暁烏敏賞 平成7年第1部門本文「「理性」の<深み>へ 合理・王義と教養教育」1

ページ番号1002614  更新日 2022年2月15日

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第11回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 「理性」のく深み〉へ 合理・王義と教養教育
  • 氏名 青木 英実
  • 年齢 41歳
  • 住所 福岡県北九州市
  • 職業 大学助教授

はじめに

某宗教団体が引き起こした一連の事件が、センセーショナルな反響を呼び起こしている。この事件で問われたものは多々あるが、その中には科学および科学教育の問題もあった。もともと、近代合理主義の、つまり近代的「理性」の観念は科学的思考、科学主義と分かちがたく結びついていた。しかし、今回の事件を見るまでもなく、科学教育はそれだけでは決して「理性」を育てる教育にはなりえない。他方で、かくの如き冷酷無残な行為を個人の内心において抑止するのは、やはりある種の反省的思考、つまりは「理性」の力でもあろう。では、そういう「理性」とは何であり、またその在り処とは一体どこなのか。そしてそれは近代思想が「理性」のモデルとした科学的思考とどのようにつながるのか。

単なる反科学主義ではなく、科学に対しても、正当な位置を与えつつ、同時にそれを人間精神と人間文化を貫く「理」の一部として統合するような、新たな「理性」観が、今こそ、まさに求められているのではないか。そして、筆者は、教育という営みの中核はまさしく、そういう「理性」へと人を励まし導き入れることではないか考える。本論文は「科学的」理性を批判的に検討しつつ、「理性」の在り処を確かめようとする試みである。

1.科学的理性の起源と思考のアルゴリズム

冒頭に述べたような問題意識に立つならば、教育において、また哲学的にも、われわれは科学的思考をも含めて「理性」あるいは「合理性」とは何かという問いの前に立たされることになる。もともと「合理性」(Rationality)の語源ラチオ(ratio)は、計算や推理のような人間の活動を指した。さらに、ラテン語のrationaleは、ギリシア語のロギコンの訳語とされている。古典古代の思想においては、人間がratioを持つ存在である、つまり理性的動物であるという観念は同時に人間がロゴスをもつ存在であるという観念に結びついていたのだった。

ローマ最大の弁論家・教育家であったクィンティリアーヌスはratioとoratioが同じ起源を持つとし、次のようにいう。

「実に万物の生みの親であり、世界の造り手であるあの君主たる神が死すべき自余の一切の生き物から人間を際立たせられたとしたなら、それは語る能力以外の何物でもない。(1)」

ラショナルとはロゴスを持つことであり、そして、ロゴスを持つとは、言葉を持ち、言葉を操り、言葉によって「思考し判断することができる」ということだったのである。田中美知太郎によれば、ロゴスという言葉は「言語とか推理計算と置き換えてもいい」とされ、「ロゴスを持つということは、言語能力を持つとか、推理計算の能力を持つとかいうこと」としている(2)。しかし、この、ロゴスを持って、言語を操り、推理し思考するという人間の「種差」はすでに古典古代において二つの側面をもつものとして理解されていた。それは、アリストテレスが、人間の論証的活動を二つの体系に分けたことに示されている。アリストテレスは、彼の論理学の体系とは別に、いまひとつの推論、論証の体系として弁証術的推論の体系を構想したのであった。弁証術的推論の体系に支えられるものが、「説得を作り出す」術としての弁論術である。

ハイデッガーが『存在と時間』のなかですでに指摘しているように、アリストテレスの『弁論術』の第二巻は、一連の感情の分析である。ハイデッガーは、感情の分析がアリストテレスの「心理学」ではなく、弁論衡、そして間接的には弁証術の主題であることに注意を向けている(3)。すなわち、人間の論証的な、つまりは言語を用いて推論し、語ることの働きの中には、純粋に形式的で、「それ以外の仕方であることのできない」必然性を認識し語る部分と、感情的要素をも含み込んで、「それ以外の仕方であることのできる」非必然性を認識し、語る部分とを区別していたのである。

前者は、直接的間接的に近代科学、数学、論理学の基本的な思考形態につながっていくだろう。近代科学の精神はテオーリア(観想)的理性の延長線上にあると言えるし、近現代の形式論理学はアリストテレス的な形式論理学の継承・発展形態と見なければなるまい。他方、後者はヴィーコに代表されるような人文主義的知識観・教養観へと発展して行く。

ガーダマーが書いているように、そこでは、近代科学・数学の進歩に依拠したデカルト的な批判的思考・論証に対して、アリストテレスのトピカ的・弁証術的思考・論証が対置される。

「トピカとは、論拠の発見法であり、ひとを説得するセンスの育成に役立つものである。この感覚は、直覚的かつ時に応じて働き、まさにそれゆえ、科学がこれにとって替わることができないものなのである。(4)」

すでに古代思想の中にめばえていた科学的理性と人文的理性の二元性は、科学革命以降の近代科学の進歩によってさらに尖鋭なものになる。いやむしろ、科学的理性こそ新しい光の下で優勢を誇るようになるのである。

タルコット・パーソンズが書いているように、近代合理主義を特徴づけるものは「行為が合理的であるのは、行為者が自己の状況のあり方について科学的、あるいは少なくとも科学的に誤りのない知識に基づいて、その行為を導いていると理解される限りにおいてである」とする見方であり(5)、「科学的探求者から日常の実際活動を行う行為者を類推する」(6)観点であった。テオーリア的論理につながる近代科学が理性のモデルになるにつれて、もともと古典古代の思想では二つのタイプに分けられていた「論証」の観念、つまり、よく語りよく論ずることは、弁証術的伝統よりも、厳密な論理的・数理的規則に従い、経験科学的な事実に依拠するものと考えられるようになる。J・デュウイが言うように諸科学の方法が進歩するにつれて、「これに対応する変化が論理学に生じ」、論理学の「科学化」がなされたのである(7)。論理学の形式的法則とは、もともと理性そのものに内在する法則というよりも、科学的思考の発達過程のなかで発達してきたものなのだ。

ここでは、合理的・理性的思考(reasoning)とは理想的には、形式化された論理規則に従うことと見なされる。学問においても、整然たる数理的形式性と論理体系を誇る学問が最も科学的、学問的であると見なされるだろう。ここでは数理と論理はラッセルが述べたように「事実上一つのもの」である(8)。したがって理性が従うべき規則とは同時に一種の「演算法(アルゴリズム)」である。こうして、理性とはただちに「形式化されたアルゴリズム」によって規制された思考、推論を指すこととなり、またその思考・推論に導かれて行為を行うことが「理性的」あるいはその代替語としての「科学的」ということと見なされるようにもなるのだ。

かつてD・ヒュームは、理性(reason)とは、「観念の一定の系列にしたがって心を導く」本能だといった(9)。観念の継起、系列を導く能力が理性であり、理性的であるということは、その系列に、ある連続性や秩序があるということになろう。観念は命題、および命題の連結による論証によって表される。そこで、理性的とはこのような命題間の系列に秩序を与えるということであり、さらにその秩序は形式化された「指示書き」(マニュアル)によって与えられる訳である。

英国の代表的な言語哲学者、論理学者の一人M・ブラックは、『批判的思考-論理学と科学的方法入門』のなかで、reasoningについて、次のように言う。

「(reasoningの)特徴は、reasons(理由)を用いることである。つまり、真理であると知られているか、または、信じられているものが、他の推測的真理に到達するためにくり返し用いられるということである。(10)」

すなわち、reasoningとは「ある一連の情報から、それらの情報が証拠となるような他の情報へと進んで行こうとする試み」であり、論理学は、このreasoningの技術を改良すると同時に、その基準をも与えるものだという。このような計算的理性という次元においては、西欧哲学における合理論と経験論の伝統は共通している。なぜなら、両者の違いとはreasoningの進行・展開の仕方の違い、いわばアルゴリズムの、演算の〈方向〉の違いに過ぎないからである。一方は明晰に認識された公理・定理から出発し、他方は一連の個別的経験命題から出発する。たとえばJ・S・ミル以来、多くの哲学者や科学者が厳密な帰納的方法の論理を構成しうると信じてきたのである一これは、ポパーやグッドマンによって不可能だとされてしまったが一。こうして、近代的、科学的理性とは、人間の思考・推論を、論理学によって明示化され形式化されたアルゴリズムあるいはマニュアルによって導くということを意味するようになる。

アルゴリズムを構成するものは、必ずしも狭い意味での論理学だけではない。むしろ科学もしくは科学的であるということが、直ちにそのような明示化された規則にしたがって、厳格に思考または行為を導くことだとみなされるのである。これを科学主義と呼ぶならば、科学主義的思考枠組みは科学以外の世界にも幅広く浸透している。

たとえば、現代の学校教育で、若い教師に熱心な支持者をもつ授業研究の運動に、「教育技術法則化運動」なるものがある。その教祖的存在である向山洋一は、次のように言う。

「残念ながら教師の世界ほど修行の少ない世界はない。教師の免許状は最低の条件を有していることにすぎないのに、なぜかそこにとどまっている場合が多い。どの仕事にも、その仕事の腕を伝えていく方法があるのに、皮肉なことに教師の世界では仕事の腕を伝えていく方法がはっきりしないのだ。(11)」そして、教育には、「技術や方法が必要であり、技術や方法は科学的であることが求められている(12)」という。

「だが、現実の教育はこの逆である。『技術』や『方法』もなく教育している教師が多く、また、たとえ『技術』や『方法』を使っている場合でも科学的でない場合が多い。だから、教師には授業のうまい人もいれば、授業の下手な人もいるということになる。(13)」

向山は教育の方法を定型化し、マニュアル化-「授業の原則十カ条」などと称する-し、だれにでも伝達可能なものにしなければならないという。このような方向はすでに近代教育思想の初めから志向されていたことだが、現代において向山の方法は迷える若い教師に熱狂的なファンを獲得して、向山は教祖のような存在にまでなっているのだ。ここでは、「科学的である」ということが、ただちに、一定の明示化された規則を確立し、それにしたがって行為を規制することとみなされているのである。

つまり、Reason(理性)のあらわれは、Reasoningであり、Reasoningとは、このようなアルゴリズム化された思考、推論を指すのだ。そこで、Reasoningを規制するためのさまざまなテクニックも提示されることになる。要約すれば、科学的理性とは、〈厳密に方法的に規制された理性〉だといってよい。すなわち、明示化され、意識化されたルールによって、厳格に統制された思考、推論なのである。

2.「批判的論理的」思考と理性

米国の教育哲学者R・バロウは、デモクラシーの文脈においては、「教育の一つの明白な目標は、批判的思考の力を発達させることだ」とする(14)。批判的思考とは「よいreasoningと首尾一貫した手段、概念の明晰性、計画・議論・説明そのほかの形式の推論に置ける識別力と関心を持ち、それらを具現化する」思考であると言う(15)。「批判的思考」は、英語圏の哲学者、教育者にとっては重要な教育目標と見なされている。たとえば、「批判的思考」を推奨する論者は「批判的思考」を次のように定義する。

問題を解く方法を提言し評価する能力と、問題を確認し、定式化する能力。
演繹的・帰納的推論を識別し、用い、また推論における虚偽を識別する能力。
さまざまな情報源に見出される情報からリーズナブルな結論を引き出し、かつその結論を合理的に擁護する能力。
事実と意見を区別する能力」(16)。

ここでは、批判的思考と批判的・合理的reasoningは区別されない。

このような意味での批判的・合理的思考を、H・シーゲルは、「教育的努力の指導理念であり、最初のRであって、他の三つのRへのコミットメントを正当化し、意味あるものにするものだ」という(17)。また、K・ストライタは、合理性こそ「公教育が与えるべき基本的な財」である(18)とし、「学校教育の中心的な公的機能とは、合理性を民主的に配分する」ことだという(19)。

また、スクリブンは、その名も"Reasoning"と題した書の中で「論証や提案を分析、評価する技術」を改善する方途を示そうとする。そして、このように改善された「reasoningこそ、「真理に至る最良の導き手」だという。スクリブンにとってreasoningの改善とは、「論証の分析」である。彼によれば論証の分析とは、次のような7つの段階からなる。

意味の明確化。
結論の確認。
論証の構造の記述。
言明されていない仮定(省略された前提)の定式化。
a.与えられた、または省略された前提の確認。
b.推論の分析。
他の関連ある論証の導入。
1〜6の視点に基づいた論証の全体的評価(21)。

これ以上例を挙げても繁雑になるだけなので、このぐらいでやめておきたいが、いずれにしても、これらの主張は、多分に英米的な分析哲学・科学哲学の影響を受けつつ、理性とはすなわち、これら、明示化されたルールにしたがって統制された思考、推論だという主張になるだろう。元来分析哲学的・科学哲学的方向とは、ウィーン学派以来、哲学もまた科学的な厳密さを必要とすべきだというものであったし、それは直ちに理性を、明示化された演算規則にしたがって遂行される、「統制されたアルゴリズム」とみなすことでもあった。

分析哲学的方向に対立すると考えられてきた弁証法哲学や現象学もまた、厳格な「方法の支配」こそ理性の根拠だとした点で共通している。たとえば、現象学はもともとフッサールが志向した「厳密学としての哲学」の方向から生まれてきた。そこから、いわゆる「現象学的記述」という精緻な方法が編み出され、それが諸学問の基礎になるとみなされたのだ。

フッサールの哲学の出発点は、科学ですら厳密で絶対的な認識基盤にたってはいないということであった。諸科学の「自然的態度」は事物の存在や、それへの認識の的中性を素朴に信じ切っているのであって、所詮絶対確実な基礎の上に打ち立てられたものではない。フッサールの狙いは、まさに「デカルトの懐疑考察にならって絶対に確実な基般皿を獲得すること」にあった。そしてそれを純粋現象、純粋意識の「絶対的所与」に求めたのである。さらにそういう現象学的思考こそ西欧的理性のより所だとフッサールは考えたのである。

「理性とは、存在すると思われているもののすべて、すべての事物、価値、目的に究極的に意味を与えるものなのである。(23)」

「現象学的記述」なる、厳密で詳細な記述は、純粋現象への還帰、現象学的還元、判断中止、(「エポケー」・「括弧に入れる」)などの明示化された規則によって厳格に統制されなければならないというのである。こうして、西欧的科学的理性とは、多様な形を取りつつも、明示化されたルールによって規制され、〈方法化〉された思考を意味すると考えられる。

したがって西欧的ローゴスとは、1数理論理学などに典型的に示されるような一このような明示化されたルールのことである。それは、きわめて俗流化され、また日本的に変形された形では、先に見た「教育技術法則化」運動のような姿をも取って現れてくるのである。

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