暁烏敏賞 平成元年第1部門本文「我は此の如く如来を信ず 清澤満之先生の信仰について」1

ページ番号1002652  更新日 2022年2月15日

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第5回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 「我は此の如く如来を信ず」 清澤満之先生の信仰について
  • 氏名 深澤 助雄
  • 年齢 44歳
  • 住所 新潟県西蒲原郡
  • 職業 大学助教授

論文概要

清澤先生は、その門下から、曽我量深、暁鳥敏両師を筆頭として多くの卓れた門下生を輩出したが、曽我、暁鳥というきわあて個性的な、しかも傑出した学僧であるとともに思想家でもあった両人がその晩年に至るまで、常に清澤師の教導にしたがって思索を展開したことは、単なる師弟愛とか、或いは学派の継承といった次元を超えて、何か本質的なものが作用していた為であると考えられる。それは一つには、何よりも清澤師の求道者としての姿勢がほんものであったからであり、次いで第二にはその信仰体験が限りなく深かったからであると思われる。もしそうでなければ、四十歳で亡くなった師の思想を七十歳を超えた暁鳥師や、九十数歳の曽我師が攻究の対象とすることはなかったであろう。
小論は、清澤師の深い信仰体験を主としてその著作の中から、探ることをめざしているが、西洋哲学の研究者としても卓越した業績を残した師の哲学的素養にも十分に配慮しつつ、信仰に向かう心と、あくまでも理知を究めようとする知性の角逐が、師の信仰をして余人の追随を許さない独自な深みへと推し進あて行く経緯を解明する。行論はまず、師が主観一客観の分離対立といった問題をどのようにとらえ、如何にして自覚のパラドックスを克服したかを綿密にあとづけ、師がその過程で「無限」に逢着し、その独創的な無限観を形成する経緯を解明する。次いで師独自の平等観の成立を探り、師の立論の根底にあった万物一体の信念が僧肇以来の万物一体論とはどのように相違するかを解明して、絶対無限の本体としての阿弥陀仏に出会うさまを明らかにする。そして最後にその比類なき信念の確立を「我如来を信ずるがゆゑに如来在ます也」という領解の解釈によって明示する。師の信仰が浄土他力門の信仰の究極の在り方を示すものであるということを確信して小稿をまとあた次第である。

はじめに

清澤先生(以下・師と略す)の遺された文章をひもといていて、そこに感じられることは、その体験のちょっと類を見ない独自さであり、これをおし進あた深さである。たとえば次のような文章がある。
「吾人は如何にして虜世の完全なる立脚地を獲得すべきや、蓋し絶対無限者によるの外あらざるべし。此の如き無限者の吾人精神内にあるか、精神外にあるかは吾人一偏にこれを断言するの要を認めず。何となれば彼の絶対無限者は之を求むる人の之に接するところにあり、内とも限るべからず、外とも限るべからざればなり」(「精神主義」岩波文庫十六ページ法蔵館版「文集」二ページ以下引用にあたっては、岩波文庫版と法蔵館版とを上・下に並記す)。

右の引用文末尾の「内とも限るべからず、外とも限るべからざるなり」という言葉は、なにげなく言われているように見えながら、実は読む者をして驚倒せしめる一言である。というのも最高の実在を追い求める人は、その長途の旅に於いて、これが主観的なものであるか、それとも客観的な存在であるかという問いに一再ならずまきこまれるのが常であるが、師のこの一言は、内外の如何を捨象することによって主観か客観かという二者択一的な問いを無用ならしめているからである。我々はものの本質を尋ねるにあたって、そのありかを自己一心の主観のうちに求むべきか、はたまた個々人の主観の埒内を超えて実在する客観のうちに確証すべきかという問いをまず立て、実在を客観のうちに立証すべしという公認のうながしに使嗾されて、探索にのりだすのがならいであるが、ここには近代四百年の学問を存立させてきた客観主義の主張が暗黙の裡にはたらいていると言ってよい。これにあきたらぬ人々がいても、彼らは自らの見解を独断として遠慮がちに、あるいは卑下しつつ提示するか、過激な主観主義といいつつ韜晦するだけである。ともあれ、ことがらを主観か客観かという二者択一の枠内に於いてとらえようとする発想は、近代のおおむねの学者研究者にあっては牢固として抜きがたい固定観念であり、否それどころかこの枠組を取り去ってしまったならば彼らの研究そのものが一歩たりとも進むことができないといった性格のものなのである。従かってこういつた状況に在って、「彼の絶対無限者は之を求むる人の之に接するところに在り」と言った言葉に出会うとき、師の主張がいかに斬新なひびきをもって我々に迫ってくるかは明らかであろう。ここには主客対立図式とは違ったかたちでの思惟の展開を暗示するものが潜んでいるのである。今でこそ我々は、主観客観という思考の図式や、主体客体論争といったものは近代ヨーロッパという時空的に限定された一つの世界に通用した認識論と学問観の所産にすぎぬという事実に気づき、その特殊性を相対化できるが、この見地に立つことができるようになるには、ヨーロッパ文明受容以来、実に一世紀以上の歳月の経過を必要としたのである。明治期の最も傑出した頭脳であり、且つヨーロッパ哲学の研究者としても卓越した業績を残した清澤師のこうした発言は、今ようやくその深い意味をうかがわせ始あたのではなかろうか。ともあれ師の言説は、ヨーロッパ文明受容の日なお浅い明治中葉のそれであったからといって、いささかもその価値を減殺されるものでないことは、今に残る数多くの論述を一読すれば明らかである。そこに示されている西欧哲学の理解は透徹して、非常な高水準にあり、又、主客という語の使い方一つをとってみてもその適確さにはなんら疑いをさしはさむ余地はない。したがって我々は、師の生きた時代の中での師の発言を検討するという視点よりも、むしろ時代に卓絶した見解を生み出したその思惟の根幹をつきとあることに重点を置きたいと思うのである。師の「精神主義」論稿はその実体験、つまり彼自身のいわゆる実験の深さによって読む者に迫ってくるが、我々はこの実験がどれだけのひろがりをもち、どういふ経緯をふまえてその信仰、彼のいわゆる信念を形成していったかを順次たどってみたいと考えている。資質としてはより多く自力の人であり、よく不断の苦錬修行によって自らを鍛えた師のうちでその強固な自我がくだけてゆくさまは一種無残な感じを覚えさせるものがあるが、崩れた自身の廃墟の直中で、絶対無限の他力の信順に一切を委ねるまでに自己を放下し切ったこの人の魂の遍歴には、信に生きる人の普遍の姿を暗示するものがある。小論は、師の信仰がかたちつくられて行くさまを、主としてその「精神主義」論稿のうちに探りながら、これが我々の精神の糧ともなることを願いつつ、綴られるものである。

1、内観による精神主義の確立

主観に対立する客観、あるいは客体をとらえる主体という主客対立図式へのこだわりを清澤師はどのようにして超えていったかを最初に見ることにしよう。
さて主観が自己の外にある対象を知ろうとするとき、知る主観と知られる客観は截然と区別されている。自己と自己の外にあるものとが区別されるのは当然だからである。そして知るということを、このように外物を知る次元にとどあるならば、主客の分離についての疑いは生じようがない。常識の立場はこの範囲内に思考をかぎっており、この常識にしたがうのが、自他の区別をわきまえる分別心である。学問研究といえどもその多くがこういった分別によって進あられていることは言うまでもない。我々はよほどのことがないかぎり、主客の分離という枠組に安住し、分別をはたらかして生きている。というよりもむしろ我々の日常的な思考、計算、勘違いというものは主客の分離の上に立ったこういう分別なしには為され得ないのである。
ところがそれでは、我々を安住させているかに見えるこの主客の分離対立というものは確固不抜の原理であるかと言えば、必ずしもそうとは言えず、実は意外にもろい一面をのぞかせることがある。早い話が、数々の貴重な学術的成果を獲ち得た科学者でも、もし一旦、今ここで研究を進あている私とは何なのかという疑問にとらわれたが最後、彼にとっても主客分離というこの一見明瞭な枠組はきわめてあやふやなものと化してしまうのである。
自己とは何ぞや、という問いを立てたとする。(師曰く、「何ものかこれ自己なるや。」「膿扇記」二百十九ページ「全集」七、四百六十ページ)。常識の立場からすれば、ここで問う自己は主観であり、問われる自己は客観である。しかし、この主観と客観は、ここではっきりと明別されうるものであろうか。「自己とは何か」として問われている対象は、自己であるが、これを問う主体も自己であるとすれば、ここでは問う主観11自己"問われる客観となり、主観と客観は重なりあうことになる。問う主体と問われる客体は分離できないのである。
ところで問う自己=問われる自己、あるいは同じことであるが、問う私闘問われる私というかたちで主客が分離できなくなるケースを我々が体験するのは、自覚というケースに際会してである。ただ通常は、自覚、つまり「己を知る」ということは、多くの人にとっては単に「分をわきまえる」程度のことで落着し、やや変り者にあっても青年期特有のアイデンティティi、クライシスとして一過性の悩みにされてしまうから、自覚の重要性は見落される。しかし稀に極く少数の人にとっては、これは生死を別つほどの苦しい課題となることがある。「山僧往日、未だ見処有らざりし時、黒漫漫地なりき」(「臨済録」)がそれである。ともあれ、この分離できない主客の葛藤にまきこまれたとき、人はこの迷路を逃がれようとして非常な苦しみをなめることになる。清澤師の直筆の論説のなかに、このことについて直接に言及するものはないが、師自身がほぼこれに近い体験をしたことは、「有限無限録」や「臆扇記」の記述からも推測することができる。さらに又、絶対他力の信仰の境地を開いたこの人の自力の行者にまがうような修養体験と、理知的に自己規律をきわめようとするこだわりの強さは、師が若き日に陥ちこんだ主客混沌の境界に於ける悪戦苦闘のすさまじさを、間接的ながらも十分にうらづけるものとなっている。このことは師が覚えた危機感の内実を一顧してみれば納得できよう。つまり、常識の立場では主客が截然と分離され、この分離を受けて自他の分別が見定あられて自律的倫理が成立する。倫理上の徳目がすべてこのような性格のものであることは自明であり、道徳的秩序がこの分別をふまえていることも言うまでもない。ところが主客の境界が不分明であるとすれば、自他の分別もあやふやになってゆき、人が幼時から培ってきた自律的信念は危殆に瀕することになる。これが分別のない状態につながり、人格の崩壊へと進みかねないものであることは容易に察知されよう。そしてこの種の信念の危機は、理知的性格の人に於いてはより深刻であり、しかもそれは倫理的責任意識が強烈な人であればあるほど苛酷なものとなってくるのである。清澤師のケースがまさにこういうものであったことは、彼の身近にいた人々の回想の記事からもほぼ想像できるのである。
今日ならば、自覚の精神病理とでもいった観点から、臨床的処方が下されるかもしれないこういった危機は、宗教人にあっては、小我が砕ける過程として後になってから回想されてくるものである。清澤師の場合、この小我のくだけ方と、そのあとのよみがえりがどのような段階を踏んでいったのかは、実はよくわからない。だが話をさきほどの自覚の問題にもう一度ひきつけてみるならば、いささか明確になってくるものもあるので、若干推測にわたることもまじえつつ、理知的タイプの人が主客混沌の葛藤から、如何にして脱出し、この過程で何を体得するかを明らかにしてみたい。
さて自我の働きとは意識することである。そこでこの「自我(の働き)とは何か」を問おうとすれば、この問いそのものが意識の働きであるから、問われるもの(自我のはたらき)が問う作用(自我のはたらき)と同一であることになる。つまり「意識の働きである自我とは何か」という問い自体が、意識の働きであるから、この問いは「問いを問う問い」となってしまう。
ここにはあたかも右手が右手で右手をつかまえようとするのにも似た事態が生じてくるのである。
右に記したやや錯雑した経緯は、ある地域にいてその地域と同じ大きさの、つまり実物大の地図を書き上げるといった事態を想定してみるとかなり理解し易くなるかも知れない。たとえば東京にいて、東京の実物大の地図を書く。そうするとこの地図が書きあげられた時にはもとの東京と同じ大きさの東京が、東京の中に出現することになるから、又地図を書き加えなければならない……このようなわけで、この地図製作は決着をみることがないが、自己自身を問うという行為にも、実にこの地図製作に似た事情が纏綿している。(この比喩については西田博士「自覚に於ける直観と反省」第一節を参照)ともあれ、ここに見た自覚のパラドックスについての解釈や考え方は、それ自体きわあて興味深いものがあり、たとえば、「起債論」の雑言眞如をはじあとして幾つかの注目すべきとりくみ方があるが、ここではその一つ一つをとりあげ検討することは控え、ただその意義を指摘するにとどあたい。それは無限への視線とでもいうべきものにかかわる。
自覚の問題をつきつあて、右の地図製作の比喩でとらえられるようなケースに逢着した時、人はある奇異な感じに打たれる。それは「(問われる)自己を問う自己」が、又「問われる自己」となるという事態を見つあているうちに、この過程が実は無限の系列になることが知られるからである。人はまさにここで、自己の内なる無限へと目を転ずるきっかけを得るのである。つまり、自覚のいとなみは、これを喩えるに、向いあうかたちで並べられた二つの鏡の間に一本の蝋燭を置いた時、焔が相互に映発されて重々無尽の状を呈するに至るのと軌を一にしている。自己の内へと不断に沈潜して行く者は、このようにして自己の内なる無限に遭遇することになる。
この自覚のいとなみ、乃至は自己内部への沈潜は、清澤師に於いては、そのいわゆる内観によっておしすすあられている。
自覚とはすべからく内観である。そしてこのような内観の場に身をおくことを得た時、師は、無限に出会ったのである。それは自己を問うということに於いて、決して対象化され得ない自己意識のいとなみを覚知し、「胸中に湧起する自然の意念」の無尽蔵なることに驚駭したということでもある。自分は自分をすらとらえることができないという無力感は、自己の卑小さを知り、身の有限なるを思い知らされた者の嘆きであるが、しかし翻ってこの些些たる、瀞たる我のうちに滾滾として湧き出る意念が無尽蔵であるという事実は、我の内なる無限を確信させることにもなるのである。実に我の内にあってしかもとらえられぬ我、我でありながら、我が意識をはみ出る我に気づくとき、人は自己の有限性とこの有限性を超えて不可知なる我とに覚醒するのである。師が「内観主義を立つるの要は、畢竟自家の本位本分を覚知するに他ならず」へ「先づ須らく内観すべし」七十五ページ・二十八ページ)と言うとき、この本位本分とは、瀞として有限なる我と、にもかかわらずその内にある何か無限なるもののことであった。そしてこのような無限に目が開かれるとき、わが「心機は大いに開展」するとともに、外部に客観として存在する(と思われている)善悪邪正を認定する必要はなくなる。「例へば、他人が我を打ち、我を罵るが如きことあるも、精神主義は決して彼の打罵の行為は、我に対しては善とも云ふべからず、悪とも云ふべからず」とし、ニル・アドミラーリに処する。何となれば、「我が心機だに開展すれば、如何なる事に対しても、決して怒ることなく、常に喜び得るものであると云ふが、精神主義の主張」だからである。これらはすべて、「内観を盛にして、自己の立脚地を省察す」ることによって達せられるものであるが、これに反して「我他彼此差別の妄見に住して平等大悲の光明界裡に安んずる能はざるは、要するに内観の工夫を凝ら」すことに欠けるところがあるからである……
(「精神主義(その二)」参照法蔵館版「文集」六十四ページ以下)。引用がやや煩雑になったが、要するに内観の極まるところ、我他彼此という主客の分離や、分別知がこしらえた価値感が撥無されるとともに、そこに開けてくるのが精神主義の世界である。そしてここから、無限とも絶対とも平等とも言われる、宗教的境地に通ずる何かが、ほのみえてくることになる。これらのことがらについては、節を改あて順次、見ていくことにしよう。

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