暁烏敏賞 平成7年第2部門本文「教え育てる真の"教育"をめざして」3

ページ番号1002620  更新日 2022年2月15日

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第11回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

"教えること"から"育てること"へ

これまで述べてきたような現象を改革していくためには一体どうずればよいのだろうか。それには教育制度の改革をはじめとして様々なことが考えられるが、最も大切なことは、"教えること"偏重から、"教えること"と"育てること"のバランスの取れた本当の教育の実践である。

"教えること"のプロはたくさんいるが"育てること"のプロはほとんどいない。「やる気を育てる」という言葉はあっても「やる気を教える」という言葉はない。生涯学習の基礎にもなっている内発的動機づけもまさにこれである。そしてこのことは、学校教育よりも家庭教育、それも幼児期の教育の大切さを私たちに教えてくれる。育てる教育は、家庭における幼児教育そのものともいえる。

教育の根本は学校をどうするかとか、入試制度の手直しではない。本当の教育は家庭から始まることを認識すべきであり、それを忘れた教育論は砂上の楼閣に過ぎない。"教えること"は学校をはじめとして他人にまかせられても"育てること"は家庭自身が行わなければならない。教育は学校でやるもの、やってくれるものと考えてはいけない。学校へ入って来る児童はすでに相当ひえた鉄である。「鉄は熱いうちに打て」は、小学校入学前の幼児に言える言葉である。小学生一年生で勉強のできない子は、生まれつき頭が悪いと決めてしまう。勉強しはじめてすぐから成績が不振であれば、それまでの実績はないのだから、生まれつきのせいにしてしまう。教師の中にもそういう誤解をする人がいるのだから、家庭でそう思うのも無理はない。小学校へ入る前に、実は、もう六年間の教育を受けている。そこでは「母親が最初の教師」となる。ところが自分の子どもが非行に走れば、母親は学校が悪い、悪い友達にそそのかされた、むしろ、被害者だと主張する。学校は学校で責任のがれから、社会のひずみ、政治や教育制度のせいにし、事故をおそれて少しでも危険なことはやらなくなる。家庭はやらなくてはならないしつけまで学校に押しつける。マスコミは家庭の教育責任にはほおかむりして、学校を目の仇にする。学校には少数の当事者しかないが、家庭となるとほとんどの人がかかわる。少数派を槍玉にあげ、多数派になびくことが安全だ。

このようにして子どもは鍛えられる場がなくなる。そうすると、ちょっとのことですぐ怪我をし、今度は学校教育が知育偏重だからと批判する。
なにか物事に挑戦すれば、いくら注意しても、全く事故がないということはない。危険をおそれて、真綿にくるむようなことをしていれば、ちょっとしたことで、大怪我になる。怪我をしたことのない子ども、さらに怪我を極度におそれる母親に育てられた子どもは、いのちの大切さがわからない。ちょっとしたことで中学生・高校生が自殺したり、逆に人をいじめたりする。精神的な部分で、柔道の受け身を覚える必要がある。

"育てること"があってはじめて"教えること"が可能なのであり、決してその逆ではない。こどもはランドセルといっしょに生活を背負って学校に来る。小学校の低学年までに「学ぶという習慣を獲得すること」が不可欠である。人間は学ぶことを学ぶ。幼児期の大切なことは、このころに「わからない」とか「つまらない」などというのをほっておいて、まだ小さいからと考えていると、それがやがて、小学校へいってからの学習意欲のなさ、学業不振児へとつながっていく。逆にいろんなことに興味をもってすすめば、学習にもプラスになる。「はい、すわって」「はい、○○して」といった形でなく、楽しく遊びながら学ぶのである。幼児期とはまさに育つ時期であり、育てなければならない時期といえる。ほっておいても育つことはない。

日常、幼児に接したことがあれば、幼児の「なあに?」とか「どうして?」という質問攻めに、閉口した経験をだれもが持つ。幼児は、新しいことを知るのが大好きなのだ。大人は幼児の旺盛な知識欲や学習欲にこたえることに、もっと熱心になるべきである。幼児に知的教育を行うのはかわいそうだと考えるのは大きな間違いである。もちろん、無理やり知識のつめこみや、やりたくない練習を強制されるのは"かわいそう"にちがいない。しかし、幼児が知的好奇心の強い存在である以上、その潜在能力を発揮する機会を与えないのは、逆の意味で"かわいそう"なのである。幼児の学習権を奪ってしまっている。幼児の知的好奇心や向上心を伸ばせるような本当の知的教育が必要なのである。小学校の教師の多くは、どの教科においても、三年生までの間に基礎を固めなければならないと言う。小学校低学年とりわけ一年生がとても大切である。ところがこの一年生は大変な能力差をもって入ってくる。読み書きが多少でき、数が数えられるといった程度のことでなく、もっと根本的なこと、学習意欲や集中力、物事への興味、自立性など、これから学習していくのに重要な能力に大きな差がある。この子ども達に同一教材で、同じ期間、しかも限られた時間内で指導していれば、当然のこととして落ちこぼれができ、一方では、学習を面白く思わない子どもができてくるものだ。

学習に必要不可欠な基礎的能力こそまさに"教えること"ではなくて"育てること"そのものであるといえる。この能力を伸ばすにはまず、ほめるということ、認めてあげるということが必要になってくる。言葉を覚えはじめのころ、子どもが言葉を発するたびにまわりが拍手喝采をする。それでどんどん言葉を覚えることができた。もしそのとき、ちょっとした発音の間違いごとに、それをとりあげて叱っていたら、言葉の発達はひどく遅れてしまう。這うようになったり、歩くようになる時も同様である。うまくできたといってほめてやるからたちまち上達する。ところが、少し成長してくると全く逆のことをしてしまう。くどくど叱って、ヒステリックになってしまう。「だめな子ね」とか「どうして何度言ってもわからないの」などと繰り返し言っているうちに子どもは、マイナスのセルフ・イメージを作ってしまう。大人は、子どもの悪い点には気付きやすいが、よい点については無関心なことが多い。マイナスもあればプラスもあることを忘れず、むしろ意識的にプラス面に光を当ててみる必要がある。動作のおそい子には、じっくりものごとを考えるという長所があるかもしれないし、気の弱い子には、弱いものへのいたわりの心があるかもしれない。

必ずしも高い教育を受けていない素朴な親でも、優れた子どもを育てたなどという場合は、子どものプラス面を評価していたという事実がある。R・ローゼンザールという心理学者の研究で、ありふれた知能検査を「子どもの学習成績の伸びを予見できるテスト」であると教師にふれこみ、ランダムに選んだ生徒の名前をあげ、成績が伸びると予言したため、教師はそれを信じて指導にあたったところ、成績が実際に向上した。このような期待の効果をギリシャ神話に出てくる王様の名前を借りてピグマリオン効果とよぶ。その意味では、子どもの姿は親の気持ちそのものを写しだす鏡であるといえる。

少年院へ入所した少年が次のような内容の作文を書いている。−−−「お母さん、僕かけっこで一等になったよ。」と言えば、母親は「誰が転んだの?」と答え、僕はショックで立ち上がれませんでした。また父親に「お父さん、今日百点とってきたぞ。」と言いますと、父親は「お前が百点とるんじゃ、みんなとるだろう。」と言って認めてくれませんでした。僕はそれから非行へと転落して、少年院に入ってしまいました。−−−

これほど子どもにとって残酷な仕打ちはない。勉強の良くできる子が頑張れるのは、日頃から成功し、ほめられ続けているからともいえる。勉強しないといって叱られ、できないといって叱られるのでは、たまったものではない。

勉強ができないと言われている子ども達をいろいろ研究してみると、多くの子どもは勉強ができない自分をだめだと思っているが、それと同時に、本当は勉強して親や先生にほめられたい、よい成績を取りたいという気持ちが内面にあることがわかる。ところが、子どものそういう気持ちを摘み取るような誤った取り扱い方をした結果、子どもの気持ちをゆがめてしまい、意欲を失わせ、しかも親の気持ちさえもゆがめられて、結局うまくいかない。子どもの知的な発達は、家庭環境をはじめとして子どもが生活している状況がよければそれなりに順調に進むものである。間違った指導法を精一杯繰り返したところでよくなるどころか、かえってマイナスになってしまう。幼児教育で重要なポイントの一つは、子ども自身に学ばせることである。よく観たちは、手取り足取り細かく指導する先生こそ熱心で優秀な先生だ、と評価しがちである。教師のほうも、そうするのが親切な指導だと思い込みがちだが、これは明らかに間違っている。ほめることにより学ぶ喜びを知り、そしてそれが自立性、自発性へとつながる。ものを習うのは人生最大の楽しみである。習うのは報酬であって罰ではなく、喜びであって苦しみではない。学習への態度、つまり、自分から学ぼうとする前進の心構えさえできていれば、文字を覚えることなどなんでもない。少しぐらい文字が読めたり、数が数えられたりすることよりも、もっと基本的な集中力とか観察力とか記憶力のようなものが育てられていることの方が、よっぽど将来の学習の役に立つ。これらの能力は学校での勉強だけでなく人生のあらゆる問題に対処していく上で不可欠なものである。そしてこれらは本当の意味での子どもらしい明るさと純真さから生じ、前向きに生きる自主独立の精神、安定した情緒へと発達していく。

私たちが一般的に考えている教育とは、きわめて狭い意味でしかない。
つまり、学校に子どもを集めて教科書や教材を使い、先生を中心にした一斉授業をすることだけが教育だと考えられがちである。家庭でも、教育をそういった型にはめて理解する。従って、家庭教育というとすぐに、よい家庭教師をつけて勉強させるとか、塾を探して通わせたり、もっとひどいのになると、家庭教師と塾、さらには通信講座にビデオ学習などをいくつも掛け持ちさせるとかといったことだと考えがちである。つまり、学校教育を能率よくしたり、小型にしたようなもの、下請け的なものだけが教育だとされがちだ。

しかし、セルフ・イメージのでき上がる過程やモデリングのメカニズムを考えれば、親自身が意識せずに行っていることの重要性を改めて認識しなければならない。親自身の子どもに投影する様々な心理的作用を考えなければならないし、また、親が自らの好みや意欲に従って日常行っている活動が、いつの間にか子どもにとって規範的意味を持つようになることも忘れてはいけない。こうした無意識的教化と意識的な教育との関係は、氷山の水面下と水面上に現れた部分とにたとえられる。前者は量的にもはるかに大きなものであるだけでなく、この部分があってこそはじめて意識的教育は効果を表す。家庭教育の重要性を、このような意味で再認識しなければならない。

子どもを奮起させるつもりで、「あなたはだめねえ。」とか「こんなこともできないようじゃ、将来どうなると思ってるのよ。」などという母親の言い方ほど、子どもを確実にだめにするものはない。子どもをほめることも自立心を育てることもすべて、親が子どもを一貫して信頼することから始まる。それは盲目的な過信でなく、わが子を見つめ、自分を見つめるところがらスタートするのであって、問題が生じた時に「うちの子に限って」と言ってあわてふためくこととは無縁である。

これはよく勉強する子と勉強したがらない子の親の態度を観察してみるとわかる。よく勉強する子どもの親は意外にも勉強を無理強いするようなことは少なく、極端な場合は、夜いつまでも勉強する子どもをやめさせようとしたり、子どもの方が宿題があるから勉強させてほしいなどと頼んでいるものもある。一方、勉強したがらない方の親はほとんど例外なく口やかましく、「おかあさんは、もう何も言いませんから、一人でどんどんやってみなさい。」などと言いながらも、三分と言わないではいられないような親もいる。子どもの方としてはむしろ親が勉強しろとうるさく言うと、勉強したくなくなるという。このように親の態度と子どもの学習意欲とは深い関係がある。親の方から勉強や宿題をさせないようにしても、いつもうるさく言う親のほとんどが、心配で言わずにいられない。親達は、「ほうっておけば、遊んでしまう。」「学校へそのまま行って、叱られるのでかわいそう。」「そばについていなければ、いつまでたっても細かなミスをしてしまう。」などといった不安をその理由としている。こういつた不安はつきつめれば、「自分が世話をしなければできない」という子どもへの自信のなさを確信しているからである。このように、親が子どもの世話をしたいとか、しなければならないという「幼児扱い」が、子どもの自立心の成長を妨げているのである。

あやまちを厳しく指摘してそれを激しく批判したところで、子どもはよい方向には変わらない。批評ばかりしていると親はそのことに気付かず、子どもを力づくで変えようとする。子どもの悪い点ばかりをあげつらっていると、そうなってほしくないような人間になってしまう。子どもは親の直接の説教よりも、親の生き方から学ぶものである。子育てにとって何より大切なのは親の情緒的成熟であり、親自身に依存性が残っていては、どんなに熱心に子育てをしても、子どもの心は歪んでしまう。

こんな親が一方で「勇敢であれ、勇気を持って行動しろ。」とか「勉強しろ、働け、努力しろ。」と言いながら、他方で普通の子どもなら誰でもするようなことにまで「危ないからやめなさい。」という禁止令を出す。子どもは二つの矛盾した指令の中でそれをどう解決していいかわからなくなる。

人間のもっとも人間らしい特徴とは、自分で考え、自分で計画を立て、自分で工夫し、自分で実践するという点にある。そういうことが思うぞんぶんやれる子どもは、だから生き生きとしている。また、そのような実践には失敗はつきものだ。失敗はいっか必ず成功のもととなっている。そのような試練と冒険こそが、人間をより個性的なものにする。その人間の真実の生き方はその人らしさを徹底していくところにある。教育はその人らしさとしての天分の発見を助けるいとなみである。大事なことは人は何のために生きるのかという目的価値である。「功なり名を遂げる」というのが問題なのではなくて、その人らしい生き方を全うしたかどうかが問題である。

目標を他人において、そのあとをただがむしゃらに、無目的的に突っ走れば、いっか我にかえった時に、すでに自分自身を見失っていることであろう。「自分の行為の目的を他から受ける人間」これはプラトンの有名な"奴隷"の定義である。一人ひとりの目的とは、その人が自分の天分を見つけ出し、発揮するということにおいてほかにはない。

従って、教育とは、親の言うことをきかせることではない。ところが、親、特に母親は、自分に自信がないと、第三者の権威を借りてでもそうしようとする。「お父さんに聞いてごらん。お母さんが正しいっていうにきまっているんだから。」「お父さんに叱ってもらいます。」「お店の人が怒るよ。」「おまわりさんに叱られますよ。」「ほら、あそこにすわっているこわいおばさんに叱られるわよ。」などと言う。叱る、注意をするということは自分の責任においてしなければならない。それは親の信念を子どもに伝えることであり、自分の優位性を保つためだけでもなく、勝つためでもない。自分の生きざまを子どもに伝えることである。その時に、他の権威を借りる必要などどこにもない。「私はこう思う」と自分自身の責任においてはっきり伝えることが教育である。責任を取りたがらない親からは、やはり無責任な子どもしか育たない。戸塚ヨットスクールに子どもを送っていた親達が言っていた。「戸塚にやらなければ殺されてしまいそう。」しかし、親は子どもに殺されてもよいという覚悟で子どもに向かっていったらどうか。金をつけて他人に踏んづけさせたり、殴らせたりするより、ずっと親らしいやり方ではないか。幼稚園でも「月謝を払っているんだからしつけはそちらでやってくれ。Lという父母がいるくらいだから情けない話だ。子どもがコブをつくって泣いて帰ったときは、「あらあら痛かったでしょう、もうそこへ行っちゃだめよ。」とは言わず、「まあ、コブができたの。こんどは頭を低くして通らないとね。練習してらっしゃい。」くらいの受け方をしてほしい。親が恐れれば子どもも恐れ、親が平気だと子どもも平気になる。「お願いだから早く寝てちょうだい。明日の朝、起きられないでしょう。」と、母親がヤキモキする。でも起きられなくて、学校に遅れて困るのは、母親でなく、子どものはずだ。

そこで、「そう、じゃあお母さんは先に寝るから、あなたは自分で責任持って、朝はキチンと起きなさい。」と、このぐらい言えて夜ふかしをさせてみる度量が母親にあればいい。子どもが大きくなっても、毎朝起こしている母親は、子どもを愛しているようで、実は子どもの自立をはばんでいる。ペットのようにその子どもの人生、将来を考えないでただただ可愛がってしまうと、自我の芽生えた子どもは暴力や非行に走るか、あるいは全く自分を持たず、自主性のない、無気力、無感動、無責任な人間になる可能性が非常に高い。

子どもを生むことと"育てること"の違いをしっかりと認識しなくてはいけない。なんでもかんでも人まかせ、代理業の盛んな昨今、社会全体の分業体制が高度化しようとも"育てること"だけは自らの手で行うことが不可欠である。家庭において子どもを信頼し、ほめてあげ、自立させる。自然に帰って、"教えること"より"育てること"を重視した本当の教育を一人でも多くの親に理解してもらえるように輪を広げていかなければならない。ある意味では、教育はあくまでも変わったことをするのではなく、「当たり前のことを当たり前に」ということになるのかもしれない。いずれにしても、子どもの教育は、結局のところ大人の問題だから、私たち一人ひとりの心構えの改革、身近な家庭からの見直しを教育改革の第一歩としたい。

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