暁烏敏賞 平成6年第1部門本文「「団七踊り」の生命力「奥州白石噺」の系譜とその思想にふれて」3
第10回暁烏敏賞入選論文
第1部門:【哲学・思想に関する論文】
3、「奥州白石噺」をめぐる諸芸能
「奥州白石噺」を題材とした演目をもつ芸能が、全国各地に分布しており、確認できるだけでも百ヶ所近くに及んでいる。
手もとに集積された資料を、芸能別、地域別に整理すると別表のようになる。(10)
地域的に見れば、北は青森・秋田・岩手・山形・福島から、新潟・富山・石川・長野・栃木・埼玉・東京・静岡・和歌山・大阪・兵庫・鳥取・島根・山口をへて、南は徳島・愛媛・高知の四国諸県、福岡・大分・長崎・佐賀・宮崎・熊本・鹿児島の九州全県に分布し、さらに沖縄にまで及んで、まさに日本全国に分布しているといっても過言ではない。
さらに芸能の形態から見ると、なまの浄瑠璃・歌舞伎のほか、神楽・盆踊り・口説・にわか・狂言・人形芝居・組踊りなど、まさに多彩をきわめている。
青森県では津軽じょんから節の口説の中で歌われ、秋田県では神楽の一種番楽の演目となり、岩手県では神楽のほか田植え踊りの狂言として、福島県では念仏踊りの歌・踊りとして、……佐賀県では川原狂言の一演目として、宮崎県では高千穂一帯
の盆踊りの中で、熊本県・鹿児島県では棒踊りで、……一つ一つについてふれればきりがないくらいである。九州南端の種子しま島には、島内二十ヶ所の集落になぎなた踊り(団七口説)がある。(12)
さらに、沖縄の組踊りの一演目「姉妹敵討」は、県内十三ヶ所に分布しているが、これも、「奥州白石噺」・「団七踊り」の一変形と見てよいであろう。(13)
奥州逆戸村の百姓与太郎が宜野湾伊佐村(ぎのわんいさそん)の百姓大山下庫理(おおやましたくり)に、宮城野・信夫が亀松・乙鶴姉妹に、志賀団七が謝名の大主に、由井正雪が湧川(わくかわ)の按司(あんじ)にというふうにすっかり沖縄化され、物語の内容もかなり大きな変化をしているが、支配階級の不当な仕打ちによって父親を殺された百姓の娘姉妹が、剣術指南の指導と援助のもとに、ついに父の仇きを討ちとるという筋は、「奥州白石噺」に酷似している。
二人の娘亀松・乙鶴姉妹を侍女として召し出せという謝名(じゃな)の大主の不当な要求に対して、百姓大山下庫理(おおやましたくり)は、
いかな下々の どんな下々の
百姓よやても 百姓であっても
御勢に任ち お勢いにまかせて
無理な事めしやらめ 無理な事おっしゃるか。
たとえ一刀に たとえ一刀のもとに
殺されよしちも 殺されようとも、
此仰す事や この仰せ事は
御請けなやへらぬ お請けできません。
と言って抵抗し、ついに殺されてしまう。残された二人の娘たちは、
哀り父親や あわれ父親は
罪科もないらぬ 罪科もないのに、
子二人がために 二人の子のために
殺されておれば 殺されているので、
女身よやても 女の身であっても
只やみのなよめ 放っておくことができるか
と、敵討ちを決意する。姉十七歳、妹十六歳。
父大山下庫理と娘亀松・乙鶴姉妹のセリフのなかに、「奥州白石噺」の精髄が脈々と息づいている。(14)
双方名乗り合った後、笛・太鼓のはげしい囃子にあわせて、三人がたちまわる仇討ちの場面は、本土各地に伝承される「団七踊り」のありさまを彷彿させる。
一つの物語が、文字通り日本全国にわたって、これほど広範な地域にしかもこれほど多様な芸能のなかに組み込まれた例は、おそらく他にその類を見ないであろう。
4、「奥州白石噺」と民衆思想
文学や芸能を通して世にひろめられ、多くの人々の共感をえた仇討ちには、実説と虚構との区別がきわめて不明確なものが多い。江戸時代末期にさかんに刊行された「仇討番付」には、確実な史実と明らかな虚構とが、何の区別もなしに渾然とならべられている。
民衆にとって仇討ちがもった意味について、尾崎秀樹氏は、次のように述べている。(15)
「あるところで敵討ちが行われる。すると早速それがかわら版にのる。現在の日刊紙が週刊誌と思えばいい。人気をあおり立てたところで、目さきのきく作者によって浄瑠璃や歌舞伎に仕組まれ、また草双紙や祭文の形式で、全国津々浦々へ波及する。こうしていったん庶民のイメージに定着したものが、今度は逆に、事実そのものまでゆがめて行き、その認識に立って、改めて新しい敵討ち物が書下ろされる。こうなると、噂さが噂を生んで、どれがもとのかたちなのかわからないところまで発展してゆくものだが、庶民の好みによってふくれあがる噂さと、そうでないものとに二分されることは見落せない。……(芝居や小説の題材として)伝承されるものとされないものとの区別は、それが大衆の夢を培うか、否かにかかっているものらしい。」
「大衆にとっては実際にどうであったかということが大切なのではなく、その物語がどのような欲求をみたしてくれるかが主要だからだ」と。
「奥州白石噺」の成立と展開の過程は、まさにその典型であったといっていい。
武士の不当な仕打ちに対するかよわい百姓娘姉妹によるけなげな闘い、成立の当初から物語の主題は明確であった。
全国各地に分布する「団七踊り」は、「奥州白石噺」の主題を芸能の形で象徴的に表現したものであり、それこそまさに「団七踊り」の生命力であると言っていい。
そこで演じられるのは、ほとんど草取りの場で百姓与太郎が切り殺される場面と、宮城野・信夫姉妹による志賀団七討ちとりの場面、つまり、百姓が武士から受ける不当な仕打ちと、それに対するたたかいの場面に限られている。
袴にはねた泥水に難くせをつけて、志賀団七が悪口雑言のかぎりをつくし、百姓与太郎が必死に詫びるのも聞き入れずついに切り殺してしまう場面が、微に入り細にわたってえがかれる。
さらに、意をつくして謝ってもまったく通じないことを悟った与太郎が、鍬を振りあげて立ち向かっていくという筋になっているところも、二三にとどまらない。
ここには、この物語にこめられた民衆の思想が、もっとも端的に表明されているといえよう。
「宮城野・信夫の事と、ゼファーソンの筆と、是れ正に余を駆りて自由民権の義軍に投ぜしめしもの」−福島自由民権運動の指導者河野広中の言と伝えられるこの言葉は、「奥州白石噺」が民衆思想に与えた影響のもっとも顕著な表明である。
明治十五(一八八二)年におこった福島事件は、明治十七(一八八四)年の加波山事件・秩父事件へとつづく自由民権運動の最激化事件の一つである。この事件の全経過を通して中心的な指導をしたのが河野広中である。
明治四十二(一九〇九)年に刊行された田岡嶺雲(たおかれいうん)主筆の雑誌『黒白』に掲げられた「明治叛臣伝」の中に、河野広中の略伝がおさめられている。歴史家家永三郎氏が発見し、広く世に紹介したものだ。(16)
「君は幼にしてその母その祖の腕に抱かれ、俚俗が伝ふる宮城野・信夫の復仇謳を聴くことを好み、反復そのことを話せしとかや。……
君が幼弦にしてこの悲壮なる俗談を稔聞し、長ずるに及び、普天の下、王臣に非ざる無きを知るに従ひ、非理非道非義非仁は必ず階級制度より起るを深く牢く銘記し、躬から古名家に生れたるを忘れ、四民平等の理想を作りし矢先、忽ち北米合衆国独立の宣言を読むに及び、総身の血湧き肉ふるひしゃ知るべきのみ。
君曾て語りて曰く、宮城野・信夫の事と、ゼファーソンの筆と、是れ正に余を駆りて自由民権の義軍に投ぜしめしものと。」
すなわち、自由民権運動の指導者河野広中が、四民平等の意識に目覚め、自由民権の運動に挺身するにいたった重要な要因として、彼が幼少年時代に母や祖母から聞いた宮城野・信夫の物語と、青年時代に接したトーマス・ジェファーソンの筆になるアメリカ合衆国の独立宣言文があげられている。しかも彼が独立宣言文を読んで、「総身の血湧き肉ふるひし」根底に、宮城野・信夫の仇討ち物語を通して身につけた「非理非道非義非仁は必ず階級制度より起る」という社会認識があったことが述べられているのである。
アメリカ合衆国の独立宣言文が河野広中の思想変革の重要な契機になったことは事実であるが、独立宣言文を読んでその意味するところを正しくとらえ、自らの政治理念として受け入れるだけの思想的基盤が彼の中にすでに培われていたこと、それを育んだものの一つが「奥州白石噺」であったという述懐は、きわめて意味深い内容を含んでいる。
明治以来のわが国における民主と進歩の運動が、近代ヨーロッパの思想や文化の受容を重要な契機として前進したことは否定すべくもない事実であるが、それらと接触した当時の日本の社会の中に、日本人自らの手によって準備されていた近代への志向があったことを見落としてはならないだろう。
「奥州白石噺」からアメリカ独立宣言文へ、自由民権の思想に大きく目を開いていった河野広中の成長過程は、幕末世直し一揆から自由民権運動へと発展していった日本人民の民主と進歩の道筋の一つの象徴的な姿といえよう。
5、「団七踊り」の生命力
江戸時代の末期、幕藩体制が崩壊の危機にあえいでいた時期に、百姓一揆や打ちこわし等「世直し」を求める民衆運動の未曽有の高揚があった。政治・経済・社会の各方面での闘いと並行して、文化の面でも、民衆が自らの手で自らの文化を作り上げようとする気運が盛り上がりつつあった。「ええじゃないか」運動の中で空前の流行をみた「伊勢音頭」をはじめとする歌や踊りの盛行は、そのもっとも顕著なあらわれであった。
農民たちが、自分たちの歌や踊りにあわせて、自分たちの言葉でおもいのたけを歌いあげたのが音頭・口説である。説教や祭文等が本来もっていた宗教的性格がほとんどまったく拭い去られて、農民たちの生活と密着した題材がえらばれた。浄瑠璃や歌舞伎等江戸・上方の町人文化から多くのものを吸収しながら、その全面的な模倣から農民的な消化へ、さらに農民自身による創作へと発展していく。江戸時代の最末期にその頂点に達した音頭や口説は、農民たちが自らの生活の中から生み出したすぐれた農民文学であり、一大叙事詩であった。
しかもそれが全国的に普及し、各地にほとんど共通の内容をもったものが分布していることは、民衆自らの手によって新しい民族文化・国民文化創造の作業がすすめられていたことの証といってよいであろう。
「奥州白石噺」の展開過程で生み出された「娘仇討ち白石口説」と「団七踊り」は、幕末維新期における民衆文化の壮大な高まりと広まりを象徴する記念碑的な存在というべきであろうか。
加賀平野の一農村に伝承される郷土芸能「団七踊り」のルーツ探しからはじまったこの作業は、当初の予測をはるかにこえて広く深い根っこにたどりついた。だが、これまでに解明してきたことは、「団七踊り」の全体像のほんの一部にすぎないであろう。その根っこはもっと深く、そしてもっともっと広いにちがいない。
「団七踊り」の誕生と伝播の経過をたどり、そこにこめられた人々の意識や思想をさぐることは、単なる一芸能のルーツ探しといった意味をはるかにこえて、日本の民衆文化、民族文化の根源とその本質をさぐることに大きくかかわるものであるかもしれない。
全国各地に伝承される「団七踊り」は、今も確実に生き続けている。
一九九三(平成五)年二月十四日、新装なった愛知県芸術劇場で、開館記念協賛事業として、「第三回団七踊りとともに」が開催された。佐塔豊淑風女史が主宰するこの発表会には、宮城県白石市の「白石和讃」と「白石団七踊り」・徳島県宍喰町の「宍喰団七踊り」・愛知県名古屋市岩塚町の「岩塚団七踊り」・和歌山市岡崎の「岡崎団七踊り」・宮崎県延岡市の「ばんば踊り(志賀団七)」・同県諸塚村の「黒葛原団七踊り」の六団体が出演し、大ホールをうずめた一七〇〇人の観客の喝釆をえた。(17)
「白石団七踊り」は、「白石噺」のふるさと白石市の民謡民舞保存会の人たちが、一九七二年に和歌山市岡崎の「団七踊り」を導入したものである。二十年の歳月をへてすっかり地元の郷土芸能として定着し、毎年かならず上演されているという。同じく静岡市から導入したという「白石和讃」は、女性たちの哀調切々たる歌声が心にしみた。「延岡団七踊り」では、若い保母さん達が演じた宮城野・信夫姉妹の薙刀・鎖鎌によるたちまわりがみごとであった。「黒葛原団七踊り」では、鍬を振りあげて立ち向かう与太郎と志賀団七のたちまわりが延々と演じられた。
各地の芸能の特徴をそれぞれ大切にしながら、宮城野・信夫の仇討ち物語が生き生きと描かれている姿をまのあたりにして胸があつくなった。
沖縄県では、ここ数年来郷土芸能の復興がさかんである。とくに近年、「組踊り」の復興が、県内各地の町や村で取り組まれている。五十年、六十年ぶりで復活されたという事例も少なくない。復興された演目の中に、「姉妹敵討」が多く含まれている事が注目される。(18)南風原町本部区では、昭和十一(一九三六)年に演じられて以来途絶えていたものが、一九八九年に、実に五十三年ぶりに復活されたという。(19)沖縄戦をへて、アメリカ軍政下で困難な基地反対闘争をたたかい続けてきた伊江島に伝承される組踊り「姉妹敵討」のこととあわせて、この芸能のもつ生命力の強靱さを痛感させられる。
郷里松任市をはなれ、東北秋田の地に住んで二十五年の歳月が流れた。全国各地の芸能の調査・研究にたずさわりながら、郷里柏野の「団七踊り」にふれる機会をもてないまま長い月日をへてしまった。幼い日に父の膝に抱かれて聞いた「娘仇討ち白石口説」の歌と、若い日に自ら踊った「団七踊り」の記憶が、しきりに懐かしく思い出される昨今である。
ふるさとの芸能「団七踊り」が末永くその生命力と輝きを保ちつづけることを念じつつ、筆を擱きたい。
(一九九四年九月九日)
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