暁烏敏賞 平成3年第1部門本文「契沖の末古古呂(まごころ)について」2

ページ番号1002639  更新日 2022年2月15日

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契沖は『和字正濫妙』の序文を、真事が真言であり、それが真心であることの論証からはじめている。それがたんなる抽象的な論理としてではなく、古典研究によって得られた知見をとおしてなされているところに、契沖の面目がある。古代の日本語では、言と事は未分化なコトという一つの言葉だった。コトから言が、コトバ・コトノハと分離しはじめるのは、奈良時代以降のことである。この事実から、古代という黄金時代を夢想するか、あるいは呪術的世界における言霊を云々するか、またたんに観念の未熟を見るかはともかく、契沖の記すところはきわあて倫理的である。原文は漢文だが読み下しておく。
「日本紀の中に言語等の字を訓むで末古登と云ふ。(末古登ほの)末は真なり。言を美むは詞なり。木を真木と云ひ、玉を真玉と云ふ類ひの猶し。古登は事の字により、訓義並びに通ず。蓋し至理は事を具して翼輪相ひ双ぶ。事あれば必ず事あり。言あれば必ず事あり。故に古事記等常に多く(事と言の字を)通用す。
心に於て偽り無きを末古古呂と日ひ、言に於て偽り無きを末古登と日ふ。信を以て(仁義礼智信の)五常を串ぬく。信は誠なり。人と言(と二つの字を合はせ)信と為するに準ずるに、(城などゝ)心にしたがへずして、(誠と)言にしたがへ、字を訓ずる者、(心にしたがへ)末古古呂とは言はずして、(言にしたがへ)末古登と言ふ。(このゆゑは)心の愨実全く言中に在りて、信を外に取るに因りてなり。また信の古文は?なり。字を製する意を案ずるに、言は即ち心なり」
これは不思議な魅力のある文章である。言と事が通いあい、心の中に溶けてゆく。私はこの文章を初議した時、真心という大きな円に、真言と真事という小さな円が、なかば重なりあった曼荼羅を聯想した。契沖は「有事必有言。有言必有事」と、色即是空、空即是色と同じ論法で記しているが、彼こそこの事実に最初に気附き、もっとも鋭敏に反応し、.正確に表現し得た人だと言ってもいいだろう。もちろん密教の言語観という教養がその因である。なお文中の「懇」は、『広韻』に「誠也」とある。また「古文」とあるのは、漢代の隷書を今文と呼ぶのに対して、先秦の蝌蚪文字をそのように呼ぶ。
ところで『万葉代匠記』(代匠記には初稿本と精摸本の二種があるが、以下の引用では平仮名表記が初稿本、片仮名表記が精摸本)の惣釈にも、右の文章の草稿といった文章がある。そこでもまた、信の字と誠の字が心ではなく言に添っていることを記したのにつづけ、訟ではなく唄の字を取りあげ、「唄の字の口真に従ふがごとき、猶ふかきむね有るべし」と記し、口を噤んでいる。唄は『玉篇』に「声也」とあるので、空海の『声字実相義』を踏まえてこのように言ったとしてもいいだろう。
「内外の風気緩かに発すれば必ず響くを名づけて声と日ふ也。−中略−声発って虚しからず、必ず物の名を表するを号して字と日ふ也。名は必ず体を招く。これを実相と名づく」
このような声が嗔と口と真であることから、「字を製する意」の深さを思っての「猶ふかきむね」だと思われる。ただ声ではなく字のこととなると、契沖も「此国に神も人も文字を作り給はぬは、漢土にならひて然るべき故あるなるべし」と記しているように、文字の本有を説く立場からすれば、この国が独自に文字を持ち得なかったのは、「然るべき故」が想定し得ない訳ではないが、やはりコンプレックスではなかったかと思われる。契沖の和字の濫れを正すという仮名遣の研究には、このコンプレックスへの補償という面があったのではないかと、私は考えている。このように考えなければ、橘成員の著した『倭字古今通例全書』の誤謬を指摘した『和字正濫通妨抄』において、契沖が成員を常軌を逸して愚弄罵倒している心情のよってくるところが、理解し得ないのである。契沖にとって言葉の研究とは真理の探究であり、それは実相の顕現であるべきものだった。彼が乱れのない古代の仮名表記から、言霊の幸はふ国語の一大組織を想い描いたであろうことについては後に解れる。それよりもまず、嗔の字を云々したあとにつづく、次の文章に注目しよう。
「言の中に精華なるを、もろこしには詩といひ、此国には歌といふ」
この文章は二つの方向に解することができる。芭蕉は「俳諧の益は俗語を正す也」と言った。俳諧の俗語は和歌の雅語との対語だが、ここでは広く、漢語をも含あた日常語と解しておいていいだろう。俗語が抜群の手腕により、句の中にかけがえのないものとしてその所を得る。芭蕉の作品が日本語の精華であるゆえんである。もう一つの方向は、やはり倫理的な方向であって、たとえば孔子が『詩経』三百篇を評し、「一言以てこれを蔽ふ、曰はく思ひ邪なし」と言ったように、真言が真事であり信や誠が心ではなく言に添うという文脈における精華である。もちろん後者の意で精華と言ったのだろうが、前者の意がないとも言いきれない。では次に、契沖が歌をどのように論じているかを見てみよう。『万葉代匠記』の惣釈からの引用である。
「歌ハ胸中ノ俗塵ヲ払ウ玉箒ナリ。−中略−詩歌二心ヲヨセム人ハ、雪月花ノ時ヲ恋ヒ、琴詩酒ノ友ヲ慕ヒ、或ハ雲居ハルカニ郭公ヲマチ、或ハ枕二近キ蟻蜂ヲキゝ、常ナキ事ヲサメタル夢二喩へ、限りアル世ヲ残レル燈ニヨソエテ、心ウチニ動テ言外ニアラハルレバ、松ノ声吟二添ヒ、鐘ノ吉和ヲナセリ。彼ノ名ヲ墜シテモ利ヲ得ム事ヲ貧リ、身ヲ傷ヒテモ富ヲ求メム事ヲ謀ル輩ハ、浮べル雲脚ノ月ヲ隠シ、濁レル水心ノ蓮ヲ越テ、守銭ノ奴弥マドロム事ヲ得ジ」
いかにも没落した武士の子らしい、それも大坂に住していた僧の反俗精神が読みとれて興味深いが、これはあまり重用なことではない。それよりも、心の塵を払えば、そこにまどかな月や蓮のうてなに喩えられる自性清浮心が、おのずから顕われるはずだと、ここにはっきり記されている事の方が重用だろう。「心ウチニ動テ言外ニアラハル」は、『毛詩』の大序の「情中に動きて言に形る」を踏まえているが、それが「松ノ声吟二添ヒ、鐘ノ音和ヲナセリ」とつづくのが面白い。契沖は同じ惣釈の中で、松にはもともと声は無く風にもまた声は無いが、この二つが出合うことによって松声が起るといった内容の詩を取りあげ、「声ノ本有ヲ知ラザルナリ」と論難している。すでに文字の本有について記しておいたので、あらためて説明するまでもないだろうが、一応記せば次のようになる。松の声は風という縁によって起るのではあるが、松の中に声が本来有るものでなかったら、どうして縁によって顕れることが出来るだろうと。また本有が人間において云々される時は、人間が悟り得るのも、悟りに至る知慧を本来有しているたあであると説かれるのがつねである。このように記してくると、さらに次のように言いたくなる。松声が本有としての法身説法であり得るなら、人間の歌も法身説法たりうるかと。これは契沖にとっては、けして愚問ではなかった。ただ歌というものを身にしみて知っている彼には、これは大変微妙な説問だった。彼は西行を慕わしくし憶う。やはり『万葉代匠記』からの引用である。
「西行法師、明恵上人に対して、我は和歌一首よみ出ては、卒堵波一本作ると思ふと申されけるは−中略−奥秘の義に達してかくは申されけるにこそ。千載集に、高野の山を住みうかれて後、いせの国ふたみの浦の山寺に待けるに、大神宮の御山をば、神路山と申、大日如来の御すいしやくをおもひて読待りける。

深くいりて神路のおくを尋れば
またうへもなき嶺の松風

国を大日本と名づけ、神を天照大神といふも、をのつから大日遍照尊に冥合せり」
ほんとうのところ良く分らないのだが、この西行の歌は、理にすぎるようでもその深い内観を思えば、やはり名歌なのだろう。ただここで中世の秘伝あいた歌の解説を記すまえに、「西行法師、明恵上人に対して」云々とある『明恵上人伝記』の有名なエピソードを、まずここに取りあげておく。
「西行法師常に来りて物語して云はく。我歌を読むは遙かに尋常と異なり、華・郭公・月・雪、都て万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なる事、眼に遮り耳に満てり。B又読み出す所の言句は、皆是真言に非ずや。華を読めども実に華と思ふ事なく、月を詠ずれど実に月と思はず。只此の如くして縁に随ひ興に随ひ読み置く処なり。紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かゞやけば虚空明らかなるに似たり。然れども虚空は本、色どれる物にも非ず、又明らかなる物にも非ず。我又此の虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どると云へども、更に蹤跡なし。A此の歌即ち是如来の真の形躰也。C去れば一首読み出でゝは一躰の仏像を造る思ひをなし、D一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我此の歌によりて法を得る事あり。若しこゝに至らず妄りに人此道を学ばゝ、邪路に入るべしと云々」
文中の「又読み出す所の言句は、皆是真言に非ずや」という一文は、本来「此の歌即ち是如来の真の形躰也」の次に存るべき一文だろう。これは熟読すればすぐ気附くことだが、記号を附しておいたように、AだからCでありBだからDであるという構文が、AだからまたBだからCでありDであると技巧的に変形された構文だと思われる。少なくとも私はこのように読んでいる。それはともかく、西行が寂した建久元年(=九〇)は明恵十八歳の年なので、このエピソードはやはり虚構だろう。それでもこの文章の魅力に引かれ、七十一歳の老歌人と十六歳の少年僧の高尾神護寺での座談を想定する西行学者は、けして少なくないようである。たしかに漠然と読あば、真言の法系にあった不世出の大歌人西行に、ぜひ言って欲しくなるいかにもといった台詞である。それにしても、

おろかなる心の引くにまかせても
つひさてさわいかに終の思ひは

と、己れのおろかさを正直に見据えた西行の歌の姿と、この高踏的できわめて明折な論理の文章の姿との、なんと遠いことか。以下は私なりのパラフレーズである。『明恵上人伝記』の中の文章なので、少し華厳的な味附けをしておく。
万物のあらゆる相がすべて虚妄であるというときの相は、私たちが常識的に花なら花を花として理解している認識をいう。この相は性との対語であって、明恵が『擢邪輪』の中に、「相を敵し性を照して、観心をして滞りなからしむ」と記しているように、花の本質である性への、認識を超えた認識に高められなければならないとされている。花を詠んでも花と思わないと言ったのはこのたあである。また現象世界はもろもろの条件が依存しあった縁によって生起しており、花もまた縁起にほかならない。しかしそれはまた、法性がそのまま顕現した性起にほかならない。だから縁に随い興に随い詠む歌は、花の相は性として、花の生起は性起として観じる直知によって詠まれたものでなければならない。このような歌を詠みだす心を、虚空に喩えてもいいだろう。虹が架れば空は七色に彩られるが、虚空はもともと彩られたものではない。花を詠あば心の上に風情を彩るようでも、いま述べたような境地に達していれば跡かたもない。そして興のまま巧まず詠みだされた歌とは、虚空のような心におのずから性起した法性の顕現としての歌である。ゆえにこの歌は法身如来と同体ではないか。真言ではないか。
性起説を持ちだすまでもなかったかもしれないが、この読み筋においても大過はないだろう。また先に阿字について記した言語論が、さらに歌論へと発展展開したものとして読めるように記しておいた。それにしても良く出来た美しいヴィジョンである。しかしそれでもなお、歌道が仏教においては本来邪道であることからくる綻びが見えてくる。花を花と思わないで歌が詠あるものではない。「興に随ひ読み置く」とある興は情であって、相に執した虚妄の筈である。この興を『吾妻鏡』の筆者は動感と記した。西行は頼朝の質問に答え、「花月に対し動感の折節に、わっかに三十一字を作るばかりなり。まったく奥旨を知らず」と語ったという。西行の名歌をもう一首だけ引いておく。

あはれわが多くの春の花を見て
染あおく心たれにゆずらむ

ところで契沖は、「去れば一首読み出でゝは、一躰の仏像を造る思ひをなし」とあるところを、「我は和歌一首よみ出ては、卒堵波一本作ると思ふ」と記しており、記憶によって引用したのかとも思えるが、おそらく伝聞によりこのように記したのだろう。この記述が初稿本のみにあり、精摸本にはないことが、その証左ともなるだろう。『万葉代匠記』の註釈の中にも、『水鏡』の記事を『日本霊異記』の記事として伝聞で記している箇所があり、書物が手に入りにくい時代に精一杯のイマジネーションをふくらますさまが感動的ですらある。もし契沖が『明恵上人伝記』を所有もしくは抜書きでもしていれば、彼は全文を引用したのではないかと思われるが、しかしどちらにしてもそうはしていないのだから、この片言にあまりこだわる必要はないだろう。たしかに彼は、「沙石集に和歌は日本の陀羅尼なりといへる」というふうに、無住という先人に同意する形で、和歌は真言だと言っている。ただその論拠となるのは、「陀羅尼ハ一字二千理ヲ含ム故二、漢土ニハ掘持ト云ヘバナリ」とあるとおり、和歌の重層的な多義性にある。契沖が西行の伊勢での歌を引いた真意も、自然と神と仏の冥合というテーマによる、この多義性にある。神路の奥に深く入り尋ねられたのは、自然であり神であり仏であり、嶺の松風とは自然と神と仏が冥合した阿字という実相の顕現だった。この事を契沖はあらわには言わない。真言僧として文字の本有を言い、仮名のことには熱心だった彼も、歌についてはためらいがちである。論理の不徹底を言ってもはじまらない。松声といった自然の音を論ずるように、精神というブラック・ボックスを通した、詠歌という人間のいとなみを、言葉の論からひとつらなりに論じることは出来ないのである。「古ノ人ノ心二成テ今ノ心ヲ忘」れるという態度で歌を訓詁註釈した契沖にふさわしいのは、「虚空の如くなる心」ではなく、「世間ノ人情ニモ叶」う真心なのである。ただここで注意しておきたいのは、空なる心も真心も、自性清浄心という観念を通して見ると、この二つの心はほとんど同義だということである。これは詭弁ではない。人の心に仏性を認める如来蔵思想という発想の因を、人間が原始以来社会的動物であり得るたあの暗黙の普遍認識である真心への直覚に求めれば、答えはおのずからあきらかだろう。では次に、契沖が古典の註釈において、真言が真事であり得る真心を捕えるさまを見てみよう。これも有名なものだが、『伊勢物語』の註釈書である『勢語臆断』の中で、

終にゆくみちとはかねて聞しかど
きのふけふとは思はざりしを

という、『古今和歌集』にもとられた在原業平の歌を評したものである。
「しぬる事のがれぬ習とはかねて聞おきたれど、きのふけうつゆとは思はざりしをとは、たれたれも時にあたりて思ふべき事なり。これまことありて人のをしへにもよき歌なり。後々の人、しなんとするにいたりて、ことごとしき歌をよみ、あるひは道をさとれるよしなどをよある。まことしからずしていとにくし。たゞなる時こそ狂言綺語もまじらめ、今はとあらん時だに心のまことにかへれかし。業平は一生のまこと此歌にあらはれ、後の人は一生のいつはりをあらはすなり」この契沖の評言を宣長が『玉勝間』の中に引用し、「法師のことばにもにず、いとくたふとし。やまとだましひなる人は、法師ながらかくこそ有けれ」と評したことはよく知られているが、大和心や大和魂という古語はあくまで宣長の用語であって、契沖が積極的に主張しているのは、ただ心のまことである。そして『勢語臆断』は、次の個性的な一文によって締あ括られる。
「いまいまとなれる時かゝる歌よまれたるは心の歌となれる故なり」
これは契沖にしか記し得ない魅力的な表現である。心の真事が真言となった真心の歌と言いかえてもいいだろう。契沖にあっては、この真心という中心点によって、言葉の論も歌の論も彼なりに釣合い、また包み込まれるのである。『伊勢物語』の註釈という長い道程の終りに、業平の歌が己れの思想に奇しき契りのように重なり合ってくる喜びが、彼にはめずらしい強い表現になったと言ってもいいだろう。定家は『近代秀歌』の中に、父俊成の教えとして羞じらいながらも、「歌はひろく見、とほくきく道にはあらず。心よりいでゝ、みつからをさとる物也」と記している。自照から悟りへという道は歌とともに古い。しかし註釈がこのような高度な自照に至り得るのは、真に稀有なことである。

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