暁烏敏賞 昭和63年第2部門本文「青少年健全育成活動の在り方」2

ページ番号1002660  更新日 2022年2月15日

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第4回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

第2章 人間性の育成

健全育成とは、心身の健康な子どもを出生するところがら始まり、社会生活に適応のできるパーソナリティの素地が家庭で創られ、これを受けて教育機関や地域が育成していくというプロセスをとるものである。
しかし、社会の変容により家庭の養育機能に著しい変化が見られているので、従来家庭の役割であったものでも、現代社会では児童福祉施設及教育機関が補完または代替えを必要とする面も見られるので、これからは家庭と地域の一体化が必要になってくる。
そのために、これからの健全育成は地域が家庭にたいして一層の有…機的連係が必要となってくるのである。
本章では、この考え方から第二段階に当たる育成のあり方について論及する。

1 幼稚園・保育園期における健全育成

幼児期における人間性の育成は、家庭の養育機能の低下とともに、幼児教育機関がこれを補完しなければならない面がますます増大している。その主なものを次に列挙する。
親子関係の希薄化による愛情欲求不満を代替的ではあるが充足する保育、親子関係の絆を深めるためのカウンセリング、
アニミズム的世界観の時代における情緒豊かな人格の基礎作り、
遊びの体験を通した人間関係と、社会性の育成、
これらの課題は、いずれも幼児期における人間性の形成にとって欠かせないものであるから、これからの幼児教育機関が青少年の健全育成のために担当すべき分野となる。
この課題解決には、次のような機能が強化されなければならない。
基本姿勢として、集団保育のなかにおけるより個別保育の充実を図る、
幼児の人間性の発達をチェックし、教育治療的保育のできる体制をつくる、
家族カウンセリングの機能を強化する、
幼児期段階は、社会生活に向けて飛び立つための準備段階であるから、巣立ちに夢膨らませる心と、情緒の安定は十分に図っておく必要がある。

2 小学校教育期の健全育成

この頃になると、健全な育成の方向にあるものと、逸脱しているものとが見えてくるので、育成姿勢としては、一般的なものと、発達が阻害されているグループとにわけて対処することが必要となる。
教師として大切な基本姿勢は、「子どもは不適応を起こしたくて起こしている子はいない」ということへの理解と行動である。
この姿勢があると、子どもの現わす問題行動にたいして、成育環境から追い詰められて苦しんでいる症状と、一般的な問題行動とを適切に見分けることができるのである。
子どもは、時には親以上の愛情と受容を教師に求めるものである。
教師は指導者であるまえにカウンセラーであって、子どもの喜びも悲しみも共感し、一体感でつながる関係ができないと、子どもの心を理解することができず、適切な指導ができないのである。
子どもは、指導するまえに自分の気持ちを聞いてほしいと願っているのである。
現われた行動よりも、そうしざるを得なかった気持の理解をしたうえで指導してほしいのである。子どもは何時でも良い子になり、認められたい気持を持っていることを信じることができるのが教育者の姿勢であろう。
現代っ子は一般的に大人との会話が不足している。信じられる大入との真剣な話を通して学習することは貴重である。担任には強く近親感を求めているので、限りなく子どもとの対話の時間をもつべきである。
子どもは教壇の上の教師よりも、休み時間など自分たちの世界に飛び込んできてくれる先生に近親感を覚えるものである。
教育には信頼関係の成立は欠かせない要件である。
このような信頼関係のできた対話のなかから子ども一人一人の心情を理解することができ指導が生まれてくるものである。
子どもは、家庭で満たされなかったり、追い詰められて苦しんでいるときには先生に救いを求めたいものであるが、集団的、画一的な教育姿勢だけでは子どものサインを感知することができないのである。
家庭機能の減退を義務教育が補完するためには、子どもから受け入れられる教師像の研究を進めるべきである。
次に、人間性の成長にとって遊び場の不足は致命的である。
小学生期の子どもたちは、沢山の子どもたちの集まる遊びのなかから、体験を通して人間関係を学習していくものである。
子どもたちの作り出す集団遊びは、仲間づくりの大切さと参加の喜び、耐えること、譲ることの必要性、ルールや連帯の大切さ、思い遣りの心まで社会生活の縮図のような学習効果があるのである。
現代っ子には、遊びを通して成長する姿が極端に少なくなっている。このことが人間関係の障害を生み出し、思いやりの心が育たない原因にもつながっている。
現代社会においては、教科学習以上に人間性の教育が必要になっている。この教育の最も重要な部分に遊びがあることを認め、地域で失われている遊びの体験を、教育場面のなかでも積極的に補完することを研究する必要がある。

3 中学校教育期の健全育成

この時期は、心身に著しい変調が見られ極度に不安定になりやすい時期である。
第一に、思春期の体の変調であり、第二に、保護依存期から自立期への精神的変調である。
第二次性徴は、未知の世界にたいしての強い不安とあこがれの葛藤状況に追い込む。生理的な変化からは逃れるすべもないのに、回りからは道徳的な立場からの規制的な言動が入ってくるばかりで、適切な指導をしてくれる人がいないので、未知な世界だけに混乱するばかりである。
子どもたちは、自然に訪れた性の目覚めをどのように受け止めたら良いのか迷っているのである。先輩としての信じられる大人のアドバイスを、これほど強く求めていることは他に類がない位である。
性教育の問題が日本では閉鎖的、抑圧的に扱われてきたため、子どもたちにとって満足の得られないままに、友達や本の世界に逃避する結果となりやすいのである。
性への関心は人間性を深いところで揺り動かすものであるから、知的な教育だけで学習されるものではなく、情緒的な面が深く関与してくるものである。
種族保存につながる性教育は、人間の愛と存在性の、哲学的理念のうえに立った教育が要請されるものであるから、教えるものと教わるものとの深い信愛の関係が成立していなければならない。
親子の関係においても、深い愛情と真剣な教育姿勢ができていないと、子どもは性への疑問や悩みを親に話すことはできないのである。
性教育は教壇のうえから教育する問題ではなく、生徒との信頼の関係の上にたって、話してあげたり聞いてあげたりの相互関係のなかから指導していくべきものである。
性教育の目的は、健全な大人としての生き方を見出すことにつながるものであるから、より全人的な教育の立場に立つべきである。
次に、この期は、保護から自立への巣立ちの不安に駆られるときでもある。子どもは、中学2年頃から卒業を境に訪れる、依存や甘えからの別れを意識する。
高校入学試験への挑戦も、就職し社会人と成ることも、自分の力だけで立ち向かうべきで、甘えや保護を求めることのできない世界への旅立ちであることを、自分でも、また回りからも強く意識させられる。
この不安をどう解決し乗り越えることができるかが、その後の生き方と人間性の形成に大きな影響を与えるのである。
一般的には、社会自立に向けた自己形成ができている者は、自立する社会への希望と夢を膨らますものであるが、自立への準備ができていないものにとっては、不安が増大するばかりである。
能力や学業の遅れからくる不安は当然のことではあるが、それ以上に怯えに近い不安は親からの精神的離乳であることが多い。
我儘と甘えのみで生きてきたものが、自立と責任を負う生活に入ることは苦痛と混乱で自己統制ができなくなるものである。
現代っ子のなかには、物質的過保護と放任のなかで育てられたために、社会性の成熟ができていない子どもが多い。
学校は、このような社会性未成熟の子どもを早期に発見し、社会自立に向けた教育を加えて育成しなければならない。
エスケープによる不適応行動の増加の大きな要因が、社会性の未成熟に起因するところが大きいことに注目する必要がある。
次に、複雑な社会構造と高度な文化社会のなかに生きていくためには、早期から自分の進むべき道を見出し、方向の定まった学習をする必要があるが、余りにも自由で多様な進路のなかでは、選択のできない混乱と苦しみにあえいでいる子どもが増えている。
また、情報化社会の多彩で華やかな刺激に惑わされて、進路に向かう努力のプロセスを忘れがちとなる。
急激に到来した高度文明社会は、観たちにとっても学習が不足しているため、進路の相談に応えることができないものが多いのが実情である。
子どもにとってもっとも悩み多い進路に、親として相談に乗れないことは、親子双方にとって悲しいことであり、子どもとの信頼関係に水を差すこととも成りがちである。
子どもや親の文明社会に対する成熟度から考えると、進路に対する姿勢や選択については、学校教育の面でさらに強化した指導が必要となる。
進路教育は、行き先だけを見つけることではなく、社会人としての生き方への教育を問われるものであるから、まさに青少年健全育成の集約的役割をもつものであると考えなければならない。
進路指導の一面として、不安や混乱状態に陥っているものにたいしては、カウンセリングによる心理治療的側面からの援助も欠くことのできないものであるから、思春期を迎えた中学期の教育は、指導とカウンセリングが適度に溶け合った教育姿勢が大切となる。

4 地域における健全育成

子どもは地域の生活のなかから育成されるものが大きい。とくに、そこが生れ故郷である場合は影響力はさらに高まるものである。
子どもの人間性形成にもっとも影響を与えるのは、地域の人情と風土であろう。
子どもにとって初めて触れる社会は、子どもが幼少時に生活する地域である。幼年期に故郷で体験した思い出は、深く強く人間性に食い込んでいくものである。
近隣を中心とする地域の人情や生活習慣が子どもたちの人間性を育成していくものであるから、地域の健全育成は先ず第一に環境の健全度を診断する必要がある。
子どもが将来厳しい社会生活に適応するためには、家庭と社会との中間に位置する狭義の地域環境が果たす役割は重要である。そのなかでも大きな影響を与えるものとして、子どもたちの遊び場を挙げることができる。
沢山な子供たちが集い遊ぶところには、学校にある横の集団とは異なる縦の集団が形成される。
大人社会に管理されない子ども社会ができる。そこに沢山な遊びを通した共通体験から共感が生れ、そこから育った連帯感や思いやり、いたわりなどの人情が育成される。
さらに子ども集団は、ルールを創り、組織を造り、統制された小さな人間社会を作りあげていく。そして、ここで学習され身につけたものが大人社会への適応に大きな意味をもってくる。
このように大切な成長の場を現代っ子は奪われ、原っぱで集いあう喜びも、遊びを創造する体験も出来ず、成長を阻害され、社会適応に苦しんでいる。
次に子どもとのコミュニケーションの場づくりの問題である。
子どもの人間性を育成するためには大人との対話は欠かせないものである。子どもたちは、大人との対話が不足しているために大人の気持が理解出来ず、いたずらに拒否的になっている。
現代は家族間の対話が不足している時代なので、地域が積極的にこれを補完する必要のある時代がきていると理解すべきである。
子どもたちは、大人の人達の生活の知恵や歴史や体験からのお話し、悩みの相談など、沢山なものを期待しているのである。
地域における健全育成活動が、説教型や監視型にならないようにし、受容的な雰囲気のなかで話し合える場づくりをきめ細かに行う必要がある。
健全育成活動が子ども離れをしないためにも、子どもたちとの理解と信頼関係を育成することこそ、これからの活動にとって最も重要な課題である。
次には、地域における伝統行事や諸活動である。
伝統行事や慣習は、地域教育の中核的な役割を負っている。
子どもの人間性のなかに伝統行事を通して歴史的な影響を与えることは貴重である。子どもは行事や慣習に触れることから、先祖の心を知り生活のあり方を学ぶのである。
家庭の絆が弱り孤独の不安が高まりつつあるときに、地域が運動会や遠足、催事、研修会など、集い合いの場を作ることは大きな意味がある。
地域の集いは親が参加することにより意味が深まってくる。
親子の絆を深めるための媒体としての効果も期待できるものである。
地域がセットした行事で、親子は共通体験ができ、共感が生れ多くの話題が展開できるようになる。そこに、学校教育ではできない世界の、地域教育の意義が見えてくるのである。

第3章 健全育成対策の在り方

社会に合った対策を見出すためには、その時代社会の構造と、そこから生れるニーズに応えられるものでなければならない。
さらに、健全育成対策は、家庭、学校、社会の関わる問題であるから、対策は機能的に統合されたものでなければならない。
この観点にたって考えを進めることとする。

※社会構造の変容

高度経済成長と物質文明社会の発展にともない、青少年を取り巻く環境と意識は著しい変容を来している。

家庭構造の変容

最も大きな変容があったのは、家庭構造であり、それに伴う養育機能の変化である。そのなかの主流となるものが、核家族化現象と母親の社会参加の問題である。
核家族化による生活のあり方を見ると、現在はもっとも未成熟な段階にあるといえる。核家族化の生活も、歴史が刻まれると安定した生活を見出すことができるであろう。
大家族の生活は封建的で嫁の座がなく、大変な生き方を強いられていたといわれるが、一面では人手が多く家事は分担され、育児には生活の知恵をもった祖父母の指導と援助が受けられた。
また、大家族のなかで育つ子どもは、生れたときから多様な年代の家族との触れ合いができるために、人間関係の在り方を幅広く深く身につけることができた。
母は核家族化により祖父母からの開放と自由は得られたが、代替えとして家事一切に加え、さらに外に仕事をもつという過酷なまでの労働を背負い込むこととなった。病気等危機的な状況に当面しても夫以外に手伝ってくれる家族が居ないので心身とも疲れ切ってしまうことが多くなる。
夫も長い封建社会の歴史の残骸のなかにあって、家庭のなかでは妻に依存し、家庭人としての自律ができていないものが多いので、この面の負担が妻に加重されている。
このような家庭に子どもが生れると、母の負担がさらに重くなる。とくに結婚前の育児体験が殆ど無い未知の世界だけに、不安のなかで子育てをすることとなる。
生活の疲れと育児不安に追われている母親の育児態度は、拒否的、感情的となり、さらに、子どもの心を受容するゆとりがなく、動物飼育型の教育姿勢に偏りやすい。
幼少時の子どもにとって母という環境は絶対的である。その成育環境が家庭構造の変容によって阻害ざれたとしても、母だけを責めることはできない。
しかし多くの相談活動は、母親の責任と役割を説き、前時代に帰り育児に専念することを説く考え方が主流を成してきた。
このような相談姿勢は、いたずらに母を苦痛の世界に追い込むだけの意味しか持たないため、相談ニーズを内に閉じ込めさせる結果となった。
今では核家族化現象と共働き家庭の増加は、新しい家庭構造の変化として、有りのままに受容しなければならないときが来ているのである。そして、その現実を踏まえたところがら新たな健全育成の在り方を創造しなければならないのである。
この課題は家庭だけが育児をする時代は過ぎ、社会の連帯責任において行なうべき時が来ていることを示唆しているのである。しかし子どもにとって大切な母子関係を否定するものではなく、母親に育児へのゆとりが持てるように援助することと、社会的役割の分担を強化することを意味しているのである。
このことを進めるための第一の課題は、父親の家庭内自立と、育児にかかわる役割と責任の問題である。今迄は妻の忙しさを手伝うという、従属的な問題としてとらえられていた向きがあるが、この考え方の前提が家事、育児は母の役割という観念が入っているので新時代的とはいえない。
婦人の社会的役割と責任を認めた男女平等社会を目指すためには、家庭の役割と責任も同等の立場にたって考えるべきである。そのために、父親は家事、育児にかかわる自立への成長が図られなければならない。
第二の問題は、母親の社会的、人間的な成熟の問題である。
新時代は母子関係の時間帯は著しく少なくなる。この条件のなかで母子関係を維持するためには、濃密で質の高い母子関係が要求されなければならない。
現状は、「カギッ子」問題を、時間的留守の問題のように言われているが、実態は母親が家庭からの開放感と、職業婦人としての未成熟なところがら、育児への心が薄らいでいたところがら発生する問題なのである。
「カギッ子」状態に置かれている子どもでも、濃密な母子の絆ができているときは、親思いの良い子が育っている事実をみても、新時代の母子関係のあり方は、母親の社会的成熟と人間的成熟の問題として捉える必要がある。
第三の問題は、家庭の機能を補完する社会的責任の問題である。
前時代までは育児及び養育は家庭の役割であったが、昭和一三年に施行された児童福祉法の精神により、児童育成の社会的責任が明確にされ、家庭の養育を補完するために幼児の健全な育成を目的とした保育所が開設された。
さらに三〇年代からの著しい社会変容は、育児及養育の社会的責任と役割の必要性に拍車をかけることとなり、今では家庭機能を補完するという従属的なものではなく、家庭と学校・社会は、それぞれに主体的役割を持つよう要請される時代となっている。

学校教育の変容

家庭構造が変り養育機能が低下したことにともない、学校教育のあり方を問われる時代となっている。
子どもは家庭構造の変革に揺れる真つただ中で、多くの不安と欲求不満をもって校門を潜り、救いを学校に求めてくる。
子どもたちの潜在ニーズのなかには、信頼のできる良き相談者を欲しいという願いがあり、心のよりどころを親の次に先生に求めてくる。
しかし、子どもは不安や欲求不満が明確には意識されず、潜在ニーズを先生にうまく訴えることができないので、結果として不適応行動によって表現してしまいやすい。
真実の気持は、担任の先生に送った救いのサインなのだが、それが受け止めてもらえないと次には保健室へ救われに行く。
このような情緒面に問題をもつ子どもの多発化も、現代社会が生み出した心の病理であり、健全育成を阻害する要因となっているので、学校教育が対処しなければならない。
現代っ子に一般的に見られる傾向として、親子の愛情と信頼につながる絆は薄いところがら孤独の不安に駆られる子どもたちが、学校場面で不適応行動を起こすことが多い。
このような状況から、現代ほど学校教育に人間性の育成を期待する時はないと云えるのである。
人間性の育成は、子どもとの深い信頼関係の成立のうえでなされなければならない。子どもが先生に人間的な親しみと信頼感を感じるのは教壇のうえの先生ではなく、親しく自分たちのなかに飛び込んで来て、喜びや悲しみを共感できる関係にある先生なのである。したがって、これからの学校教育の在り方のなかには、人間性を育成するための体制の強化が切望される。
これが教育の立場からの健全育成である。

地域社会の変容

前時代までは、地域は家庭教育の傍観者であったが、高度経済成長と文明社会の到来により、児童の養育が家庭・学校.社会の連帯責任で行なう必要性がますます強まっているのである。
社会的責任を具体的にとらえるならば、胎児の健康管理から育児、保育、教育、育成に至るまでに行われる全てである。
しかし、現状はそれぞれの活動がばらばらで、健全育成という究極の目的に向かって統合・連携されていないことと、社会的責任の自覚が弱い。
健全育成が目的にむかって統合されるということは、子どもの心身の発達と成長へのニーズに応えることであり、児童中心主義の精神につながっていなければならない。
青少年の育成にかかわる全ての活動、行事が、地域の実態を踏まえたところで統合、分化される必要がある。

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