暁烏敏賞 平成8年第1部門本文「『聞く』態度をきわめた人暁烏敏小論」2

ページ番号1002607  更新日 2022年2月15日

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第12回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

6.魂の光

「信心をいたfくといふことは物の世界がなくなることである。たゞ魂の光がある。単に物の世界だけにをる人は、これは魂の光のない人である。物と魂と両立してをる人、これがいはゆる半自力半他力の人である。信心の行者には物がない。た.・魂だけである。それなら信心の行者は物に離れられるか。離れてをるのである。物に離れられるといふより、物を持たないのである。いはゆる空手です。信心を得るといふことは物を離すといふことである。」(7)

如来の本願に素直になりきるということは、信心をいただくということである。信心をいただくと、物の世界が消えていく。物の価値の優位性が消失する。お金も地位も国籍も人種も、すべて自分の身についた条件としての属性が、意味を失ってくる。そこに存在するものは、魂の光である。如来の光を頂く受け皿に反射する如来の光である。弥陀の光を受け取る。その時、魂の光が現出する。物を離し、物から自分の心が解き放たれた時、自分に残るものは、魂の輝きだけである。一日を生きるとは、この魂の輝きを増すことをさせて頂くことであり、一生涯は、この魂の輝きをますます深く広くさせて頂くことだけである。表面的・現象的には、どのように見えようとも、人間世界の実在は、心眼によって観れば、魂の輝きの連続性以外に何もないのではないか。外側から、人生の風景をいくら見ても、物が物を覆っているだけで、物の外に何も見えないのではないか。ところが、信心を頂くと、人生の風景が、内側からはっきり見えて来るのではないか。

7.光を求める心

「人間の心の中には、やはり光を求める心がある。世の中のいはゆる宗教心はこの光を求める心である。神とか仏とかといふ宗教の対象となって拝まれてをるものは、人間の秘奥に輝いてをる光である。この光は、神仏の与へたものであるし、光が神仏を造り出したものでもある。どっちかの考へでも一つのところに到達する。これは自然に人間の持ってをるものである。ですから、いつれの宗教でも、人間が頭を下げて尊み敬ふ、その前に自分を投げ出すといふ対象は光です。」(8)

信心に至る道の出発点はどこにあるのか。人間は、本能的に暗闇を避け、光明を好み、光明を求める者としてつくられている。光を求める心は、人間が生きる上で頂いているものの中での最高のプレゼントである。光を求め、光に近づくためには、光の前に身も心も投げ出さなくてはいけない。そのように人間はつくられているのである。光は精神の輝きにとっての不可欠の要素であり、精神は光と合体することによってしか精神本来の機能を十二分に発揮することはできない。

おもしろいことは、人間、すべてを投げ出し、もっとも謙虚な状態である無一物者になりきらないと、光を頂けないということである。少しでもたかぶる心・傲慢な心が出て来た場合、光は、忽然と姿を消してしまう。そこで、もし、常に自分の精神が輝きつづけていることを要求するならば、あちら側の光に向かって、ひれ伏しつづけなければならない。南無阿弥陀仏の称号は、あちら側からの呼びかけであり、同時に、こちら側の応答として用意されたことばである。南無阿弥陀仏と唱えることによって、光の前にひれ伏し、光を頂くことがきるのである。

8.私一人を助ける

「信心は本当に頂いたら喜ぶことが出来る。現に光明の中に納め取られて、どちらを向いても仏様のお相ばかりに取り巻かれてをるといふ境地が信心の世界である。丁度お祭の御神輿が沢山の若い衆に担がれるやうに、私共を観音・勢至、その他の菩薩の御神輿に担がれて、わっしょいわっしょいと差し上げられて連れて行って貰ふのである。だから、親でも子供でも連合ひでも、皆わっしょいわっしょいとこの私を担いで行って下さる方である。私一人を助けるのだ。一切の仏が善人となり悪人となり、石となり木となって私を助けて下さる。現に御利益がこゝに見えてをる。だから疑ふ余地はないのである。はっきりしてをるのです。南無阿弥陀仏と称へてをつても、この現世利益が本当に自分の身の上に入ってをらん人なら、まだ真剣な念仏者でないのだ。」(9)

信心とは、喜ぶことである。ここには、信心の本質が、的確に描かれている。すべてのものは、人間も木石も私にかかわる一切の関係は、仏様の方から私自身を助けるための働きとしてのみあるのだ。だから、私は一方的にただよく受け取ることだけなのだ。現実に、私の心が喜んでいなければ嘘である。私を取り巻く一切の網は、手を変え品を変え、仏様の光明を味わわせ、ロハ今の光から更なる深い光へと導き給う働きの中に投げ入れられているのだ。それを素直に受け取り、素直に認める心を信心と言うのである。信心は、光を受ける手のひらである。光をすくい上げるひしゃくである。無限の光を毎日毎日すくい上げることが、生活の中心になる。そこで、生きたまま、現世の中に在っての極楽を味わうことができる。浄土を味わうことができる。極楽は死んでから往くところではない。生きているロハ今、極楽に立っているのだ。浄土に立っているのである。生死一如なのである。生きている時も死んでからも、もともと光のロハ中に立っているのである。光から片時も離れていないのである。肉眼ではなく心眼でみつめると、生死を包み込み、生死を越えたところに、光そのものの大海が見えてくる筈でる。私共は、その光の大海に向かって合掌し、これを信ずる以外にない。

9.隔てがとれる

「信心とは、隔てがとれることだ。仏と凡夫、絶対と相対、無限と有限、最も隔たってをるやうなものが一つになる、それが信心だ。だから信心の相は一つである。信心を一心ともいふ。信心を得るといふことは、仏と自分とに、真に隔てがとれることである。仏と自分との隔てのとれるといふことは、十方衆生と自分とが融けて疑ひがなくなることだ。だから、お上手も何にもいらぬ。た"、のんびりした心である。」(10)

ふつう、我々は、自分と仏との関係を対立的に考える。向こう側にあると考える。ところが、自分と仏との間には、,何の仕切りもないのである。両者の間に距離はないのである。仏と自分とのつながりが、自分自身の心の中で、自分ともう一人の自分とのつながりをじっとみつめつづけていると、見えて来る。自分がもう一人の自分に招かれ、もう一人の自分に包まれ、もう一人の自分に手をつかまれ、歩いているのだといふことがわかる。仏の姿をまじまじと眺めつつ、生かさせてもらっている自分に気がつく。

隔たりがなくなるということは、一切のものにこだわりがなくなるということである。そうなると、十方の衆生と自分とが別物ではないことに気づく。十方の衆生と自分との間の隔てが取れると、自分は十方衆生そのものだと気づく。自分と十方衆生との間に何の差別もない、全く平等であり、一つのものでしかないことに気づかさせてもらうと、どうなるか。この地上での問題は、仏と十方衆生との関係でしかない。自分の中に十方衆生が在り、仏の懐に十方衆生は抱かれている。そうすると、十方衆生の自分は、仏に対し、ありがたいことだと感謝申し上げる以外に為事はないのではないか。我を頼めという仏の声、お願いしますという自分の声、つづいて湧き出るありがたいという感謝のことば。それが、心眼によってはっきり眺められる実在の風景なのだ。そうすると、もっとも単純な構図の風景の中で、もっとも単純な生活をすることを許されているのが、人間の生きている姿そのものであり、そこに、人間の条件そのものが見られるのである。

自分と仏との隔たりがすっかりなくなり、仏心を頂戴する十方衆生と自分との隔たりがすっかりなくなり、凡夫であることを自覚させて頂く。そして、地上の人間の生涯は、どの人の場合も例外なく、凡夫と仏との対話劇を進行させるためのものであることに気づかさせてもらう。如来の音声とその持続、如来の光明の創造とその持続、それが宇宙そのものの姿ではないか。私共は、一切残らず、すべての生きとし生けるもの、木石・一木一草に至るまで、この宇宙創造劇の中に投げ入れられているのではないか。だから、私共は、お上手はいらない。一体、誰のために、何の目的で、何の効果をねらって、お上手を言う必要があるのだろうか。それは、むなしい泡沫でしかない。無益そのものである。それならば、私共は、十方衆生に対して何の気もつかわなくていいということになれば、どんな心でいればよいのか。のんびりしていればいい。手足をゆっくり伸ばしていればいい。自然そのままにしていればいい。意識して、ああすればいい、こうすればいい、あるいは、ああすればよかった、こうすればよかった、そういう意識は、一切、余計なことである。無駄なことである。もっとも気楽な心の姿で、仏の光の中に座り、仏の光に感謝することばを南無阿弥陀仏と唱えていさえすればいいのである。のんびり座っておればよい。いつ、いかなる時も、のんびりと座っておればいい。死んで行く時も、のんびり座ったまま、あちら側に行けばよい。のんびり座っていることは、生死の大海の中にあっての人間のもっとも素直な生活態度である。窮屈になる必要は一切無いのだ。時間を越え、空間を越えて、いつものんびり座っている。これが、仏の宇宙創造劇に参加させて頂く唯一の座り方であり、生活態度なのである。

10.全ての音が仏の声

「我々が本尊を胸に頂くといふことは、全世界に統一されて、どこに行っても障はるところがなくなることである。宮城道雄さんは、どんな音を聞いても騒音といふものは世の中にない、全ての音が音楽的に聞こえるやうになれると言はれる。あれは天耳通を得たのであります。全ての音が音楽と聞こえるのであります。水の音も風にそよぐ梢の音も皆、広長の舌相を出す仏の声だと言はれる。お浄土にまみりますと、全ての音が念仏念法念僧の声を出すといふことが『無量寿経』にも『阿弥陀経』にも書いてあります。心が開けますと、全ての音が仏の声と聞こえるのであります。

本尊を得るといふことは、統一が出来ることなのであります。それを曼陀羅といふ。曼陀羅といふのは信念の上に現はれる世界である。他から見ると不統一に見えてをつても、世界の全てのもの、皆そのところを得て燦然と光り輝き統一されてるるのです。」(11)

真の音楽家には、すべての音が音楽に聞こえる。宮城道雄さんが、そうであった。真の画家は、すべてのものが色に見える。色彩に翻訳されるのである。真の信心を会得している人には、すべてのものが仏の声に聞こえる。心眼によって一切のものを見るとしたら、風のそよぎも雲のたたずまいも他者のことばも所作も、すべて仏の声に聞こえるというのだ。心が開かれる、心に一切の障りがなくなる。一切のこだわりがなくなる、一切の妨げがなくなる、そうすると、宇宙のすべてのものが仏の声として聞こえて来る。私共には、そこまで自分の心を開きつづける可能性があるのだ。そのことが可能になるためには、私共の心に本尊を得ることが絶対条件になる。それは、南無阿弥陀仏と一体化することである。そうすると、各自の人生は、それぞれに、曼陀羅を描かせてもらっていることになる。

11.すべてが唱える南無阿弥陀仏

「『数行信証』の「行巻」は、親驚聖人の世界観です。「信巻」は、人生観です。「行の巻」は、西田さんの言葉でいへば場所のことを書かれた。わしらの住んでをるこの空間、世界を書かれた。その場所をお味はひになって「大行とは、則ち無礙光如来の名を称するなり」と仰せになりました。宇宙の総べての存在物は皆南無阿弥陀仏を称へてをると言はれるのです。面白い話です。草も南無阿弥陀仏、木も南無阿弥陀仏、猫も南無阿弥陀仏、犬も南無阿弥陀仏、牛がモーとないてをるのも、馬がヒヒンといふのも皆南無阿弥陀仏を称へてをるのだと言はれた。我々が腹を立てて言ふことも帰命無量寿如来、喜んで言ふことも帰命無量寿如来、宇宙の総べての存在物は皆南無阿弥陀仏を称へてをる、とお味はひになったのであります。」(12)

宇宙に存在する一切のものは、南無阿弥陀仏を唱えているというのである。それ故、信心を深めるということは、仏の声をあらゆるものの底に聞き取る心の耳の訓練をすることになる。ものの底から聞こえて来る仏の声、これを聞き取るためには、自分自身、南無阿弥陀仏と心の底から唱えることだ。みずから唱えることによって、自己の存在の底に南無阿弥陀仏の声を聞くのである。南無阿弥陀仏の声は、自分が発するのではない、あくまでも頂いたもの・授かりものである。頂いた南無阿弥陀仏、それを再び自分の心の底に聞くのである。自分の声の奥に仏の声が存在する。自分が自分の声を聞くのは、自分の声の奥にいます仏の声を聞くことである。もっとも深いところに潜む声は、一切合切、仏の声だけである。こうなると、音の世界そのものの構造も単純至極なものとなる。南無阿弥陀仏以外に何もなくなるからである。

12.一切万物、南無阿弥陀仏

「その行を又「法」ともいひます。行とは何か、宇宙が流れてをる、生活してをるといふのであります。その生活の姿はどういう形になって現はれてをるかと申しますと、聖人はこれをこの「行の巻」に、

大行とは、則ち無礙光如来の名を称するなり。

と述べられてあります。則ち万物は総べて、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と生活してをると言はれるのであります。宇宙の総べての現象は、南無阿弥陀仏、と叫んでをる、これが「行の巻」のお示しであります。

この行とは人間がする行ではない、宇宙の行であります。南無阿弥陀仏といふのは万象の声であります。一切万物は皆南無阿弥陀仏であります。そしてこの南無阿弥陀仏といふのが仏の御名であります。」(13)

前の章で述べたことと、全く同じことを表現している箇所である。宇宙の総べての現象をことばで写し取ったら、南無阿弥陀仏となるというのだ。虚心に無心に心の耳を傾けて、ひたすら聞きに聞き入ると、南無阿弥陀仏以外の声は何も聞こえぬというのだ。自分の心の耳を徹底して開きに開き、奥の奥に分け行った時、南無阿弥陀仏の叫びそのものであるというのだ。大音声が宇宙全体に響き渡っているのである。そうすると、この音声をよく受け取って復唱する以外に、人間の音声表現の目的はない。ただ、毎日、毎瞬間、繰り返し心の中で音声化することが、宇宙のリズムと人間のリズムが呼応し、調和をはかる唯一の道になる。人間の音声表現の中で、一番尊く一番価値あるものは、南無阿弥陀仏と腹の底から唱える以外にないのである。他はことごとく枝葉末節なのである。

すべての音が仏の声に聞こえるとは、一体、何を語っているのか。身も心も捨てて、仏と共に在るために、仏を礼拝する。仏に育てられ、仏になることが目的なのだ。そうなると、すべてのものに謙虚になる。すべてを仏の活動それ自身として受け取るからである。自己と仏との関係を純粋に徹底して追求しようとすると、自己に向かう一切のものが、仏の声と化してしまうのではないか。何のこだわりも妨げもなくなり、向こう側のものが、そのまま聞こえるようになると、仏の声しか存在しないのではないか。すると、ありがたくよく受け取るようになる。頭から評価を下したり、いじくりまわしたり、余計なことは一切しなくなる。腹もだんだん立たなくなる。腹の立つ分量が減って来る。一旦、すべてのものを謹んでよく受け取り、後で丁寧に仕分けをするようになる。最初からはねつけたり、拒否・拒絶をなかなかしなくなるのである。対象をよく受け、よく味わい、よく礼拝した上で、送り出すことがきるようになるのである。

13.一切は無障碍

「やはり自分が静かになって願ひそのもののうちに沈潜してゆけば、やがて、その願ひと共に生き共に死すとも悔いなきものに打つかります。そこに真実の念願が生まれるのです。その念願には肉体の生命をも賭して努力するのです、どうしてもその念願を成就せしめねばやまないのです、全力をつくすのです。誰でも子供が遊戯してみる時程の真摯さを持ちつゞけてゆけば成就出来ぬ願ひはなくなります。本当に堅い決心の上に立ちあがれば一切は無障碍です、障りになるものはありません、これは五十年来の私の体験です。」(14)

本当の願い、これは、自分が自分の資質に合った}点を選び取り、それを深めることを通して、南無阿弥陀仏と唱えることである。自分が、この一点のために、自分の全エネルギーを傾注しよう、すべての自分の存在を賭けようというのである。これは、具体的には、一人一人によって異なっている。その人自身の願いは、その人自身、自己発見しなければならない。それは、かならず与えられているのだ。その}点を発見し、それを育てつづけることが、まさしくその人の人生になるのだ。その人の手仕事と言っていい。その人の数珠なのである。一日中、手でまさぐりつづけるのである。人によって、どんな数珠が与えられているか、千差万別である。社会における職業の成立も、ここから生まれるのである。人は、自分の一点を南無阿弥陀仏と唱えつつ、磨きつづける以外にない。一切は無障碍と化す。

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