暁烏敏賞 平成6年第2部門本文「学校と地域との"共育"による青少年の健全育成」1

ページ番号1002628  更新日 2022年2月15日

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第10回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

  • 論文題名 学校と地域との"共育"による青少年の健全育成
  • 氏名 小林公司
  • 年齢 53歳
  • 住所 東京都町田市
  • 職業 中学校勤務

1、二十一世紀の日本

二十一世紀の足音が聞こえはじめた。明治この方我が国は、欧米先進国に追いつけ、追いこせを合言葉に、それこそ馬車馬の如き勤勉さで懸命に働いてきた。
明治生れの父は、生前、「日本人は働きすぎるといわれるが、島国日本じゃ働かなくちゃ食ってはいけん。働け、働け!」とよくいっていた。
こうした勤勉性のおかげで、今や日本は世界先進七ヶ国の仲間入りを果した。家の中には物があふれ、物質的な豊かさ、高学歴化、生活水準の向上など、人類永年の夢を実現したかのようである。
ところが豊かさの負の代償として、空気、水、食糧などの地球環境汚染、ガン、エイズなどの医療の問題、資源、エネルギーの問題など、いわゆる地球問題が大きな課題となった。
二十一世紀の日本は、国際化、成熟化、高齢化の時代だといわれる。どれ一つをとっても、日本がいまだかつて経験したことのない未来社会である。
国際化はますます世界の中の日本を意識させるだろう。資源小国、人口大国の日本は、世界の人々と平和的に国際交流をはかっていかない限り、生き残る道はない。その国際交流は経済的、物質的な面だけではなく、文化的、教育的な面での交流も盛んになる。
成熟化は自由時間の増大、高い生活水準のため、より精神的、文化的なものへの欲求が多様化してくる。高学歴化の中で自己実現への欲求が高まり、心のふれあいを求めて人間性の回復が叫ばれるにちがいない。
高齢化は人生五〇年型から人生八○年型への転換である。社会保障や生きがい論、生涯学習体系をめざしての学校、家庭、社会との連携や整備など難問題が山積している。

2、未来に生きる人間像

今、述べてきた未来社会に生きる人間像は、特に「思いやりの心」「たくましい生命力」「ゆたかな創造力」を持つことが必要である。
「思いやりの心」は、人権感覚を持ち、自分とは異なった考えの人を受容し、異文化を理解する広い心、感動や感謝の心、郷土や祖国を思いやる心のこと等である。
「たくましい生命力」は、人生八○年代を生きぬく健康な体と強い意志、個性豊かで、適確な自己主張をし、国際社会に貢献できるバイタリティに富むこと等である。
「ゆたかな創造力」は、今迄のように与えられた課題に対応する能力ではなく、問題を自ら発見し、創造的に解決する能力である。
例えば未来をひらく生命科学、バイオテクノロジー等における技術革新、人間復興をはかる文化、芸術等において自ら切りひらく創造力のことである。
これからは新しい日本の未来をめざして、新しい個性をもった人間像が求められる時代である。ところが、日本の現実はどうか。物質的には豊かになったが、精神は不健全化し学校の教育荒廃−−−非行、校内暴力、いじめ、不登校、自殺等iは深刻さをますばかりである。
今日、こうした教育荒廃は学校の閉鎖性と硬直性にあるといわれて久しい。教育は教師だけのものではなく、家庭や地域と共に創る教育こそ、未来を開く鍵である。私たちはそれを、『学校と地域との"共育"実践』と呼んだ。この開かれた学校づくりを通し、いかにして地域の人々と青少年の健全育成をはかったかは、五章で詳述する。
その前に、私の人生の一大転機となった海外での異文化体験について先に述べたい。個人的なことになるが、私は昭和五十二年から外務省派遺教師として、イタリア・ミラノ日本人学校に勤務した。三年間の海外生活は真の豊かさとは何か、また人間らしい生き方とは何かをじっくり教えてくれた。
私は異国の地での体験によって、はじめて日本の国、日本の教育、そして日本人の生き方について、丸ごと考えられるようになった気がする。

3、イタリアでの体験 ゆとり・ふれあい・人生を楽しむ

イタリアは泥棒の国、怠け者の国、マフィアの国といわれ、日本人には余り評判はよくない。確かにそうした側面はあるが、人生の諸価値の優先順位を一人一人が明確につかんでいる。それは会社より家庭、集団より個人、金もうけより倫理、残業よりゆとり等々、聖書をバックボーンにしてその精神性と倫理性は筋金入りである。こうした思想が社会規範となって健全な世論を形成し、青少年を健全に育てている。
彼等は昼食にワインを傾けながら、二時間をかけ、時間がくればサッサと仕事をやめて帰宅をする。そして週二日の休みと一ケ月の夏のバカンスで人生の鋭気を養う。シーズンともなれば、夫婦でオペラや音楽会に出かける。イタリアでは時の流れが大河のようにゆったりと流れ、体内時計が人間らしい時を刻む。
そんな彼等からみて、超勤が当然で、日曜日さえ仕事に出かけ、夏休みが一週間という会社人間の日本人は理解できないのかもしれない。私は家主さんから「日本人はいつ休むんだ。人生はゆっくり、楽しみながら生きよう!」とよくいわれた。
ある日、スコント(値引き)の洋品店に家族で行った。行列をつくって待っていた。私たちの順番になって、店内に入ってビックリ。店はガラガラなのだ。店長いわく。
「もうけ本位より、お客様本位!」
私はここにイタリア人の商道をみる思いがした。テレビは健全だし、酒・タバコは店頭売りで、子供が買いに行っても絶対に売らない。残業のない親は家族と一緒に食事をし、子供は親のいうことを実によく聞く。日曜日はキリスト教でいう安息日で、ほとんどの店は閉まり、家族そろって教会へ行く姿をよく見かけた。
子供たちは午前中授業。三ヶ月もの夏休み。宿題もないので、日本の子にとっては考えられないようなゆとりの中で、青春時代を楽しむ。イタリアの学校では、非行・暴力などはほとんどないと聞いた。
イタリア人は働きすぎず、もうけすぎずを信条とし、自分と家族を何よりも大事にし、ゆとりをもって人生を楽しんでいた。
こういう社会で、どういう子供が育つのであろうか。日伊の生徒の決定的な違いをみたのは、日本人学校で行われた交歓会の時である。日本の子はまずだれがいうかで一悶着。いう時もまわりの子と相談をしながら、皆との同じを強調して発言した。
ところが、イタリアの子は自分の考えを明確に持ち、他との違いを強調しながらこういつた。
「ぼくは勉強は嫌いだが、車は好きだ。中学を卒業したら自動車関係の仕事につきたい。高校へ何人いくかなんて考えたこともない」
その明るくハキハキしたいい方に、学歴社会に歪んでいないイタリアの子をうらやましく思った。
日々が国際社会のヨーロッパ。そこに生きているイタリアの子供たち。同一民族、同一文化の島国日本。そこに生をうけた日本の子供たち。その違いを一言でいうなら、イタリアの子は"出るクギになろう"とし、日本の子は"出るクギになるまい"とする。
イタリア人は一人一人は強いが集団になると弱い(西欧型)、日本人は一人一人は弱いが集団になると強い(日本型)。そんな日伊の民族の違いが、子供の頃から芽生えているのを知った。
二十一世紀はますます国際化社会になるだろう。その二十一世紀を担う日本の子供は、個性の輝きと集団の輝きをもつ、日本と西欧の長所を持った"日欧型"の子供を育てる必要がある。
そんな理想を持った。

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