暁烏敏賞 平成14年第1部門本文「近代の問題としての地球温暖化 個人の自由と責任を問い直す」1

ページ番号1002573  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第18回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 近代の問題としての地球温暖化 個人の自由と責任を問い直す
  • 氏名 吉野 美智子
  • 住所 石川県
  • 職業 フリーライター

1.近代への問い

1、現在私たちが生きている世界はかつてなくグローバル化された世界である。地球の端と端がインターネットによって一瞬のうちにつながれる。この10年は人類が地球規模のコミュニケーションを実現し、情報技術(IT)の飛躍的進歩をなし遂げた時代であった。
こうした技術発展の一方で、地球温暖化などの広汎な地球環境問題が生じている。インターネットがまさに世界的規模に拡大した近代の自由主義(リベラリズム)の光の部分を体現しているとすれば、二酸化炭素ガス、メタンガスなどの排出によって確実に進行している地球温暖化は、その影の部分をあらわしていると言える。
近代という時代を組織した価値原理は個人とその自由の尊重である。地球温暖化問題は、明らかに、近代のこの至上の価値原理としての個人およびその自由についての再検討をもとめるものとしてある。自由主義の限界は経済原理(市場主義、自由競争)としても今や世界各地で、富める者(国)と貧しい者(国)の格差の拡大という形でもあらわれてきている。地球温暖化の問題を通して、人類は今成長の限界という困難な状況に直面している。近代人は伝統的拘束から自らの欲望、自由を解き放ち、無条件に肯定し、拡大してきたが、そうした人間の欲望、自由に何らかのかたちで制限を設ける必要が生じているのである。地球環境問題は、地球の有限性という事実のまえに私たちをさしむけつつ、私たちが享受する自由の意味とその内容を私たちに問うている。
本論文は、近代の重いつけとして私たちにのしかかってきている地球温暖化問題をてこに、人間のあるべき自由とは何かを問い直そうとするものである。近代の価値原理への反省を通して、自由の問題を人間であることの責任の問題として考察しようとする。そのなかで、人類が将来において存立可能な地平とはどのようなものかを考えることを目指している。
日本では戦前、京都学派が西洋対日本という文明論的・地政学的文脈で〈近代の超克〉というテーマを提起したわけであるが、これは西洋の思想・文化伝統との対比から日本の思想・文化伝統を再評価するなかで、思想・文化における西洋追随からの自立を目指すものでもあった。21世紀初頭の今、浮上している近代の問題は、そうした西洋対日本という問題ではないし、思想における西洋中心主義を批判することが問題なのでもない。この問題は、人類の未来に関わるグローバルな問題として、すべての人に向けて提起されている。インターネットの普及に見るように、西洋近代はすでに、西洋と非西洋という区分を越えてグローバル化しているのである。それこそ私たちが出発点とする状況である。

2、近代は、個人の自由の価値と歴史の進歩の観念を原動力として進展してきた。未来へ向けての人類の不断の進歩が信じられた。「知は力である」と言ったのはフランシス・ベーコンであるが、この定式は近代がめざしてきたものが何であるかをよく言い表している。科学・知識の力によって宗教、因習、迷信の支配から人間を解放すること、学問・技術の進歩によって個人の一層の自由を獲得すること、これこそが近代の目指した目標そのものであった。
近代を貫いたこうした進歩という観念は、地球の有限性の露呈と共に、いまその基盤から揺るぎはじめている。人間の働きを受けず原始そのままに保たれた自然環境、一次的自然は、一部の熱帯原始林や深海底等を除き、地球上にほとんど存在しなくなってきている。私たちが自然という言葉でイメージしているものはすでに人間の働きを受けた二次的自然にほかならない。
ここ数年世界各地で多発している大洪水、豪雨、干ばつ、森林大火災などは、地球温暖化に伴う現象であり、自然災害というよりは広い意味での人災であると見ることができる。地球の海洋、大気、水は一つの循環系を構成しているが、人間の経済・生産活動により地球という生命の循環系全体に大きな変調が生じているのである。
地球環境問題、特に地球温暖化の問題は、人間の欲望空間を拡大し、分配するパイ全体を大きくすることで、問題を解決してきた近代のありかた、その生産主義的エコノミー(経済・組成)を根本から変えることをもとめているのであるが、近代的なエコノミーは産業革命以降すでに200年間続いてきたものであり、私たちの一人一人がその恩恵、便宜をこうむってもいるわけであるから、これを変えるのは容易なことではない。近代的な物の考え方は、現代人においては、科学・医療・テクノロジーの進歩が人間の抱えるすべての問題をいつか解決してくれるという漠然とした信仰、そして経済成長による豊かさの追求もこれまで通りに際限なく続きうるという期待として染みついている。こうした信仰や期待は、物資の大量生産・大量消費・大量廃棄を特徴とする今の私たちの生活のありようを支えているのであり、一朝一夕に変わりうるものではない。
こう見ると個人の自由の至上性、自由主義、市場主義等の近代の価値体系−現在の国際世界秩序はそのもとに組織されている−を乗り越えることは果たして可能なのだろうかという疑問が起こる。それは、私たちは経済成長への期待、そしてその底にある進歩のイデオロギーと訣別することができるのだろうか、という問いに、そして、もしできるとすればどのようなかたちでだろうか、という問いに連なっていく。

2.自由主義の限界

1、ここで近代の価値原理である自由について考えてみよう。自由主義(リベラリズム)は思想的には、個人の自由(の実現)を人間存在の最高の価値、最高善(summum bonum)と見なすものだが、経済学で言う自由主義は少し意味合いを異にする。それは市場への各国政府の介入を、各国経済と世界貿易の発展にとって有害なものとして排除しようとするものである。市場原理としてのリベラリズムを批判するケインズの説明によれば、それは「国家の活動はごく狭い範囲に限定すべきであり、経済生活は可能な限り規制せず個々の市民の手腕と良識に委ねるべきだとする教義」(ケインズ、「自由放任の終焉」、宮崎義一訳、「世界の名著ケインズ・ハロッド」中央公論社に所収)を意味する。物資・財の交換、売買、取引行為を一切、自由競争に委ねれば、市場の自動調節的メカニズム(アダム・スミスの言う「神の見えざる手」)が働いてすべてがうまくいくので、個人の自由な経済・生産活動に対して国家による規制をできるだけ加えるべきでないとするのである。
今、市場原理としてのそうした自由主義が国境を越えて世界の至る所を支配している。そして地球温暖化は、物資の大量生産、大量輸送、大量消費の自由を掲げる市場経済のグローバル化と歩調を合わせるように進行している。これは、現在のグローバル化した市場経済が主として石油エネルギーの大量消費を原動力として成立していることを物語る。
具体的な例を挙げよう。私たち日本人がコンピューターやワープロで文書を書くとき、印刷用紙を使わなければならないが、その多くのものは熱帯林などの外国の森林材から作られている。それらの林木を輸入する方が日本の山岳地帯の森林を伐採して林木にするより、安上がりだからである。同様に、日本人が消費する市販の弁当のなかには、アメリカで作られ、日本に輸入されるものも少なからずあるらしい。アメリカで作って日本に輸入した方がコストが安いからだという。去年、中国と日本の間で経済摩擦を引き起こした中国産ネギ、シイタケ、イグサの輸入問題にしても、それらを輸入した方が安価であり、日本の消費者にとって得だという市場主義的発想から来ている。日本人の日々の生活はこのように世界中からの輸入品によって営まれている。日本の伝統食品である豆腐の原料は大豆だが、国内生産は消費量の5%程度にすぎない。パンやラーメンの原料である小麦の自給率も10%程度であり、大豆、小麦ともにアメリカなどからの輸入に頼っている。
熱帯国、米国、中国といった遠隔地からこのように物資を輸入するときには、船舶または飛行機で物資を輸送しなければならない。その際に大量の石油関連エネルギーが使われ、二酸化炭素ガスが排出されるわけである。ところが価格の安さを追求する市場経済は、こうした二酸化炭素ガスが引き起こす地球温暖化、それによって将来起こりうる諸々の災害による人的、物的被害とその補償、修復に要する費用を一切コスト計算に入れていないのである。将来、地球温暖化によってどのような人的、物的被害があるか、将来の私たちの生活に、そしてさらには私たちの子孫の生活にどのような形でそれがはねかえってくるかといった点については、つまり地球温暖化のコストについては、まったく考えずに、今日に見えるコスト安、市場での現在の価格競争を第一に置くのが市場主義経済である。この意味でそれは現在中心的であり、近視眼的であると言える。
自由主義の哲学者で経済学者でもあったJ・S・ミルは、地球資源の有限性という視点から、自由主義の限界を見据えていた。彼は土地、水、空気の資源を「事実上無限のもの」と考えた。その一方で、埋蔵されている石炭、金属、鉱石については、彼はその有限性を指摘している。経済・生産活動がこのように有限な自然資源に基づくものである以上、経済成長は無限には続かない、いつか成長の停止を迎えることになる。ミルはこうして「そもそも富の増加というものは無制限なものではないということ、そして経済学者たちが進歩的状態と名づけているところのものの終点には停止状態(stationary state)が存在し、富の一切の増大はただ単にこれの到来の延期に過ぎず、前進の途上における一歩一歩はこれへの接近であるということ、……このような停止状態を終局的に避けるということが不可能であるということ」を示す。(「経済学原理」、末永茂喜訳、岩波文庫、4巻「第4篇生産および分配に及ぼす社会の進歩の影響、第6章停止状態について、2節」
ミルは人類の人口増加についてもこれが無限に続くものではありえないことを指摘している。人口の増加は食糧生産の増加によって支えられなければならないと同時に居住可能空間をも必要とする。ミルは工業化された西洋諸国にすでに人口の過剰、過密化傾向を見てとる。「富および人口の停止状態は、それ自身としては忌むべきものではない。人類が協業および社会的接触の両者から生ずる利益のすべてを最大限にまで獲得しうるために必要とされる人口密度は、最も人口稠密な国々のすべてにおいてすでに到達されている。」(同上)
ミルの時代の人類人口は10億人と言われている。現在の人類人口は61億人を越える。2050年代には93億人に達すると推定されている。今後50年間でミルがすでにその増加が限界に達しつつあると考えた世界人口の9倍強になる計算である。現在、国際的に問題化している第三世界における貧困、飢えの問題の解決は、この地域で急激に進んでいる人口の爆発的増加にどこかでストップをかけることなしにはありえない。先進工業国は経済成長という形で人口増加を支えてきたわけだが、このシナリオは地球全体のレヴェルでは維持しえないものであることは明らかである。
ミルによれば、近代人が「進歩的状態」と呼んだもの、つまり富の増大や経済成長にはいつか終わりが訪れるのであり、人類は成長の停止状態に入ることを避けられない。この視点からは、経済成長至上主義は、人類がこうした停止状態に入ることを技術革新により未来に「延期」し、繰延べ=先送りする努力を意味すると考えることができる。地球温暖化という事態は、そうした経済成長による問題の先送りが地球のキャパシティの上で目一杯になってきているということを、つまり人類の物質的消費、経済成長には踏み越えられない限界があるということを否応なく示す赤信号なのである。人類は今や、人口増加および経済成長をではなく、それらの成長の停止状態をこそ肯定的に受けとめるべき段階に差しかかっているということだ。すべての人は、将来の世代に責任を負っているものとして、ミルの次の言葉に耳を傾けなければならないだろう。
「自然の自発的な活動のためにまったく余地が残されていない世界を想像することは、決して大きな満足を感じさせるものではない。……もしも地球に対しその楽しさの大部分のものを与えている諸々の事物を、富と人口との無制限な増加がことごとく取り除いてしまい、そのために地球がその楽しさの大部分のものを失ってしまわなければならないとすれば、しかもその目的がただ単により大なる人口−しかし決してよりすぐれた、あるいはより幸福な人口ではない−を養えるようにするだけであるならば、私は後世の人のために切望する。彼らが必要に強いられて停止状態に入るはるかまえに、自ら好んで停止状態に入ることを」(前掲書、同上)
地球温暖化という困難な問題に直面している21世紀人類は、これまでの成長一本やりから成長の停止を普通の状態とみる成熟社会に移行していくべきなのではないだろうか。私たちは、経済成長と人口の増加が普通の状態であるとする近代的考え方に慣れきっているので、こうした古い考え方から日本の少子化を克服すべき問題として否定的に見てしまいがちであるが、少子化とそれに伴う人口の減少は、日本が世界に先駆けて成長の停止状態に入り、安定した成熟社会に移行するためのステップであるというふうに、肯定的にも評価されるべき事柄なのではないだろうか。少子化は日本にとって、経済成長と人口増加に幸福を見るのではないまったく新しいタイプの社会をつくり出していくチャンスでもあるのだ。
その意味でミルの言葉は多くの示唆に富む。どのようにすれば私たちのエネルギー大量消費型の今の生活様式を少しでも変えていきうるかという問いに対して、それは一つの手がかりを与えてくれる。問題は人間の自由をどのように評価するかということにも関わってくる。

2、現在私たち一人一人が個人として享受している自由の意味を考えるために、ここでごく簡単な例を取ろう。どこかへ行くとき、移動手段として、公共交通を使うか、自動車を使うかという選択肢があるとする。そのとき、自動車を使うことを選ぶとする。その理由としては、利便性、快適さのほかに、他の人達も使っているから自分も使いたい(他の人がしていることを自分も人並みにやりたい)という理由もありうる。自動車を使うという行為はありふれた行為であるが、誰も彼もが自動車を使っているわけではないので、この行為は暗に一つの社会的ステータスを示すものでもあるわけだ。つまり、自動車を使うという、何気ない行為、私が自由に選んでいるはずの行為のうちに、すでに、他者への目配せ・人並み志向や社会のなかでの自分の位置といった、自由とは無関係な観念が入り込んでいるわけである。
この例は、私たちが自分の自由でやっていると思っていることが果たしてほんとうにそうなのか、という問題を提起する。ここで一つの事実に私たちは気づく。自動車の宣伝・広告が、テレビのコマーシャルや雑誌広告に溢れているという事実だ。私たちが便利だ、快適だ、自由そのものだ、かっこいいと思っている自動車というものは、毎日テレビのコマーシャルや雑誌に氾濫している広告イメージからそう思わされているのではなかろうかという疑問がここで起きるのである。
広告の力を示す好例としてブランド商品を挙げることができる。ブランド商品の広告はいろんな雑誌をにぎわしている。そうしたものを身につけることでホンモノのおしゃれが出来る、リッチになった気分を味わえる、といった記事が書き立てられる。こうした記事や広告が若い人の消費行動に及ぼす影響ははかりしれないものがある。そして事実、雑誌にいつも載っているブランド商品をもとめて多くの人が行列をするのである。他の人が買い、身につけているものを自分が買わなければ、自分だけ時代の流れに遅れてしまう、人から遅れてしまう、人並みでなくなってしまう、という恐れ、横並び志向が心理強迫になって若者たちの消費行動を決めていると言える。
欲しいと思い、買ったものでも、私たちは多くのものをまだ使えるのに捨ててしまう。携帯電話などは事実、新しいモデルに買い換えるために次々に捨てられている。私たちのこうした〈使い捨て〉のライフスタイルは、大量生産、大量消費、そして大量廃棄で回転する経済システムにとって、願ってもないものなのである。こういう経済システムのなかでは、日々、使い捨てということが暗黙のうちに奨励されているわけだ。とすれば、個人の自由を最大限尊重するといわれる自由主義体制のもと、私たちは実際は人が言うほどには自由でないのではないか、もしかしたら溢れかえる情報の洪水のなかで自由であると思わされて、そうした幻想のもとで生きているのかもしれない、と疑ってみる必要がある。
では、本当の意味での個人の自由とは何だろうか。私たちはこの問いを避けることができない。
1998年にノーベル経済学賞を受賞したインド出身の経済学者アマルティア・センは、自由を「潜在的可能性」(capability)の概念のもとに考えている。彼は、人間の「福祉」ないし「豊かさ」を自由主義者のように個人の所得とそれの可能にする効用から捉えるのではなく、個人の持つ「潜在的可能性」から捉えることを提案する。「潜在的可能性」は、「その人にとって達成可能な諸々の機能の代替的組み合わせ」を意味している。「機能」とここで言われているのは、たとえば「良好な健康状態にある」、「適切な栄養を摂取している」、「自尊心を持っている」、「教育を受けている」、「社会生活に参加している」等の個人のさまざまな状態や行為のことである。一人の個人がその存在を通して実現できるこうした諸々の「機能」、彼または彼女がそうでありうる状態やなしうる行為を一つの全体としてまとめて、センは「潜在的可能性」と名づけるのである。
「潜在的可能性はしたがって一種の自由なのである。いままでのものに替わる機能の組み合わせ(もっとくだけた言い方をすれば、さまざまなライフスタイルを生み出すこと)を達成する真の自由なのだ。」(アマルティア・セン、石塚訳、「自由と経済開発」、日本経済新聞社、2000年)
センの言明から一つの帰結を導くことができる。それは、私たちのいまのライフスタイルは自由であるようにみえて、その実、私たちがほかのライフスタイルを生み出す可能性を私たちから取り上げているものとして、私たちの潜在的可能性、自由の幅を狭めているということだ。
私たちが自由と思っている〈使い捨て〉のライフスタイルは、いまの社会の大量生産・大量消費・大量廃棄のシステムを暗黙のうちに支えるものである。個々人による自動車の日常的利用という行為はこのシステムの回転を支えるためには〈不可欠の〉行為としてある。グローバル化された現在の世界において、私たちが使っている自動車の多くの部品が生産コストの安い第三世界で作られている。たとえば日本のホンダの部品はタイで、ドイツのBMWの部品は南アフリカでつくられているという。諸々の部品がそうした遠隔地で生産され、それぞれの国内に輸送・輸入されているという事実、こうして自動車生産が行われているという事実を考えるならば、たとえ二酸化炭素ガスを一切排出しない「地球環境にやさしい」自動車が開発されても、それが製造される過程ですでに大量の二酸化炭素ガスが排出されてしまっていることになる。
もし私たちの自動車利用という何気ない行為が、大量生産・大量消費・大量廃棄のいまの社会システムに乗った行為であり、そしてこのシステムが地球環境というかけがえのないものを日々悪化させているとすれば、私たちがこのシステムのなかで享受する自由というものにどのような意味があるのか、それは果たして自由と呼ぶに値するのか、単なる身勝手なのではないかを、私たちの一人一人が考えてみなければならないのである。
先の引用でミルが語っていた「地球に対しその楽しさの大部分を与えている諸々の事物」、それこそ私たちは、私たちの真の自由の名において、かけがえのないものとして守っていかなければならないのである。地球に対しその楽しさを与えているものとして、私たちはたとえば自然の美しさを考えることができる。この自然の美しさ、秩序と調和は自然のなかで生きているさまざまな動植物、つまり諸々の生物種の存在、生物多様性がつくりだしているものであり、それなしには考えられないのである。富の増大、経済成長、所得の増加、利便性の増加といった事柄が、もし、「地球に対しその楽しさの大部分を与えている諸々の事物」を犠牲にし、地球の自然環境を破壊しつつなし遂げられているとすれば、こうした事柄は私たちの自由を増加させるように見えて、実際は私たちの自由、生のよろこび、楽しみを奪うものであるということ、私たちの潜在的可能性、本当の自由の範囲はこうしてどんどん狭められていくということに、ここで私たちは気づかなければならないのである。
アース・カウンシルの1997年の報告書は自動車利用の功罪について次のように述べている。「自動車は個人を解放したのと同じくらい確実に社会を隷属させた。毎日、膨大な面積の優良農地が舗装されて、自動車に捧げられる。毎月、町の人口くらいの数の人間が交通事故と自動車による汚染のために死んでいる。」(レスター・ブラウン、「エコ・エコノミー」、家の光協会、2002年参照)

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