暁烏敏賞 平成8年第1部門本文「『聞く』態度をきわめた人暁烏敏小論」1

ページ番号1002606  更新日 2022年2月15日

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第12回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 「聞く」態度をきわめた人 暁鳥敏小論
  • 氏名 菰淵 和士
  • 年齢 67歳
  • 住所 香川県高松市
  • 職業 大学教授

はじめに

暁鳥敏全集全二十七巻・別巻一をくぐり抜けた今、私は、謝念を持って思い返す。何というすばらしいいのちの輝きを純粋経験させてもらったことかと。私自身、今まで接して来た各種の著作集の中で、これほどまでに胸をゆすぶられ、我、吾を忘れて読みふけったものは無かった。どうして、暁烏敏のことばが、これほどまでに私の魂を根底から揺り動かし続けて来たのか、その謎を解く鍵の一つでもいいから発見してみたいと思う。その手掛かりの一端にもと願い、この小論を書いて行くことにする。

私は、暁烏敏は、言語行動人として典型人だったと思う。言語行動人というのは、自己の内面に見える人間存在を深めることに、全精神・全精力を傾けて、その過程をことばに表現していくことを志す人のことを言う。言語行動の話す・聞く・読む・書くの四つの活動の中で、一見、一番、易しそうに見えて、その実、一番奥行きが深く難しいのは、言うまでもなく、「聞く」行為である。暁鳥敏は、聞く一事を徹底させていった。聞く行為が、どういうものか、どこまで深まるものであるか、氏自身、倒れる瞬間まで追求し続けた。私は、そこに無限のなつかしさと無限の共感を覚えるのである。

氏は、大学の教授にもならなかったし、宗門の政治家にもならなかった。常に、一宗教人として、人間とは何かと、生涯を自問自答し続け、大衆の生活人の群れの中に身を投じ、共に阿弥陀如来の前にひれ伏していく中で、聞き合う人間関係を形作って行ったのである。仏の声をどう聞いたか、全国をくまなく行脚しつつ、漢語の仏典をすっかり和語によって洗い尽くし、大衆に語り続けて行ったのである。

私は、氏の表現した平易な和語の中に、日本の風土が、長い間、生活人と共にはぐくんで来たことばの宝庫を眺めるのである。そこには、日本の土のにおいがあり、日本人の汗のにおいがある。氏は、地方に根を下ろしている生活人から、和語の伝統を吸収しながら、和語によって仏の声を伝えていくことを実践していったのである。日本人は、世界の中で、どういう方向に向かって歩いていけば、本当の幸せになれるのか、それを和語によって、はっきり表現してくれていると思う。

私は、そういう意味で、暁鳥敏のことばが、近代日本文化史の中で、もっとも根源的なエネルギーを持ったものであることに思い至る時、現代の混迷する日本社会にあって、日本人が不死鳥そのものになって復活するには、氏の一翼につながることなしには、できないのではないかと思う。氏が指差している方向性は、今日、我々日本人が、心してみつめるべきものであると思う。

これから、私がここで記そうとしているのは、氏のことばに共鳴・感動した一端を聞き書きとして、抜き出し、自分のつたない感想を添えて提出することである。結果として、「聞く」態度をきわめた人・暁烏敏像を素描できれば幸いである。

1.教えることは拝むこと

氏は、教育の問題について、本質的な問題点を突き付ける。教える側の者は、相手の中に在る尊いものが見えないといけない。見る目は、直観力によるものである。直観力を純粋に保つためには、いささかの私心があってはならない。私心は目を曇らせてしまう。相手の中に善いもの・尊いものをみつめ、それに合掌する。そして、折にふれて、相手の中の善いもの・尊いものを口にする。教育というものの働きがあるとしたら、この一点にしかないのではないか。

氏のことばを氏自身から聞いてみよう。

「教へるといふことはどうするのだといふと、向ふの中にあるものを開くことなんだ。向ふの中に尊いものがある。自分の中に尊いものがあると、その尊いものを向ふに見出だすことが出来る、それを聞く。それを聞くといふことは教へることなんだ。だからほんたうの意味の教へといふものは、また一方からいへば崇めることなんです。教へることは崇めることなんだ。だから教へといふものの心持が進んで来ると崇める。そこで神も人も共に崇める。人を教へるといふことは崇めることなんで、各自の尊いものを見出ださせることである。お前は尊いものを持ってをる。お前の中に尊いものがあるぢやないかと、それに気をつけて行くのが教へなんです。自分に尊いものが見出だされるといふと、こっちが、あの人も尊いものがある。あの人には尊いものがある。さうして尊いものを知らないで自分をおろそかにしてみる。お前の中に尊いものがあるといってやることが教へなんだ。人の前に自分がA口掌してゆくといふやうな尊いものが見える。だからほんたうの意味に一切の人に合掌出来るやうな人でなければ誰でも教へることは出来ない。(中略)学校の先生ならばすべての生徒を拝む、みんなを尊むことが出来るならば、その人の教へはみんな伝はつて行く。尊む心でなければ教へといふものは出来て来ない。」(1)

教える側の条件として、自分の中に尊いものがあることをはっきり自覚していることが必要である。自分の中に尊いものがあることを意識し、それを礼拝することができて初めて相手の中にある尊いものを発見できるのである。これは、なかなか気づきにくい大事な問題である。さらに、「一切の人に合掌出来るやうな人でなければ誰でも教へることは出来ない。」これも、大変な問題である。

2.もとからあるのだ

氏から私が教わるのは、自分が自分の内面を見つめる、見つめ方である。自分が自分の内側に在る人間を凝視する。徹底して凝視しつづけると、この自分ともう一人の自分とを発見する。そして、もう一人の自分がこの自分と対話をし始める。一日中、対話する。一年間、対話する。一生涯対話できる展望を持つ。この内面の対話劇を通して、どこへ導かれて行くのか。この自分の愚かさ・限界をしみじみとわからせて頂く。取り柄というのは一点しかないことがわかる。その一点をもう一人の自分の導きによって、一歩一歩、その指差す方向に歩みつづける。この自分の中に万人の心を見る。万人と全く等しいものを見る。そうなると、一人いても寂しくない。たとえ、地球のどこにいても寂しくない。この自分が、もう一人の自分と対話できる限りは、一人の中に万人在りという実感を味わう。もう一人の自分の中に、一体、何があるのか。もう一人の自分とは何であるのか。暁鳥威は、これを南無阿弥陀仏で表わしたのである。南無は、全身全霊を対象に投げ掛けることである。絶対の帰服である。アミタは、数えられないもの、我々人間の理性・感覚でもって数えることのできないもの、つまり、永遠の時間であり、永遠の空間である。別のことばで言えば、永遠のいのちである。この自分は、もう一つの自分の一滴にすぎない。もう一つの自分の光によって、輝やかさせる以外にない。土くれのこの自分が、光の自分に包まれ、反射され、反射光になる。この事実を腹の底から納得し、どうかよろしくお願いしますとことばに出して表現することが、南無阿弥陀仏である。

もう一つの自分とこの自分との対話をとことん押し進めていった末、南無阿弥陀仏に行き着く、その道行きをはっきりことばによって表現したところに、暁鳥威の独自の為事があると思う。

「我々がいろんなことを思うて、分る分らんと悶えてをる中で、一心に南無阿弥陀仏と自分の中心をそのま・言ひ現はすことが出来た時に、我々の心は経験、感覚の世界を超えて、一切に遍満した理性の世界、仏の世界に入るのだ。そこへ入ってみれば、身も南無阿弥陀仏、心も南無阿弥陀仏、帰命無量寿如来より外に何もないやうになる。この帰命無量寿如来は、ないものがあるやうになったのでなくて、あったのがあるやうになった味はひである。もとからあるのだ。」(2)

自分の中心・中核に、もう一人の自分を置いた時、人間の経験や感覚を越えた次元の世界に突入する。そこに遍満している光が仏の世界なのだ。永遠のいのちの世界なのである。これは、我々が意識する前からちゃんと存在していたのだ。我々人間は、もとからあるものに気づくだけしか必要なかったのだ。すべて頂き物なのである。自分の物として所有できるものは、何一つなかったのだ。

「法を説くのは、持たないものを与へるのではなくて、持ってるて知らない者に、持ってるることを知らせることである。信心は、新しく如来から御廻向にあっかることであるが、それは戴いてみれば新しいのではなくて、疑ひの雲が晴れて、在るものが在る、とわかっただけである。遅慮する心の雲がとれて、摂取不捨の光が輝き出るのが信心獲得である。」(3)

我々は、持っていて知らないのである。自己凝視の目的は、持っているもの、つまり、与えられているものを感謝して押し頂くことだけだ。私共にとっての頂き物は二つある。一つは、生きていく上において必要な資質を一点。もう一つは、この資質を輝やかさせるための光である。この二つのものが一対になっている。どちらが欠けても、人間は地上で平和に生きていくことが出来ない。

3.すべてが貰い物

「聖人は、自分が賢くてこの道を発見出来たのではない、私は何も知らぬ者である、教へてもらひ、習うたより外私の物は無いのだ、全てが貰ひ物、お与へ物である、有難いといふのも、尊いといふのも習うたのである。称へることもお礼するといふことも習うたのだ、全てが貰ひ物である、とこれは聖人のおこ・ろであります。」(4)

自分が自分をみつめつづけると、はっきり見えてくることである。自分が戦い取り、自分の手柄になるものは、何一つないのだ。この無礙光如来の道も、教えてもらい、習った結果である。すべてが貰い物である。ありがたいという謝念のことばも、習ったものである。従って、自分の物は、何一つない。これを徹底してみつめつづけ、承認しつづけると、どういうことになるのか。人間は、馬鹿だということ、人間存在そのものは、馬鹿であり、阿呆である、その外、言いようがないのではないか、そのことを自覚せざるを得ない。何一つ自分でつくったものがない。すべてが頂き物・借り物、すべてが預かり物となると、どうなるか。人間存在は、無一物者であるということを自覚し、その自覚を深めていく以外に、人生の意味も目的もないことに気づかされる。

人間の妄執の一つに我執がある。これは、人間存在に根強く居座っているものである。

ふつう、極端に言えば、明るい顔の人と暗い顔の人、さっぱりした心の人と曲がりくねった心の人が存在するが、その因って来たるところは、どこにあるのか。それは、我執の度合い、その人の我執とのかかわり合いにあると思う。自分が無一物者であることを自覚し、自分を支えて下さっている大いなるいのちの根源に向かって、謝念の気持ちを持ち、礼拝する時、おのずから我執と遊離することが可能になる。一体、我執の根源にあるものは、何であろうか。また、いかにしたら、我執を脱却できるのであろうか。

4.手放す

「身体も借りもの、親も借りもの、子も借りもの、皆借りものだといふのである。借りものを長く放すまいと思ふから苦しむのです。借りたものは返さにやならん。借りものは仕舞ひになくなる。借りものを手放すところに本物が出る。如来の本願に乗托すればよいのである。なされるま・である。だから、この世に御用がある間だけ生きさして貰ひ、御なくなれば焼き取って貰へばよい。又、こ・にをる間はこ・の規則に従って仰せのま・に生きてをればよい。その日その日を機嫌よく暮らしてをればよい。」(5)

皆、借りものである。自分の人間をみつめつづけていくとぶつかる事実は、これである。自分の資質も、自分の身体も、親も子も、すべてが借りものである。借りたものは、いっか返さなくてはいけない。返すのが礼儀である。自然なことである。借りたものは、大切に扱わなくてはいけない。自分のものではないのだから、自分の所有物だと思い込んではいけない。借りたものだから、自分の所有観念を捨てることが当たり前である。従って、借りたものを手放す。しがみつく、つまり、執着するのではなく、さらりと離すのである。離した所に、何があらわれるのか。如来の本願である。この本願に乗り、自己の一切をまかせきるのである。自分がこの地上で何年生きるか、この地上で何をなすか、それは、本願におまかせすればいいのである。ただ、如来の呼びかけに応じ、如来の側からの方向づけに従って、黙々と歩いて行くだけである。

仕事の評価も、自分の人生の意味も、すべて如来におまかせすればいい。この世に御用のある間だけ生きさせて貰い、御用がなくなれば焼き取って貰う。生死の一大事は、すべておまかせすればよい。自分の力でどうこうできる対象ではないのだ。一切、あちら側におまかせする以外にないのだ。自分にまつわりついている一切の執着に、手を離すことなのだ。そうなれば、本当の風景が見えて来る筈である。自分が本願と一枚になる、本願に乗じさせて頂く。これが、自分が自分に出会い、自分が自分になりきり、自分が自分を忘れさることではないのか。そこで、一日一日をにこにこして暮らすことになる。自分が自分に真正面から出会いつつ、充足感を持って生きる。それが、人生の至福なのではないか。それ以上のものは、人生に対して、何も求められないのではないか。

一日一日、にこにこ暮らすことが、毎日の日課であり、人生の重大事なのである。この事の外に、人生の価値は何一つないのである。自分が自分の力によって生きているのではない。如来の力によって生かされているのである。生かされている自分を徹底的に生かされきる。そのために、自分がもう一人の自分に出会いつづけることが必要である。もう一人の自分は、如来のいのちである。如来のいのちの中でしか、この自分は全身全霊で一枚になり得ないのではないか。

5.その日その日

「たゞその日その日をありがたくいたゞいて、その日その日にあてがはれた仕事、あてがはれた所作をして、そして御用を勤めさしてもらふ。この世一生は素直に御用を勤めさしてもらって、この世の因縁が尽きたとき、あの世のお迎へをうけて素直にゆく。この世は機嫌よく働いて、命終れば機嫌よう終りをつげてゆく。それが我々の生死解脱の一道であります。」(6)

ここにもまた、一日の送り方、一生涯の送り方が、端的に表現されている。毎日、毎日、自分に与えられた仕事・所作をする。それを無事にこなしていく。水車をゆっくり足で踏む。一日の水車を回しきる。一日の内容も一生涯の内容も、つまるところ、同じである。これは、考えてみれば、如来より賜わった御用である。御用のできる間、御用を勤めさせて頂く。これは、因縁である。如来より頂いた因縁である。人間にとっては、それに素直に従う以外にない。生死を素直に送迎するのが、一番大切な生活態度である。素直さにまさる美徳はない。ここに描かれているのは、一日の人生風景であり、生涯の人生風景である。私共は、如来の本願に素直に乗り、まかせきる以外にない。

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