暁烏敏賞 平成2年第2部門本文「地球社会を共に生きる タイでのボランティア活動を通して」3

ページ番号1002650  更新日 2022年2月15日

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第6回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

3 クロントイ・スラムでの活動

希望のともしび

わたしがバンコクのスラムでの活動に参加するにあたって、妻との出会い、そして妻が設立したドゥアン・プラティープ(希望のともしび)財団との出会いは、ひとつの大きな節目であった。彼女の活動母体が、財団法人として創立されたのは一九七九年の八月で、約十二年ぼと前である。が、住民による権利への闘いは既に三十年以上も前から始まっていたのであった。当時の話をクロントイ・スラムのいろいろな人たちから聞くと、住民たちは虫けらの様に扱われていたという。しかし、それを住民たち自身が立ち上がって乗り越え、住民たち自身で灯したのが"希望のともしび"であった。
クロントイ・スラムの住民たちは、居住権はもとより、出生届けなどの戸籍の問題、さらには児童労働の問題など、一向に政府からは問題として扱われない時期であった。このような状況のもとで、そこに住む住民の人たちが立ち上がるということは、今以上にとても大変なことだったであろうと思われる。それに歴史的にも、第二次世界大戦後にインドシナ戦争が勃発し、ついでベトナム戦争などが起こり、近隣諸国が次々に社会主義化していく中、タイ国内でも学生革命など、軍事政府との衝突も非常に烈しかった時期でもあり、スラムにおける人権の問題など時代的にも取り組むのがとても難しかった時期でもあった。
一九六九年当時、ドゥアン・プラティープ財団の前身となる一日一バーツ学校と呼ばれる寺子屋が、プラティープというわずか十六歳のひとりの女性の手によって生まれた頃、彼女とそれを手伝っていた彼女の姉プラコーンさんは、政府によって"共産主義者"というレッテルをはられ、何度も当局によって逮捕されかけた。共産党は今でもタイでは非合法となっているが、当時はそれだけ政府の圧力も厳しかったようである。しかし、この学校設立を機に、クロントイ・スラムの中で様々な住民運動が芽生えはじあ、人々は自分たちの持つ権利を意識し始あることになるのである。
それまでは、港湾労働者として港の土地を不法占拠していたことから、強制立ち退きにあうと黙って引き下がらなければならなかった住民も、自分たちの手で住民委員会を組織し、当局と交渉してなんとか居住権だけでも認あてもらおうという動きがでてきたのである。そうしているうちに、クロントイ・スラムでの教育活動や住民運動はタイ国内の様々な人たちに注目されるようになり、マスコミでも大きく報道され、ついには不法の学校が政府の手によって公立化される結果となった。さらにこのニュースは、アジア全体にまで知られるようになり、彼女は若干二十六歳でアジアのノーベル賞といわれるラモン・マグサイサイ賞(公土ハ福祉部門)を受賞することになったのである。
その時の賞金を投じて設立されたのが"希望のともしび"、ドゥアン・プラティープ財団である。この住民の住民による自治組織発展の過程でできた財団の活動はさらに広がり、地主である港湾局は住宅公団との協力で、五年ほど前から住民との土地分有事業が開始された。この結果、港湾局の所有する土地の一部は、住民たちに長期で貸し出されることになり、一時的な借地権を住民たちが手中に収あることとなった。二十年間という条件つきではあるが、長年の運動により、こうしてクロントイ・スラムの一部の住民は居住権を獲得することができたのであった。
これらの結果、クロント・スラムはこの二十年ほどの間に大きな変貌を遂げた。子供たちへの教育活動は少しずつ改善され、現在約八十パーセントの子供たちが義務教育である小学校へ就学できるようになった。さらには、子供たちへの給食プログラムや奨学金の支給といった援助の幅も広がり、現在は麻薬中毒者やエイズ対策の事業も行われている。また、クロントイ・スラムで培われてきた経験から、ドゥアン・プラティープ財団は、バンコクの数多くのスラム地域で起きている強制立ち退きの問題においても、当局と住民との仲裁者として大きな役割を果たしている。
スアンプルー・スラムでの活動と同様、クロントイ・スラムの事例から言えることは、そこに住んでいる人々が自分たちの抱えている問題に気づき、組織化がなされ、そしてそれを牽引するリーダーシップが無い限り、地域そのものの根本的な問題はなかなか解決されないということである。そして、何か建物を建てたとか、物を与えた、あるいは何かを受けたというような目先だけの結果はともかくとして、住民の人たちが参加して、彼ら自身が創造的に自分たちの住む地域社会をつくり上げていくたあの決断を下していくという、その過程がとても大切なものだということである。
バンコクにおいてスラムの改善事業に直接取り組んでいるNGO(非政府組織)は、海外からの団体を含あて約十四団体あるといわれている。そしてそれぞれが、教育や人権などといった分野で活躍している。わたしたちも、スラム改善事業においては住民たちへの側面的支援に徹し、いわゆる触媒としてそこに住む人々の意識化に心がけ、それぞれの人々の参加と彼ら自身による決断とを尊重しつつ希望のともしびを灯していきたいと願っている。これが、わたしたちのボランティア活動の姿勢である。

4 なぜボランティア活動なのか

今日、一体なぜ日本人がのこのこと外国まで出掛け、ボランティア活動を続ける必要があるのか。日本国内においても様々な問題が存在しているのに、一体なぜ国際協力なのか。
わたしは自分自身が好奇心の強い人間だと先に述べたが、ただ単に興味だけでは自己満足に陥りがちで、このような活動ができないことに気づかされた。当初は二、三年ぐらいタイのスラム街に住む人たちの生活向上に関する仕事を手伝って、自分自身の将来のためのよい経験にしょうくらいに思っていたわたしの甘い考えは、実際に活動を続けているうちに見事吹き飛ばされてしまったのである。
ボランティア活動は、決して派手なものではなく、国際的な政治や経済的な権力や、国家主権といったものの間に挟まれた罪なき人々が人権を無視されて苦しむという、構造的でしかも斬新な、複雑で大きな問題に取り組まなければならないのである。ボランティアの人たちは、世界各国から自発的に参加し、献身的に医療活動や食糧援助、そして彼らの将来的な自立を助けるたあの教育活動や職業訓練を行っている。彼らの活動は、決して目立たず、地味でありながらも、苦境に立つ人々の中で大きな役割を果たしてきた。わたしは、こうしたボランティア活動の大切さに、次第に強く心を打たれていった。そして、今までのような生き方をしていていいのだろうかと、自問自答を繰り返しているうち、わたしは、いつのまにか権力者と弱い立場に立たされている人たちとの間に立って、何か自分なりにできれば、と思うようになったのである。
タイに赴任して一年ぐらいたった頃は、NGO(非政府組織)と言われ、特に海外で国際協力をやっている民間団体は、日本では未だ耳慣れなかった時期であった。当時は、わたしたちのようなボランティア活動をしている人は「変り者」というレッテルを張られており、市民権も得ていなければ将来に対する何の保証もなかった。はじあの頃は、いろいろな人に「君たちの活動はどこまで続けられるかが興味のあるところだ」と、皮肉を言われたこともしばしばあった。
果たして、現在の段階でどれくらいの人たちにこのような活動を認識されるようになったかはわからない。が、少なくとも以前と比べると、とても、比較にならないほど関心が高まってきたように思われる。たとえば、ODA(政府開発援助)の質の部分での問題が指摘され、少しずつではあるが、ボランティア精神を基盤とするNGOの役割も注目されるようになりつつある。
さて、わたしがスラムの活動にのあり込み、特にバンコクでのスラム地域の改善にここまで深く関わるようになったのには、もうひとつ別の理由があった。それはタイ人であり、スラム街での社会活動家である妻との出会いであり、結婚であった。タイへ渡り、そこでもっとも深くスラムの問題に関わっている人たちの中のひとりである彼女との結婚は、わたしの運命を変えたと言っても良い。
実際にタイへ出掛けてみることにより、わたしはスラム街の様々な人たちと出会った。自分の苦しみや悩みを表に出さず、しかも微笑みを絶やさずにしたたかに生きるスラム街の人々の姿の中に、わたし自身が今の世に存在している意味を深く考えさせられ、相手の立場に立つことの困難さと共に大切さを教えられたのである。
また、わたしはこれまでのボランティア活動の経験を通して、スラムでこのような自立支援のたあの活動を行っていくたあには、その地域に住む人たちとまず知り合い、信頼関係を築いていくことの必要性を感じた。そして、その地域の抱える諸問題の解決に取り組むためには、その場所の地域性や、そこに暮らす人々の持つ文化や歴史、習慣といった背景を充分に理解する必要があるということである。さらに、同じ地球に住むいろいろな民族の人たちが、それぞれの持つ価値観や生活様式、あるいは言語といった文化を互いに尊重し合い、学び合いながら、共に改善に向けてボランティア活動を実践していくべきではないかと考えている。

あとがき 地球人として生きる

これまで、バンコクのスラム街にいる子供たちのことを中心に述べてきたが、問題はもちろんこれらの子供たちだけに限ったことではない。政治的な要因はあるものの、たとえば、日本の近隣諸国であるカンボジアやラオス、ベトナムやミャンマー(ビルマ)などでは、民族的な問題や経済的な貧困問題といったものも存在し、社会的に悲惨な状況が顕著にみられる。さらにもっと広くいえば、アジアやアフリカ、中南米など、いわゆる地球の南側に住んでいる多くの人々が、苦しい境遇に置かれているということである。
果たして、わたしたち日本人は、開発途上国と呼ばれるこれらの国々について、どれだけのことを理解しているだろうか。
世界人口約五十億のうち、実に三十八億人もの人たちがそれらの国々に住み、世界の食糧生産高のたった四分の一を分け合って食べて生きているという現実を。また、今年は国際識字年であるが、世界にいる約九億六千万人の非識字者のうちの約七億人もの人たちが、わたしたちと同じアジアにいるということを。
わたしたちが農村開発に取り組んでいるタイの村から、小学校の先生を中心とした十四名の使節団を日本に招き、各地で交流を深あた時のことである。その中のひとりに、村の人たちが一旦小学校で覚えた文字を忘れないようにと、日夜図書館活動に精を出しながら、村の開発の一端を担っている人がいた。彼は、これまでいつも雨が降らず慢性的な水不足に悩み、欠食児童も多く、都会へ出ていく人が後を絶たない彼の村で、自然と闘いながら地域開発のたあの青少年育成活動に取り組んできた。ところが、日本へ来てみたところ、物は豊かで水は豊富だし、飽食の中、子供たちは勉強のたあにと家ではお手伝いさえもしなくてよい。さらに全てが便利な合理主義で通っており、お金と時間の価値感の中で、人々が追われて生きているという日本の現実に気がついたのであった。
そこで彼は、「日本人はいったい何と闘って生きているのですか」とわたしたちに問い返してきた。痛烈な言葉である。同じこの地球上で、あらゆる面における先進諸国と開発途上国との格差が拡大し、人権問題や地球環境の問題などが深刻化する中、同じ地球船の一員である日本人は、一体何と闘い、これからどう生きていくのであろうか。
人の痛みをわが痛みとして感じられるようになった時、同じ地球上で起きている様々な問題が、わたし自身や家族の問題と同一次元のものとして、あるいは自分自身の住む地球社会の問題として、わたしには捕えられるようになったのである。地球という同じ運命共同体の中で共に生きる人間のひとりとして、二十一世紀へ向け、共に幸福な社会をつくるための一助となるよう努力していきたい。
また、世界の経済大国に生きるわれわれ日本人は、地球全体の幸福のたあに充分その役割を果たし得ると思われる。まさに、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」(宮沢賢治著『農民芸術概論綱要』より)という願いを持つ、ひとりの地球人として−。

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