暁烏敏賞 平成3年第1部門本文「契沖の末古古呂(まごころ)について」1

ページ番号1002638  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第7回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 契沖の末古古呂(まごころ)について
  • 氏名 徳岡 弘之
  • 年齢 37歳
  • 住所 兵庫県西脇市
  • 職業 クラシカル・ギタリスト

雲の路の遠き昔をしたふとて
身を中空の物となしつる
漫吟集

1

元禄十四年(一七〇一)正月二十四日、自身の死が近いことを悟った阿闍梨空心契沖律師は、集った門人知己に別れを告ゆうせんげ、何か疑問があれば質問するようにとうながした。涌泉という者が発言した。以下はその問答である。

涌泉問うて曰く、「師いま阿字本不生の域に住するや」
答へて曰く、「然り、およそ人はまさに平等にして差別あるべし」
泉曰く、「平等と差別とは異なる無きか」
曰く、「心平等といへども事に差別有り。差別の中心はまつゆさに平等たるべし。老僧の言、これを記せよ」

翌二十四日、定印を結び結跏跣坐して契沖は寂した。主家(肥後加藤家)の改易没収にともない零落した武士の家(下川姓)に生まれたのが寛永十七年(一六四〇)なので、享年は六十二歳である。
このエピソードは、大坂に在った契沖と水戸徳川家との交渉の窓口となった彰考館の儒官安藤為章が、契沖の死の翌年に撰した『円珠庵契沖阿闍梨行実』にあるものである。為章は契沖との交流を重ねるうちに、その人と学問(これらはけして別々のものではないが)に心酔するようになるのだが、すでに当時にあっても、世人が契沖の歌学の卓絶のみを論じ、僧としての法徳には無知なのを歎じている。そんな為章には、このエピソードは師の真面目を伝えるものと思われたのだろう。
現代ではなおのこと、古人の文化史なり思想史なりの文脈の中に都合よくあてはまる部分のみが語られがちである。契沖は近世国学の先蹤であり、彼の古典研究は、彼以前を旧註彼以後を新註とするように、中世的な奇怪な秘伝の世界から訣別したまさにエポック・メーキングなものであると。そのため『万葉代匠記』『古今余材抄』『和字正濫妙』といった主著に代表される古典学と国語学の卓越した革新性のみが強張され、逆にそれらの総論をなす歌論や言語論は、いかにも真言宗の僧らしい中世的な伝統の中から一歩も踏みだしていない陳腐な説として、敬して遠ざけられるということがおこる。契沖の言語論を読む現代の言語学者を想像すると、それは化学者が錬金術の書を読む姿に近いだろう。そこで次のような評価が下される。契沖のような偉人でも、その環境による限界を持っていたと。間違っているわけではないが、つまらない意見である。では契沖の学問の革新性もまた、時代的気運という環境によるものだったのかと反問したくなる。事柄は複雑である。
契沖は微震軒という友人への書簡の中で、藤原定家が「歌ははかなくよむ物と知りてその外ならへる事なし」と言ったことを評して、「誠に歌よみの詞と聞へ候」と賛意を表し、さらに程朱の学のような理屈に偏した心持ちでは歌は詠あるものではないと記している。契沖の私家集である『漫吟集』には、「宋の偏儒をまねぶもの〜、かたぐなるをよある歌ども」と詞書した二十首からなる連作もあるくらいである。このことを本居宣長の物のあはれ論の先蹤として論ずることは簡単だが、朱子学の教理が仏教の教理と対抗する中で創造されたことを思えば、契沖が真言密教の教理にひかれた論をその歌論と言語論の中にちりばあていることとの矛盾が、いやがうえにも目立つのである。
しかしこの点を克服しないかぎり、先のエピソードを記した為章には自明のことだった契沖という人に、その深い内観に、私たちは出逢うことが出来ないだろう。

2

阿字本不生ということから、『徒然草』の明恵上人の逸話を思い出す人はけして少なくないだろう。私もその一人である。
栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、
「あしあし」
といひければ、上人立ちとまりて、
「あなたふとや、宿執開発の人かな。阿字々々と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。あまりにたふとく覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御局に候」
と答へけり。
「こはめでたきことかな。阿字本不生にこそあなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ
(第百四十四段)

結縁を結んだ主体を明恵とする註釈書もあるが、それはおかしい。結縁とはあくまで仏道へ入るための縁であって、足々と言い、さらに府生殿の馬だと答えた男の言葉を阿字本不生と聞きなした明恵は、仏の導きのあまねきあぐみに感涙しているのである。このような仏の目から見れば、明恵という高僧も、川で馬を洗っている下男も、そのあるべきようには差別はあっても、それぞれの心の中心においては平等であると、ふと契沖の口吻を真似たくなる。明恵の涙に心を洗われた男は、己れの仏性に目覚あたかもしれない。また「宿執開発」という語は宿善開発と同意なのだろうが、馬を洗うという行為のシンボリックな意味合いと対応させると味わい深い。明恵にとっては、男は孤児が親の名を呼ぶように、「阿字々々」と御仏の名号を唱えながら、そうとは知らず宿習を洗うように馬を洗っているのであり、そのような行為をなさしある御仏の尊いはからいを思い、いったいその馬の持主は誰れかと問うているのである。
いま手元にある数冊の註釈書への不満から、つい多弁になってしまったが、このように私は読んでいる。青木宗胡の著わした『徒然草』の註釈書『鉄槌』への契沖の書入れを見ると、『大日経』からの引用があるが、彼は『和字正濫紗』巻一にも同じ一句を織り込み、次のように記している。
「あは口を開く最初の声、惣じて微隠に喉内に常にありて、わざといはざれども、息の出入に随ふ故に、経に有情及び非情、阿字は第一命なりと説きたまへる−」
説明するまでもないことだが、阿字( )とはサンスクリット・アルファベットのAのことである。この文字は六世紀にグプタ文字から派生したシッダマートリカ一文字の書体であり、釈迦の頃の文字ではない。ただ伝統的には、梵字というように、梵天(ブラフマン)が造った文字だとされ、さらに一歩踏しみ込んで、これは縁起においてそう言えるのであって、梵字は梵天と砺う縁をかりた本源からのおのずからの顕現だとされる。本源とはもちろん法身大日如来である。そして阿字は生も滅も超越した宇宙の本源の象徴だとされる。それは万有を生みだす本源であるから、本来何物からも生まれたものではないという意で、本不生と説かれる。契沖が「第一命」と記していたのも、本不生と同義である。また本源からの顕現であることにおいては、入間や鳥や獣といった有情の声も、風が木に水が石に触れる非情の声も、本来まったく差別はないとされる。地水火風空という五大にはすべて響きがあり、色声香味触法という六塵はことごとく文字であるとまで拡大解釈されるほどである。このことから世界は法身の説法に満々ているということになり、法身が阿字によって象徴される因も、この法身説法という密教の教理にあるのだが、その内容をよりょく理解するたあに、まず密教の教理の基底となった、息と言葉についての古代的思惟を辿ってみよう。
すこし調べればすぐ分ることだが、息(イキ)と生き(イキ)は同根の語である。命(イノチ)のイもやはり息のイであり、チはイカヅチ・オロチなどのチと同じで、強い霊力をあらわす語である。心臓の鼓動や肌の温もりとともに、気息があきらかな生命のしるしであることを思えば、これはきわめて自然な発想である。そして気息というものが、心臓などと違い肉体そのものではなく、それは空気の流れであり内と外をつなぐものであることから、息が他の生命のしるしよりも霊的なものと考えられたのも自然なことである。ただ日本語の息には、ラテン語のspiritusのような、息であるとともに風であり魂であるといった重複した意味はない。しかし同種の発想なら、いくつも例示することが出来る。記紀神話からひとつだけ例をあげれば、天照大神と素菱鳴尊が天安河で宇気比(誓約)する場面に、まず姉の天照が弟の素菱鳴の十挙剣を三段に打ち折り、噛みに噛んで「吹き棄つる気吹の狭霧」に、三柱の女神たちが生まれたとある。柱からの聯想で少し余談になるが、契沖は『和字ななつ正濫妙』の序で、「神気の神と化るを号けて、天御柱国御柱命とごと日ふ。息の身に在ること、屋の柱有るが猶し」と、自身の理念に引きよせた強引な解釈をしている。それはともかく、『創世かみつちいのちのきふきいれ記』に「エホバ神土の塵を以て人を造り生気をその鼻に嘘入たまへり人即ち生霊となりぬ」とあるとおり、息はたんなる生命のメカニズムとしての空気の流れではなく、生と死を超える神的な息吹きと考えられていた。そんな息によって、言葉は発せれる。言葉に言霊という霊力があると信じられていたことなど、いまさらいうまでもないだろう。ところで歌道のことを八雲の道というように、和歌の濫觴は素菱鳴尊の、

八雲立つ出雲八重垣つまごみに
八重垣つくるその八重垣を

という歌だとされていた。今日では「八雲立つ」の歌は、記紀歌謡の中でも古態なものではないとされているが、契沖にあっても、それはうたがいなく神代の神詠だった。人間が言葉を造ったと考えた古代人は居ない。神も人間と同じ言葉を話すのであれば、それは神によって造られたのであり、言葉が神の息吹きである息によって発せられるのであれば、言葉を生命とともに与えられた生得的なものとして考えたとしても、それはそれで自然なことである。少し妙な言い方になるが、これに比べると、私たちが言葉とは先天的なものではなく後天的なものであり、言葉は学習によって獲得されるとしながら、私たちには話し言葉としての母国語を学習した記憶がなく、実感としては言葉を生得的なものと感じていることの方が不自然である。あまりに幼い時のことなので忘れてしまっているのだと言えばそれまでだが、はたしてそうだろうか。言葉が学習という経験によって得られたことを否定はできない。しかしこのことからだけでは、私たちの言語生活がたんに記憶された記号の限定された反復ではなく、自在に表現されるきわあて創造的ないとなみであることが説明しつくせず、そのたあの反省があることもたしかである。現代の言語学には、普遍文法という概念で、言葉は経験によってのみ得られるのではなく、そこには何か生得的なものが有るとする考え方があることはよく知られている。いま一応この何かを母胎言語と呼んでおくが、言語中枢の中にその位置が想定できるのか、精神のようにどうしても脳の中にその位置が想定し得ないのか、興味のあるところである。しかしこれは生理学的な質問ではないし、おそらくこんな事は誰れにも分らないだろう。阿字といった形で直感的に把握するのが、人間には分相応なように思われる。ただこんな事を記してはいるが、私には阿字観を修してみようという気はまったくない。
契沖に帰る。密教の教理では、「あは口を開く最初の声、惣じて微隠に喉内に常にありて、わざといはざれども、息の出入に随ふ故に」云々とあったように、阿は即ち息であり、息は即ち阿であるという論法で、阿という息は言葉の本源だとされる。
「いはんや又出入の息風、即ち阿字なれば行住坐臥即ち恒時不断の念誦なり。睡眠無心の時も断絶有る可からず」とは、道範の『消息阿字観』の一節である。それにしてもやはり阿字とはきわめて仏教的な発想である。それ自体は言葉の本源として空なるものだが、その顕れにおいては有であり、それはまたその顕れにおいては有であっても、それ自体は空なるものである。
そして空なる阿字とは、宇宙の本源からの風であり私たちの息であり命である。いま便宜的に阿字を空として記したが、しかし阿字といえども、宇宙の本源である空からの顕現である以上、それは空ではなく有の筈である。いくら阿字が言葉という有に対tて空の位置にあっても、あくまで阿字は言葉の本源であって万有の本源ではないのだから、阿字は本源そのものではない。このように阿字という言葉の本源が宇宙の本源の入子であるように、二重構造として考えるのが、論理的には正しいと思われる。しかしこのような考え方は、顕教の浅い見解であるとして、密教では退けられる。密教が顕教と呼ぶ仏教のオーソドックスな立場では、寂滅究竟の境は言語道断で心行処滅と説かれるように、究極的には言語表現は拒絶される。宇宙の理法である法身が説法するなどということはない。しかし密教では、それまで無色無形無説法と解されていた法身を、有色有形有説法へと転換し、法身説法が可能であるとする。このため阿字は法身の象徴であることを超えて法身と同一視され、阿字本不生は無量の法門の実相の源だとされる。もちろんこれは一種の詭弁である。しかし私たちの裡には、これをたんなる詭弁として一蹴し得ないものが残るだろう。それを私たちの心の限りない不思議さへの直知といってもいいだろう。この辺で契沖の記すところを聴こう。彼は『和字正濫妙』巻一で次のように述べている。
「息の字の上の自は鼻なり、−中略−(息の字の下が)心したに从がふは、心の動静に随ひて息に緩急あり。瞋喜の相、さながら息に顕はるゝ故なるべし。密教にはこの息をやがて心と説ける事あり。一條の息わっかなるに似たれど、寿命これにかゝれり、心と寿命とを全くして起るが言語なり。此の意をよく知らば、法身仏の常恒演説の法もまた、此の一息を出べからず」
この文章の内容は、すでに説明するまでもないと思うが、敷衍すると次のようになるだろう。
釈迦という歴史的人格である覚者の思想が、密教に至ると可能なかぎり拡大され、神の位置を完全に奪ってしまう。神の息吹きであった息が魂であったように、ここでは法身という本源からの息が、心であり言語である。この心は本不生の法身からの顕現であるから、心の本質である仏性としての自性清浄心もまた本不生である。そして心と寿命は、ひとえに一條の息にかかっている。息は即ち阿字であるから、この息の中にすべては含まれている。
私も息というキー・ワードを使って、つい詭弁を弄してしまったが、これはしかたがない。また「心と寿命とを全くして起るが言語なり」という一句が、全体の論理の中で浮いてしまうたあ、うまく取り込むことができなかった。この事は次章で記すつもりだが、ただ次のような事だけは、ここに記しておきたい。法身説法という真言の表現が可能であるなら、衆生の真心まことの真言の表現も可能ではないかと。このように記せば論理の戯れのようだが、これが契沖の思想の原点である。
以下少先法身説法ということについて補足しておきたい。私は自分流にしか言えないので、ずいぶん唐突な印象をあたえるへかもしれないが、私は法身説法ということを、道元が『正法眼蔵』の『道得』(道ひ得る)の巻に、「正当脱落のとき、またざるに現成する道得あり。心のちからにあらず、身のちからにあらずといへども、おのづから道得あり。すでに道得せらる、に、めずらしくあやしくおぼえざるなり」と記すところにおいて理解している。「正当脱落の時」を、仏の自受用三昧に参究し得た時と言いかえてもいいだろう。私たちには私たちの心を、物体のように外から観察することはできない。道元にとって己れを知るとは、只管打坐という逆説的な直知によっていた。これは法身にあっても同じ筈であり、法身が法身自身を完全に認識しているのなら、その方法は内証によらなければならない。法身説法とは、この法身の内証への、己れの内証をとおした参究である。契沖の『万葉集』の引詰註釈もまた、法身である阿字からの顕現である真言を読みとくという自照をとおしての、法身の内証への参究であったと、つい先まわりをして言いたくなる。ただ道元にあっては、さらに「しかあれども、この道得を道得するとき、不道得を不道するなり。道程を道得と認得せるも、いまだ不道得底を不道得底と証究せざるは、なほ仏祖の面目にあらず」と、仏祖においても、知らざるを知らずとなすというようにつづくのだが、−

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