暁烏敏賞 平成9年第1部門本文「日本の芸道に含む感性とモラル」2

ページ番号1002601  更新日 2022年2月15日

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第13回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

3.抑制の美とモラル

日本人は欧米人などにくらべると他人への志向性が非常に強いといわれています。自分が他人の目にどう映っているのだろうか。自分のことを他人はどのように考えているのだろうか日本人は一般に、こうした自他意識がとりわけ強く、他人のおもわくや世間体を格別に気にするような民族に想えてしかたないのです。そういえば、根強い伝統的な山居願望も、実は根強い他者志向の屈折した現れと言えなくはないと想います。日本人のこうした他者志向というものは、どこからうまれたものなのでしょうか。島国の閉鎖的村落共同体という場の圧力によるものなのでしょうか。はたまた、序列社会という圧力によるものなのでしょうか。

それはともあれ、この格別強い他者志向は鋭敏な場の感覚といってもよいのでしょうが、社会生活のモラルにとって不可欠な人間的感性であることには間違いありません。しかし、他面、卑屈な迎合主義や歪んだコンプレックスの根源であることも否定できないところです。

さて、こうした根強い他者志向、もしくは敏感な自他意識との関連において、先ず注目されますのが、世阿弥の能芸における余情的・抑制的な表現と、その美意識であります。

後期の伝書『花鏡』は世阿弥の工夫による新しい芸風を踏まえた演技論ですが、題目六カ条と事書十二カ条の構成になっています。ここでとくに取り上げたいのは、題目の第二条、「動十分心動七分身(心を十分に動かして身を七分に動かせ)」ということです。

一般に写実主義的演技(物まね)では、原則として演ずる役柄の動きを理解した通り正確に表現します。これは物真似演技の基本であり、徹底的にやらなくてはいけません。しかし、世阿弥によれば、それは芸術表現としてみた場合、不十分なのです。写実が正確なだけでは面白味はないし、抑えの利いていない演技は迫力がないと説いているのです。

そこで、演技が芸術的表現となるためには、心を十分にはたらかせて内容を豊富にするとともに、体の動きを控え目に抑制するという表現技巧が必要となります。世阿弥によれば、心の動きを十分にして、体の動きを七分に圧縮すれば、心と体が過不足なく均衡して、心は内面的に充実すると教えて、そしてその内心の充実感が外ににじみ出て、味わいのある興趣が生まれるというわけです。

この抑制的演技がさらに徹底されると、「動七分身」「動六分身」「動五分身」と次第に動作が圧縮され、遂には「不動身」における、つまり、動かぬ芸における、高度の表現効果が追求されることになります。

事書第八条の「万能縮二一心一事」(すべてのわざを一心につなぐ)におところおもしろける「せぬ所が面白き」(動かぬ芸の面白さ)がそれであると説いています。極度に抑制された抽象的フォルムの美的表現効果といえるのではないでしょうか。

ところで、こうした抑制の美的興趣には、和歌の世界で平安中期以来尊重されてきた「余情美」と本質的に類似したところがあると考えます。

紀貫之(八六八頃〜九四五頃)は『古今和歌集』の「仮名序」のなかで、在原業平(八二八〜八八○)の歌を評して

在原業平は、その心余りて詞たらず。しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし。
(在原業平の歌は、情熱がありすぎて表現が不十分であります。しぼんだ花の色艶が失せて、まだ芳香が残っているといった感じであります)

と言いました。つまり、表現内容である「心」が、あり余っていて、表現形式である「詞」の方が不足しているというのです。この場合、貫之は、業平の欠点を指摘しているわけですが、貫之は、次の三首を例題としてとりあげています。

月やあらぬ春や昔の春ならぬ
わが身ひとつはもとの身にして
(月よ、お前は去年の月と違うのか。春よ、お前は去年の春ではないのかね。かくいう私の体はたしかにもとのままの体なのだが。)

大方は月をもめでじこれぞこの
積れば人の老となるもの
(よく考えてみたが、私は人の愛でる月だって愛でることはしまい。このことが積もり積もれば、人を老いさせる原因になるのだもの。)

寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめば
いやはかなにもなりまさるかな
(夢のようにはかなく明けた一夜だったが、家に帰ってうとうとしていると、そのはかなさがますます胸にこみあげてくる。)

しかしこのような指摘も次の時代には、逆に、心が余って詞(言葉)が足りない表現様式の和歌を、尊重するようになってきました。このことは業平の没後、藤原俊成(一一一四〜一二〇四)が式子内親王の求めにより、一一九七年(建久八年)に初撰本した『古来風躰抄』で

「月やあらぬといひ春や昔のなど続けるほどのかぎりなくめでたきなり」

と、前出の業平の歌を称賛してから『古今和歌集』の代表作の一つになったことでも推察できると想います。

『古来風躰抄』の冒頭には和歌と天台宗の仏法の止観との共通性が強け調されていますが、それは具体的には「空・仮・中」の「三諦円融」との類比においてでした。『古今集』序以来「心」「詞」の二元論において歌をとらえようとしてきましたが、藤原俊成が天台の「三諦円融」に似ているとしたのは、「心」と「詞」を二元的に分離することはしていないわけで、「姿」(風躰)の次元で歌をとらえているからで、相互の縁で「心」も「詞」も、もちろん問題にはなりますが、それは「読みあげ」「詠」ずる「姿」という次元に吸収されるものとしているのです。歌の価値としこころことばて従来説かれてきた「心海よりも深し」といわれるような「心」や、「詞錦縫物の如く」といわれるような「詞」は、歌の本質をなすものではないとしているわけです。ということは、「姿」が声調をなして訴える、微妙な古典的情趣美を「中道」、すなわち、和歌の実相とする、というわけです。このような考え方の発展が、要するに抑制された控え目の表現によって発揮される情趣、つまり、余情をよしとする美学が台頭し、以後伝統的美意識の基調となったわけです。

余情とは、要するに、直接言葉に表現されず、言外に香気のようにただよう美的情趣で、一種の奥ゆかしさの美感といえるでしょう。これは日本人特有の鋭敏な自他意識が生じる自己抑制のモラルと不可分な抑制的表現の美感で、美意識の日本的汎律性を示しているということができると考えます。この点、世阿弥の「動+分心」の演技表現においても事情は同様だと思うし、伝統的な抑制的表現の美意識が追求されていることは明らかなことです。

芸道におけるこうした余情的・抑制的美意識は、侘び茶においても顕著であります。侘び茶に先行する東山時代(一四八三年以降)、いわゆる文明一五年頃の書院台子の茶は、端正・華麗・典雅な唐物名物を愛好する多分に貴族的・舶来趣味的な茶の湯でした。村田珠光はこの茶風を基調としながらも、素朴・自然な味わいのある、和物陶器の美しさに着目して、これを初めて茶の湯に導入したわけです。また、初めて四畳半の簡素な茶室をつくって、書院座敷の草庵化の先鞭をつけるなどして、茶の湯の和様化・簡素化・草庵化への、言うなれば侘び茶への方向を与えたのです。

珠光はその茶の湯の改革において、新しい茶の美を追求したとみられますが、それは、派手、きらびやかな唐物美と素朴で地味な和物美との対比の美であったといえます。このことは『山上宗二記』の伝える有名な珠光の言葉によっても裏づけられるでしょう。

珠光の云はれしは、藁屋に名馬繋たるがよしと也。
然れば則ち、麁(粗)相なる座敷に名物置たるが好し。
風体猶以て面白き也。

ここで藁屋に名馬をつなぐような風情がよいと言っているのは珠光であり、粗末な座敷に名物を置いて鑑賞する風趣がよいとしているのが山上宗二(利休の高弟)の解釈です。簡素・素朴な茶座敷と、これを背景とする端正・華麗な唐物名物の対比によって、茶趣は一段と深まるというわけです。ただし、藁屋対名馬の比喩は、茶座敷対茶道具の対比だけではなくて、茶道具同士の対比、つまり、粗末な和物対華麗な唐物の対比とも解釈されるでしょう。しかし、いずれにしても、これは一種の対比、つまり、コントラストの美意識であって、珠光の斬新な美的感性を示しているといえるでしょう。

ところで、この対比の美意識について先ず指摘しておきたいことがあるのですが、というのは、それが一種の抑制的表現の美意識であるということです。というのも、豪華な唐物道具に粗末な和物道具を配するということは、唐物一辺倒の派手派手しさを、地味でくすんだ和物によって制限し、いわば艶消しの効果をもたらしていると考えられるからです。

外来の貴族的唐物趣味の、庶民的和物趣味による中和といってもよいのではないでしょうか。そしてまた茶道の我慢我執の戒めとして、

「和漢のさかいをまぎらかす事肝要」(『心の文』)

であるという意味でもあり、珠光の侘び茶に対しての「抑制の美学」といえるでしょう。

だが、この抑制の美学というものは、実は「抑制のモラル」の反映であるということを看過してはならないと思います。高価な唐物名物の所持者は、えてしておのれの財力や権力を誇示しようとする高慢な心の持主になりがちなものです。粗末な和物の導入は、茶の湯の大衆化という発想とともに、唐物主義のおごりを抑制する質素・謙譲のモラルの表明ともいえるでしょう。武野紹鴎はその弟子千利休に宛てた『俺の文』で、侘び茶の理念である「侘」という言葉を説明していますが、そのなかで「正直で懐しみ深くおごらぬさま」と教えています。このことは、侘び茶に特有の抑制の美学が自己抑制のモラルと不可分であることを示しているといって差しつかえないと想います。

4 反立的対比の契機

珠光の没後間もない頃、金春禅鳳(こんぱるぜんぽう)(一四五四〜一五二〇頃)という能楽者は、

「珠光の物語とて、月も雲間のなきは嫌にて候。これ面白く候」(「神風雑談」)

という言葉を残しています。雲間の月の眺めは不十分で好ましくない、とするのが人情の自然であり、常識的な見方だと思いますが、ところが珠光は、明るい月が、ただむき出しになっているのは嫌だというのです。むしろ雲間の月の方が風情があってよいと語り、神風もこれは面白い見方であると賛同しているのです。

この話で想い起こされるのは、

「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情ふかし。(『徒然草』第一二七段)

という誰もが知っている兼好法師(一二八三頃〜一二五○以後)の言葉です。この場合は、くま(隈)なき月、つまり、一点の曇りもなく澄みわたった月を眺めることを月見の原則として認めたうえで、雲間の月の風情もまた捨てがたい、といった気持でしょう。

これに対して珠光の方は、隈なき月は嫌いだと言って、これをはっきり拒否してしまい、雲間の月の面白さを積極的に追求しているかのようにみえます。これは「雲間の月」のつまらなさに対する反立的対比において感得される美意識であることを意味している、といえるでしょう。

侘び茶における珠光の美意識においても、同様の対比関係が指摘できます。珠光は、既に述べましたように、和漢のさかいをまぎらかすこと、すなわち、派手・きらびやかな唐物に地味で素朴な和物を置き合わせることによって生じてくる、一種の対比の美意識に着目したわけですが、この美意識は、珠光の場合、実は、唐物万能主義に対する反立的対比の意識を背景的条件として、はじめて鮮烈に感得することができたというべきでしょう。ただし、珠光における、この反-唐物主義の否定性はなお不十分、かつ不徹底であり、唐物と和物の置き合わせとしての対比の美意識を越えたものではありませんでした。唐物主義の否定をさらに徹底させ、茶の湯の侘び化をラディカルに推進させたのは紹鴎とその弟子利休であったわけです。そして、利久の高弟であった南坊宗啓が利休から親しく見聞した茶の湯の心得を記したもので、茶道の聖書と言われている『南方録』によく知られている一節は、彼等の美意識における反立的対比の契機を明確に示している点で注目されるところです。

紹鴎、わび茶の湯の心は新古全集の中、定家朝臣の歌に

見わたせば花も紅葉もなかりけり
浦のとまやの秋の夕ぐれ

この歌の心にてこそあれと被申しと也。花紅葉は則(すなわち)書院台子の結構にたとへたり。其花もみちをつくづくとながめ来りて見れば、無一物の堺界浦のとまや也。花紅葉をしらぬ人の、初よりとま屋にはすまれぬぞ。ながめながめてこそ、とまやのさびすましたる所は見立たれ、これ茶の本心也といはれし也。

あたりには目を楽しますべき花も紅葉もなく、秋の暮色につつまれた浜辺に苫葺の粗末な小屋がある。この満月蕭条たる情景に感動する定家の歌の心こそ侘び茶の心である一ここまでが利休に語ったという紹鴎おしの調えで、それ以下が、この訓えに対する利休の解説ですが、ここでは両者の侘びの心を通じての、対比の美意識について考えてみたいと思います。

ひと口に対比の美意識といっても、現に目の前に存在するもの、つまり、知覚対象同士の、目に見える対比効果もあれば、不在なもの(想像されたもの)と現に目の前に存在する知覚対象との対比効果もあるでしょう。もう少し解りやすく言いますと、珠光の「藁屋に名馬繋ぎたるがよし」が示唆しているような、草庵の茶屋敷と唐物名物の対比効果、つまりコントラストの美意識は前者であり、絢爛たる花紅葉=書院台子の茶と、秋の暮色につつまれた浦の苫屋=侘び茶との対比効果は、後者でありましょう。というのも、定家の歌で、花紅葉は実景として存在しないもの、つまり想像されたものであるからです。主体の視点は、時空的枠を越えて変化するものをとらえているのです。そして、世界は四辺と背後に溶暗fade outしています。したがって、物語的叙事をしているのではないのです。

さらに対比の美意識には、調和的、ないしは類似的な対比効果もあれば、反立的(否定的対立的)な対比効果もあるでしょう。和漢のさかいをまぎらかすような、唐物と和物の取り合わせば前者のものでありますし、花も紅葉も問題にならないほどに心惹かれる浦の苫屋の情趣は、後者ということになるでしょう。殿中書院の茶に対して草庵の侘び茶をよしとする侘びの心は、その核心に派手・きらびやかな貴族的唐物趣味を拒否し、素朴・自然な庶民的和物趣味をよしとする、反立的対比の美意識を内包しているとみなされます。このような意味で、和物趣味を踏まえた反-唐物主義こそ侘びの美意識における、もろもろの対比効果を規定する基本的な前提条件というべきでありましょう。先に唐物と和物の置き合わせとしての対比の美意識は、一種の抑制の美意識であり、この美意識が抑制のモラルと不可分であることを考察しました。しかし今やこうした調和的対比の美意識が、実は反一唐物主義に規定された反立的対比の美意識を背景としていることが明らかになったと思います。そしてこの反立的対比の美意識が、権威をおそれなかった堺町衆の反骨のモラルと不可分であることは、茶の湯の侘び化における利休の大胆・奔放な生そのものが、何よりも裏付けになるといえます。侘び茶の美意識を規定する順応的な抑制のモラルは、その深層において、これとは一見矛盾する、対決的な反骨のモラルと逆説的に、その底辺において共通するところがあるといえます。

5 高悟帰俗としての芸道

ところで、花紅葉に対する浦の苫屋として比喩的に説かれている紹鴎の侘びの心は、これを単に、唐物趣味を拒否し和物趣味をよしとする、反立的対比の美意識とその抑制的・反骨的モラルに還元することはできないと思います。といいますのは、紹鴎の侘びの心は「隠遁の心」によって、すなわち、かの「市中の山居」として具体化された美的自然主義的心情によって、深く規定されている筈であり、さらに究極的には、相対的な反俗的否定性をも超えた絶対的否定性である。無の自覚によって根源的に規定されているとみられるからです。

応仁の乱から戦国時代へかけての動乱無秩序の時代は中世初期に次ぐ第二の無常の時代であり、侘びの理念には、元来、乱世の渦中を生きた人間の深刻な無常観と解脱への切実な要求が内在していたと思われます。このいわば、実存的な被投的投企として、珠光・紹鴎・利休らの侘び茶人は、心敬(一四〇六〜一四七五)の連歌の理念に共感して、山居への切実な願望をいだき、さらには、禅道に究極の精神的バックボーンを求めたに違いありません。かように考える時、浦の苫屋の貧寒たる単色の世界をよしとする侘び茶の心は、反-唐物主義の単たる美的次元をこえた、美的自然主義的心情に深く規定された心であり、さらに究極的には、無の自覚にもとつく超越的地平へと開かれた心でもあったと想われるのです。

紹鴎は既に申し述べましたように、侘び茶の心を定家の和歌の心に託しましたが、利休はもう一首見つけたと言って、前の一首と合わせて、つねに二首の古歌を書き付けて茶の心を託していたということです。

その一首というのは藤原家隆の

花をのみ待らん人に山ざとの
雪間の草の春を見せばや

であります。『南方録』の著者宗啓は利休からの聞き書きとして、この歌を解説していますが、その要点はこのようになっています。雪におおわれた山里は、紹鴎が侘び茶にたとえる浦の苫屋と同様、花も紅葉もない、白喧々たる冷え寂びた眺めであり、世俗的な虚飾や感覚的享楽を捨て去った無一物の心境を象徴する情景である。が、その山里にも春がきざし、雪間のところどころに、青々とした草が、ぽつぽつと二葉三葉、萌え出ている。この目にしみるような新芽の青やかな美しさこそ、利休が家隆の歌から読みとった侘びの心であると説明しています。
江戸中期の俳人服部土芳(一六五七〜一七三〇)は、その著『赤讐紙』の中で、芭蕉の俳論として「高く心を悟りて、俗に帰るべし」という訓えを記しています。世俗的な執着を捨て、草庵に住居して、大自然を友とする無一物の境地は、美的自然主義的生の極致であり、利休の究極とするところの侘び茶における、いわば「高悟」の契機となるものだといえるでしょう。花紅葉の否定である秋の夕暮や浦の苫屋、もしくは雪におおわれた白皚々たる山里の景観は、この契機の象徴的イメージといってよいのではないでしょうか。

これに対し、どこまでも市中の俗塵と喧噪のなかに踏みとどまり、洗練された抑制的表現形式による簡素美・凝縮美のうちに、高悟の境地を虚構的に現出させる芸術活動は、利休の侘び茶における「高悟帰俗」の姿といえるのではないでしょうか。雪間に繭え出る、あの青やかな草の新芽は、これを象徴しているといってもよいだろうと思います。

仏道における悟りに比せられる「高悟」は、本来、世俗的な執着を捨棄し離脱した、純粋無雑な境地であるのに対し世俗的な交わりには、物欲・愛欲・権力欲がつきまといます。高悟と世俗とのこの矛盾を、世俗のただ中で統一にもたらす芸術活動こそ「高悟帰俗」としての芸道にほかなりません。

それゆえ、芸道における道の自覚は、仏道における超越的な悟りに類比的な「高悟」、つまり、至高の芸境を核心とすることにおいて、根源的.自覚的であり、世俗のただ中において、美的別次元の世界を他者と共に有するかりそめの体験であることにおいて、現実的・虚構的であると考えます。

芸道における美意識としての感性は、すでに考察したように、様々な次元において、モラルと不可分に融合しつつ、道の意識を構成しています。したがって、その汎律性の性格もまた、自覚的・根源的であり、かつ現実的・虚構的といえるでしょう。日本の伝統的美意識は、芸道における感性とモラルの深く強固な結びつきにおいて、きわめて独自な展開を示しているといわなければなりません。

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