暁烏敏賞 昭和62年第1部門本文「法然の信と親鸞の信について その構造上の比較」2

ページ番号1002664  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第3回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

2 親鸞の"信"構造

親鸞の思想の集大成である『教行信讃』は、『選択集』と同様、経典及び数多くの先哲の著書からの引用とそれに対する私釈、という形をとっている。私釈の部分は量的には非常に少ないが、親鸞自身の考え方を見るのに大変重要である。ここでは、特に『教行信讃』信巻及び『歎異抄』を基に、先の法然の思想と対比しつつ、親鸞の思想の基本的立場と"信"の特徴を明らかにしたいと思う。
まず、法然が最勝として専修を勧めた「称名念仏」を、親鸞はどのように捉えたであろうか。『歎異抄』には、次の}文を伝えている。

「念仏は行者のため[に」、非行非善なり。我はからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。我はからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに、行者のためには非行非善なり」(註57)。

法然が明らかに「称名念仏」を"行"としてとらえているのに対して、親驚はそれを全く否定する立場に立つ。親鸞にとって、「称名念仏」は、「我はからひ」を超えたところにあるものなのであり、いわば、"言はるる(「雪ふ」の未然形+自発の助動詞「る」の連体形)"ものなのである。

「わがちからにてはげむ善にてもさふらはばこそ、念佛を廻向して・父母にもたすけさふらはめ」(註58)
「如来の至心をもて、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に廻旋したまへり」(註59)
「如来苦悩の群生海を悲憐して、無礙廣大の浄信をもて、諸有海に廻旋したまへり」 (註60)
「大小凡聖定散自力の廻向にあらず。かるがゆへに『不廻向』となつくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流韓し生死海に漂没して、真実の廻向心なし。このゆへに、如来、一切苦悩の群生海を務哀して、菩薩の行じたまふしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も廻向心を首としで大悲心を成就することをえたまへるがゆへに、利他真実の欲生心をもて諸有海に廻旋したまへり」(註61)。

法然がいうように、「称名念仏」を往生を得るための"手段"として、「はからひ」をもって称える限り、他の諸々の"行"と同様、それは、あくまでも"自力"である。親鸞はそのような衆生の"自力"を徹底的に否定し続け、その行き着いた先に、"自力"を超えた大きな"働き"、"力"−"他力"を見出した。「廻向」とは、我々凡夫の一切なし得ざることであり、ただ仏.菩薩にのみ与えられた働きである。この点でも、法然がとらえた二種の「廻向」の立場とは異なっているといえよう。
また、「廻向発願心」を含む「三心」に関しても、親鸞と法然は善導の『観経四帖疏・散書義』からほぼ同様の箇所を引用しつつ、しかも、法然が「廻向」に対する二種の理解の根拠としていると思われる箇所を、親鸞は敢えて省いている。(註62)ここにも親鸞の徹底した"自力"を拒否する姿勢がうかがい知られる。

「廻向発願心と言ふは、過去および今生の身・口・意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡聖の身・口・意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他の所修の善根をもつて、ことごとく皆真実の深信の心の中に廻向して、かの国に生ぜむと発願す。故に廻向発願心と名づくるなり」(註63)。

ここに於てこそ、初めて親鸞は、

「念佛は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん。また地獄に、をつべき業にてやはんべるらん。惣じてもて存知せざるなり」(註64)

と言うことができたのであろう。自らの「はからひ」を離れ、「称名念仏」を往生のための"手段"と見ない純粋に"他力"の立場に立つがゆえに、その結果とも言うべき"往生するか否か"さえ、すべて弥陀の「はからひ」により、我々自身の関与するところではない。浄土に行くか、地獄に堕ちるか、"与かり知る"ことができないところに"他力"の本質があるのである。
では、何が人をして"念仏を言わしむ"のであろうか。"言わずにはおられない念仏"の根拠は、いったい何であろうか。自己への妥協なき省察、徹底した内省、「無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流韓し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて清浄の信楽なし。法雨として真実の信楽な」(註65)き身と自覚することが、その根拠であると、親鸞は考える。そして、人が、自らを真に煩悩具足の凡夫と認識する時、弥陀の誓願は、初めて燦然と輝き出すのである。

「一切の群生海、無始よりこのかた、乃至今日今時にみたるまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。虚假諂偽にして真実の心なし。ここをもて、如来一切苦悩の衆生海を悲憤して」(註66)
「難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓をたのみ、利他の信海に帰すれば、これを衿哀して治す。これを憐憫して療したまふ」(註67)
「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるを哀たまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成佛のためならば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり」(註68)。

人は、自らを流転の凡夫であると認識した時に、初めて純粋に弥陀の願力にすがろうという"気持ち"、弥陀の誓願を信ぜざるを得ない"気持ち"が生じてくる。弥陀はそのような救いようのない凡夫たちをこそ救おう、という誓願をたてたからである。自らを凡愚なる身と認識しないうちは、人は、弥陀の願力に乗ろうとはしないであろうし、また、乗ることもできない。自らを凡愚であると思わない高慢の前に、弥陀の本願は無用だからである。
「自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころがけたるあひだ、弥陀の本願にあらず、しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」(註69)。
自らの力では、とうてい往生できないという自覚に基づく純粋な"他力"への転換、弥陀の願力にすがるという"絶対帰依"の立場が、親鸞をして、「悪人、もとも往生の正因なり」と言わせ、悪人が救われずしてなぜ善人が救われることがあろうか、というかの"悪人正機説"の契機となるのである。そして、自らを凡夫と認め、弥陀の願力にすがる、という"気持ち"の延長線上に、"言わずにはおられない念仏"が存在するのである。「称名念仏」が、「我はからひ」を超えて「言わるる」ものである限り、親鸞では、法然の場合のように、「称名念仏」の際の「三心」具足という規定は一切生じてこない。親鸞にとって、"信"じょうとする"気持ち"、"信"じる"気持ち"の伴わない「称名念仏」が行われる可能性は全く考えられないからである。

「真実の信心はかならず名號を具す。名號はかならずしも願力の信心を具せざるなり」(註70)。

法然との違いを端的に表わしている一文である。「真実の信心はかならず名號を具す」は、親鸞自身の考えを表わし、「名號はかならずしも願力の信心を具せざるなり」は、法然の考えを指摘批判しているのである。
「称名念仏」は"行"ではない。従って、親鸞は、法然の場合のように、「称名念仏」の回数を問題にしておらず、そこから派生する、「称名念仏」の回数による上品」中品・下品の往生の違いも説いていない。

「それ真実信楽を按ずるに、信楽に「念あり。一念は、これ信楽開発の時剋の極促を あらはし、広大難思の疑心をあらはすなり」(註71)
「『一念』といふは、信心二心なきゆへに『一念』といふ」(註72)
「大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだにすみやかにとく無上殊勝の願を超発す」(註73)
「臨終一念のいふべ、大般涅槃を超讃す」(註74)。

さらに、『浄土文類聚紗』から、

「『一念』といふは、すなわちこれ専念」(註75)
「また『乃至一念』といふは、これさらに観相功徳偏数等の一念をいふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について『乃至一念』といふなり」。(註76)

ここで、「一念」は、回数としての"一"でなく、心を統一するという意味での"一"であると親鸞は理解する。ここでもまた、法然との差異は明白である。
以上の考察を基にする時、『教行信讃』の次の二文は、親鸞が自らを卑下し、徒に謙遜するのではなく、むしろ、暗に浄土門"他力"とは、本来いかなるものかを身をもって証明する、自信に溢れた言葉として響いてくる。

「たとひ法然上人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、白鯨の行もはげみて、佛になりべかりける身が、念佛をまうして、地獄にもおちてさふらはばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔もさふらはめ。いつれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(註77)
「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚のかずにいることをたのしまざることを。はづべし、いたむべし」(註78)。

更に、

「念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜の心おろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯圓房おなじこころにてありけり」(註79)。

自らを、凡愚であり、煩悩に汚された身であるとする親鸞の自覚は、彼の妥協のない、徹底した自己内省の深さをうかがわせるに十分であろう。
以上、『教行信謹』信巻及び『歎異抄』から、前章に於て問題となったいくつかの点について、親鸞が、法然とは異なった考え方を打ち出していることが認められる。この際、親鸞のその思想を根底で支えているのが、彼の徹底した自己内省に基づく純粋な"他力"の立場にあることは明らかである。
親鸞の"信"構造に於てその出発点となったのは、"自力"の否定と、それを超えたものとしての"他力"である。すなわち、"自力"を認めるがゆえにもたらされる"手段"としての「称名念仏」、"行"としての「称名念仏」を否定し、「称名念仏」は、「我はからひ」を超えた「言はるる」ものである、と親鸞は捉えたのである。つまり、偽ることのない確かな自己内省によって、自らを凡愚なる身であると認識し、そのような自己が助かるには、そういった衆生を救うためにこそ、願をたてた弥陀の力にすがるしかない、という切迫した"気持ち"が、"念仏を称える"という"行為"を惹き起こすのである。親鸞によれば、"気持ち"が切実でない限り、「称名念仏」の行為がおこることはない。ここで、「称名念仏」には、法然が言うような、「三心」を具足しているか否かの問題など生じえない。親鸞に於ては、弥陀の本願力を"信"じるか否かは、自分自身の"凡夫性"を妥協なく自覚するか否か、いわば、この自覚の基となる真摯な自己内省があるか否かにかかってくるのである。ゆえに、浄土門として、"他力"にすがるならば、"悪人"でなければならないはずである、という"悪人正機説"は、今や、当然の帰結であろう。「称名念仏」が、"悪人正機"でない限り、それは"自力"であり、"行"でしかありえないのである。

こうして、親鸞の"信"は、法然の"信"が、行為が先行し、それに"信"が追随する、というものであったのに対し、"信"が先行し、それに行為が追随する、という全く正反対の方向をもつものとして特徴づけることができるであろう。

3 結び

序に於て、親鸞の思想は、法然の思想から材料は継承しつつも、そこにできあがった内容、すなわち"信"の構造のあり方は全く異なるのではないか、という疑問を提示した。今このように、それぞれ二人の"信"構造を比較してみると、そこには明らかな相違が見られる。すなわち、親鸞の"信"構造の方が、より純粋な形で、浄土門の思想を反映しているといえる。
法然も、親鸞も、ともに浄土門という"他力"の立場に立ち、弥陀の本願力にひたすらすがろうとし、更に、読誦でも、観察でも、礼拝でも、讃歎でも、供養でもない「称名念仏」を最重要視した限り、全く同一である。つまり、"信"構造の内容を形づくる材料は、二人に共通している。しかし、法然は、"他力"であるはずの「称名念仏」に、"自力"を介在させ、それを"信"の出発点としたために、そこからいくつかの矛盾点が露呈することになった。親鸞は、"他力""絶対帰依"を徹底し、一貫して"他力"の立場に立つことによって、それらの矛克服することに成功したのである。
知恵第一といわれる法然が、"自力"を斥け、"他力"を選びとった過程にある意識は、修行を成就したという自己への確信と、自己以外のより多くの人々が救われるべき仏法としての"易行"−「称名念仏」の要請であろう。従って、そこには、"自力"を依りどころとする自己への、徹底した反省はなされていない。"他力"浄土門への法然の不徹底さは、ここにも起因する。これに対し、親鸞は、ただひたすらに自らを反省し、自己を"凡夫"として意識する。このような自己認識から出発して、他でもない、自らが救われる道、自らのための道を求め、"他力"を選びとったのである。この二人の意識の違いから、"信"の構造の違いが生じている。
親鸞が師・法然に対して、多大な人間的魅力を感じていたことは、『歎異抄』の一文からも、うかがい知ることができる。

「親鸞にを[き]てはただ念沸して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰をかふむりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(註80)。

親鸞は、"他力"への縁を導いた法然という一人の師に、純化された自らの信仰を投影しつつ、他方では、その不徹底な現実の姿を、自らの視野から排除しようとしていたのかもしれない。とも角、"他力"浄土門の思想・教義という点に関する限り、親鸞は師に真っ向から対立する自らの考えを打ち出した、と言って差支えない。

「善人なをもちて往生をとぐ。いはんや悪人をや」(註1)

という一文が、それを如実に表わしている。親鸞が、師・法然の

「罪人ナホムマル、イハンや善人オヤ」(註2)

という表現を、敢えて換骨奪胎した背後には、ある種の批判精神が読みとれるからである。
こうすることによって、親鸞は実際には不徹底であった法然の浄土門を一段と純化することに成功したのである。そして、この点にこそ、親鸞存在の大きな意義があるといえよう。

(註)

文献Iは、
『法然・一遍』(大橋俊雄編)日本思想大系10(東京・岩波書店昭和四十六年)

文献IIは、
『親鸞著作全集』金子大栄編(京都・法蔵館昭和三十九年)をそれぞれ示す。

  1. 文献II:P.676参照
  2. 文献I:P.169参照
  3. 文献I:P.141参照
  4. 文献I:P.162参照に次の記述がある。
    「しかるに今、図らざる仰せを蒙る。辞謝するに地なし。よって今憖ひに念仏の要文を集めて、あまつさへ念佛の要義を述ぶ。・・・・」
  5. 慈円『愚管抄』(岡見正雄・赤松俊秀共編)日本古典文学大系86(東京・岩波書店 昭和四十二年 P.296に次の記述がある。
    「サテ九条殿ハ、念佛ノ事ヲ法然上人ススメ申シヲバ信ジテ、ソレヲ戒師ニテ出家ナドセラレニシカバ……」
  6. 九条兼実『玉葉』に於ける、法然についての記述個所を表示すると次のようになる。ただし表中の算用数字は、『玉葉』国書刊行会編(東京・国書刊行会 明治四十年)第三巻のページ数を示す。
年月日 記述内容
文治5年8月1日 今日請法然房之聖人、談怯文語及往生業,(550)
文治5年8月8日 辰刻、法然聖人来授戒、(551)
建久11年7年23日 午刻、先請然坊源空上人受戒、(620)
建久2年7月28日 早旦向九條堂、為受戒也、請源空上人受乏、(723)
建久2年8月21日 請法然房源空上人、受戒了、(723)
建久2年9月29日 此日、請法然房上人源空、中宮有御受戒事、(731)
建久2年10月6日 今日又有受戒事、法然房、(732)
建久3年8月8日 午刻、請源空上人受戒、(808)
建久8年3月20日 今日、請法然房受戒、(930)
正治2年9月30日 女房、今日殊大事發、仍請法然房、令授戒、(944)
  1. 文献I:P.95参照
  2. 文献I:P.95参照
  3. 文献I:P.95参照
  4. 文献I:P.166参照
  5. 文献I:P.174参照
  6. 文献I:P.148参照
  7. 文献I:P.119参照
  8. 文献I:P.150参照
  9. 文献I:P.153参照
  10. 文献I:P.157参照
  11. 文献I:P.105参照
  12. 文献I:P.105参照
  13. 文献I:P.105参照
  14. 文献I:P.105参照
  15. 文献I:P.105参照
  16. 文献I:P.105参照
  17. 文献I:P.106参照
  18. 文献I:P.106参照
  19. 文献I:P.106参照
  20. 文献I:P.100参照
  21. 文献I:P.169参照
  22. 文献I:P.189参照
  23. 文献I:P.189参照
  24. 文献I:P.189参照
  25. 文献I:P.170参照
  26. 文献I:P.115参照
  27. 文献I:P.169参照
  28. 文献I:P.220参照
  29. 文献I:P.137参照
  30. 文献I:P.142参照
  31. 文献I:P.141参照
  32. 文献I:P.189参照
  33. 文献I:P.193参照
  34. 文献I:P.194参照
  35. 九条兼実国書刊行会編(東京・国書刊行会明治四十年)第三巻P944に、「卅日、癸未女房、今日殊大事發、仍請法然房、令授戒、ニヘニ 者共験、尤可貴々々、又渡邪氣之後、柳落居、成圓祈之、二一レ二一レ十月小一日、甲申及晩、女房温氣散畢、爲悦、今日猶受戒、自レレ込.日葉動法、蹉招慰二日、乙酉今日、又更獲、太以重悩、今日猶受戒、」とあり、この記述から、兼実が受戒に対して一種祈願とも受けとれる心情を抱いていたことが読みとれる。しかし、法然自身、授戒に対してどのように考えていたかについては、浄土教の立場からのみならず、戒律の立場から、更に詳しく研究、検討することが必要であろう。
  36. 文献I:P.172参照
  37. 文献I:P.183参照
  38. 文献I:P.132参照
  39. 文献I:P.132参照
  40. 文献I:P.211参照
  41. 文献I:P.213参照
  42. 文献I:P.213参照
  43. 文献I:P.182参照
  44. 文献I:P.214参照
  45. 『真宗聖教全書一・三教七祖部』真宗聖教全書編纂所編 (京都・興教書院 昭和三十二年)P.9参照
  46. 文献I:P.213参照
  47. 文献I:P.213参照
  48. 文献I:P.213参照
  49. 文献I:P.182参照
  50. 文献I:P.216参照
  51. 文献II:P.678参照
  52. 文献II:P.677参照
  53. 文献II:P.106参照
  54. 文献II:P.110参照
  55. 文献II:P.116参照
  56. 『真宗聖教全書一・三教七祖部』真宗聖教全書編纂所編 (京都・興教書院昭和三十二年)P.9参照
  57. 文献I:P.127参照
  58. 文献II:P.674参照
  59. 文献II:P.109参照
  60. 文献II:P.106参照
  61. 文献II:P.167参照
  62. 文献II:P.676参照
  63. 文献II:P.676参照
  64. 文献II:P.119参照
  65. 文献II:P.123参照
  66. 文献II:P.124参照
  67. 文献II:P.128参照
  68. 文献II:P.138参照
  69. 文献II:P.346参照
  70. 文献II:P.346参照
  71. 文献II:P.675参照
  72. 文献II:P.139参照
  73. 文献II:P.678参照
  74. 文献II:P.674参照

本論文中で使用した文献は次のものである。

『選択本願念仏集』
(大橋俊雄編『法然・一遍』日本思想大系10 東京岩波書店昭和四十六年 P.87〜162)
『消息文』
(同右P.165〜229)
『顕浄土真実数行護文類』
(金子大栄編『親鸞著作全集』京都・法蔵館 昭和三十九年P.10〜342)
『歎異抄』
(同右P.673〜697)

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