暁烏敏賞 昭和61年第1部門本文「二十一世紀への霊性の展望」1

ページ番号1002669  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第2回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 二十一世紀への霊性の展望
  • 氏名 Mr.クリス・アーサー
  • 年齢 31歳
  • 住所 英国
  • 職業 大学研究員

大昔、穴居生活を営んでいた人類の始祖たちが、あちこちに遺した生活の跡で、最も人目に付くのは、(赦土や木炭で)朱や黒に彩色した掌紋であろう。それは聖所だったと思われる場所の巨岩壁上に、くっきりと残っている。掌紋は、世界的に有名になったアルタミラやラスコーの壁画に美しく描き出されたマンモスやバイソンなどの動物画のもつような審美的魅力を持ち合わせていない。直裁、まさに驚くばかりの単純さで、今日見るものを幾星霜もの昔に押し戻し、遥遠の過去と現在の間に横たわる幾千年もの間隔を一挙に飛び越えて、人間らしいほのぼのとした温かさを感じさせてくれる。
子供が、成長の過程で、自分の掌をなぞったりしないことがあるだろうか。この地上に生まれ出て以来、人間は掌を岩や砂、紙や木、泥に押し当て、指をなぞり、いかあしい落かんなど記さないとはいえ、甚だ個性あふれる痕跡を後世にとどあてきたのである。誰であれ、例の五本指の掌紋を見つけた人なら、その元になった掌に想いをいたさないものはないであろう。大人でも子供でも、凡んどの人が、掌紋に自らの掌が合うかどうか、当てて試したくなるものである。掌を、まさに人類の歴史の黎明に、人間が触れ暖あた岩の上に、しっかりと、思いを込あて置いた瞬間、我々と先祖の間に広がる数千年間の変化が、いかばかりであったか明らかになるであろう。
現在残っている数多くの掌紋、例えば、フランス、ピレネー山脈中、ガルガスの洞窟のものなどは今日の人々の掌型と一致しないのが常である。それは、指が一、二本、時に三本までも欠落した掌型をなぞったものだからである。考古学者や人類学者たちの一致した意見では、このような手指の欠損は、何か霊的なものに関わっているとするのが最も真実に近い解釈という点である。刑罰や不慮の事故より、むしろ供犠のため自らの手指を切り落としたのであった。ジーグフリート・ギディオンが初期芸術の研究で指摘しているように、この種の行為の意味は、"いずれも、庇護を求めて執られるものだったのである。”(1)
後に有史時代になって祈願あるいは祈りと呼ばれるようになる行為へのこの生々しく、しかも迫力に充ちた1日石器期の糸口は、何か日常の経験の世界を超えた力を信ずる姿勢が大古の時代からあったこと、更にその力との接触を願い、それによって忌むべくも苦しみと死を押し付け、しばしば、かの正常、静穏の状態を無に帰するがごとき世界に、一種不動の価値、慰籍、保証を求める渇仰が人間の心中いかに深いかということをまざまざと見せ付けている。この渇仰を表現する仕方は時代によって様々な外見を取るが、人類の歴史の複雑極まりない綾の中である決まった形を取っているように見える。
日常の生活を支え送っていく上で、意義を与える霊性的価値の存在を人々が信じ希求していたことを示すもう一つの印象的な名場面はといえば(希求する心は人類と同じ歴史を持つ)、NormanCohnが、今や古典的著作となった《ThePursuitoftheMillenium》-ヨーロッパ中世における革命的千年至福説信奉者と神秘主義的無政府主義者の研究-の中に記録している。1400年代後半、ドイツの小さなNiklashausen村に、HansBohmという人望のある救済者が現れた。羊飼いという本職を離れて、お百姓達の間で音楽家、人気者の芸人という評判があったため、彼は時々Niklashausenの太鼓打ちと呼ばれた。Bohmの"自然の理法に基づいた平等主義の黄金時代"(2)が今にも到来するという教えは、民衆の広い支持を得たのであるが、教会や世俗権力の懸念や反対を引き起こしてしまった。Niklashausenの太鼓打ちは投獄され、異教あるいは妖術と言い立てられて、ついには火刑に処せられてしまった。Cohnはこう書いている。

処刑の間中、見物人は杭から遠ざけられていた。聖なる若者を救い、彼を迫害した司教や牧師達の間に炎を振り撒いてくれる天の奇跡、はたまた悪魔の介在を人々は待ち望んでいた。刑が終わると予言者の信奉者達が灰を形見として秘蔵しないように、灰は剛。捨てられた。しかしそれでも磯人かの人・は杭の廻りの土をほじって宝物にした。(3)

我々の太古の先祖の遺した指のない手形と、不幸なNiklashausenの太鼓打ちの杭の廻りから土を掻き取った話は共に、ままならぬ無常や測り知れぬ不思議さに満ちた人生のために否定しえぬ価値と方向感覚を提供しうる何かを捜すことに、人間の心が躍起になっていたことを、実に生々しい(ぞっとするともいえる)形で強調しているようである。霊性的加護と、他の点ではよそよそしい態度を取る時間・空間上の隠遁所への従属感覚とを求ある、この人間の気違いじみた追及心は、今日もはや余計なものとなつてしまったのだろうか。科学や技術が我々の求めるどんな説明でも快適さでも提供しうる(または宇宙とは、人間の機知をしてもほとんど明るさ暖かさを灯しえない世界を超えて、冷たく何の快適さもないところだと示し終わる)歴史の段階に、我々はまだ至ってないのではなかろうか。確実さを持った或る絶対的根源を希求するとか、その暗示とかいう当今の表現は、単に混乱した時代錯誤に過ぎないのだろうか。究極的で、別の世界に属する、超越的実在を見いだそうとしたり、それとの交渉を口ごもりながら語ろうとする我々の持つ霊性的側面は、全く我々の脱皮すべくして不幸にも残った遺物に過ぎないのだろうか。即ち、我々は21世紀において霊性を必要とするのだろうか。或は霊性とは、過去にはある役割を果たしたが、現在はほとんどその場を持ちえず、未来に至っては全く何の役にも立たないものなのだろうか。
確かに指の切断や杭の廻りの地面をほじくることを、かっての無知や迷信の時代に行われた胸を裂くように悲しい行為として忘れ去ることは簡単だが、その場合そのような行為を生み出す感情の持続力や重要性を誤って過小評価することになると私は思う。なるほど我々の時代の霊性的気分とは、そんな単純で劇的な行為の無益さの存在がはづきりと認あられことを除けば、いまやそれらの行為に代わるべき何もないものとして要約されえようが、それらの行為を生み出してきた必要性は切迫した形で消えずにある。我々の束の間の霊性は、様々な局面における近代化の攻勢の元で、何か世俗的である以上の価値を確:かある試金石や、感覚の超越的根源を不確かながら認識し、希求していることを証言する適切な表現を捜し求あている。来る次の世紀にも役に立ち、存続しうる霊性的展望を提出しようとするなら、比較的早い時代にGargasやNiklashausenで起きた、生活の霊性的側面に全くに委ねられた行為と等しいものを(たとえそれが微かにしか認められなくても)現代の中に見いださねばならない。
現代の霊性は、かって喜ばれたような、迫力に充ち人目を引く表現をしばしば欠いているようにみえるという理由で、それは衰退期にあるにちがいないと決あ込むのは容易である。もし我々が公式化しようとしている霊性的展望が信頼性を持ちうるためには、霊性的なものが人間というものに実に基本的な側面であると強調することがとりわけ重:要である。GargasやNlklashausenに明瞭なある感情は、奇怪な時代錯誤などでは全くなく、同じ風潮が現代の我々の意識の流れの中になお極あて力強く働いているという示唆は、人間の心の性質について現代施されている多くの評価の中に見い出せる。VictorFranklはこう書いている。

人間は快楽への意志ということでも、権力への意志ということでも特色づけられることはなく、意義への意志ということによって、その存在の意義へ向かって深く横たわる奮闘・戦いということによって特色づけられる。(4)

そして、同じ語調で、WilliamSheldonは次のように提案する。

性衝動より深く基本的で、社会的力を切望するより深く、所有欲より深い、正しい指令の知識、即ち方向感覚に対する比較的一般化した、広汎な要求がなお存在するのである。(5)

我々の性的・社会的・物質的要求が一致した時でさえ、我々の要求する余地はある。この領域は、普通'"精神的"あるいは"宗教的'と呼ばれ、日常体験の世界を了解し、それを超えて存在する価値(それは状態、或は実在、或は理念として認識される)に対して我々の抱く感覚や要求に関係する。そのような霊性あるいは宗教性は、言うまでもなく非常に入り組んだ現象であり、あてもなくさまよう精神の領域の中で、ほとんど探究されていない一画を占あている。それは、恵み深いもの・悪意に満ちたものなどと様々な形で現れるが、それらに共通する特徴は、存在の混乱によって、我々がうろうろと迷ってしまい、不確かなものに出会った結果、意義、即ちSheldonの言う"正しい指令の知識"に対して我々が抱くに至った飢えの中にはっきりと横たわっている。
ある水準においてこの方向感覚への飢えは、科学的知識の終わりなく見える進歩に満足を見出すであろうが、もう一つの水準において科学には与えられない生計の形を捜し求あるであろう。というのは体でも心でも、死に直面した際の最も寂しい孤独や恐怖、或は最も恐ろしい苦痛に直面した時でさえ、心の極あて暗い夜に我々を遂には落としめてしまうことなどさせはしない何かを必要としているからである。このように、科学と霊性は我々の進化の遠い未来のある時点において一致するであろうが、差し当たり人生の迷路を通り抜ける正しい指令を捜し求め、意義を見付けようとする我々人間の性質は、単なる経験主義を超えた究極的価値の領域へと差し向けられるであろう。LeszekKolkowskiが述べるように、

この追及は科学や技術の進歩と殆ど関係がない。背景は知的というよりむしろ宗教的である。----不測の事態が一切起ることを禁じられた世界、意義《sense》(これは目的《purpose》のことである)があらゆるものに与えられている世界に生きたいと願うことである。科学はそのような類いの確信を我々に与えることはできないし、人々が科学的合理性を超えて歩んで行く試みを諦あてしまうなんてありえないことである。(6)

アルタミラやラスコーの洞窟を満たし、今日尚我々をその豊かな曲線と色彩によって(もはや宗教的にではないにしても審美的に)楽しませてくれる無名の洞窟絵画から、MarkRothkoのHoustonに建っている彼の名に因んで名付けられた特定の宗教に関係のない教会に飾られぼんやりと現れた何も描かれていないパネルまで。;メッカへ巡礼をした数百万人のイスラム教徒達から、ガイアナの人民寺院の数百人もの集団自殺(或は大虐殺)まで。;カーリー神の野性味ある踊りから、確固とした礼儀正しさと身構えを備えた孔子の道徳観まで。;カジュラボのヒンヅー寺院の手の込んだ絢爛さから禅の園の崇高な空に至るまで。;グレゴリア聖歌から聖者オームの朗唱まで、人類は、様々な形で一それが人間を鼓舞しえたか間違って導くに至ったかは別にして一また様々な手段で、根絶しえない霊性によって人類の歴史が深く形成されていることを示してきた。霊性は、科学的合理性によって与えられるものを超えて感覚の対象とする世界を見、捜し求ある。その霊性は、人間という在り方にとってあまりにも基本的で普遍的な特徴であるたあ、``心"というまさにその言葉は中心性という強烈な含蓄を持っている。(その意味で、法という言葉はその目指すところを無視しうるが、法の精神は真の意味を持ち合わせている。同様に人間の心は人間の本質であると受け止あられる。誰かを《魂の抜けた》と表現することが、生気のうせていることを示すように。)霊性は物事の中心に横たわり、居を構零ている。恐らくたとえ我々が、自らの人間性の最も内奥のへ中心で規則正し《打っている鼓動を必ずしも聞くことが出来ないとしても、それは霊性が全く死に絶えたからではなく、心臓の鼓動や呼吸のように、余りに近しく、親しみのあるものであるからであって、我々が聞くことをやあないかぎり、聞こえてこないことはないだろう。
時間の制約の中で想像しうるすべてを網羅した幾つかの観点を除いて、人間の生活の中心にある霊性的要素の普遍性についての、そのような十把一からげの要求はもちろん暫定的なものである。何故なら、Shakespeareが言うように、時間のみが《全世界を掌握する》(7)からである。しかし、最終的にではあるが・そのような完全姻点がない場合・不成珈・終わるののではなく、今日までの世界を《掌握しようと》試みる最近の研究の中で、FlanklやSheldonの心理学的評価のように、歴史的事実として人類のこの基本的な性格の存在することを著者達が明確に肯定している点に注目に値する。次のようにArnoldToynbeeは、人類と母なる大地の中で書いている。即ち宗教性あるいは藍住は

事実人間の本性に固有で特有の性質である。それは唯一人間だけが持ちうる意識という能力によって、現象の不可思議さという難題に対して持つ人間にとって必要な反応である。(8)

MirceaEliadeは、彼の宗教的概念の歴史の中で一先のToynbeeの作品と同じ年(1976)に出版され、それが歴史的に全般に亙っているという点ではToynbeeと同様である(その主題とするところではかなり専門化されてはいるが)一男や女のいるところにはいつでもどこでもある種の霊性が必ずあるという考えを支持している。というのも、Eliadeに従えば、

"聖なるもの"[我々の心が様々な形で求あているもの]は意識の構造の中の一要素であり、意識の歴史における一段階ではない。(9)

何十億もの人間の意識の繰り広げた珍しいエピソードと、短い個人の伝記、それらは共にホモ・サピエンスの現象を構成し、その何世紀にも亙って地球を横切って明滅する存在は、様々なメッセージを明滅させて送ってきた。そのような様々な出来事の中から、そこには何かがあると暗示しっつ、畏敬の念を誘い戸惑わせる警告が持つ究極の意味に関して殆ど手掛かりにはならなくても、少なくともその出来事をみつある人間の心を、たとえその人が時間や情況の点でいかに遠く離れた所にいようとも、他人を理解することの(おそらくは更に自らをも理解することの)第一歩である共感とか分かち合う喜びという感情で満たしてくれる、ほんの一握りではあるが根本的一般的テーマが現れてくるのである。我々の霊性は、その現れ方は多様で幅広いものがあるが、我々が誰でありまた何であるかということに基本的に重要な部分欄成しているに外ならない・重要で全体を統一するテーマであることは明確である。以上のように我々がガルガスの岩壁に手を触れ、500年前のNiklashausenでの出来事を読んだ時、我々以前にこの世に現れ、我々ほど文明の開けていない時代に道を求あようと努あた人々との苦悩に満ちた兄弟愛の感覚がそこに存在する。

我々の霊性は、歴史という海図の中に我々のいる位置を書き込もうとする時に頼りとなる全くその位置を変えない北極星のごとく、人間にとって確かなものである。しかし、ある意味でその霊性が位置している情況は同様に変わらないままであるが一すなわち我々が有限であるという事実は、ずっと昔の祖先もそうであったように今日も同じである一、別の、とるにたらないとは言えない意味において、我々の存在の基盤は、我々がいっどこに生活しているかによって大きく異なる環境に支配されている。未来への霊性的展望を公式化しようとするあらゆる試みは、我々の祖先が夢にも思わなかったが、旧石器時代の我々の祖先が彼らの霊性を表現した方法を、奪い尽くされることのない自然の人の住まない広大さが形成し、中世の百姓の貧困と隷属がNiklashausenの太鼓打ちとその信奉者の心を鼓舞したのと同じ位確実に我々の霊性が表現される方法を形成してくれるであろう現代世界の持つある特徴を考えて為されねばならない。
それでは現代の環境に特殊かつ独自なものとは何であろう。霊性の観点から見て、霊性の問題は他の時代や文化のそれとどれほど異なっているのだろうか。またそのような違いは来る世紀における霊性の表現をどれくらい侵害しそうであろうか。言うまでもなく、ある意味で今日のホモ=サピエンスは、ネアンデルタール人が直面し、数十万年前先行人類の意識の古代におけるひらrあきが、一現代において見るものをなおほろりとさせ一感覚と霊性という二つの現象の誕生を知らす仕草で仲間の墓に花や食べ物を供えることに初あて動かされた時以来実質的には何も変わっていない全く同じ考えに依然として対面している。"人間という情況"と呼ばれるもの、即ち(時折その事実を不明瞭にする恐れのある)特別な文化の所産は総て取り去った賢い存在という基本的事実は、誕生・喜び・悲しみ・苦痛・死・存在すること自体という経験に直面した時、その基本に綿々と横たわる霊性を与えっっ変わらないままにある。我々の霊性的英知の偉大なる宝庫たる世界的宗教の教えが取り組んできたことは、外ならぬ人間が有限であるという基本的事実との対面である。先行する時代にはそのような事実を認識することがそれぞれに取り巻く文化に支えられ代替物も持たぬ特定の宗教の解釈的構造の内に扱われ、養成されてきたが、今日の人間は宗教的・文化的形態の大きな違いに直面している。実際のところ宗教に関してだけでなく、人生の実にあらゆる点に関する様々な情報よりなる巨大な図体をした存在が、前向きの霊性的展望が扱うべき近代性の基本的要素を与えてくれる。
近代性についての一般的文脈で、社会学者PeterBergerは今日人間が直面している"選択肢の増加"へ注意を促している。実に彼は"現代人の意識は宿命から選択へと移行することを必要としている。"と示唆する。運命から選択へと移行した結果がいかに扱いにくいものであろうと、ここ二、三十年の間に起こった知識の増大と、その知識をしっこく広い地域に放送する手助けをする通信機関の革命とを揚げれば、そのような根深い変化の理由は容易に理解しうる。この知識の爆発的増加、即ちBergerが確認した極あて重要な移行へと導く増加を見ると、1958年にG.F.Woodsが示したように、こうに言っても過言ではなかろう。

我々は知識の爆発したそばにたたずんでいる。その塵がおさまるまで、どんな建物が立って残っているか、どれだけ多くのものが復興の責任を負うたあに生き残ったかを知ることはほとんどない。(13)

20年たって十分な量の塵が落ち着くと、EarnestBeckerはこの爆発の極あて厳しい結果を正確に指摘することを許された。我々の時代についての彼の魅力ある精神分析的研究《死の拒否》の中で、OttoRankと同じことを言いながら、次のように述べている。知識に溺れた人間は今

自分がそうしようなどとは想像だにしなかった重責のもとに頭を下げている。即ち使い尽くせない真理の過剰生産という事態である。(14)

東洋が西洋と出会い、西洋が東洋と出会い、至るところで羅針盤の4っの点の間の距離が、概念的であれ物理的であれ、近代性の与えた概観によって劇的に縮められている。外ならぬその概観が我々に地球という天体を、広い宇宙空間に消えた露の滴のような世界として見ることを許す。かって地球の表面を交差し、我々の心に反映したあらゆる境界線が、知識の容赦なき進歩によって解消されつつある。地元の関心あるいは私的行為という境界線から遠く離れた所での出来事について、新聞やラジオやテレビが我々に伝えてくる千もの話題についての情報に我々は砲撃される。我々の好奇心を捕らえる現象ならほぼどんなものについてでも、殆ど奇跡的といえる技術によって、驚くほど詳しく捜し出してぐれる情報の供給源がある。人間の意識の回りを自由に循環することを許す情報の大動脈たるコミュニケーションの機構が、かって村々に草木を広げたのと同じように何の困難もなく地球に広がっている。大方において、この知識の急増は、無知であったり地方根性を持つことをどやしつけてくれるという恵み深い効果を持つが、(このエネルギーの一部は集団殺害を行う兵器戦争という極あて悪しき行為に利用されるのだが)Beckerの指摘した真理の過剰生産は、極めて否定的な面も持つ。存在の多くの面を理解することが可能であるたあに十分な視野の広さを持つことと、情報に通じ文明の進んだ形で何を信ずべきか何をすべきかを選ぶことと、個別的な関心について理知的に深く考えることは一つであるが、選択出来ず、何を信ずべきか、どう生きるべきかを基本的な形で決心できない程に、情報に心を奪われ、可能性に当惑することはまた別のことです。大方我々の霊性は、情報の過剰生産によって砲弾衝撃を受けて、その結果ぼうっとして静かな音のしない状態になってしまう危険がある。我々の重心、即ち心は、我々の廻りに明白にある単純から複雑へあ移行によってバランスを失い、鈍らされて、危険に身をさらしている。PeterBergerは指摘する

現代の個人は世界の複雑さの真っ只中に在り、競い合いしばしば正反対の尤もらしさを持つものの間を右往左往している。
そのそれぞれは他の尤もらしいものと共存しているという簡単な事実によって弱あられるのである。(15)

情報は"中立"ではないのである・遡こ・それは我々がプを張ろうとしていた特別な投錨地点に皮肉な効果を及ぼした、しかし我々が失ったような投錨地点以外の。AnselmStraussは、今日我々の環境を構成している莫大な情報、選択の多様性の中でその心が道を見出せないならば、個々の人間が"霊性的に疎外されうる"(16)と、要するに"その世界を失いうる"(17)という点について警告を与える。そのような喪失は、

重要な他人そして自分に対する献身が恐ろしく弱くなってしまったと語ることと同じである。何故なら人間がその中心的意義を問う時には、次のように自らに尋ねるからである。:何に対して、何のために、誰に私は献身するのだろうか。(18)

霊性が取り組み、現代の情報の過剰生産が大量の抹消的な関心事の元に窒息させてしまう恐れのあるものは、まさにそのような"中心的意義"である。もしそのような二次的問題に気を散らし過ぎ、人生の方向や意義、究極的に何にしがみつき何を捨てるべきかということについての問いに当然与えられるべき注意を払わないならば、その代わりに精神的に麻ひした情況に自らを見いだすことをいかに避けうるかを知ることは難しいであろう。
知識の爆発的増加は、我々の廻りになお響き渡っており、その燃える熱気の中に我々がたたずんでいるのであるが、メルト・ダウンー我々の焦点の分裂へと至り、ついには根っこではなお最も基本的に我々に関わっている"中心的意義'に何の注意も払われなくなってしまった。その代わり、我々が誰であるかとか、何の為にここにあるのかとか、究極的に献身すべきものは何であるのかという関心の周辺にある比較的小さくて複雑な、とはいっても知的魅力に訴える問題に我々は専念する。専門化は現代を特徴づけている世界と我々に関する知識の増大に大きな触媒を提供した。しかしその専門化が通り道にもたらした知識の光りは、人間の心のみが満たしうる空虚さに冷たく光を投げ掛ける実験室のスポットライトの余りにも粗雑で非人間的な輝きである。哲学者WilliamBarrettが述べるように、専門化は"知識の進歩に支払った代償である。"(19)代償というのは、

専門化の道が、それによって実際毎日の生活を送っている、理解するという日常的具体的行為から誘い出されたからである。(20)

人生の大問題、即ち我々の運命、神や霊魂の存在、何故苦や善悪の性質等があるのかということについて、そのような基本的問題が全く関わりを持たなくなった(少なくとも直接には)現代の専門化の道において取り組みながら、このように人間の心の最も深い要求と同じ道を、哲学はかって歩んできた。その"中心的意義"を取り巻く問題に対する答えを求あて今日の哲学に期待するものは、結果として悲しくも失望するであろう。哲学だけがそのように中心から遠ざかっていく専門化の過程を経験しているのではなく、大部分において、大学のカリキュラム全体についてまわったものである。心の概略については伝統的に哲学よりも親密な学科である神学も、多くの点で同じ運命を蒙っている。価値の問題に取り組み、より所とすべき毎日の生活の正しい指令を求ある"中心的目的即から霊性が誘い出される一方で、霊性はこれらの目的地へと我々を駆り立てるのである。
もし専門化-情報-多次元論という、我々に降り懸かった知識の爆発的増加における原因、影響、結果という重要なベクトルが、可能な意義と可能な献身を詳細に述べながら、我々に知識を振り撒いて、しかし我々の従うべき明確な道は何も強調することなく、"中心的目的"についての関心・献身を、量の豊富さ・可能性によって蝕み続けるならば、事実を集あ、受け取り、同化し、その結果我々の基本的関心が、増大し続ける情報の山の下敷きになって窒息してしまうという、魂の抜けた無力さへと麻ひさせられてしまう危険がある。もし21世紀において、健全な心の姿を達成するつもりなら、単に知っているだけということに困らされている危険を認識しなければならな、・。LaurensvanderPostが言うように、

今日手近の市場で豊富に切り売りされる知識は、人間の献身も、歴史的評価も、道徳的義務もなく手渡されているようだが、もはや正当な交換手段ではなくなっている。何故ならば、それは単に事実と統計を伝えるだけで、その情報を伝えてきた人については何も語らないばかりか、それを受け取った人についても何も言わず、我々の時代の地平線の下のどこかで、かってはその知識に意味を吹き込み、我々の感じる大きな飢えを満たしうる原生の意義の雲の渦を、わずかにその知識共にたなびかせているに過ぎないからである。(21)

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