暁烏敏賞 平成2年第2部門本文「地球社会を共に生きる タイでのボランティア活動を通して」2

ページ番号1002649  更新日 2022年2月15日

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第6回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

2 スアンプルー・スラムでの活動

キャラバン活動

わたしが初めてバンコクのスラム街に足を踏み入れたのは、赴任した年の暮れのことであった。その頃わたしとボランティア活動をする同僚たちは、日本で人形劇などを通した図書館活動を行っている「おはなし・きゃらばん」(東京都東久留米市)というグループをタイに招き、戦闘が行われているタイ・カンボジア国境近くの難民キャンプや東北タイの農村部、あるいはバンコクのスラム地域といった所で巡回公演をしょうという計画を立てていた。その交渉のたあに、人口六万人とも言われるタイで最も巨大なスラム街、クロントイを訪れることになった。
このスラムは、バンコク市の中心部から南に位置するクロントイ港というタイ最大の貿易港に隣接した港湾局の土地にあり、そこに住む人たちは何十年もの間、居住権や住民権、子供の問題などの人権問題と闘ってきており、バンコクのスラムにおける住民運動の発祥地であった。そこには、そのクロントイ・スラムで生まれ育ち、自らがスラムの諸問題を体験し、そしてそこに住む人々の人権問題を克服するたあに立ち上がったひとりの女性がいた。彼女の名前はプラティープ。日本語では「ともしび」という意味である。
ドゥアン・プラティープ(希望のともしび)という財団を創立し、クロントイ・スラムを中心に様々な社会事業を行っている彼女と、わたしは後に結婚することになったのだが、スラムを知ったその時から、この問題の抱えている根深さを知り、ボランティア活動に引き込まれていった。それも、ただ単に「ひどい生活環境」という、外見だけの現象にだけ目を向けるのではなく、積極的にスラムに関わって、このような地域を生み出していった根本的な原因は一体何なのか、といった問題からであった。
わたしたちはドゥアン・プラティープ財団と協力し、「おはなし・きゃらばん」のスラム街での公演を無事成功させることができた。そしてこの公演をきっかけに、バンコクに数多くあるスラム街を巡回し、学校に行けない子供たちに対して教育活動のできる「クロントイ・キャラバン」チIムを共同で結成することにしたのであった。
早速タイ人のスタッフ養成のたあ、わたしたちはスラムの保育園で先生をしている活発な女性二人を日本へ派遣して、「おはなし・きゃらばん」で研修してもらった後にキャラバンチームを編成する運びとなったのである。そして十か所ほどのスラム街を調査した後、その中からいくつかの地域を選択し、移動図書館や人形劇、読み聞かせや紙芝居など、教育を受ける機会のない子供たちのたあの巡回活動を開始することにした。これが、わたしにとって最初に関わったバンコクでのスラム活動となった。
このキャラバン活動は、現在もクロントン・スラムを拠点としてバンコク市内の約四十か所のスラム街と、東北タイなどの農村部を対象に行われているが、わたしたちは、この活動を通して数々のスラム地域を訪問することとなり、「共同体」と呼ばれているそれぞれの地域のおかれている状況を知ることとなった。そして、それらの地域が、それぞれに異なった状況下でいくつもの難問を抱えて存在し、住民たちはそこで貧困と闘いながら生きているということを知ったのであった。
わたしは、巡回活動について回っているうち、このようなスラム活動だけでは地域全体の開発には未だ不十分であり、スラム街を生み出す根本的な部分にもっと迫るべき必要性があるのではないかと思うようになったのであった。

スアンプルー・スラムとの出会い

「クロントイ・キャラバン」活動を展開する中で、わたしたちはバンコクのビジネス街、シーロム通りにほど近いスアンプルーというひとつの「共同体」に出会った。このスラム街は当時約四百世帯、二千数百人ほどが住んでいる中規模のもので、大蔵省管轄の土地を不法占拠していた。やはり泥地にあり、排らないものであった。
わたしは、スアンプル−・スラムで当時住民委員長をしていたチャルーンさんという中年の男性や住民委員の人たちに話を聞きながら、少しずつこのスラム街の調査を始あた。ある一流ホテルの掃除夫として生計をたてているチャルーンさんの話によると、このスラム街は今から三十年以上も前からできはじめ、大半の住民はタイ東北部の農村からの移住者であるとのことであった。それは、農村での現金収入だけでは暮らしていけないことが、こうして多くの農民たちに一大決心をさせ、バンコクのスラム地域に流れ込ませるのであった。
このスラムは、学校らしき教育設備もなければ公民館のようなコミュニティー・センターもなく、住民たちは非常に連帯性に欠けているとのことであった。スラム街に住む人口の四割ほどをしある子供たちも、決して充分な教育は受けておらず、失業者も多くて平日の昼間だというのに若い働き盛りの男たちがゴロゴロしているのが目についた。
このスラム地域は、幸運にも強制立ち退きや移転に関する問題は未だ緊迫していないとはいえ、NGO(非政府組織)と言われるどこの民間公益団体からも支援を受けていないたあ、なんとかわれわれに協力してほしいという要請を申し入れてきた。そこでわたしたちは、住民委員会の人たちと協議を重ね、まず図書館をつくることにした。図書館は集会所にもなるし、なおかつ情報センターにもなり、子供たちの識字教育にも役立つとの観点から、多目的なコミュニティi・センターとして構想されたのであった。
スラムの中で、地域活動をやりながらその地域の開発を行っていく場合、最も大切なことのひとつは、住民たち自身がその地域の問題に気づき、そして行動し、目覚めていくということである。このことについては、わたし自身も活動をやっていくうちに気づいたことであるが、人から言われてやっているうちは継続も発展もなかなか生まれず、活動が地域に根付かない。
そのたあ、たとえば教育の重要性や住民権の大切さ、あるいは人と人との連帯感など、住民たちの多くが関心を示し、そして行動に移していくまでにはある程度の時間を費やさなければならない。とりわけ、わたしたちと住民との信頼関係ができるのかどうかがまず第一の問題である。それが一年なのか十年なのかはケースによってもまちまちであり、わたしたちも試行錯誤を繰り返さなければならなかった。
わたしたちは住民委員会という自治組織の協力のもと、住民図書館を建設してタイ人スタッフを図書館員兼調整役として配置し、絵本などを持ち込んで、まずは子供たちを対象に活動を開始した。共同体の中でもど真ん中の、とても風通しのいいところに作った東屋風の高床式建物で、スラムの子供たちは喜び勇んでかけつけた。と、そこまではよかったのだが、本は無くなるし酔っ払いは来るしと、大変なスタートとなった。
住民委員会が存在するといっても実質上は名目だけで、地域の活動に実際関わってくれるのは十五人中、わずか三、四人程度であり、内部はいつも利権争いでもあていた。会合をやるにしても、夕方なので何人かは必ず酒を飲んで参加してくるたあに喧嘩は絶えず、決して人の意見を聴こうとしない人も何人もいた。ひとりが話し出すと他の何人かが必ず自分の意見を同時に主張しはじめ、話し合いはいくらたってもまとまらない。ある時わたしは、スラムで女性同志の喧嘩の仲裁に入ったものの、解決できずに往生したこともあった。
また、当時タイの一流大学を卒業してこの活動に参加していたボランティア・スタッフは音をあげ、図書館の利用について厳しい規則を強いたりなどするに至ることもあった。しかし、住民の人たちとのやりとりを続けていくうちに、いろいろな芽が育ってきたのも事実であった。活動を進ある過程の中で、外部から参加した何人もの優秀なスタッフがスラムに馴染あず去っていくことになったことは残念であったが、その反面、少しずつスラムの若者たち自身が図書館を手伝い始めたり、住民たちの協力のもと本の紛失も無くなり、利用者もだんだんと増えてくるようにもなったのである。

スラムのある少年

そんな中で、わたしたちはある少年に出会った。本名はコム・ムエンチャナ。十一歳で、ニックムームはノーン君。ノーンというのは、タイ語で「芋虫」とか「ウジ虫」というような意味がある。彼は東北タイのロイエット県というところの出身で、八人兄姉の末っ子として育った。彼の父親はトーンデーンさんといって、奥さんとの間に八人もの子供がいたにも拘らず、十年ほど前に奥さんに逃げられた人である。トーンデーンさんは、田舎では土地を持っていなかったので、小作をしたり、米運びなどの日雇いをしていたが、生活が苦しいのでノーン君たちを連れてバンコクに出てきたとのことであった。
ノーン君とすぐ上のお兄さんのロード君は、地元の村で小学校に通っていたが、三年ほど前にスアンプルー・スラムに移り住んでからは学校へも行けず、いつも廃品回収をして家計を支えていた。その合間をみてはわたしたちの造った住民図書館に顔を出していたが、図書館員をしていたスタッフの話によると、彼らのお父さんのトーンデーンさんは、よく子供の稼ぎでパッポンというゴーゴーダンスのある繁華街に、きれいな格好をして遊びに出かけているとのことであった。後で知ったのだが、トーンデーンさんの娘さんは家が貧しいためにゴーゴーバーで働いており、そんなところへせっかく子供が稼いだお金をもって父親がまた遊びにいっているという、何とも言いようのない話に頭を抱えてしまったこともあった。
ある日、そのノーン君は耳に激痛が走るといってわたしたちの事務所を訪ねてきた。医者に連れていってみせると慢性の中耳炎で、両耳の鼓膜はすでに大きく破れ、放っておけば聞こえなくなってしまうとのことであった。私立の病院だと、手術に片方の耳で一万バーツ(一バーツ約六円)以上のお金がかかるというし、そのような額はタイの人たちにとっては大金である。国立の病院は安いがいつも混んでおり、数か月待たないと手術はできないという。わたしたちは困り果て、頭を抱えてしまった。
ところが幸いこのことでわれわれが悩んでいる時に、たまたま日本からきていた某テレビ局の人がこのニュースを取り上げ、ノーン君への寄付が寄せられたことでなんとか急場をしのぐことができた。渡りに船とはまさにこのことである。日本人にとってはほんのわずかなお金でも、スラム街などで困っている人にとっては一生を完全に左右するほどの大きな価値を持っている。それが、この経験からわたしが学んだ、世界の経済格差の矛盾である。
この寄付により、ノーン君もロード君も年間二万円あまりのお金で小学校に復学できることにもなり、二人とも試験を受けてめでたく二年生に編入することとなった。そして、わたしたちはノーン君たちのケースがこの国ではほんの一例にしかすぎず、何十万人もの子供たちが同じような苦境にたたされ、悩まされているということを知っておく必要があると思い知らされた。

スアンプルーでの新たなスデップ

さて、住民図書館には当時ノーン君のような子供たちが十人ほど通っていたが、たまたまそこを手伝っていた若い住民の女性が子守が好きだということで、図書館はいつのまにか保育園のようになり、子供たちに文字を教えるようになっていた。自分の子供が図書館に通うようになれば、当然、親やそのほかの保護者たちも何事かと思い、そこに足を運んでくる。これは大人たちに子供への教育というものを認識してもらう上で、とても重要なことになった。
実際に、相手に対していくらロで理屈を言ったところでわかってもらえるものではないが、こうして自分の子供たちが今まで家では見たこともないような輝いた目をしながら食い入るように本を読んだり、文字の書き方を覚えていることは、スラム街の大人たちにとっても驚きと共に喜びであった。子供たち自身も、観たちに見られているということで安心感や愛情を感じているのであった。
住民委員の中でもとても弁のたつデーンさんという広報担当の人は、よく図書館に顔を出していたが、これを見逃さず、保育園をスラムにつくろうと住民に触れ込み回った。今から三年半ほど前のことである。その年は、東北タイの旱魃の状況が例年よりもさらにひどく、大勢の農民たちが雨を待ちきれずに毎日のようにバンコクへ押し寄せてきていた時期であった。
スアンプルー・スラムは、当初はまだ沼地の半分ぐらいしか占拠していなかったのが、ゴルフ場の建設で強制立ち退きに合い、おいやられた近所の別のスラムの住民たちの流入も重なって、みるみるうちに居住者が増えていった。それまでは四百世帯、二千数百人だったのが、なんと七百世帯、約四千人ぐらいにまで膨れあがったのである。この状況にあわせるようにして、わたしたちは保育園の建設を急ぐことにした。
タイの地域社会では、生活していく上での精神を養うという意味で、寺院や学校等が大変重要な役割を果たしており、住民にとっては、とても大切な心の拠り所となっている。このことからも、スラムに柱を築くため、敷地の余裕があり、住民たちが保育園をつくるという心の準備が整っているうちにと、みんなで住民ボランティアを募り、作業にとりかかることにした。
このプロジェクトも運よく日本のあるチャリティー団体から支援していただくことが決定し、それに住民たち自らの募金もあわせて、埋め立て作業や、建設作業を行うことになった。ある人は大工さんの仕事をやり、ある主婦は裏方で炊き出しに回ったりと、とてもそれまでは連帯に欠けた人たちなどとは思えない相互協力であった。
もちろんトラブルも続出した。建設となれば利害関係が生じ、その主導権争いも当然発生することとなった。たとえば工事にとりかかる前、わたしたちは住民委員会の人たちと協議を何回も重ね、学校運営委員会というものを設置し、そこにこの建設に関する責任を集約させていこうとしたのであるが、まずその運営委員会のメンバーの選択で住民委員会が分裂してしまった。そこで試行錯誤したあげく、最終的には双方の意見を全部飲んだ形で決着がついたが、工事が始まると、今度は人件費の支払いの件でも問題が発生した。いくら住民ボランティアといっても、大工さんたちだけにはそれなりの費用を支払うことにしていた。しかし、このことがもとで他の住民から不満がふきだし、わたしたちのボランティア会事務所に十数人が直訴してくるといった騒動が生じた。
わたしたちはとにかく話し合いを何度も行いながら、お互いに妥協できるところはし合い、時間をかけて進あていくことに心がけた。保育園を建てるぐらいのことは、業者に発注すれば簡単にすむことだが、なるべくそれを地域の人たちとの共同作業で進あていくということが大切であることを、われわれはこれまでの体験から熟知していたからである。スラムの問題は、住民が参加してお互いが協力し合いながら取り組まないかぎり、決して改善されない。それが、われわれがここで学んだ一番大きな成果でもあった。
さて、こうして住民の参加による小さな保育園が、二か月ほどかかって出来上がった。完成前は、図書館で三十人ほどの子供たちしか預かっていなかったのに、完成後には申し込みが殺到し、ほぼ百五十人で受け入れを打ち切らざるをえなかった。
入園児の全員を無料で預かることはできないので、両親に教育の必要性をわかってもらう意味でも一日一人当たり三バーツ(一バーツ約六円)の負担をしてもらうことにした。先生たちも、スラムの住民の中から保母の資格のある人が参加し、質の向上も計られるようになった。また、そのうち学校運営委員会の方も住民委員会とうまく調整がとれるようになり、PTAのような形で保護者たちも参加してくることとなった。
さらに、住民委員会は、タイ政府の総選挙の時期などとも重なって、政党や各種の団体など、いろいろな形で地域の人々を巻き込む結果となり、当局からの協力も以前よりずっとよいものになった。住民図書館にしても、住民の約四十パーセントにあたる千七百人もの人が会員となって利用し、昨年暮れには、バンコク市より住民の連帯のとれた共同体として表彰されるまでになった。
当然まだ解決しなければならない問題は多く残っている。たとえば麻薬やアルコール中毒者の問題や子供たちのシンナー遊び、居住権に関する土地の問題などである。今ここでとりあげたこのスラムの例は、とても成功しているバンコクのスラム・プロジェクトのひとつであり、決して、現在千七百か所ぐらいあるといわれる地域が、すべて改善されているとは限らないということである。スアンプルー・スラムにおいてわたしたちは、様々な問題を解決していく上でいかにそこに住んでいる人々の果たす役割というものが大切かを教えられた。

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