暁烏敏賞 昭和61年第2部門本文「大人達の責任」2

ページ番号1002673  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第2回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

2、実践

(1)柔道部

写真:地区大会参加

(e)地区大会参加

練習を始めて.年になろうとする頃、近隣の町村で、やはり子供たちにボランティアで柔道を教えているグループがいくつかある。それを集めて。ライオンズクラブ主催の柔道の地区人会を行なうのでぜひ出場するようにと、お誘いがあった。始めてから日も浅く、技術的にもL達していないのて、夫は不安だったようだが、子供たちにやる気を起こさせるには良い機会たと思い、出場させることにした。大会の日までは一ヵ月あるのみ。二年生は無理、なので四年生以上を毎日学校の帰りに直接駐在所の庭に集合させ(学校は駐在所のすぐ近くにある。)

  1. マラソン約2キロメートル
  2. 腕立ふせ、腹筋、背筋30−100回
  3. 古タイヤを両手に持って上げ下げする運動50−100回
  4. 背丈程ある丸太(約30キログラムのもの)で背おい投げの練習

これらを一時間程練習した後、私が手作りしておいたおやつで空腹を満たし、反省会をやる日が続いた。
学校の帰りに、子供たちは
「ただいま。」
「おじやまします。」
とまるで我が家のようにどかどかと家に上がってきた。ランドセル、脱いだ洋服類の置き場所は暗黙のうちに決まっているらしい。(幸子ちゃんは部屋の南の隅、良夫君は東北の隅というように。)そして、着替えが済むと庭に飛び出して行く。
私は寒、い時期なので身体をこわさないかと心配したが、"子供は風の子"と昔の人はよく言ったもので、案外平気て動きまわっていた。庭での練習が終わって部屋に人コて腕立てふせ、腹筋、背筋の練習をすると全員汗びっしょりになる。用意しておいたタオルで汗をふきとらせ、その後おやつの時間となる。
おやつは経済を考えて、なるべく家にある材料を使い、消化が良く体が暖まる物をと心掛けた。おやき、お好み焼き、煮込みうどん、豚汁、油で揚げたあられ、ドーナツ、ゆてたじゃがいもにバターや塩をつけた物等、あとは紅茶、番茶、時には果物などその持家にある物で間に合わせた。子供たちは、中には嫌いな物もあったであろうが、文句も、言わすに食べてくれた。
(多分、お腹がすいていたためであろう。)そうこうするうちに、お母さん方からもおやつの差し人れが届くようになった。
(行男君のお母さんからは手作りのアイスクリームが、つよし君のお母さんからは甘酒が、会長さんからは店のお菓子や果物が・・・・。和夫君のお母さんは勤めに行く前の朝し時頃、あられを揚げて持って来て下さった。)おかげで私は、大変助かった。なんといっても十三人の人所帯であるから。
紅一点の幸fちゃん、体力のない良夫君も、ほとんど休まずに通いつぬて来た。生やさしいものではないはずのこの練習に耐え抜いたことは、子供にとって大変な収穫であったと思う。遅れて来る子がいると、皆で待ってやったり、学校まで迎えに行ったりもした。一つの日的に向って仲間同志が励まし合いなからやっていくことのすばらしさを、私自身も皆と.緒に味わうことが出来た。
夫が山から切り出してきた背おい投げ用の丸太は、30キログラムの物から、40キログラム、そしていつの間にか60キログラムの物へと次々に替えられていき、一ヵ月後には、六年生はその60キログラムの丸太を投げられる程に力かついてきた。(女の私には持ち上げることも出来ないような物を)
ゆでたじゃがいもをほうばりながら、お母さん方からの差し入れのお菓子を食べながら話し合った柔道のことは、一生忘れられないものであろう。
毎日の柔道練習で学力が落ちることを心配し、練習後帰り際に届ったらすぐ勉強するように声掛けをした。時々、新聞のある部分を選んで(一面の"斜面"とか"天声人語"など、)その中から漢字のテストや朗読をさせるから勉強をしてくるように宿題を出した。そして次の日の柔道練習後、声を出して読ませたり、漢字のテストを..レ程させたりした。採点は私がしたが、私白身も漢字を予想以に忘れていて、良い勉強になった。
三月二十三日、大会の日、その日は朝からめずらしい春の大雪が、信濃の山里に降り続いていた。父兄の方々が用意してくださった車に分乗して会場に向かう途中、峠の道は積もった雪にはばまれ、車はスリップして大変難儀をした。山際の木々は、水分の多い雪の重さに耐えられず、おじぎをするかのように道路上にたれ下がり、行く手をさえぎっていた。
予定よりだいぶ遅れて会場に着いた。山科の町の体育館は、近隣の町村から集まった子供たち百人程で熱気に満ちていた。初めて見る他のグループの子供たちに我が柔道部の面々は強い闘志を燃やしたようである。
結果は上々であった。日頃の練習が強みになったのか好成績を上げることが出来た。特に六年生は、七チーム参加のうち、団体優勝と個人で二人が入賞するという快挙をなしとげることが出来た。表彰式での子供等の目の輝ぎを今も忘れることが出来ない。
(子供たちには知らせてなかったが、柔道大会が終って、三日後に、私達はこの村を去ることになっていた。急な異動であった。)しっかり者の行男君、、元気のよいつよし君、引込み思案のさとし君、一人→人のうれしそうな顔が、苦しかった練習の日々と重なって涙でかすみそうになる。その顔を心に刻んでおこう
と、私は懸命になっていた。

(2)空き缶拾い

夫は、寄付してもらったドラム缶を県道や峠に設置して美しい村作りに取り組んでいた。五十九年九月三十日の中日新聞に夫の奉仕活動のことが記事として載っている。

『?』マークに目パチクリ
空き缶やごみ入れてね
山城村駐在所波母山巡査部長のアイデア

『自分たちの村を美しく−と、環境美化に情熱を傾けているお巡りさんがいる。山城駐在所の波母山巡査部長で、県道沿いに?マーク入りの風変わりなごみ箱を置くなど、村のクリーン作戦に取り組んでいる。
波母山さんは今春四月に着任した。村内にある三本の県道は道幅が狭くガードレールなどに接触する夜間の物損事故が多い。
そこで白いペンキを片手にガードレールのさびた個所や、縁石、道路標識などをきれいに塗り直した。その結果、事故がぴたりと止まった。道路を歩き気になったのは、道路の空き缶やごみ。環境美化を兼ねた道路整備の方法はないものかと、考えたのが、?マーク入りのごみ箱。
村内の土木会社山上組からドラム缶十一本もらい、役場職員や交通安全協会役員の協力で底に水抜きの穴をあけたり、ペンキで?マークや山城村の文字を書き、七月末までに県道沿いに備えた。缶はガードレールのない道路の端に置かれているので、安全施設の役割も果たしている。ドライバーは?マークに目をパチクリ。車を止めてのぞき込み、ごみ箱と分かると早速利用。空き缶を拾う波母山さんの姿に村人たちが道路の清掃に協力し始めた。山城小学校の児童会も「空き缶を拾いをやろう」と決めるなど、波母山さんが始めた環境美化の輪が村内に広がっている。その成果は上々、村を訪れた人は道路のきれいなのに驚いている。波母山さんは「村の人が一人でも見習ってくれればよい」と今日も空き缶拾いをしながらパトロールをしている。』

村では年に一度空き缶拾いの日があり、その作業に子供を参加させようと思いたち、まず柔道部の子等を連れ出した。
峠の道の崖の下は、ごみを落してしまえば繁った木々にさえぎられて見えないため、特に汚れがひどい。ガードレールを乗り越えて下ってみると、空き缶、紙おむつ、勝手ごみ、占い家具、電気器目バまで捨ててある。遠い所から車で夜捨てに来る者もあるらしい。それらを手渡しで、大きな物はローブで引き上げる。柔道部員には、空き缶拾いを専門にやらせた。
毎日仕事をしながら空き缶拾いを続ける夫の姿を見て通学の途中拾った空き缶を、駐在所の前のドラム缶の中へほうり込んで行く生徒も増えてきた。
その後、設置したドラム缶が投げ捨てられるという事件が起きた。夫に対するいやがらせだろうと思うが、「夜中に白い自動車に乗った男が、次々にごみの入った缶(ドラム缶)をひつくり返していた。」
と、目撃者のおばさんが教えてくれた。集めたごみは散乱し、ひどい状態だった、と見てきた夫は、一人ではどうしょうもない様子で帰って来た。
二、三日して再び行ってみると、そのごみはきれいに片付けられていた。近所の人の話では、中学生がやってくれたらしい。こうして、子供たちの奉仕活動の輪は、少しつつ広がっていった。

集合写真

(3)暴走族の子等のこと

村の子供たちを見ていて、夫がある署の交通課に勤務していた頃、暴走族の少年の激増に頭を痛めたことがあった事を思い出した。十年程前の、少年非行が大きな社会問題になり始めた時分のことである。
夫は、グループを解散させようと、母親を自宅に呼んで話し合ったり、少年を呼んで食事をさせながら気持をほぐしていくと、案外素直な良い子の多いのに驚いた。結局家庭環境が悪い家がほとんどで、半分は大人の責任ではないかと思われた。君の家は両親の夫婦仲がまずく、君の家は母親が後妻で親子の間がうまくいっていないようであった。
長い間の夫の説得に応じて、リーダーの少年が現われ、グループの大きな旗を差し出して、
「これはお預けします。グループは解散しました。」
と言い残して、さばさばした顔で帰っていった。
今も我が家と少年達の付き合いは続いている。りっぱな大人になっていて、結婚式の招待状が舞い込んだり、生まれた子供のかわいい写真を送ってくれる。そんな時、心をこめて付き合っておいて本当によかったと思う。

3、提言

私は、犯罪を減らすための努力を続ける夫のかたわらで過ごしてきて、この頃しきりに良寛和尚のことを思うようになった。
良寛和尚は、新潟の地主で神官だった家の息子として生まれながら、十八歳で出家して十年程倉敷の円通寺で修行した後、放浪の旅に出る。そして四十歳を過ぎてから古里の新潟に戻り、詩歌や自然に親しみながら晩年を過ごした人である。俗世間にいや気をさして出家したものの、腐敗した階級制度の強い宗教界にもなじめず寺を飛び出す。
良寛が修行僧だった円通寺時代に仙桂和尚という兄弟子がいた。その仙桂和尚という人は、一風変わった人で、経も読まず、座禅もせず、ひたすら畠に出て野菜を作って雲水たちに施していた。修行僧の中には、座禅にはげみ、勉学にいそしみ、師匠によくつがえる勤勉型の僧と、畠作りしか・能・の無い雲水があるが、その頃の良寛は、仙桂和尚のことを、前者でも後者でもないただ変わった人ぐらいにしか思っていなかった。が、後になって本当の道心は仙桂和尚のような人だと悟る。えらそうに説教したり、理屈をいう雲水の中には真の道心者はいなかった。本当の修行は、ことばを飾らず黙って毎日のしごとをもくもくとやり通すことだと悟る。仙桂和尚は、すべてを知り尽した上で、畠仕事に精を出していたのである。
良寛和尚は、仙桂和尚の姿にちかづくように、自らも清貧に生き、自然やf供を愛し、気おいもなく淡々と生涯を終える。
子供と毎日暗くなるまで遊びほうけていた良寛和尚を変人としかみない人もいるだろう。しかし、実際にはそうでないような気がする。
良寛和尚の生きた宝暦から天保にかけての七十余年間は、娘を売らなければ食べていけないような農民が、新潟地方にあふれていた時代背景がある。お腹をすかし、親のひきつった顔に怯えながらくらしているチ供の気持をほぐすために、相手になって遊んでやることが、良寛さんの一つの実践ではなかったのかと思われる。子供たちにとっては、良寛さんと一緒にいる時だけが、子供らしい救われた時間であったのであろう。そしてその思い出は、泣く泣く売られて行く時、奉公に出るとき、古里の風景と共に心の中の慰めとなって残っていたことであろう。
現在の世の中をみると、良寛さんの生きた時代と共通したものがあるような気がしてくる。−子供が大人から疎外されているという点で−。個々にみると、一人っ子で溺愛されている子や教育ママにしごかれている子などもいるが、大きな意味ではそれらも疎外されている部類に入るのかもしれない。親は経済成長時代に、わき目もふらずに働き、稼ぐことのみに熱中し、すべてを金で解決しようとする。子供の心の中をのぞいて見る余裕がはたしてあったのであろうか。娘を売らなければならない貧困はないが、そのかわりお金のために子供の心を売ってしまっているように思われてならない。その結果が青少年犯罪の異常な増加につながっているのではなかろうか。
良寛和尚を深く考える時、子供の頃真剣にかかわってくれる大人が一人でもいたら、今のような少年非行の増加は防げるように思えてくる。それは両親はもちろん、教師でも、お寺の坊さんでも、駐在所のおまわりさんでも、隣のおばさんでも良い。遊びやスポーツを通じて真剣に愛情をかけて社会のルールを教えてやることが出来れば。生きることの楽しさと、子供の頃の思い出を残してやることが出来れば。
具体的に、地域社会の中でどのような事が可能か考えてみると、
現在も、少年野球、少年サッカーなど、子供のスポーツ活動に協力されている方々が、多勢いらっしゃると思う。それをスポーツの指導だけに終わらせずに、生活面の"しつけ"の指導にまで手を貸してあげられたらよいのだが…。
お年寄りの間でゲートボールが盛んに行なわれているが、その中へ地域の子供たちを誘ってみてはどうだろう。時にはゲートボールを離れて、お年寄りの長い間の体験談や、経験からくる知恵を子供たちに与えてやれたらすばらしいと思う。
先日、何気なく点けたNHKテレビに、私塾を開いているお年寄りの方が出ていた。再就職先が思うようにみつからず、考えた末に塾を開かれたようである。(以前は教師をされていたようだ。)一対一の向かい合った授業で、小中学生一時間五百円、高校生七百円の授業料を取って教えておられる。
教わっている子供たちの反応は
「とても厳しいけど、真剣にわかるまで教えてくれる頼りになる先生。長生きして大学受験までめんどうをみてほしい。」
信頼しきっている様子がうかがえた。
教えている方も、
「身体が弱く気がめいっていたが、子供に長生きしてくれと言われて、生活に張りが出てきた。」
と、おっしゃっておられた。
経験豊かな社会の先輩として、こういう方々に子供たちの相手になっていただければ、一番よいと思うのだが。(学習面ばかりでなくしつけの面や遊びの面でも)ボランティア活動としてやっていただければよいのだが、もしそれが無理ならば行政から何らかの補助を出すことが出来ないだろうか。地域ぐるみで前向きに考えていけば、良い案が出るような気がする。
最近、経済の高度成長時代もかげりをみせ始め、「ゆとり」や「人間復活」が叫ばれるようになってきた。この好期をのがさずに、地域性や家族制度の見直し、精神的に余裕のある社会を取り戻さなければならない。まず、大人が姿勢を正すことから始めよう。
山城駐在所から異動して新任地に来て、ニヵ月程した頃、電話があった。山城村の親しくしていた奥さんからである。
「波母山さん、先日村で空き缶拾いをしたらね。中学生が全員(隣り村と山城村とで一つの中学へ通学する。)(二百四十名)参加して峠の道はあっという間にきれいになってしまったわよ。」
(柔道部で教えた六年生が中学へ進学して、先に立って行動を起こしたに違いない。)

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