暁烏敏賞 平成元年第1部門本文「我は此の如く如来を信ず 清澤満之先生の信仰について」2

ページ番号1002653  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第5回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

2、無限他力の妙用 無量寿の予感

内観の道は、自己のうちに決して自己によってはとらえられないものが潜んでいるという予感へ人を導いて行く。私は今図書館の一室にいて目のまえの本の活字を追っている。私は自分のいる周囲の状況も、室の明暗も、その冷暖も温湿も知っており、今たあしていることも意識している。しかし、今この私が意識している私だけが私であろうか。断じてそうではない。私はふとのどのかわきを覚える。さっきまで意識にのぼらなかったことが、やはり私の内部で進行していてそれが何かのはずみで今意識の表層に浮上してきたのだ。水を飲めばやがて尿意をもよおすであろう。だか排尿に至る直前までの一切の過程も又私の意識とは無関係に私の内部で進行していることである。そしてこのように見てくると、私の生命的活動と言われていることの大部分は私の意識とは無関係に進行していることになろう。これらは意識されないこととして通常は意識下の出来事と言われている。それはそのとおりである。しかしその際、一般的な考えでは、意識下も私の意識下として、あたかも私の所有であるかのように思われている。だがこれはとんでもない思い上りだ。私は意識して腎臓を動かすことはできないし、腸の蠕動を調節することもできない。肉体というもの、この私の身体といわれ、私が所有すると思われているもののほとんどは実は私の意識とはかかわりがなく働き続けている。これらが私の意識と接触するのは、これらの運動の内部に欠損が生じ、あるいは障害が発生した時である。胃壁がただれ、胃液の分泌が異常をきたしたとき、私は胃(の痛み)を意識する。しかし、これとてもほんの些細なことにすぎない。どうしょうもなくだるく、シャツが発汗で黄色く変色した時、肝臓がやられていると医師から教えられるが、このとき地上での生命はあやうい。にもかかわらず、この重大な時に於いてさえ、私は自己の内蔵器官を意識の上にのせることはできないのである。このように私の身体に対する私の意識の微々たる関係に思いを致すとき、私の身体といい、私の生命といっても、それが果してどこまで私のものなのか、首をかしげたくなるのも当然である。そしてここに於いて、私なる意識は、生命活動という、意識ではとらえ得ないものの上にちょこなんと載っているシャッポのようなものに思われてくる。私の身体といえば、私が身体を所有しているように聞える。しかし事実はそうではない。身体の上に意識がちょこんとのっかっているだけにすぎない。ただどういうわけかこの意識が身体の主体であるかのように錯覚して、私の身体を潜称するに至っでいる、こう考えた方が素直ではなかろうか。ともあれ、私の意識とか、私が意識するものといったものは、たとえてみれば、スクリーンと目下スクリーン上に映し出されている映像のようなものであることがわかるだろう。そして意識が単にスクリーンにすぎないとすれば、意識作用や思考内容にしたところがしれたものであると思われてくるとともに、実はここに大きな逆転が生ずるきっかけも潜んでいるのである。それは、この私の意識が映画館のスクリーンであるとして、それではこの私の意識をその内に含む私の全体は何であるのかと、もう一度ひるがえって考えを進めた時にはたと思いあたることである。つまりスクリーン以外のもの、フィルム、電源、映写機、映像技師等々の一切が寄せ集められ、協力しあってこのスクリーンの上映ができている如く、私の意識というスクリーンも又、意識以外のものが総合され、それらの諧和を侯ってはじあて現出されているのである。そしてこの意識がその上に乗っかっているなにか途方もない大きなものが実はあるのではなかろうかという予感が我々をとりこにするのである。
さきに我々は、決して対象化され得ない意識の働きそのものへと目を向け、ある無限なるものの顛動を感じた。今はさらに意識にのぼることなくひたぶるに働き続ける生命的活動というものに気づく。これら両者は、なるほど心理学や臨床医学の領域では分析や処置の、対象とされるものではあるが、研究者や医師ではない当人にとっては、−そして研究者や医師もその当該の本人としては、ただひたすらにそれに身を委ね、享受するより他はないものである。この享受されるものを生命と呼ぶとき、我々はこの生命が個々人の所有などには決してなし得ないし又なるものでもないという厳然たる真実に向きあうのである。病身のゆえに、幾度も失意を体験した清澤氏が、「意の如くならざるものとは身体(病気は之に属す)…」(「病者に對して示すため、エピクテタス氏の言を書き送れと井上豊忠兄より来書ありし故左の数項を書き送る」百十六ページ「全集」七、十二ページ)と記すとき、この不如意はさぞかししみじみと心肝に徹して感じられたことであろう。しかしこの病いの床に在って、なおほのぼのと、尽きなんとして又燃えさかる命のともしびを内に感じるとき、生命とは、まことに一大不可思議の妙用と言いあらわすより他に、この感動を伝えるすべがなかったことも體かであろう。左に揚げる「死」と題せる小文は、師の斯かる本懐を披瀝して間然するところがない。

「宇宙萬有の千変萬化は、皆是れ一大不可思議の妙用に属す。
而して吾人は之を當然通常の現象として、毫も之を尊崇敬拝するの念を生ずることなし。
吾人にして智なく感なくば則ち止む。苟も智と感とを具備する霊物にして、此の如きは蓋し送倒ならずとするを得んや。一色の映ずるも一番の薫ずるも決して色香其物の原起力に因るにあらず。皆悉く彼の一大不可思議力の登動に基くものたらずんばあらず。色香のみならず、吾人自己其物は如何。其從来するや(生え所從来−生のよきた從りて来る所)、其趣向するや(死之所趣向−死の趣向く所)、一も吾人の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず。
只生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念心の起滅も亦自在なるものにあらず。
……………
……………吾人は寧ろ宇宙萬化の内に於て彼の無限他力の妙用を嘆賞せんのみ。」
(「死」二百一ページ以下、「全集」七、四百十七ページ以下引用文中・読み下しは筆者)

文中、「一大不可思議の妙用」を「当然通常の現象」としてうけとあ、なんら讃嘆することのないのは、健康な人が健康の有難さを知らないことと同じである。だが不可思議なるものへの畏敬を覚えるのは、ただ病者のみ然るのではない。二色の映ずるも一香の薫ずるも決して色香其物の原起力による」ものではないことを、山野に人知れず咲く花を見、そのまわりに漂う美薫に酔うとき、「智と感とを具備する竪物」は了解しなければならない。そもそも「現前一念心の起滅」すら自在することができないという事実を内観すれば、吾人は己の力の及ばざることと、この及ばざる己を生かしあるものへと自つと目が向きかえられてゆくのである。そしてこのとるに足りない己を生かしあているものが予感されるとき、それは個々の人間の長短ままならぬ相対的な生命のすべてにゆきわたっているものとしては絶対的であり、しかも個々人の誰一人とてとらえることのできない大きなものとしては無量なる寿ともいっていいであろう。
「不可思議」と題する小文の中に、「絶対(自覚の内容なり、此自覚なきものは吾人の與にあらざるなり)…」という注意書きが見えるが、これは這般の事情をうかがわしあるに足るものである。そして師が、「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗托して、任運に法雨に此の境遇に落在せるもの、即ち是なり」とその領解を述べるとき、ここに無量寿を前にした絶対の信順の消息がまことにみごとに表明されてくる(「膿扇記」百八十五ページ「文集」では、「絶対他力の大道」として「精神主義その一」に収められている文章を参照)。

3、平等観

我々の長短ままならぬこの世の生命と、この我々を生かしてくれているある無限、無量なるもの、あるいは、私が分別によってとらえる小我と、分別によってはとらえきれず、しかも私の内にも潜む何か不可思議なるもの。これまで師の論説の中に探ってきた、こうした対比的な考え方は、さらに我々が生きる世界の相対差別の状況にも及び、注目すべき洞察が展開されている。それは、平等というありふれた言葉をあぐってなされるが、そこに述べられていることは、師の体験のもう一つの側面をうかがう上でもきわめて示唆的なものである。
我々が生きているこの世界は、我々の意識というスクリーンに映し出されてくるかぎりでは、まことに千差万別である。限りなく多様であり、その多彩なるさまは筆舌のよく及ぶところではない。そしてこの千差万別があるところ、価値的に貴賎があり、品格に優劣が生じてくることも又避けられない。優勝劣敗は世のならいである。だが仏の大慈悲は劣れる者にも、賎しき者にも等しく遍く注がれている。そうでなければ、病ある者、貧しき者、愚かなる者、劣れる者、老いたる者………は、いくら世をはかなんでもはかなみきれるものではない。ここに於いてか、平等無差別は如来の大慈大悲を、相対的世界に浮沈する衆生凡夫の情愛からきわだたせる最大のメルクマールとなるのであるが、仏道修行者もまたこれをあざして精進を重ねなければならないことになる。だがこの平等心の体得といい、無差別境に入ることといい、その難きことは誰しもが経験し、痛歎を発するところでもある。従ってこの耳に快い平等をどのように意義づけるかは、凡夫の為の教えにとってもその軽重を問われる重大な関門となるのであるが、では無量寿の絶対境を予感した者は、平等というものを如何に考えるべきであろうか。我々はこのことについても師の言説をたどることにしよう。やや長くなるが、煩をいとわず、師の言葉を引用する。

「平等と云ふことは、種々の差別ある者が、其儘(そのまま)平等でなければならぬ。
これで平等が明かであるかと云へば、私は明かでないと思ふ。
佛数には平等は差別を離れず、差別は平等を離れずと云ふ、それで充分明かであるか。決して明かでない。
故に私は今此平等といふことに就きて、一二の考を述べねばならぬ。先づ一つを云うて見ますと、此花と枝とが平等だといふ時、如何なる點が平等であるか、共に物質であるといふ點は同一なれど、色も形も異なりて居るから全く平等とは云へぬ。今日の説で、有機體、即ち一種の相離れざる関係を有する一體いふ考がある。花や枝や、葉や幹や根は、互ひに相関係して、一有機體となりて居る、我々にありては、頭や胸や、腹や手足が、互ひに相関係して、一有機體となりて居る。
頭や胸や、腹や手や足や、種々不同なれども、其基本體は私と言ふものである。
頭の本體も私である、胸の本體も私である、手の本體も私である、足の本も私である。頭や胸や腹や手や足や、其現象に於ては、相異りて居れども、基本體に於ては、全く同一である。花や枝や、葉や幹や根の場合も同様である。・・・・・・」(「平等観」六十三ページ・百六ページ以下)

右に引用した個所は、師の平等観を最も手際よく説明している個所であるといってよいが、その要諦は、頭のかたち、手のかたち、足のかたちは相互に異なる。しかしこれらは同じ私の頭であり、手であり、足である。つまり、かたちは違うがいずれも等しく私という一人の人間の頭、手、足であるということに於いて相互に平等となる、ということにつきる。これはきわめて平易な考えであるが、ここにも実は、師の固有の発想がその一端をのぞかせているように思われる。それはさきに、意識の対象とは決してなり得ないけれども、私のうちに在って私を支え、私を生かしている何かへの予感ということを語ったが、ここにもほぼこれと類似した考えが含まれていることは容易に見てとれるからである。即ち、手や足や胸や腹は、みな等しくこの私という同一人物の手、足、胸、腹であることによって平等である。これと全く同様に千差万別の相を呈する森羅万象は、すべて目に見えず、決してとらえられない何かあるものの有機的一部分を構成していることによって相互に平等となるのである。つまり、手や足の本体としての私に対応するものとして、千差万別の森羅万象をその手足とし、有機的部分とするが如き本体が存在する・・・・・・。
師の平等観は、このように見てくると、万物一体の思想にきわあて接近してくるが、師自身もこれを認あ、次のようにのべている。「私は他の人と共に社會といふ有機體を成してみる。
又私は他の人や、天地山川と相離れざる有機的関係を有して居る。
だんだん推し進めて考へて見れば、私は天地萬物と相離れざる有機組織を成して居る。かう云ふ様な譯であるから、私は此頃萬物一體の眞理と云ふことを揚言して居ります。
それを一言に申せば、天地萬物は何一つを抑へても、其關係のある所を尋ねて見れば、終に萬物全體に及ぶものである。
譬へば蟻一疋でも、其關係を尋ねて、其本體を求むれば、畢竟天地萬物と関係して、其萬物全體の本體を以て本體とするものであると云ふ次第であります。此道理より申せば、萬物は種々不同であれども、其本體に於ては、皆悉く平等であると云うて不都合はありませぬ。」
(「平等観」六士二ぺージ以下、百七ページ以下)

万物一体の思想にもとつく平等観、これが無差別均一なる平均を以て平等とする考えに勝るものであることはたしかである。だが人は、この平等観が依拠するところの万物一体の思想を承認できるであろうか。「今日の実験科学の前に、そんな空想は無用である、といふ論」は当時とてもあったとすれば、況んや現下の状況に於いてをやである。ここに至って我々は、師が万物一体を言うとき、それは知識なのか、それとも信念なのかを問わなければならない。

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