暁烏敏賞 昭和61年第2部門本文「大人達の責任」1

ページ番号1002672  更新日 2022年2月15日

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第2回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

  • 論文題名 大人達の責任
  • 氏名 波母山 矩子
  • 年齢 39歳
  • 住所 長野県北佐久郡
  • 職業 主婦

1、はじめに

近年における我が国の青少年非行の増加には、憂うべきものがある。特にここ十年程の増加率は著しく、目を覆いたくなる現状である。
私の居住する長野県における少年犯罪も又、例外ではない。
昭和五十年には、2000件であった少年犯罪が、昭和五十九年には、4000件に達している。そして、昭和六十年には、全刑法犯の62パーセントを占めるに至っている。(昭和六十年度、長野の少年非行白書より)
最近における少年犯罪の特徴は、何といっても「罪の意識が薄い。」ということであろう。そこには「善、悪の判断能力の低さ」と「悪に対する抑制能力の弱さ。」がみられる。
その原因をさぐると、時代や社会の移り変わりにより、人々の考え方や価値観が多様化し、核家族化や女性の社会進出により、地域社会の伝統的な秩序形成や相互扶助、社会規範意識がうすれていくことなどに行き当たる。地域性や、家族制度が崩壊するにつれて、「罪をおかすことは恥ずかしい」という気持や、「人に迷惑をかけることは悪いことだ。」という、人間の持つ美しい心までもが、失なわれて行くのであろう。今失なわれつつある、人間が生きていくための秩序を、青少年に教えるにはどうしたらよいのであろうか。
それには少年のうちに、
「他人への思いやりと、他の人の痛みのわかる学習。」
「社会生活の場でのルールを知る学習」
を何らか跡形で教え込まなければ、取り返しのつかない未来が、虹目少年の行く手に広がることになるのではないだろうか。

2、実践

私の夫は、長野県下のある駐在所に勤務している警察官である。警察官が青少年の健全育成に努力することは、仕事として当然のことと、一般の方は思われるだろうが、理屈ではわかっていても、実際にどう対応していくかとなると、難しい問題になる。現実には、発生した事件、事故の後処理に追われてしまっていて、時には、青少年健全育成のための言葉を並べてみても、机上の空論になりかねない。
五十九年から赴任した山城駐在所も例にもれず、青少年犯罪が一般の犯罪を上回っていた。山に囲まれた,見静かな、何事もないような村であったが、ここにも都市化の波が押し寄せていて、下請工場があちこちに建ち、ほとんどの母親がそれらの工場で働いていた。
ここで扱った少年犯罪、違反行為をみてみると、万引、自転車次皿、オートバイ盗、ラジカセ盗、無免許運転、喫煙などて、その数は、一年間に三十件ちかくにのぼった。(人口2,700人余りの村)
夫はこの少年非行に対応策はないものかと、日頃から頭を悩ましているようであった。私も、犯罪少年の両親の憔停しきった姿を見ると、同じ人の子の親として、何とかしなければならないと慰うようになっていた。大きな事は出来ないにしても、まず自分達の足元から少年非行をなくしていかなければと一。
夫はまず、身を持って示す。人の為に、自らの身体を動かすというところから始めた。

  1. 駅前の自転車、バイク置場の整理と清掃。
  2. 県道沿いの空き台拾い。
  3. ガードレールのペンキ塗り。

これらは、夫の姿が村のいたる所に見られるようになったためか、.応の効果をあげ、自転車盗などは半減した。しかし、この成果は少年たちの意識を根本から替えたわけではなく、、時的に管理されたため、減っただけだということは、夫にもわかっているようであった。
では、先に述べた二つの学習

  1. 他人への思いやりと他の人の痛みのわかる学習。
  2. 社会生活の場でのルールを知る学習。

を、実際に学ばせるには、どうしたらよいのだろうか。それには、中学生になってから指導したのでは遅すぎる。小学生のうちに体で憶えさせなければ。
夫は、1の学習のために、自分もすでに始めていた空き缶拾いを、2の学習のためには、やはり何かスポーツを通じて指導していこうと思いたったようである。そして、柔道を取り上げることとした。

(1)柔道部

六十年四月より、小学生を対象に(二年生十皿名、四年生四名、五年生三名、六年生六名)週一回の日を決めて始めた。

(a)畳敷き

小学校の体育館に畳六十枚を敷き、練習修了後、片付けて体育館の隅に積み上げる。少しきつい作業で、二年生には無理かと思われたが、結構やり通した。大きい子と小さい子二人一組で運ばせた。上級生と下級生が協力し合う思いやりの心を育てるうえで、大変良かったと思う。柔道の基礎となる体力作り(特に腕の力)のためにも役立った。六十枚をどういうふうに敷けば、正四角形に近づけられるかを計算させて、思わぬところで算数の勉強にもなった。
柔道を始めた四月頃は、子どもたちの体力がなく、少しかわいそうな気がしたので、私も手を貸してやり、保護者会のお父さん、お母さん方にも交替で手伝っていただいた。(1週3名程)しかし、ほとんどのご両親は仕事を持っておられたのでなかなか思うようにはいかず、保護者会の会長さん(スーパー経営)副会長さん(中学の先生の奥さん)に大変ご苦労をお掛けした。練習中、畳がずれるのを直したり、二年生の帯を結んだりしていただいた。しかし、半年が過ぎると、こどもたちの体力がつき、やる気も出てきたので、大人の手出しは補助的なものになった。

(b)練習

敷きつめられた畳の土で座禅を組み、黙とう(無言のまま目をつむらせること)し、精神統一させる。その間、夫は万引をしないように、交通事故に遇わないように等、声掛けをする。その後、柔道の基本動作の練習に入る。
子供たちは、ほとんど休むことなく練習に参加してきた。休むことによって他人に迷惑が掛かることをよく説明し、点呼をとり、声掛けを一人.人にした。そして、先生である夫が、休まず.番早く練習場へ行く努力をした。これは勤務が不規則な警察官にとって大変なことであったが、本署も理解してくれて協力をしてくれた。休まないことが、子供たちを思い愛情をかけているあかしであることを、皆も少しつつわかってきたようである。子供たちを裏切らない。それが、一番大切なことと思う。

写真:柔道練習

(c)村民運動会参加

この村では、十月十日(体育の日)村をあげての運動会が行なわれる。そこで空手の模範演技を行なうことにした。(柔道は土の上では出来ないため)子供たちは張り切って練習に励み、多くの人々の前で立派に行なうことが出来た。保護者会長さんがマイクで演技について説明し、それにしたがって子供たちが号令を掛けながら模範演技を披露した。その後先生の打ち込む木刀を素手で、上段、中段、下段と受けて払う動作を一人一人やってみせた。会長さんはその間一人一人の子の特徴、性格、練習の成果などをマイクで流した。白い柔道衣が秋の日に映えてまぶしかった。
「駐在さん、よかったよ。子供たちが生き生きと動いていた。」
「うちの孫が、とても頼もしく見えたよ。」
などと、当分の間駐在所を訪れる人々の話題になった。

写真:村民運動会

(d)文集作り

練習を始めて八ヵ月が過ぎた頃、柔道部の文集作りをした。自宅に買い置きの原稿用紙を夫と相談して、一.年生一枚、四、五年生一枚、六年生三枚づつ柔道練習後に配った。
「わあ、感想文を書くの。いやだなあ。」
「先生、やめようよ。」
「だめだ、来週までに必ず書いてこい。約束だぞ。」
子供と夫のやりとりを苦笑して聞きながら、私は原稿用紙を手渡していった。配り終えると観念したのか、しぶしぶとランドセルの中へ入れた。一週間後に集まったのは半分程だった。
「おい、先生が約束やぶったことあるか。」
夫の大声に恐れをなしたのか、次回の練習日には全部の原稿が集まった。
集まった原稿は私が一通り目を通し、誤字、脱字以外はなるべくそのままにして、学年別に名前を「あいうえお」順に重ねた。それを村に一軒だけある印刷屋さんに回して製本していただいた。原稿用紙のままコピーを取り表紙をつけて製本した素朴なものであったが、出来上がった時の喜びは格別だった。
三十部作った。一部二百円で出来たものを柔道部全員、小学校、役場などへ配布した。印刷代は保護者会から出していただいた。
(一名月二百円の会費を集めている。)
小学校の校長先生は校長室の書棚に保管しておいてくださるそうだし、村の教育長さんには、
「りっぱな文集が出来てよかった。」
とおほめの言葉をいただいた。
子供たちにとっては、自分の柔道に対する考えを再確認すると共に、仲間のことをお互いに知り合うために役立ったと思う。
次に、二、三の子供の作文を拾ってみよう。

じゅうどうのこと

二年 山川友行

ぼくはじゅうどうへ、はいってよかったとおもう。どうしてかというと、ともだちがふえて、なかよく、なってよかったです。
じゅうどうわざをつかうとき、じゅうどうわざをまちがえたら、みんながおしえてくれる。
ぼくは、いい友だちをみつけてよかったとおもいました。
ぼくは、じゅうどうのたたみはこびや、さいごにやるおそうじをあそびはんぶんでやっていたのでことしは、よくやりたいです。

じゅう道をならって思ったこと

四年 宮下正志

ぼくは、一年生の時から、日曜日に自転車に乗って、センターのうらのじゅう道場にお兄ちゃんといきました。
しゅうどう衣を着ても先生はいつもこないので、二年生の終りにやめました。
四年生になって新しい先生になって、ほんとうによかったと思いました。
毎週土曜日には、いつもきてくれるし、じゅうどうだけじゃなくて、空手も教えてくれます。
ぼくは、あんまり力は強くないから、うんとわざをおぼえて、悪い人から自分の体を守りたいと思います。
そして、こんなにいっぱいのわざがあるなんて思いませんでした。
ぼくは、練習して、いやなことが一つあります。
それは、先生に思いきり投げ飛ばされる事です。
先生、ぼくは、子どもだからもう少し力をぬいてやさしく投げてほしいです。
それと、先生、事件がある時は松本まで行って、つかれると思いますが体に気をつけて、いっぱいじゅう道をぼくたちに教えて下さい。

いままでのじゅうどうについて

五年 中村 仁

一年から四年までは、ろくにじゅうどうをやっていなかったけれど、五年からは山城村のおまわりさんにならうことになりました。はもやま先生という人です。はもやま先生はとてもじゅう道はつよいです。そしたらまえより人数がとても多くなりました。二年生は十人ぐらいいるし、四年生も三人だし、六年生は六人もはいりました。せおいなげとかいろんななげわざや、ねわざを教えてもらいました。先生になげられるのは、とてもいたいけどそれも練習のうちです。それに、先生にから手の、けあげとかけこみとか、いろんなわざをならいました。たまにし合をやることもあります。またうでずもうもやります。とてもたのしいです。じゅうどうは、一時間半やるけど、やったあととてもきもちがいいです。たたみをはこぶのはとても苦労です。たたみは、二人ではこんでいます。そして十月になったら今度村民運動会に出るといったのでびっくりしました。いろんなわざを見せました。なんとか終りました。
そして、練習を積んでいるうちに、今度し合をやると先生がいいました。そしてとうとうし合の日になりました。はじめにゆたか君とたたかってひきわけで、佐藤君とやってかちました。そして四、五年の中でゆう勝しました。その時はとてもうれしかったです。そしてメダルと賞状をもらいました。とてもうれしかったです。これからもじゅうどうを続けたいと思います。

感想文

六年 田中 一

山城村スポーツ少年団柔道部が、はじまったのは、昨年の四月。ぼくは柔道というものを全ったく知らず柔道部に入りました。
第一回、二回の柔道部のころは、柔道衣がなく、学校の運動服でやりました。みんなもそのころは、態度が悪い、たたみをしっかり運べなどと、先生におこられてばっかりいました。五月に入ると、柔道衣がみんなそろいとても柔道に興味をもちはじめました。それから、空手のヒ段、中段、ド段のつき、うけ手刀、などいろいろ習いおぼえました。だいたい柔道や空手の基本ができてくると、今度はもう少し苦しくなってきました。柔道では、投げわざなどを習いはじめ、空手も相手とくんで練習するようになってきました。時々先生に投げられて、やめたいなあ、やめたいなあと何度思ったか分かりません。夏になると柔道衣が暑苦しく、あせだくになってしまいました。夏休みには暑中げいこが三日間あり、その二日目の日にけがをしてしまい、いたくていたくて泣きそうになり、なんとか先生を投げたいと思いました。それでも三日間頑張りました。秋になると柔道の前にマラソンが取り入れられ、はだしでクランドを走りました。このころになると柔道部の練習の仕方がだいたい決まってきました。1、たたみ運び、2、運動、3、空手の練習、4、柔道の新しい技を教わる。5、友達との柔道練習、6、正座、合掌、7、たたみ運び、というふうにです。柔道部では、最初の座禅の時、万引をしてはいけない。あいさつをしようなどと、礼儀も教わりました。あと、柔道大会、村民運動会の柔道部演技、総あたり戦、団体戦などと記念に残ることもたくさんやりました。うでずもう、ふっきん、うで立てふせ、たたみ運びなどという、うでの力がつくこともたくさんやりました。しかし、十一月になると、もうやめたいという気持ちが強くなりました。しかし先生は絶対やめさせてくれませんでした。ぼくは今になってやめなくてよかったと思います。泣いたこともあります。いたかったこともあります。だけどそれが今になって考えてみると、みんな自分のためになっているということが分かるからです。それから友達とのけんかに空手を使ったことがあります。友達とのふざけごっこで柔道を使ったこともあります。でも先生に、柔道や空手を使ってはいけないということを教えられてからもう使わなくなりました。たしかに柔道や空手を使えばふつうの人よりも強いかも知れない。だけど、それは自分の力だけでなく、その中に工夫して考えた技が入っているからだ。だからぼくは、今までに身につけたこと、おぼえたことは、いざという時がくるまで、とっておきたいと思う。

子供の素直な考えが文集の中にあふれていた。先生に投げられるのがつらくて、厳しい練習について行けず途中でやめたくなった気持が、切々と書かれている。やめさせてくれなかった先生をうらんだりもしている。しかし、友達に励まされ、泣きながらもついてきてよかったと思えてくる。現実の苦しさに耐え続けることを通り抜けてはじめてそれが将来の力になることを知りはじめる。そしてその力が、精神的な力となっていく余裕までもみせはじめた。子供等の伸びる力の大きさと、そのカの無限であることに、改めて感心させられた。伸びる力を精いっぱい伸ばしてやることも大人の責任だと思った。

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