暁烏敏賞 平成2年第1部門梗概「日本人の宗教心批判」

ページ番号1002643  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第6回暁烏敏賞入選論文梗概

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 「日本人の宗教心批判」
  • 氏名 尾上 新太郎
  • 年齢 47歳
  • 住所 京都府京都市在住
  • 職業 大学助教授

論文概要

本居宣長は、「此世に死する程悲しきことは候はぬ也」(「答問録」)と言った。当然の話だが、唯、彼はその悲しみに徹する事で死の安心を得ようとしたと続けたら、話は単純でなくなろう。宣長は、日本の伝統的死生観(神道的死生観)を以て自己の死生観を構築した。彼に依れば、神道は所謂死の安心を説かない。しかし、死の安心を説かない宗教は宗教でないとなろう。

宣長は、確かに安心を儒仏流のそれではない形で考えていた。彼の死生観(宗教観)は、もののあわれの感情論というその文学論の延長上にあるものである。この問題については、小林秀雄(「本居宣長」)が詳考している。私も学ぶところが少なくなかった。ただし、宣長にしろ小林にしろ、死というものを一方的に否定的に見ている点、問題である。

確かに人間的感情(人情)からすれば、死は悲しい、途轍もなく。宣長は、その死の悲しみに徹する事を説いた。そうすると、悲しみの心はみずから純化するだろう。そういうカタルシス的文学論的宗教観を宣長は抱いていた。しかし、当然的に、そこでは死の意味は明確にならない。死ぬ事にも深い意味があるのではないか。トルストイ(「戦争と平和」)に学んで言う事だが、人情というのは、所詮生者の自己愛の範疇を出得ないのではないか。それなら、肉親の情といえども、真に死にゆくものを慰める事はできない。死にゆくものにとっての真の慰み−それは死ぬ事それ自身に意味があると心から納得される事を外してはならない。

問題は、人間的感情を以てしては、蓋し解決されない質のものであろう。宣長や小林は、精神の天道説に陥っていたのではないか。浄土教は死の意味を積極的に説く。親鸞に学ぶ形で、救済の論理と心理の問題を考察、日本人の情的性格から眼を逸らさず、真実の死の安心を得る為の論考を試論的に行った。

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