暁烏敏賞 平成11年第2部門本文「現代子ども事情 新たな援助の視点を探る」1

ページ番号1002591  更新日 2022年2月15日

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第15回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

  • 論文題名 現代子ども事情 新たな援助の視点を探る
  • 氏名 中川 美保子
  • 年齢 42歳
  • 住所 石川県金沢市
  • 職業 高校教諭

「カタン」という小さな音で、ふっと我に返った。『あの子かな?』と思う。『あの子』はどうしても朝十時くらいにならないと登校することができない。学校に着いた時刻が授業中で教室に入りづらい時、決まって相談室のドアを小さくノックする。『あの子』の微かな朝のサイン。

「お・は・よ・う!!どうぞ。少し、休んでいったら」、もう少ししたら、職員室で担任の指導がはじまる。「どうして、朝起きられないの。
いったい昨日の夜は何時まで起きていたの。…」毎日のつらいセレモニーのはじまり。相談室は、その時間が来るまでのひとときの「サンクチュアリ」を提供するくらいならできる。

公立中学校の相談室担当教師として子ども達と交わした話を機軸に、現在の学校の抱えている問題点と、改善の可能性について事例をまじえて論じてみたい。

1 学校の一日

学校を感じるには、少なくとも一度は、自らが学校の内部の存在となって生きてみることである。私は数年前、五年間の教育センターでの相談業務を経て、ある中学校の教育相談担当者として学校に勤務することとなった。学校で一日を過ごすようになってはじめて、教育センターで保護者や子ども達が語っていた学校の様々な場面が、連続した映像として感じられるようになった。相談室に来室する子ども達の話を中心に彼らの学校生活を辿ってみたい。

ア 家庭生活の「学校化」

一時間目の授業に出ると、すでに「疲れた」とか「眠い」とかつぶやいて、机に上半身を横たえている子どもが数人いる。特別な事情のある日だけなのかと様子をみていると、どうもこれは慢性的な現象らしい。

しかしここには、「一日のはじまりからなんてだらしない。」と言ってしまえぬ事情があるらしい。それは、この現象が少数の特定の生徒に限らないことからも伺える。毎日、どのクラスにも疲れたような表情の子どもが数名いる。彼らの「疲弊」の元を相談室常連の数名の子ども達の話から想像してみよう。そこには大人たちがわかっているようで、実はすべてを把握しきれていない彼らなりの事情があった。

まず、夜の生活を考えてみよう。私たちが第一に思い浮かべるのは、夕食、テレビなどの余暇、入浴、家庭学習、就寝というスケジュールであろう。しかし、実態はこんなに単純なものではない。まず、上のスケジュールに割り込ませなければならないのが「塾」の存在である。「塾」といえば、夕日が赤く地平に傾きかけた頃に、子ども達が町の公民館のような場所で机を並べている姿を想像するかもしれない。しかし、事実はこんなのどかなものではない。ほとんどの塾の開始時刻は午後七時前後から八時、そして終了は、午後十一時、遅いところでは十二時を廻るところもある。知り合いの塾関係者に尋ねてみると、「部活動や学校の放課後の諸活動の時間帯を考慮すると、この時間帯が→番子ども達が集まりやすい。」とのことだった。一昔前、午後九時になるとテレビに「九時になりました。小さいお子さまはお休みください。」とテロップが出たが、現代では、その時刻に休んでいる子どもは稀なのかもしれない。

この時間帯は、塾の学習がまさに佳境に入る大切な時間なのである。

さてこうなると子ども達は夕食を、部活動を終えて帰宅し塾に行く前のほんのわずかの間に食べることになる。それでも足りないときは、塾から帰った深夜に夜食を食べたりスナック菓子をつまむ。これでは、家族団らんなど望んでもなかなか実現するのはむずかしい。

もちろん塾のない日もある。しかし、そんな日も彼らはいろいろと忙しい。例えばテレビを見ること。いやテレビは見なければならないらしい。それは、友だちとの会話における必須アイテムにテレビから発信される流行語があるからだ。だから、テレビによる情報は、子ども達にとって欠かせないものなのである。その情報を知らないと、彼らが恐れる「はずされる」事態を招きかねない。塾通いで見られなかった番組はビデオで録画しておく。そして、わずかな時間の余裕を使ってチェックするのである。その上翌日学校でタイムリーに話題を合わせるため、塾から帰った深夜、夜食を食べながらビデオのスイッチをオンにする。

もうひとつ、子ども達が家庭で毎日のように時間を費やさなければならない日課がある。それはシャワータイムである。思春期を迎える小学校高学年から、この時間が彼らの生活の一部となる。シャワータイムは一般的に大人たちが考えている入浴とはその意味が微妙に異なる。一日の疲れを癒すため、ゆっくりと湯船に浸かって身体を暖めるのが一般的な入浴の意味。しかし、子ども達が毎日のようにシャワーを使い、髪や身体を洗い流すのにそんな情緒的な意味は見あたらない。彼らの目的は、自らの身体の汚れを洗い流すこと。頭から足の先まで、清潔にしておくこと。明日、学校で「くさい。」とか「ふけだらけ、汚い。」などと言われないように、いわば身体の武装をすることが目的であるらしい。

この感覚には昔のような、今日一日がんばってきた自分の身体をいたわり、大切にしてあげると言う心身の一体化・統合性は見られない。ここに、洋服を取り替えるように、毎日、自分の持ち物である身体をリニュアルし、何とか外界から自らを守ったり、時には外界と戦ったりする準備に明け暮れる子ども達の必死の姿が垣間見える。

これらの限りでは、子ども達の毎夜の家庭生活は、大人が想像するほどのんびりしたものではない。夕食、塾、学校の宿題、テレビ、入浴など、部活動を終えて帰宅した後、彼らを待ち受けているスケジュールはかなりハードなのである。

イ 授業は本当に楽しいのか

ほとんどの中学校では、一週五日間と考えると、一日六時限の授業が行なわれている。一時限は五十分間である。これも考えようによっては途方もなく長い時間である。仮に私たちが二時間の講演会に出席した時のことを考えると想像できる。もちろん、自分の興味のある内容の講演なら、二時間でも短いと感じることもあるかもしれない。しかし、自分の意に反して興味の持てない内容だった時や、職場などの義理で出席した時のことを考えてみればどうだろうか。二時間ですらとても長い。これが毎日五時間あまり続くのである。自分が興味のある授業、わかる授業ばかりならそれでもがんばれるかもしれない。しかし、中学校の授業は、すでに決められているカリキュラムにしたがって、学習がはじまる形式であり、子ども達の選択する余地がきわめて限られている。したがって、多くの子ども達は、小学校から続くこのルーチンを「慣れとあきらめ」でこなしているのかもしれない。

また、毎時間異なった教科を違った教師から受けることからおこる問題点も指摘せねばならないであろう。「疲れた、疲れた。」を相談室で連発するある子どもの話によると、「授業中にどんな態度で授業を受ければよいのかわからなくなった。授業がこわい。」という。理由は「先生によって要求が違うから。」らしい。ある先生は、「このクラスは静かすぎる。お通夜みたいだ。もっと活発に元気にしなさい。」と生徒に求める。ところがある先生は、「なんて騒がしいクラスなんだ。もっと静かに落ち着いたムードでないと授業は成立しない。」という。あるいは、昨日は少し話し声がしても何も怒らなかった先生が、今日は同じことをしているのに激しく怒ったりする。「勉強なんてできなくても、相手を思いやる気持ちが大切。」という先生がいると思えば、「勉強できなかったら、人生の落伍者。今がんばれないでいつがんばるのだ。」と轍を飛ばす先生もいる。だから、この生徒は授業毎に担当の先生に適切に合わせ、叱られないように振る舞うことにもう疲れたと訴えるのである。

もちろん、この現象は子どものサイドの一方的な見方である。教師が語る「活発なクラス」と「落ち着いたムードのクラス」は決して矛盾した要求ではないのかもしれない。しかし現実には、子ども達がそれらの教師の発言を的確に把握しているとは限らない。それでも彼らは彼らなりに、何とか合わせようと努力し、その結果過緊張の状態になったり、受動的で自己決定ができない状態に陥ったりしているのである。そして、「疲れた。」が教室に蔓延する。

また、教室での対人関係にも子ども達は疲れている。例えば、現在許されている教室環境では、対人距離が近すぎる。自分が占有できるのは、わずか七〇cm×四〇cmの机と自分の身体が占める一m四方程の空間。左右は、八○cm程度の通路を隔てて他者と隣り合う。あるいは、二つの机が接している場合には、その八○cmすら許されない。前後と言えば、前に座る人の耳の汚れや髪に混じるふけまで見える。精神的な自己臭恐怖ではなく、実際に自他の口臭や体臭さえ感じられようなパーソナルスペースである。

こうして彼らは、木製の堅い椅子に五時間あまり、周囲を気遣いながら、ある時はひっそりと、ある時は緊張して座り続ける。実際、相談室での子ども達の訴えに、「隣の人が少し机を離した。もしかしたら、自分の口臭か体臭が原因なのではないか。」とか、「午前中いつお腹が鳴るかと思うと、居ても立ってもいられなくなる時がある。」「静かな授業の時、突然おならが出たらどうしょうと思う。だから、先生に叱られてもごまかすために騒がしくする。」などという。家庭ではほとんどの子ども達が個室を与えられ、適当なパーソナルスペースを確保している現在、学校が子ども達に与える居場所はあまりにも狭すぎる。

ウ 休憩時間の本当の意味は

子ども達の休憩時間は想像以上に多忙である。業問わずか一〇分。この間にすることをあげてみよう。まず、前の授業の後始末、黒板を写している子もまだいる。そして、次の授業の用意。宿題のチェックをする時もある。トイレに行く子。保健室に行く子。電話をかけにいく子。特別教室の授業が一日に必ず一つか二つあるから、その前後の移動。体育の授業の前後なら着替えもしなければならない。教科の係りの生徒はその授業の準備もあるかもしれない。例えば、社会なら掛け地図を資料室に取りに行き、そして戻す作業。国語なら、図書室から辞書を取ってきて、また戻す作業。確かに彼らの中にも、上の作業をすべて友だち任せにして、プロレスのまねごとをしたり漫画を描いたりしている少数の要領のよい子どももいる。しかし、少なくとも半数以上の子ども達は、一生懸命この一〇分間をこなしている。だから、子ども達が漏らす本音は、「もっとゆっくりしたい。」「疲れた。」である。実際これでは、本当に彼らが欲していること(友だちとのんびり会話すること。ひとりでぼっーとすること。)は十分にできない。

相談室である子が教えてくれたところによると、学校にある洋式トイレは彼女にとって必須品なのだそうだ。実際の使用法は、本来のものではない。休み時間のほんの数分、ふたを閉めたトイレに座って休むこと。

「あの空間が一番気が休まるの。」と彼女は語ってくれた。

2 「つらさ」の起源

このような視点で子ども達の生活を辿る時、相談室を訪れる子ども達の背後に今の子ども達に共通の声が聞こえてくる。それは「私もつらいの。」「ぼくも我慢してるんだ。」という彼らの訴えである。まさしくこの声の主人公たちは、現在、この国で思春期を送っている多数の子ども達である。そして実は、その大部分のごく普通の子ども達の中から、いじめや不登校をはじめ、果てはマスコミに登場するような犯罪行為などの不適応行動が顕現しているのである。

しかし一方で、現在の子ども達の状況を憂うる言説として「今の子ども達は甘えている。」「これほど幸せな子供時代がかつてあったか。今の子ども達は我慢が足りない。」という厳しい意見が存在するのも確かである。わが国の戦後から高度経済成長期を過ごした年齢の大人達の中には、「もっと叱ること、もっとしつけること。」が必要という意見も多いかもしれない。そして、そのような対応が効を奏する事例ももちろん存在するだろう。確かに、上述したような学校の]日は戦後世代が過ごしたものとあまり変わらないかもしれない。一日五〇分の授業も、教室の机も、教室の広さも本当に変わっていない。そんな学校で我慢してがんばったからこそ、今大人としてそこそこやっていける。あの我慢が大切だったのだという大人もいるだろう。このように考えてみると、やはり現代の大部分の子ども達は甘えているのだろうか。我慢が足りないのだろうか。

ここで翻って、なぜ彼らはつらいのだろうかという視点で考えてみたい。社会的、経済的に成熟期に入り、望めば子ども達のほとんどが高校に入学でき、欲しいものの大部分が手に入る現在。中流意識の生活がごく普通のものとなったわが国の今日。実は、だからこそ子ども達はつらいのだという見方は穿っているだろうか。望めば可能なことが溢れ、手に入れられる「モノ」で生活が充足していること。実はここに彼らのつらさの正体が潜んでいる。なぜここに、現代の子ども達のつらさが存在しているのか、以下に二点の理由を掲げてみたい。

ア 「つらさ」の質

まずひとつは我慢の質が高くなってきたことである。例えば、高校受験を考えてみよう。一昔前、一握りの有名大学卒の人たちが世間の羨望を集めていた時代には、いわゆる偏差値の高い高校に入ることは非常に注目に値することであった。そしてそれを望めるのは、知的にも経済的にも恵まれた一部の生徒だった。少数の努力した人にのみ与えられる栄光がそこにはあった。だからその時代の子ども達は、確かに目標達成のために多大な我慢を強いられたかもしれないが、その結果、獲得される効力感も大きかったのではないだろうか。それだからこそ、当時の我慢は肯定的な体験として記憶することができた。これは、高校受験に限らず、それぞれの特技に関してもいえるだろう。ピアノ、習字、そろばんなどの習い事でも、ほんのひとつの昇級が家族を喜ばせ、子どもの自尊感情を高めたかもしれない。子ども達の我慢や努力は明るく曲豆かな生活に直結していた。大人も子どもも、もう少しで届くところに未来の夢を共有していた。

しかし現在は、高校に入学するくらいでは子ども達は効力感を感じられない。高校は大学受験の準備教育の場であり、放課後の補習、夏休みの勉強合宿はほとんどの高校での当たり前の風景である。習い事で昇級するなど喜びには値しない。スポーツにしろ音楽にしろ、現在では、子どもの頃からさまざまな競技会やコンクールが存在し、もっともっと上を目指す。→流高校の次は、一流大学、それだけではありきたりで外国の一流大学を望むものもいる。地区の大会で優勝すれば、県大会そして全国大会と次々と能力を競う場が提供される。つまり、我慢して到達する目標が昔より格段に高くなっている。換言すれば、そこまでがんばらなければ夢が見えない時代に子ども達は生きているのである。

しかも昔は、能力や家庭的な事情に恵まれた少数の子ども達が体験したこれらの我慢を、今や大部分の子ども達が幼い頃から強いられていることも無視できない。現在では、大部分の子ども達が、幼い頃から塾や習い事やスポーツクラブに通っていることは周知である。夕方の町から子ども達の楽しそうな歓声が絶えて久しい。社会が求める様々な能力の基準が高くなるに従い、彼らに求められる我慢の質が否応なく高まっているのである。

イ 学校だけの「つらさ」

次に、彼らのつらさの理由をもうひとつ揚げるとすれば、彼らの我慢の場の問題である。

先に挙げた今の子ども達の学校の一日は確かに昔とあまり変わらないのかもしれない。特に厳しい規則が新たに加わったわけでもないし、授業時間が増えているわけでもない。学校はそれほど変わっていないのである。しかしこれを社会と対比させて見ると「社会も学校も変わっていない。」のではなく、実は「社会は変わったが、学校はほとんど変わっていない。」のではないか。だからこそ子ども達はつらいのではないだろうか。

例えば学校内では、次のような現象が起こる。のどが渇いても飲み物は水道の水だけ。寒くても火力の一定の古い石油ストーブだけ。暑くても下敷きで自らをあおぐだけ。学校には、家や町の施設にはある清涼飲料水も、ファンヒーターもクーラーもない。家庭にはゆっくり休む六畳ほどの自分の部屋があるのに、学校には身体一つ置くソファーもない。他では我慢しなくていいことを、ほとんど学校でだけ求められる。家庭も社会も昔のままなのではなく、学校だけが昔のままの我慢を求める。

振り返って昔の学校はどうだっただろうか。おそらく現在とおよそ逆の場面が想像できないだろうか。家庭では買えない本物のピアノがある。野球、バレー、バスケットなど種々のスポーツ用具が使える。文学全集が揃っている。それらはすべて学校にしがなかったもの、家庭では買えなかったものである。勉強はいやだけれど、学校に行けばめずらしいもの、おもしろいものがあったから、登校していた子ども達も多くいたはずである。

つまり、昔の学校は子ども達に与えるものに溢れていたが、今は、彼らの生活の中で一番「モノ」のない、不自由な場所に変わってしまったのではないだろうか。昔の子どもは、学校でも家庭でも確かに我慢していた。しかし、どこでも誰もが我慢していたからこそ、その体験を共有し、肯定的に思い出すことができるのではないだろうか。

現在、子ども達はいつも我慢しなければならないのではなく、「我慢」は学校でより多く体験しなければならないものとなった。昨今の、クーラi漬けで一ヵ月あまりを送った、夏休み明けの子ども達の登校意欲の低下は、このことをよく物語っている。暑い夏の毎日を「鍵っ子」として寂しく暮らし、九月が待ち遠しかったあのわくわくするような気持ちを今の子ども達は味わっていない。

社会の変化にくらべて、学校はあまりにも変わっていない。つまり、昔にくらべて学校では、つらさを感じる要因がほとんど変化せず、子ども達を引きつける魅力が相対的に低下しているのである。

ウ 今、求められる援助の視点は

「今の子ども達は、我慢が足りない。昔に戻してもっと厳しく指導するべき。」のように時代を元に戻すことはもはやできない。社会は変化しあの時代には戻れない。実際、学校にとらわれず社会全体を見回してみれば、その事実はより明らかになるであろう。例えば、壮年期の大人達の生活は昔と変わっていないのだろうか。あるいは、退職をむかえてからの老年期のライフスタイルはどうだろう。もはやわれわれ大人達すら、昔のような明日の糧を求める禁欲的な日常を最上のものとは受けとめられなくなっているのではないか。もう昔には戻れないし、戻りたいとも思っていないのではないだろうか。

子ども達だけに、その過ぎ去った時代を求めるべきではなく、その過去の価値観を定説のように当てはめるべきではないだろう。我慢を重ねがんばった昔の子ども達にくらべて、今の子ども達が甘えていると考えず、「彼らは、昔ながらのやや疲弊してきた学校システムの中で、つらいながらも何とかがんばっている。」という視点も必要なのではないか。

従来、教師が是としてきた日々の何気ない生徒への対応をもう一度見つめ直し、ごく普通と見られている大部分の子ども達のつらさを感じて欲しい。「今の子ども達は、彼らなりにがんばり、我慢している。」という視点で彼らの言動を見つめ、今の子ども達が求めている援助の糸口を探りたい。それは、学校のハード面が変わらなければならないように、やはり子ども達の内面への支援も、この時代に合わせたものに転換すべきだと考えるからである。以下に教育センターや相談室での自らの体験を基にした事例を取り上げ、その理解の視点を示したい。(事例は、特定を避けるため、修正を加えた内容となっている。)

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