暁烏敏賞 平成12年第2部門本文「心の居場所としての保健室 その意味を探る」1

ページ番号1002588  更新日 2022年2月15日

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第16回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

  • 論文題名 心の居場所としての保健室 その意味を探る
  • 氏名 竹俣 由美子
  • 年齢 41歳
  • 住所 石川県金沢市
  • 職業 中学校養護教諭

1 はじめに

不登校児童生徒は年々増加の一途をたどっている。保健室登校、相談室登校と呼ばれる別室登校を含めると、教室という学校教育の概念での集団になじめないことを、行動として表わしている子どもの数は相当数にのぼる。そういった状況下、文部省は教育相談センターやフリースクールへ通うことも出席に認めるという柔軟さをもって対応にあたってきている。また、中央教育審議会が平成十年六月三十日に出した答申の中には「心の居場所」として保健室の役割を重要視しょうという考えが示された。

私は養護教諭として、この十年あまり百名近い保健室登校と呼ばれる教室へ足が向かない生徒達と関わってきた。その経験の中で、心の居場所とよばれる保健室である期間を過ごすことが、子ども達の全人間としての成長・発達においてある種の意味を持つことを実感した。そこで、私が関わった事例実践を中心として考察し、ここに報告するとともに、現代の日本社会が『人が人間として発達・成長していく上で、欠くべからざるもの、しかし失いつつあるもの』を論じてみたい。

2 不登校の増加および保健室登校生徒

平成三年度本校において欠席日数三十日以上の生徒は八名、0.8%であったが、平成十一年度には十七名、2.5%と三倍となっている。

さらに平成十一年度保健室登校をした生徒は十五名にのぼり、合計三十二名の生徒が何らかの不適応を示していたことになる。これは本校体の4.7%にあたる。この現象は本校に限ったものではなく、毎年文部省が発表している学校基本調査の結果からも、日本全体の現象が本校でも起きているに過ぎないことがわかる。さらに不登校生徒の数は年々増加の]途をたどっていることを学校基本調査は示している。この数字をどうみるのか。95.3%が適応しているのだから一部の子ども達の現象とみてよいのか。また現代の社会現象として黙殺してよいのか。人が人として成長・発達することを大人が阻んでいるあらわれではないのといった、疑問が湧いてくる。そして、これについて私は、子どもたちの中の最も敏感な子達が出している一つのシグナルと考える必要を感じている。一人の悩みごとは、その『場』全体のS・0・Sでもある。その子どもは、みんなの中で一番早くに痛みを感じたということなのだから。

3 関わりの実践から

(事例は特定を避けるため修正を加えた内容となっている。)

ア・本当に無気力か

A子は中学二年の頃は、突然誰になんの相談も無く帰宅する事が何度かあった。三年に進級してからは時折欠席はするものの、プイと帰ってしまうことはなくなった。

しかし、三年の十一月頃からしばしば保健室を訪れるようになった。最初の頃は「だるい。」といった身体症状を訴えていたが、体調の悪さを訴えなくても保健室にいることを許されることがわかったのか、すうっと入ってきて椅子に腰掛けていた。口数の少ない生徒で、自分から私に話しかけることはほとんど無かった。

その頃私は、数名の保健室登校の生徒達と折り紙を折ることを日課としていたので、A子もさそってみた。(折り紙でくす玉を作ることで図形の概念を指導していた。)素直に「やってみる。」と応え、「やってみると思っていたより難しい。」と言いつつ、熱心に他の生徒に教わりながら折った。次の日「家で折り紙を買ってきて作った。独りでできた。うれしかった。」と報告した。保健室で、話しかけても「うん」とか「わからん」といった気の無い返事しか返ってこないA子だったので、これには私の方が驚いた。気力を無くしたかにみえる生徒が、自ら折り紙を買ってまで作ろうと考えて、さらに自力で完成させたことに大きな意味を感じた。それは[自分もやればできるという実感]なのではないか。そして自分も捨てたものではないという自尊感情につながったのではないかと考えるのである。

今、子どもたちを表す言葉に『三無主義』がある。無気力・無感動・無関心である。特に無気力は昨今の若者の脱力文化に象徴される。ルーズソックス、シャツだしなど子どもたちのファッションは大人が眉をしかめたくなるほどだらしなく、気力を感じさせないものになってきている。もちろん豊か過ぎる時代のなかで、がんばる意味を見出せなくなったことも]因であろうが、大人たちが到達度とか成果の期待で子どもを見つづけるため、自発性が出るのを待てなくなっているのではないかと考える。

次々と与えつづけられる課題の中で、子ども達は自発性をもぎ取られて成長している。たとえば折り紙で同じパーツを作り、試行錯誤しながら組み合わせていく。出来上がったらうれしいし、もしできなくても何ら不利益をこうむることがない。そういったささやかな体験を積み重ねることが生きる上での基盤となる自尊感情をはぐくむと考える。折り紙を折ったり、伝承遊びをしたりといった体験を子ども達は、たっぷりとしてきたのだろうか。幼児期から大人の期待を十分に感じ、習い事、塾に多くの時間を割いている。外で遊ぶとしてもサッカー、野球といった達成度が明確になったスポーツに精をだすことを大人達は子どもに求めてきたのである。

そのサッカーや野球にしても、純粋に子ども達のものというより、大人が子ども達の活動に、自分自身を投影させて達成感を満たしている側面も見え隠れしている。

一見無気力で自発性を持たないかに見える子どもに、人が本来持っているであろう力を信じて、外圧をかけない中から芽生えてくる行為を待つ。それは保健室だからこそできる営みであろう。

イ・頭が悪いことは短所か

学級担任から、自分の長所、短所を書く課題が与えられた。B子はなかなか書けない。自分の長所が見つからないという。B子は「友達がやさしいというからきっと私の長所はやさしいことだと思う。本当にやさしいとは思えないのよ。本当の優しさって違うと思う。それから先生、頭が悪いことは短所か?」と私に尋ねた。ほんの三十分ほど習っただけで、様々な折り紙を自力で完成させることのできるB子が頭が悪いと自分のことを思っているなんて、私には思いもよらなかった。折り紙は平面である一枚の紙から立体的なものを作り出すかなり思考力を必要とする作業である。くす玉つくりなどは図形的概念も必要とする。いつも器用に折る手元を見つめながら、不器用な私は、「どこをどうつなげたらそうなるの。」と尋ねるのだが、いっこうにうまくいかない。B子は概念思考に優れているのだなと常々思っていた。「どういうこと。」と尋ねると、テストで点数を取れない子は頭が悪いというのだそうだ。「生徒はみんなそう言うとるし、先生らもそういうがいね。」

価値観の多様化が言われるけれど生徒達の意識をみる限り、価値観は単一化されている。それは学校という世界の中で教師が持つ価値観の単一化と決定的にリンクしている。個性の尊重、多様な価値観を認めていくというスローガンを挙げながら、実際行っていることはテストの成績、部活動での功績に価値をおき、その価値が生徒そのものの価値であるかのごとく対応しているという現実である。

ウ・ふらふらしているだけなのか

幸いなことに本校には、はたおり機がある。特殊学級のC先生による、保健室登校の生徒の活動に機織りを加えてみたらという提案から織物の作業が始まった。教師には、教材研究やその他の校務分掌を行うために授業をしない空き時間が設定されているが、C先生はその空き時間の多くを保健室にきて、そこで過ごす生徒のために費やしてくれた。完全なボランティアである。保健室登校をしていたD男、E男はテーブルセンターを作った。「先生これ完成させたら、どっかみんなの見、えるところに飾って。僕らの名前も入れて。僕ら学校に来てふらふらしとるだけじゃないって、わかるやろ。」そう言った。その言葉から私は、彼らが持っている深い劣等感を垣間見た。

何にもしていない・何にも感じていないように彼らはみえるし、そう振る舞っている。教室での分からない授業、どんどん溜まる課題、そういったものに押しつぶされそうなとき、人は何もしていない・何も感じないように振る舞うしかないのかもしれない。重い劣等感に押しつぶされずになんとか生きていく、ぎりぎりの防衛のように思えるのである。

エ・我慢が足りないのか

保健室登校の生徒に対して「楽なことをおぼえて、つらいことに耐えられなくなり、教室にもどれなくなる。」という意見をよく聞く。

保健室で機織りを始めて、最初の何作かは既製の糸で布を織っていたが、羊の原毛からマフラーづくりをやってみようとF先生が提案した。F先生も空き時間をすべて保健室で過ごす生徒のために費やしてくれる貴重なボランティアの先生である。保護者の中に織物をなさっている方がいて、その方から羊の原毛を分けていただき、染めから糸つむぎ、マフラーにするまでの過程を丁寧に教えていただいた。刈ったばかりの羊の原毛は枯れ草、羊の糞などにまみれ、そのゴミを丹念に取ることから始まった。それは私には想像を絶する根気のいる仕事だった。保健室にいる生徒達はその作業をある生徒は「きたない。」と文句を言いながら、また、ある生徒は黙々と行った。やっとゴミ取りが終わり、染色を行った。染色後も絡まりをほぐしながら水分を取るという根気のいる作業が待っていた。染色後、けが人がでたため、医療機関に移送しなければならず、私は保健室を空けた。途中でもいやになったらいつでも家に帰っていいとG子に告げ出かけたのだが、四時間後、戻ってみるとG子は黙々と作業を続けていた。「先生、もうすぐ終わるよ。とてもきれいな色に染まったね。」と嬉しそうな表情で告げた。

そんな彼女を私は我慢が足りないとはとても思えないのである。四時間もの間、根気強く、しかも喜びを持って一つのことをなし続ける−それこそ子どもたちに育みたい忍耐力ではないだろうか。

我慢が足りないという時、大人は子どもにどんな我慢を要求しているのだろうか。それはおそらく大人のイメージ通りに動くロボットのように、現実の子どもが存在することを求めているのではないか。例えば、わからない授業にもじっと耐え教室で静かに座り続けることに代表されるように。

今七・五・三現象と呼ばれ、小学校で授業が分かる子どもが七割、中学校では五割、高等学校では三割と言われている。言い換えると小学校では三割、中学校では五割、高等学校では七割もの子どもたちが授業が分からないまま静かに教室で座って時を過ごすことを強いられているのである。家庭でも、社会生活でも様々な機械に囲まれて暮らす現代社会の中で、我々大人が子どもたちをも機械であるがごとく錯覚してしまっているのではないか。大人がよいというまで静かに座っている、大人の作った活動場面に、大人のイメージに合った活動をする。たとえそれが子ども達の気持ちやからだの反応に沿わなくてもやりとげる、それが大人の望む我慢する子ども像ではないのか。人間はがんばることの「意味」が実感できればかなり耐え得る存在である。大人が、不適応を起こしている子ども達を表して『今の子どもは我慢が足りない』と言うのは、「意味」の実感できない場面にひたすら耐えることを強いる一種の拷問の論理である。

オ 中学校時代の思い出は、いっぱい考え悩んだこと

中学校時代の一番の思い出でH子は『いっぱい考え悩んだこと』と書いた。

H子は中学三年後半から保健室登校となった。無口な彼女と二人きりで話すチャンスが何度かあった。「教室にいると、そんなんじゃ高校には入れんぞ、とか受験で点取れんぞとかそんなんばっかしや。皆が高校に行くって言うから私も行こうかなとも思うけど、何のために高校にいくんやろ。私はなにをしたいんやろ。そんな事考えとるなんて誰にも言えん。友達は『マジクサー』って馬鹿にするし、親や先生はそんなんは高校に入ってから考えなさいって言う。でも考えてしまったもん。そんな機械みたいに簡単に頭から出て行かないよ。今考えんといつかんがえるんやろ。」

思春期の心理社会的発達課題は自己同一性・性役割同一性の獲得である。自分が自分であることを受け入れ、目的意識を明確にすることである。しかし、そのためには十分に思索する時間が必要となる。彼女は教室にいたのでは十分思索できないと感じ取ったのであろう。彼女が保健室登校を選んだことは、成長発達のための健全な行動に思えるのである。

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