暁烏敏賞 平成3年第1部門本文「契沖の末古古呂(まごころ)について」3

ページ番号1002640  更新日 2022年2月15日

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私は以下において、契沖が真心を惟神の道に拡大するさまを記そうと考えていた。たしかに『厚顔抄』という記紀歌謡の註釈書の序には、「奇シイ哉神道。神々自ラ知りテ只性二適ヒ、聖々親二行ヒテ情ヲ矯メズ」と記されてるいが、全文を熟読しているうちに、さして重用とも思えなくなってきた。その態度も、神道と儒教と仏教を経糸とし、和歌を緯糸とするとあるように、宣長が神道を唯一とした態度と異なり、伝統的な三教一致の態度である。またこの譬喩につづけ八幡神について記しているが、これも源氏である水戸の光囲へのあいさつ程度でさしたることはない。応神天皇の時に儒教が伝来し、仏教が伝来した欽明天皇の時にその応神天皇が八幡神として垂迹し、本地は釈迦如来だと言っても、それはごとごとしい論ではなく、寺の鎮社としで八幡大菩薩や春日明神が祭られている自然さと同断である。
このように記してくると、この文章を書きはじあてから常に触れようか触れまいかと思いつづけていたある事柄が、急に頭をもたげて来た。ここに取りあげても無駄ではないだろう。小林秀雄の『本居宣長』の中に、次のような記述がある。
「自分の学問は、古書を考へる学問に於いて、古今独歩たる契沖の大明眼によって、早速に目がさめたところに始つた、と宣長は言ふのだが(あしわけをぶね)、その契沖の古伝についての考へはといふと、−『和漢ともにはかりがたきことおほし。ことに本朝は神国にて、人の世となりても、国史に記する所神異かぞへがたし。たゞ仰てこれを信ずべし』(万葉代匠記、巻第二)といふ、まことに簡明なものであった」
文中に引用されてるい『万葉代匠記』の記述は、たしかに「契沖の古伝についての考へ」には違いないが、このように引用されることにより、『万葉代匠記』では不安気な姿をしていた文章が、古伝についての「端的な観念」と小林が記す姿に変じていて、この引用は恣意にすぎる。まず契沖の記すところを精読してみよう。

青旗乃 木旗能上乎 賀欲布跡羽
目爾者雖見直爾不相香裳

この『万葉集』巻二の特異な挽歌は、最近の註釈では、次のように訓まれることが多い。

青旗の木旗の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも

「木旗」を小旗と小さい旗と解する説もあるが、「木旗」は地名の木幡であり、「青旗」はその枕詞だとしたのは契沖である。
「(青旗ハ)木幡トイハム為ノ枕辞ナリ。木ノシゲリタルハ、青キ旗ヲ立タラムヤウ二見ユレバナリ。第四二、青旗ノ葛木山ト云ヒ、十三二、青帽ノ忍坂山ト云ヘル、皆同ジ意ナリ」
「青き旗をさしならべたるやうなれば」とも記されていて、契沖は自身の木旗地名説に木旗小旗説も取り込み、例証により証したわけで、なかなか説得力がある。説明するまでもないことだが、この歌は題詞に、天智帝の死期がいよいよ迫った時に、皇后の倭姫王が詠んだとあり、これによると歌が詠まれたのは近江の御所の筈だが、木旗地名説をとると、何故宇治の木幡が詠み込まれているのかよく分からない。そこで木幡に近い山科の天智陵に結び附け、解釈されることになる。
「日本霊異記ト申ス文二八、(天智帝ガ)御馬ニメシテ天へ上ラセ給ピケレバ、其御沓ノ落タル所二、御陵ハ築レタル由侍ルトカヤ。然レバ彼陵ノ山科ト木幡トハ近ク待レバ、神儀ノ天カケリテ木幡ヲ過、大津宮ノ空ニモ通八七給ハム事ヲ皇后兼テ能ク知り食や下モ、神ト人ト道具ナレバヨソニハ見奉ルトモ、ウツ、二直ニハエアヒ奉ラザラムカト、歎テヨマセ給ヘルカ」
契沖は歌の題詞を尊重し、この歌は天智帝の生前に詠まれたと解しているので、「神儀」とは生霊である。そのたあ旧訓のように、「目には見れども直に逢はぬかも」では、まだ生きている帝に直に逢えないとなり、それでは「如何ナル意ヲヨマセ給ヘルトモ弁ガタシ」とし、「目二八見ルトモ直ニアハジカモ」と改訓している。騎馬し天翔ける生霊の存在をかねて知っていた皇后が、帝の死後、その霊は「目ニハ見ルトモ」、現身には「直ニァハジカモ」と近い将来の悲歎を想い、「歎テヨマセ給ヘルカ」というのが契沖説である。この説の正誤はともかく、これは大変美しい、童話的と形容してもいい解釈である。ところで先にも触れたことだが、右の引用からも分るように、契沖はまだこの時点では『日本霊異記』を入手していない。『水鏡』になら同様の伝承が記されている。
「十二月三日帝御馬に奉りて、山科におはして、林の中に入りて失せ給ひぬ。何くにおはすといふことを知らず。たゾ御沓の落ちたりしを、陵にはこあ奉つりしなり」
この十二月三日という日附けは、『日本書紀』に記された崩御の日附けと一致しており、このような正確さは、あやしげな伝承にはかえってありがちなことである。契沖は天智帝の近江宮での死とは別に、『水鏡』に記されているような事実の目撃者があり、そのたあ山科の地が御陵の地と定あられたと考え、そのような目撃よりもさらに以前に、皇后が生霊の存在を知っていて、「兼て木幡の上をなどゝよませたまへるは、尤はかりがたきことなり」と記し、「いかさまにも只ならぬ御詞なり」と感歎している。そしてこの辺で切りあげないのがいかにも契沖なのだが、さらに自説を補強するたあ、天智帝の死を記るす『日本書紀』と『水鏡』の二様の記事に対応する例を、中国の古典に求めている。そして淮南王劉安の死を取りあげ、『史記』には「謀反して自殺せられたるよし」を記し、『列仙伝』には「登仙のよしをのせ、八公山に後までその跡ありといへば、和漢ともにはかりがたきことおほし」と記している。これにつづく結びの文が、
「ことに本朝は神国にて、人の代となりても、国史に記する神異かぞへがたし。たゞ仰てこれを信ずべし」
という一文である。このように記す契沖には、自説への不安があったのだろう。この結びの一文は、自身の安心を求めるたあに記されたと思えるくらいである。何よりもこう記したあとで、明敏な彼には、この文章の矛盾が見えたことだろう。何故なら彼が信じようとしているのはあくまで自説であって、それも日本最初の仏教説話集としていまだ夢想の対象であった『日本霊異記』の、その記述とされる伝聞による発想であり、「国史に記する神異」とはなんら関係ないからである。このたあ初稿本にあった「ことに本朝は」云々とある文は精摸本では省かれ、つしそこでば「又登天ノ説ニツカズトモ、仮二崩御ノ儀ヲ示シテ山陵ヲバ雰科ニシメ給フトモ、神霊ハ天翔給ハムコトヲヨマセ給ヘルカ」と一案を記し、妥協している。しかしこう記したのにつづけ、彼の真心は歌の解釈を離れ、「唯ナラヌ御歌ナリ」と記さないではいられなかった。「夢に見れども」でも、「影に見れども」でもなく、「目爾者雖見 直爾不相香裳」と、彼の訓では「目ニハ見ルトモ直ニアハジカモ」と歌われる直率直接な表現の感動を離れ、歌を解することなど出来なかったのである。
契沖の訓話註釈とは以上のようなものである。彼の妥協案が現代では定説のような顔をしているのが面白い。ところで小林はこの契沖説を、「登天ノ説」には触れず適当に要約したのにつづけ、「歌の姿が神異なら神異で、『ただ仰てこれを信ず』るがよいのである。『歌道のまこと』を得るには、他に道はない。この契沖の明眼は、宣長の学問のうちに播かれた種であった」と記している。随分勝手ではないかと文句を附けたくなるが、こんな指摘をするのを一得の愚というのだろう。ただ私としては、契沖を単純に宣長の先蹤としたくなかったのと、これまで総論に片寄っていた記述に、訓読註釈を取り込み、バランスをとりたかったまでである。
最後に契沖が、大和言葉のこころをどのように解していたかいくさのおほきみを記しておきたい。彼は『万葉代匠記』巻一で、軍王の長歌にある「村肝」という語を解釈して、心の語源をここらという多くとかはなはだしいという意の副詞と同じで、多くということだとしている。こころここら説が無理なことはあきらかだが、契沖という人を知ろうとする者にとっては、何故彼がこのように考えたかを問うてみるのは興味深いことである。彼は村肝の村も群で多いということだと言っている。また村肝の肝が心と同義であることをいうたあ、『日本書紀』(雄略記)に心府と書いてココロキモと訓んでいることを取りあげ、心府をたんにココロと訓まずココロキモと訓んだのは、ココロとキモいう同義語を二つ重ねて、心という一つの意を表わしたものであるとして、肝も心だとしている。この記述は少し分りにくいが、このような記述をとおして彼が言いたかったのは、「字書(玉篇)には府は聚也とも釈せり」とあるとおり、ここでも多くである。さらに『大日経』には、無量心識と心は無量だと説かれており、また密教ではない顕教の常の教えでは、心それ自体を無量とは説かず、心の認識作用の無限性において心を無量と説くと記している。つまり彼は、村肝という言葉をとおして、三国の発想のおのずからの一致をあでているのである。ただ最後に「今はそれまではなく、ようつのことよくもあしくもおもはるれば、むらぎもの心とはいふなるべし」と記すことによって、古語との平衡をとりもどしているのだが。
おそらくこのこころここら説は、空海の『即身成仏義』に、じふきな「集起を顕はすにはすなはち心をもつて称となす」とあるところがら来ているのだろう。これはサンスクリット語の心を意味もりするチッタ(citta)に集あるという意があることからの語源解釈として、心を現象世界の生起の因の集合体と解したものである。無量心識という字面を見つあていると、『万葉集』という大歌集を読みとき、「拙僧万葉発明は彼集出来以後之一人と存候」と自負し得た契沖の、自身でも不思議であったろ創造力という心のはたらきが思われる。これを本不生の真心のはたらきと言ってもいいし、この真心を無私と言いかえてもいい。生のすべてから切りはなされる、死という謎に踏み込むことを決し、結跏跣坐した阿闍梨契沖を思っていると、彼は無言の気息で、次のように語っているのではないかと想えてくる。
「心より出ずる歌に無量の差別ありといふといへども、かの根源を極むるに、大日尊の海印三眛の阿字には出でず」
これはもちろん私のセンチメンタリズムである。やがてその息が止った時、その場に集っていた人々の読経の声が、鳴咽まじりにいや高くなった様が見えてくるようである。悲歎はやがて葬送の礼に、情が言葉を求あるように従った筈である。

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