候ハヌ也。ソノユヘハ、念仏ハコレ弥陀ノ本願ノ行ナルガユヘナリ」(註11)

と、明確に述べられているが、『消息文』では更に、
「定散を説くことは、念仏の余善に超過たることを顕はさむがためなり。
もし定敢なくは、何ぞ念仏の特に秀でたることを顕はさむや」(註12)
と、他の諸行は単に念仏の卓越性を示すために存在するとする、いささか傲慢とも感ぜられる表現さえ見うけられる。いずれにしても、「称名念仏」が他の諸行と異なり、弥陀の本願にかなった唯一最高の行であるとするこの思想が、また『選択集』全体を貫く精神といってよいであろう。
法然は、また『選択集』第六章「末法万年の後に、余行ことごとく滅し、特り念仏を留むるの文」に、「これ即ちかの仏願に順ずるが故に、念仏一行を付属する」(註13)と述べ、第十二章「釈尊、定散の諸行を付属したまはず。ただ念仏をもって阿難に付属したまふの文」では、「念仏を付属する所以は、即ちこれ弥陀の本願の故なり」(註14)とし、更に第十四章「六方直沙の諸仏、余行を証誠したまはず、ただ念仏を証誠したまふの文」では、「念仏はこれ弥陀の本願なり、故にこれを証誠す。余行はしからず、故にこれなきなり」(註15)と説くように、『選択集』の個々の章の論理も右の大前提を基に展開されている。いま『選択集』が、彼の浄土思想の集大成であることを考え合わせれば、この前提はただ『選択集』だけでなく、法然の浄土思想全体をも貫く根幹であるということができるであろう。
法然は更に『選択集』第十六章「釈迦如来、弥陀の名号をもつて慇懃に舎利弗等に付属したまふの文」の中で、

「本願・摂取・我名・化讃、この四はこれ弥陀の選択なり。
讃歎・留教・付属、この三はこれ釈迦の選択なり。証誠は六方恒沙の諸仏の選択なり。しかれば則ち釈迦・弥陀および十方おのおの恒沙等の諸仏、同心に念仏一行を選択したまふ。余行はしからず」(註16)

と述べ、釈迦・弥陀・諸仏の延長線上に自らを置き、彼自身が「称名念仏」を正定業として捉えたことが、歴史的に見ても正統であることを裏付けようとしている。
では、なに故、弥陀が「称名念仏」を正定の業として選択したのであろうか。『選択集』第三章「弥陀如来、余行をもって往生の本願としたまわず。ただ念仏をもつて往生の本願としたまへるの文」で、法然は、「聖意測り難し、たやすく解することあたはず」(註17)と断わりながらも、その理由を、「一は勝劣の義、二は難易の義」(註18)に帰している。ここで、「勝劣の義」とは、「一切の内証の功徳」(註19)及び「一切の外用の功徳」(註20)が、「皆ことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂在」(註21)しているため、「念仏はこれ勝、余行はこれ劣」(註22)であり、また「難易の義」とは、「念仏は易きが故に一切に通」(註23)じ、「諸行は難きが故に諸機に通」(註24)じないから、弥陀は「一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて、本願としたま」(註25)うたのである。すなわち、他の諸行はいずれも修することが困難なため、それらを完全にこなすことのできる衆生の数は甚だ限られる。これに対して、誰もがたやすく修することができ、そのうえ他行に質的にも勝る「称名念仏」をもって弥陀は正定業とし、一切衆正の往生を願った、というのが「称名念仏」選択の理由、と法然は考えたのである。これはもちろん、法然自身が「称名念仏」を正定業として捉えた際の理由でもある。

「すべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く手中無一の雑修雑行を報せむや。行者よくこれを思量せよ」(註26)

という『選択集』中の「称名念仏」を勧める一文も、右の確信に基づくことは言うまでもない。
しかし、「称名念仏」をこのように捉えたために、「無智ノモノナレバコソ、念仏オバス」メタレ、有智ノ人ニハ、カナラズシモ念仏ニカギルベカラズ」(註27)あるいは、「無智ノモノナレバコソ、余行ヲセサセズ、念仏バカリオバ、法然房ハスゝメ」(註28)たとの疑問を人々に生じさせることになった。
これに対して、法然は書簡の中で、「キワメタルヒガコトニテ候也」(註29)として、

「念仏ノ行ハモトヨリ有智・無智ヲエラバズ」(註30)
「十方衆生ノタメニ、ヒロク有智・元智、有罪・元罪、善人・悪人、持戒・破戒、タフトキモイヤシキモ、男モ女モ、モシバ仏在世、モシハ仏滅後ノ近来ノ衆生、毛シバ釈迦ノ 末法万年ノノチ、三宝ミナウセテノ時ノ衆生マヂ、ミナコモリタル也」(註31)

と述べている。
しかしこの疑問は、そもそも法然が「称名念仏」をひとつの"行"として捉えることから生じた当然の帰結といえるであろう。というのは、「称名念仏」が質的にいくら他の諸行から優れているとはいえ、それを"行"として捉える限り、形式的には他の諸行と同一線上にあり、そこには、"いか程念仏を称えるか"といった、"行"につきものの"完徹の度合い"の意識が入り込むことになるからである。事実、『選択集』の中では、

「まさに知るべし。三万己上はこれ上品上生の業、三万己去は上品己下の業なり。既に念数の多少に随って品位を分別すること、これ明らけし」(註32)。

また、『消息文』でも、

「一念ナホムマル、イカニイハムや多念オヤ」(註33)
「おほく申候へば、上品にむまれ候」(註34)

と明言されている。これでは何ら聖道門の諸々の行と変わることなく、"自力性"を完全に脱却していない。ここで「称名念仏」は、勝"行"であり、易"行"に止まっている。右の人々の疑問も、まさに、この点に関しているといってよい。
加えて、「称名念仏」"行"の卓越性を謳うあまり、勢い"念仏の現世利益"、あるいは"祈念としての念仏"の働きにまで説き及ぶことになった。『選択集』では、

「聞経と念仏とは滅罪の多少不同なり」(註35)

また、

「念仏はかくの如き等の現当二世、始終の両益あり」(註36)。

更に、弘法大師の『三教論』からの引用を受けて述べた中で、

「往生の経の中に、念仏三味はこれ総持の如く、また醍醐の如し」(註37)

と述べ、また、『消息文』でも

「タゴ念仏バカリコソ、現当ノ祈祷トハナリ候へ」(註38)「カナラズ専修ノ念仏ハ現当ノイノリトナリ候也」(註39)
「御イノリノレウニモ、念仏ガメデタク候。往生要集ニモ、余行ノ中二念仏スグレタルヨシミエタリ。マタ伝教大師ノ七難消滅ノ法ニモ、念仏ヲツトムベシトミエテ候」(註40)

と記している。更に、『玉葉』の中の記述は、法然の授戒に際して九条兼実が、一種の祈願あるいは祈祷ともいえる効果を期待していたことを明らかにしている。(註41)日本の宗教改革といわれ、南都北嶺の古代仏教のあり方を批判し、これに反発する形で生まれてきた鎌倉新仏教の、先駆的役割を果たした法然ではあったが、彼の場合、前時代からの貴族性、祈祷仏教的要素が拭い切れないままに、なお色濃く残っていたことは明白である。
更に、法然の場合、他行に優るこの「称名念仏」は「ワスレズ申サセタマハゴ、往生ノ業ニバカナラズナリ候ハムズル」(註42)のであるが、それは、ただ「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えさえずればよいというものではなかった。

「フカク本願ヲ信ジテ、往生ヲネガハムコゝロヲ、三心具足ノコゝロトハ申ベキ也。マコトニコレポドノコ」ロヲダニモ具セズシテハ、イカゴ往生ホドノ大事オバトゲ候ベキ」 (註43)

とあり、つまり、「極楽に生ぜむと欲はむ人は、全く三心を具(註44)(註45)足すべき」である。というのは、コ二心はこれ行者の至要」だからである。「三心」とは、至誠心・深心・廻向発願心の三つで、これは、称える者の"気持ち、心"を考えるという点で、"信"に最も深く関わってくるものであり、法然がこれをどのように理解したかが、彼の"信"の構造を明らかにする上で極めて重要なのである。
「三心」について述べた、第八章「念仏行者は必ず三心を具足すべきの文」は、『選択集』の中で分量的にも最も多く、善導の『観経四帖疏・散善義』からの引用(親鸞が『教行信讃』信巻に引用した箇所とほぼ全編にわたり共通している)がほとんどで、彼独自の解釈はあまり見られない。ここでは、法然がほぼ善導のコ二心」に関する考えをそのまま肯定したと見てよいであろう。更に、『消息文』にいたって、若干の独自な記述が見られる。
まず「至誠心」とは、「真実の心也、その真実といふは、身にふるまひ、口にいひ、心におもはん事、みなま事の心を具すべき也。すなわちうちはむなしくして、ほかをかざる心のなきをい」(註46)い、「たゝ内心にま事の心をおこして、外相はよくもあれ、あしくもあれ、とてもかくてもあるべきにやとおぽへ」(註47)るのを、「これを至誠心と申」(註48)すのである。
また「深心」とは、「タゴトニモカクニモ、念仏シテ往生ストイフ事ヲゥタガハヌヲ、深心トハナヅケテ」(註49)、「南無阿弥陀仏と申せば、その仏のちかひにて、いかなるとがをもきらはず、一定むかへ給ふぞと、ふかくたのみて、うたがふ心のすこしもなきを申候ける」(註50)ことと述べている。すなわち、「深心」こそが、弥陀の第十八顧たる「設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国、乃至十念若不生者、不取正覚。唯除五逆誹謗正法」(註51)の誓いを中心に、弥陀の本願力を信じ、それにすがる"他力"浄土門の、最も重要な"信"の内容なのである。
法然は、この「深心」を更に二種に分つ。「はじめにはわが身の程を信じ、のちにはほとけの願を信ずる」(註52)のである。「たゝしのちの信を決定せんがために、はじめの信心をばあぐる」(註53)必要があるからである。というのは、「そのゆへは、もしはじめの信心をあげずしてハのちの信心を出したらましかば、もろもろの往生をねがはん人、たとひ本願の名号をばとなふとも、身つから心に貧欲・瞋恚等の煩悩をもおこし、身に十悪・破戒等の罪悪をもつくりたる事あらば、みだりに自ら身をひがめて、返て本願をうたがひ候ひなま」(註54)すことになるからである。つまり、自らを煩悩具足の凡夫と自覚することは、法然にとってあくまでも、窮十八願を深く雄気のない心で信ずるための"手段"にすぎないのである。
しかし、人間が何かを"信"じょうとするのは、その身を救い難いものと自覚するからではないであろうか。"信"の源泉ともいうべき意識を、単に"手段"として考えることができるのであろうか。法然では、「称名念仏」を行う際の"気持ち"のあり方を事細かに追求した結果、「称名念仏」が、"信"じょうとする"気持ち"とは別に、それとは離れて行われうる余地を見出すことになった。それははからずも再び、「称名念仏」が、ある目的のため"手段"として存在する"行"にすぎないことを、示すことになったのである。最後に、「廻向発願心」とは、「ワが所修ノ行ヲ、一向三廻向シテ往生ヲネガフコ」ロナ」(註55)のであり、「まつわが身につきて、さきの世およびこの世に、身にも口にも心にもつくりたらん功徳、みなことごとく極楽に廻向して往生をねがふ也。つぎにはわが身の功徳のみならず、こと人のなしたらん功徳をも、仏・菩薩のつくらせ給ひたらん功徳をも随喜すれば、みなわが功徳となるをもて、ことごとく極楽に廻向して往生をねがふ」(註56)ことである。ここで「廻向」とは、法然によれば二種を数える。第一は、本人自らのさまざまな善根を往生の因として「廻向」するものであり、第二は、仏・菩薩の功徳を自らに「廻向」してもらうものである。しかし、もし第一の「廻向」が存在するとすれば、それは、"自力"を本としたものではないであろうか。人間の過去(前世及び現世)の行為・行動(の効果)を、当人の未来の往生のため、利用できるとするのは、まさに"自力"信仰以外の何ものてもない。浄士門の思想の中に生き、自らの凡愚たることを自覚し、偽りのない心で弥陀の第卜八願を信じるのならば、むしろ第二の「廻向」こそが相応しい。第二の「廻向」に於て初めて、"他力"なのである。つまり、「廻向」という行為をただ弥陀のみに与えられた働き、と見、我々凡夫はそれをたのむ、としない限り、浄土思想の中心たる"他力"はあり得ない。こうして、「廻向」に関しても、甚だ柔軟に、折衷的に解釈しすぎたために、法然では、浄土門の本質である"他力"の問題が、甚だ不徹底という結果が生じてきた。
以上、『選択集』(特にその私釈の部分)及び『消息文』,の内容から、法然の思想の基本的立場を概観した。ここで、法然の思想的立場に関して極めて顕著なことは、彼が「称名念仏」の最勝と、その専修を力説しながらも、あるいは彼の穏和な性格からか、あるいはまた少年時代の不運な記憶、あるいは往時、宗教界の中で彼が置かれていた困難な状況によるものか、彼が観念的な操作の間にも、しばしば垣間見せた、現実との妥協的、折衷的な態度である。この一種不徹底は、法然の"信"の構造にも、当然、その影を落とさずにはおかなかった。
既に、繰り返し述べてきたように、法然は「称名念仏」を他の諸々の行と同様、ひとつの"行"として捉えている。このことは、各人各人が「称名念仏」を、"いかに、なに故称えるか'という"自力"的な側面があることを意味しているといえるであろう。"いかに"−"どのくらい完全に"という場合、"完全に称える"という行為が重要なのであって、称えるに至るまでの、いわば、称えずにはおられない"気持ち"は問題にならない。また、"なに故"−"いかなる気持ちで"という場合、「三心を具足すべし」の言葉が示すように、"気持ち"のあり方を、往生のための"手段"として捉えている。要するに、法然にとって「称名念仏」は、弥陀の本願に対立し、かっこれを獲得する最勝の行為と考えられているといってよい。「称名念仏」という行為が最勝、第一義とすれば、これを修するものは、行為の劣った悪人・罪人たちよりも遥か優位に立つ。悪人.罪人さえも往生させる程、慈悲深く、大きな力を持つ弥陀の本願をめぐって、「罪人ナホムマル、イハムや善人オヤ」という言葉の発せられる所以である。
要するに、法然の"信"は、行為が先行し、"信"がそれに追随するものであった、ということができるであろう。

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