暁烏敏賞 平成13年第1部門本文「河上肇とこの時代」1

ページ番号1002579  更新日 2022年2月15日

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第17回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 「河上肇とこの時代」
  • 氏名 鈴木 一典
  • 年齢 43歳
  • 住所 東京都八王子市
  • 職業 社会福祉法人職員

古典の要件

十代の頃、シェイクスピアの戯曲を集中的に読んだことがあった。今ではその記憶もあてにはならないのだが、それでも鮮明に残っているのはヴェニスの商人の有名な「人肉裁判」の}種異様な雰囲気だった。その中でユダヤの高利貸しシャイロックの台詞に、シャイロックの「人間宣言」として知られる箇所がある、それは次のようなものだ。

「やつめ、おれに恥をかかせた、おれのもうけを五十万ダカットは邪魔した、おれが損をすりゃああざ笑った、おれが得をすりゃあばかにした、おれの民族をさげすんだ、おれの商売をだめにした、おれの友だちには水をさした、おれの敵には火をたきつけた、いったいなんのためだ、やつがそうするのは?おれがユダヤ人だからだ。ユダヤ人を何だと思ってやがる?ユダヤ人には目がないか?手がないか?五臓六腑が、四肢五体が、感覚、感情、情熱がないとでも言うのか?キリスト教徒とどこがちがう、同じ食いものを食い、同じ刃物で傷つき、同じ病気にかかり、同じ薬でなおり、同じ冬の寒さ、夏の暑さを感じたりしないとでも言うのか?」(『ヴェニスの商人』小田島雄志訳)シェイクスピア自身はユダヤ人と会ったことすらなかったようで、この台詞をシェイクスピアはシャイロックの「暴言」のつもりで書いたのだろう。当時の役者が極悪非道の商人として演じたのも無理はない。ところがある時期からこのシャイロックの台詞をシャイロックの「人間宣言」として演じた役者が現れたというのである。『ヴェニスの商人』の上演史について岩井克人氏の著作から多少の知識を得ることができたので紹介してみると、〈滑稽な道化としてのシャイロックー真の悪役としてのシャイロックー偽善者でもあるキリスト教徒と戦うシャイロックー悲劇の主人公としてのシャイロック〉というような変遷を辿ることになった。つまり「吝しょくなユダヤの高利貸しという通俗的なシャイロック像から、シャイロックという人物のなかにいわば主体的な人間としての『深み』を見い出していく歴史であった。」というのである。(岩井克人)『ヴェニスの商人の資本論』筑摩書店)おそらくシェイクスピアと同時代の人がこのシャイロックの「人間宣言」を演じた場面に遭遇したら腰を抜かすに違いない。シャイロック像の変遷の歴史を辿ると歴史に残る優れた古典というものは、作者の意識や思惑を超えて、後々の人に訴えかける深みがある、ということだろう。

河上肇の思想も、筆・者は河上自身がいわば清算した、自己批判して捨て去ってしまった所、そこが実に面白いと思う。こんな読者は河上にとっては、さぞ迷惑だろう。しかしそんな読まれ方をされるということも、つまりは河上の経済思想は優れて時代を超えて残る古典であることの証であると思うし、古典というものはやや意地の悪い読み方の方が現代に甦る可能性は高いようだ。

河上の義弟である大塚有章氏は、近年の河上論が詩人、文人、求道者としての河上を評する傾向にあることを不服としておられる。マルクス主義者河上をこそ顕彰すべきであるとの意見をお持ちであったという。

河上の『自叙伝』は福沢諭吉の『福翁自伝』、内村鑑三『余はいかにして基督教徒となりし乎』、福田英子『妾の半生涯』、荒畑寒村『寒村自伝』などと並ぶ自伝文学の名作として広範な読者に感銘を与え続けており、漢詩についても吉川幸次郎氏や、近年は精力的に一海知義氏らによって詩人河上が評価発掘されている。(一海知義『河上肇と中国の詩人たち』筑摩書房、一海・杉原『河上肇学問と詩』、『河上肇芸術と人生』新評論)最も「正統的」な河上評は氏のいうように、マルクス主義者としての河上なのかもしれない。それを認めるに筆者としても吝ではない。(『不屈のマルクス主義者河上肇』井上清編著現代評論社の井上清による「はしがき」を参照されたい。)例えば戦後日本のマルクス研究の代表者である宇野弘蔵は河上について次のように語っている。

「マルクス経済学一般からいえばそれを広めたのはやっぱり河上さんじゃないのかな。大正九年、十年ごろの『社会問題研究』じゃないかなあ。山川さんなんかはブデインとかウンターマンぐらいでしょう。河上さんは、とにかく『資本論』を直接に解説しようとしたんだからね。ぼくは山川さんはとにかく堺さんからは特に経済学を教わったという気はしない。ぼく自身としてはやはり河上さんだね」(宇野弘蔵『資本論五十年』上巻法政大学出版局)河上の個人雑誌である『社会問題研究』に掲載されたマルクスの解説を介して当時の若者たちは本格的な社会科学研究に開眼していったのである。

しかし筆者が残念でならないのは、河上の初期から中期にかけての経済思想はいずれの立場の人からもあまり深くは顧みられてはいない、大抵は初期の立場はマルクス主義者河上肇が生まれるまでの序曲にすぎないと解されたのである。河上の歩みを「抜きがたい人道主義」の一語で捨て石扱いされてはならないと思うのである。マルクス主義者以前の思想も、現在でも充分通ずるアクチュアルな問題を提起してあまりあるものがあると思う。「河上論はまだ定まらない」とは大内兵衛氏の言葉であるが、確かに河上論はなお無限の可能性を秘めているように感ぜられる。

二つの『貧乏物語』

河上には二つの『貧乏物語』がある。大正六年に書かれた『貧乏物語』は経済学の書物としては最も幅広い読者に恵まれ、大正中期以降に経済学に志した多くの人たちが、この河上の著作によって方向性が決定づけられたといっても過言ではない。

では『貧乏物語』を生んだ社会的な背景とはどのようなものであったか。河上が執筆を開始した一九一六年は第一次世界大戦のロハ中であり、ロシアではペトログラードをはじめとする主要な都市では労働者による政治ストが激しく闘われ、全国に遼原の炎のように燃え広がり、ドイツではスパルタクス団が組織され反戦運動が各地で展開された時期でもあった。日本は連合国側に入っており、日本が主戦場になることはなかったので、直接的な被害もなく、大戦によって欧米諸国の競争力が弱まったのに比べ、需要の伸びに乗じて製鉄、造船など軍需産業が膨張し、また紡績などの軽工業も海外のマーケットを獲得し、戦争のにわか景気で、独占利潤を濡れ手に泡で手に入れた戦争成金と称される新興ブルジョワ層が形成されたのである。彼ら金満家は当時としては大変高価であった牛乳を買い集め、それで風呂をわかしたり、客を料亭に接待し、足元が暗いというのでマッチで札に火をつけるなど、そんな記事が新聞を賑わす一方、生産手段を持たない賃金労働者層の生活は物価の騰貴によって悲惨なもので、所謂貧乏が社会的に形成されるという、そんな時代であった。河上の『貧乏物語』は時代を鋭く反映するものであった、そこで河上の名文にも支えられて、幅広い読者に受け入れられた。

『貧乏物語』の構成はまず、第一に「いかに多数の人が貧乏をしているか」という現実について指摘され、第二に「なぜ多数の入が貧乏しているか」の理由が説明され、最後に「いかにして貧乏を根治しうべきか」では著者自身の処方箋が述べられるという三部構成になっている。河上は貧乏の歴史的要因として、生産力が近代になって向上しているのに、社会現象として貧乏が生じるのは、それが生活必需品の生産に向かないで、奢侈品の生産に向けられたからだという。貧乏人が多いのは生活必需品が少ないからであり、なぜ生活必需品が少ないかといえば、貧乏人が多いからだというのである。しかしこれでは原因が循環しているだけに見えようが、河上によれば歴史の事実がこのように循環しているからだと、現実社会のいわばパラドックス性が遠因だというのである。

そこから貧乏の根絶策として河上が得た結論とは、富豊な者達が奢侈贅沢を廃止することであるとされる。勿論何らかの形で再分配を強め、所得を平均化すること、私企業のみを生産の主体とするのではなく、国家主体の経済政策を取り入れるなどの提言をも含んではいる。しかし根本的な根絶策として考えられたのは人心の改造であり、「社会組織の改造よりも人心の改造がいっそう根本的の仕事」という視点にたつ人道主義的なものであった。だから河上はわざわざ「『貧乏物語』は貧乏人に読んでもらうよりも実は金持に読んでもらいたい」と率直に述べるのである。(河上肇『貧乏物語』岩波文庫)

世の批評のようにこれが『貧乏物語』の限界であるが、実際には『貧乏物語』の面白さでもあり、歴史を超えて人々を引きつける魅力の中核となっている。

実のところ『貧乏物語』は単に河上の経済思想を表現しているだけでなく、河上自身の生き方そのものの表現であった。これを端的に象徴する事件が、足尾鉱山事件にとった河上の態度であろう。足尾鉱毒事件の講演を聞いた河上は、農民の悲惨に心を痛め、沢山の被災民が厳寒の日々を過ごすだけの衣類もないという弁士の話に、絶対的非利己主義を説いた「聖書」の聖句が彼の念頭に浮かぶと、会場を出る時、おしげもなく着ていた外套と羽織と襟巻きを差し出し、下宿に帰っては、あらいざらいの衣類を行李に詰め込み救済会に届けさせたという。これが新聞などで「篤士な大学生」として紹介され、河上をして一躍有名にさせたのだが、これなどは『貧乏物語』で人心の改造として論じた内容をそのまま実践したような、そんな事件であった。

生来志士的で気骨があり、処世術にはあまり長けているとは考えられない河上が、学問と自己の生き方とを要領よく区別したとは到底考えられない。経済学の研究のモチーフの中にさえも、河上一流の利他主義がその原動力となっていたことは疑いない。河上の人道主義経済学が最初に響鳴したのがThere is no wealth,but life.の言葉を残したラスキンであった。

ラスキンにも河上の「篤士な大学生」に似た逸話が数多く残されている。父親の死により膨大な財産を得たラスキンは、彼の財産の全てを見事に使い果たした。時にラスキンはダイヤモンドを買い博物館に寄贈したり、失業者に道路掃除の仕事を与え、遊び場のない少女に野原をプレゼントしたとも伝えられている。(クエンティン・ベル『ラスキン』出淵敬子訳晶文社)

河上はさすがにラスキンほどではないにしても、その行動はしばしば伝説的な「奇行」として描かれることも故なしとしない。しかしそれが「精神病理学または性格学の研究対象」となるべき異常な行動だとの見方もあるが、筆者にはそうは考えられない。(大熊信行『生命再生産の理論』上巻東洋経済新報社)

河上が儒教の影響を受けており、しばしば「東洋的国士マルクシスト」とも称され、志士的な面が精神的土壌にあったことは広く認められている。しかしこれまでの河上論では「東洋的国士」たる内容が今一つはっきりしてはいない。筆者は「東洋的国士」たる内実とは具体的な根拠をどこにおいていたのかといえば、それ陽明学ではなかったかと考えている。

人間としての生き方が実に陽明学そのものなのである。内村鑑三によれば明治維新の精神的原動力は陽明学であったという。旧幕府側が自己保存のために助成したのが保持的な朱子学であったのに対して、明治維新の精神的原動力は進歩的で希望に満ちた内村曰く「基督教と似ている」陽明学であった。内村は「王陽明は、支那哲学者中、良心[良知]と、仁慈且つ峻厳なる天の法則[天理]とに関する、偉大な学説に於て、亜細亜に同じく起源を有するかの尊厳きはまりなき信仰[基督教]に、最も近くまで達した人である。」とするのである。(内村鑑三『代表的日本人』岩波文庫)

明治維新の精神的な指導者であった西郷隆盛は佐藤一斎の影響を受けていた。『西郷南洲遺訓』にも陽明学との共鳴が認められるし、吉田松陰が李卓吾の『焚書』に共鳴し陽明学の強い影響下にあったことはよく知られている。薩長の志士たちが明治維新の中心的な役割を果たしたことを考慮すれば、陽明学の果たした歴史的役割は自ずから理解されよう。

河上は山口県の出身であり、山口高等学校時代の理想的な入物が、郷土が生んだ偉人吉田松陰であって、青年時代徳富蘇峰の『吉田松陰』を愛読書としたといわれ、松陰に大いに私淑していた。河上はその頃二つの雅号を持っていた、一つは「颯月」という大町柱月にあやかったもの、もう一つは「梅陰」と号していたが、この「陰」とは吉田松陰に由来する。

河上は「私の胸の底に沈潜していた経世家的とでも云ったような欲望は、松陰先生によって縫えず刺激されていた」と述べている。(河上肇『自叙伝』、その他にも「松陰先生を憶ふ」などがある。)河上の初期の論稿には江戸期の儒者で日本陽明学派の租たる中江藤樹についての論評などもある。なれば河上の思想と行動が「精神病理学または性格学の研究対象」や、「精神病的な側面」ではなく、確かにその「奇行」の数々も=疋のルールに従っての行動であったのだろう。陽明学の「心即理」は自己の根底に啓示された「天理」が現実の自己というものをつき動かして、直情径行に体現していこうとする志向に貫かれ、実践(行)を特に重んずる傾向があった。「知はこれ行の始めにして、行はこれ知の成るなり」と考えられる。これが「知行合一」である。理論と現実とを時として無媒介的に実現しようとするところが陽明学にはあり、それが河上の生き方に反映している。

例えば思想的な性格は異なっていても陽明学には共通な行動様式がある。江戸期の大塩平八郎(中斎)にしても、維新の西郷南州(隆盛)や松陰にしろ、戦後の三島由紀夫などもそうであるが、彼らが天の理と信ずるところには大きな隔たりがあるが、しかし彼らが信じた道を直接に、現実社会に実践しようとする。つまり自分の理想を現実社会の中に叩きつけようとするのである。それが時に狂気を発するといことである。天災飢餓で庶民の惨状を救うために商家を襲った中斎、擁されて挙兵した南州、刑死した松陰、割腹自殺を遂げた三島と、いずれも精神病理の問題ではなく、理論をそのまま現実のものにしようとした、その倒錯にあったのだ。

おそらく河上の思想と行動の根底にも到良知の信念が深く刻まれていたのだろう。陽明学の「人欲を去りて天理に就く」も河上の無我愛の精神と合致している。河上のそういう志士的、経世家的な熱情が認識と行動とを無媒介に直結させるという、「認識即行動」という独特の直情径行型の行動様式が後々までの河上の生き方を支配したと考えることができる。篤志な大学生も、無我苑への帰依も、共産党への入党も奇行の一語でかたずけられるものではない。

住谷一彦氏は河上肇とキリスト教との関連を重要視し、河上の生活態度というものは聖書の「山上の垂訓」によって触発されたと考えておられる。つまり「私はどうしても彼の行為を内側から絶えず方向づけてきた倫理的起動力は、通説に反してキリスト教のエートスであったとみることが妥当であるように思われてならないのです。」と理解される。(『河上肇の思想』未来社)

河上が東大に在学していた頃のことである。内村の影響でバイブルに接し、なかでも「山上の垂訓」を読んでいたく感動したことがあった。しかしそれは河上がキリスト教の信仰や、キリスト教の教義を受け入れたことを必ずしも意味しない、魂に迫ったものとして感激したという「山上の垂訓」も、そこに絶対的非利己主義の典型を発見したからであり、自己の規範の最も典型的な具現を見いだしたからであって、その逆ではない。

勿論住谷氏も河上がキリスト教の教義をそのまま受け入れたとは考えてはおられまい。あくまで「福音信仰の中での旧約のタイプに属する」とされるが、しかしおそらく住谷氏が河上肇の中に発見したものとは、内村によれば「キリスト教に似たあるもの」たる、陽明学の陰ではなかっただろうか。住谷氏は河上の中に生きていた陽明学の陰を見てキリスト教を「発見」したのではなかろうか。

しかし陽明学の感化のせいか、河上のキリスト教理解がいかにも律法主義的、倫理主義的で、あまり多くの実りをみせなかったことは残念であった。河上のような字義通りに「山上の垂訓」を解すれば、ただ絶望するほかはないのだから。本来のキリスト教とは、我神とともにあり(インマヌエル)という原事実を正しく捉え、不断に恵まれてくる大いなる助けに導かれ、日々努力することによって、それにもかかわらず犯してしまう罪の赦しを受け、刻々と新しい生として甦えりつつ努力することによって、歩一歩と戒めに近づいていこうとするものであり、これが本来のキリスト者として信仰に至る道であろう。ところが河上は直情経行ゆえ、自らその道を閉ざしてしまったといえそうである。

それにもう一つ、河上肇は「感性」の人である。その「感性」により導かれるまま、新たなものも発見するが、それは同時に一面的であることも免れない。彼が人道主義の経済学者として注目したラスキンについてもまさにそうであった。大熊信行氏は次のように述べている。

「河上には、京大の同僚からラスキニアンと呼ばれた時期もあり、ラスキンの経済思想の一面に魅せられた形跡もある。が、それは聖書をすこしも研究せずに、いきなり聖句の一、二に魅了されるのと、おそらく似たような仕方でラスキンに接近したものではなかったか。豪華なラスキン全集が座右にあったにしてもである。」(大熊信行『生命再生産の理論』下巻東洋経済新報社)

その鋭敏な直感力でラスキンに注目したというものの河上は大熊氏がいうようにラスキニアンであったことはないだろう。それは彼がキリスト者でなかったのと同様である。河上は経済学をも数学的な厳密なる思惟としてでなく、踊りを舞うかのような、あたかも腕の良い職人のように勘で学問をするようなところがあった。その直感力はともかくラスキンについてもテキストクリティークを忠実に行うというようなことが少なかった点は残念でならない。

池上惇氏は文化経済学の先駆者としてのラスキンに注目し、ラスキンと河上との熱い関係について、次のように述べておられる。

「ラスキンの思想をも視野に収めた河上の政治経済学は、当時の経済学の水準において十分に国際的評価に耐えうるだけでなく、現在の経済学方法論をも根本的に変革しうる新しいパラダイムを提起しえていたことはまちがいない。」のだと。(池上惇『経済学-理論、歴史、政策−』青木書店、その他にも『文化経済学のすすめ』丸善ライブラリー、『経済学−理論、歴史、政策−』、梅棹忠夫監修、総合研究開発機構編『文科経済学事始め』学陽書房)

「人道主義」を欠いて大正の精神史は理解できるものではない。トルストイやロマン・ローランは言うにおよばず、わが国においても宗教性の強いヒューマニズム的な社会変革思想とでもいうべき一連の流れが存在した。西田天香の「一燈園」、伊藤証信の「無我苑」、武者小路実篤の「新しき村」や白樺派など。実際のところ「一燈園」や「新しき村」が今日までも連綿と、いかに微小であろうとも生き続けているという事実の重みを筆者は感じないわけにはいかない。

が、しかし河上は人道主義の経済学に長く席を置かなかった。周知のように「人道主義的経済学」を早々と自己批判すると、マルクス主義に移行したのを契機に、昭和五年にはマルクス主義の啓蒙書的内容の濃い『第二貧乏物語』を書くことになる。それも最初の『貧乏物語』に対しては「恥辱以外の何物でもない」という言葉を残してである。

先にシェイクスピアの言葉の裏に隠れた台詞のように、河上の『貧乏物語』も同様に、まさに彼が清算せんとした内容が、実に今日的意味があるように映る。現在という時において読んでみると最初の『貧乏物語』の方が、遥かに強烈で新鮮である。

それに比べ『第二貧乏物語』はマルクス主義のイデオロギーを宣伝するために書かれたという一定の限界があり、河上自身が当時にあってマルクス主義を完全に咀嚼したとはいいがたいため、面白さに欠けると思うのだが、どうもそれだけではなさそうである。人間の物質生活は、人間の精神構造という複雑な現象と、まったくかけはなれては存在しないのだという至極当たり前ではあるが、しかし今日の経済学の中ではまったく無視されている現実を、実に素直に表現している『貧乏物語』がかえって真実性を含んでいるといえるのではなかろうか。その分だけ『第二貧乏物語』の影が薄くなってしまうと筆者には思えてならない。

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