暁烏敏賞 平成9年第2部門本文「相談活動から見えてきたもの」2
第13回暁烏敏賞入選論文
第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】
3 雅弘君のこと(実践の記録)
相談のはじまり
これまでに数多くの非行系の相談を扱ってはきたが、途中、自らの意志で「不良をやめたい」と決断し実行に移して行った例は多くはない。
この記録は、家族、特に母親の努力の結果として報告したいのである。
二学期がはじまって間もなくかかってきた雅弘君の母親の電話は、匿名ではなかった。はじめから自らの氏名住所を明らかにし、今まで全く問題のなかった次男(雅弘君中学二年生、十四歳)が、夏休みのある日を境に不良中学生になってしまったと話をはじめた。
私の主観を交えて母親の話をまとめると、次の三点に大別できる。
- まず、行き先不明の夜間外出と無断外泊がはじまり、続いて服装の変化、茶髪、喫煙、友人の変化などと不良少年の定番コースを、転び降りるように進んで行った。二学期の始業後は、授業離脱、遅刻早退、そして生徒間暴力を繰り返すようになった。彼は一瞬にして校内屈指の問題生徒の一人と言われるまでに変わった。
- 家族構成は、両親、兄(大学生)、本人の四人。父親は大手建設会社の課長職の技術者。中流以上の家庭環境。両親ともに教育熱心、さりとて過干渉のいわゆる口うるさい教育パパママ型ではない。どこを捜しても家庭環境の欠陥は見つからなかった。あえて言えば、愚弟賢兄という彼への評価が気になるところだった。
- 学校生活においても、特段目立つ方ではない。堅実でまじめ。友人から嫌われている様子はなく、まして、友人関係で孤立していることは考えられなかった。学業成績は可もなく不可もないという中庸そのもの。
その後来室した両親は「あまりにも突然過ぎて、にわかには信じられないし、原因に至っては全く見当もつかない」と、彼の急変に困惑している様子だった。
確かに、初期段階の聞きによって得られたこれだけの材料では、彼を非行に走らせたとする決定的要因にはなり得ない。しかし、突然の変化という捉え方については、最後まで大きな疑問が残った。
不良少年と言われる子どもたちのほとんどは、小さな変化を重ねながら徐々に不良少年へと傾斜していく。したがって、昨日の彼と今日の彼とが違うということは、少なくとも私の知る限りあり得ないことなのである。
この日に至るまでの間に、「おやつ」と思ったことや「おかしい」と感じたことの一つや二つは、必ずあったはずである。しかし、両親も教員も、突然と理解している以上これらの変化に気付かなかったか、たかをくくって見落としたかである。残念ながら、前述の多恵子の撤を踏んでしまったと言わざるを得ない。
しかし、相談の初期段階でそれを両親に指摘したところで、何の解決にも役立たない。それよりも、ここではまず聞きに徹して、ひたすら待ち、そして焦らず、休まず、留まらずの基本にしたがって相談を継続していくより仕方がないのである。
今後の両親の来室計画は、当分母親は週一回、父親は月一回とすることにした。この段階では、まだ彼との接触はできていない。
出会い
親とともに本人も来室相談というのは、来室者数の三割を切る。さらに、中学生・高校生になると、その数は、さらに一割台にまで落ちてしまう。
雅弘君の場合も例外ではなく、両親を通して来室を勧めてみても、そのすべてが門前払いの状態で来室実現には至らなかった。考えてみれば、現在彼の問題で困っているのは親と教員だけであって、本人は今のところ何も困っていないのである。困ったことがなければ来室するはずもない。
しかし、彼との接触の機会は、意外に早く訪れることになった。十月中ごろ、仲間三人でやった万引行為が発覚、警察官に補導された。厳重説諭を受けた後、相談室への招致来室処置となって、初めて彼と出会ったのである。招致来室は自主来室と異なって、私たちが直接当事者に来室を促すことができる。彼はしぶしぶでも来室した。
次はこの時の記録の一部である。『十月二十日(木曜)午後四時三十分、雅弘君来室。赤チェックの上着にポッカ風のズボン、頭髪前部分茶色、痩せ型の小柄な少年。ギターを抱えている。
彼なりに懸命に格好をつけているつもりのようだが、アンバランスさは否めない。
「ギター聞かせてくれる?」とからかう。
「まだ習いはじめたばかりだから。ここ終ったらレッスンに行く」簡単に断わられた。
「おもしろい?」
「おもしろくない」
「おもしろくないのに行くの」
「分からない」
これ以後の彼との会話は、全て「忘れた」「知らない」「別に」の三語だけだった。でなければ沈黙である。三語だろうと沈黙だろうと、彼が話し出すまで待つ持久戦は、もとより覚悟のうえ。
「来週、また来れるよね」
断わらせないそという思いを込めてたたみかける。彼は断わるタイミングを失った。
「うん」
「じゃあ来週の木曜日、必ずだよ」
彼はギターを抱えて帰って行った』
二回目、彼は来室の約束は守った。しかし三回目以後は来室しなくなった。まさに半歩前進一歩後退の状態であった。
母親の変化
三ヶ月を過ぎた頃には、初回来室時に見せた母親の憔悴した顔付きは消えていた。以下もその時の記録の一部である。
「口うるさく言うの、止めました」
来室した母親がすぐ話しはじめた。
「言いたいのを我慢する?」
「初めはそうだったかもしれません。雅弘の不機嫌な顔見たくないですから。でも、それでは親の逃げだと気付いたんです。見て見ない振りですよね。だから、ここで親が負けてはいけないって」
「でも、何も言わないのでしょう?」
「我慢して言わないのではないのです。ちょっと待ってやろうという気持ちです。でも、面白いんですよ。そうすると、雅弘の方から近づいて来るんです。側に来たって要求ばかりですけどL「どんな要求ですか?」
「たばこを吸わせうとか夜遊びに行っていいかとか。すごんできまずから大変です」
「黙ってその要求に応じる?」
「とんでもない。それでは負けですもの。お母さんは、君がたばこなんか吸ってほしくないとだけは言います。それ以上は言いませんし、力で止めようともしません。雅弘は嫌な顔はしますけど、引き下がります」
また、母親は雅弘君の日々の観察記録をとりはじめたと言う。たくさん書こうとすると長続きしないこと、悪いことだけの記録にならないようになど、私の言いたいことを先に言われた。これだけの賢い判断ができる母親が、雅弘君の不良化をなぜ防げなかったのだろうか。不思議でならない。
彼の非行を早く止めようと焦っていた母親が、まず長期戦の覚悟を決めたうえで、賢い母親を取り戻したのである。話すことによって困っていることが整理された結果、自分なりの解決方法を見い出したということなのかもしれない。
不良をやめた
昨夜、彼が「もう不良はやめたい」と母親に打ち明けたと、一月十日の朝、母親から私に電話が入った。「信じてもいいものでしょうか」と取り乱している母親の様子が伝わってくる。私としても、こういう事例に今まで出会ったことがない。だから、彼のことばをどう受け止めるべきか、どう支えてやればいいのかなど、次の対応がとっさに浮かんでこなかった。
親も私も不良少年から回復させたいと願って悩んでいたにもかかわらず、実際にそうなろうとした時狼狽している。これは彼の不良行為に幻惑されて、彼の中に起こりはじめた小さな変化を、また見落としていたからだろう。大きな反省材料となった。
彼の決意は、不登校とともに自宅に閉じ籠もり、外部との接触を全て断つという具体的行動となって表れた。
母親の観察記録が、この様子を語っている。
一月九日(月曜)
夜になって急に、もう仲間からの電話には出ないと言う。「かかってきたらどうするの」と聞く。「適当な理由をつけて断わって」と辛そうな顔をする。
「もう不良やめたいんだよ。学校も嫌になった。特に先輩とつき合いたくない」
「そう。学校少し休んで考えてみるといいよ。母さんも先生も君の味方だよ」と言ってやる。
「うん」とばかに素直。
PM十時
二階から降りて来て、居間のこたつに入る。
「君がちゃんとする気なら、母さんは何でもするよ。きっといい方法があるはずだからね」と話す。「山村留学というのもあるらしいよ」と話してやる。「何ぞれ」と聞き返す。午前二時まで話し込んだ。
一月十日(火曜) AM九時四十分
まだ寝ていたので「相談室に行ってくるね」と声をかけて出る。
AM十一時三十分帰宅。まだ寝ていた。
「先生、家庭訪問してくださるって」と言うと「ふざけんな」と言う返事。
「今、先生の協力がないと、何もできないんだよ」と言ってやる。
「うん」とうなずく。
PM三時先生来る。
来室の時は三語しか遣わなかった彼が、家庭訪問の度に語数を増やして話し出した。ここでも聞きに徹した。結局、「不良グループから抜ける覚悟をしたからには、このまま今の学校には行けない。先輩や仲間のリンチが恐い。知らないところに転校したい」が、彼の気持ちだった。しかし、なぜグループに入ったのか、なぜ抜けたいと思ったのかについては、全く語らなかった。私たちにとって一番聞きたい部分だが、やはり、彼が話をしてくれるまで待たなければならない。
言い換えれば、動機の詮索よりも彼の決意そのものを、おとなたちが真正面で受け止めてやることが大切である。まさに、彼の周囲にいるおとなたちの出番だと言える。親も教員も当然私たちも、彼の勇気ある決断を守りきれるかどうか、今度は彼に強く問われることになる。
二月、彼の決心は、福島県にある牧場での山村留学という形で実を結んだ。一年後、中学を卒業した雅弘君は、現地の棟梁に弟子入りし、今も大工修行に励んでいる。今年、彼は間もなく十八歳になる。
表面的には大団円を見たこの事例にも、内実いくつかの課題を抱えている。
まず、子どもたちが「不良をやめたい」と声を出した時、学校がどれだけその思いを支えられるかという課題である。不良を止めたいと思いながらも、彼の場合のように山村留学を選択できる子どもは、それほど多いとは思われない。山村留学も転校も、子どもや親にとって大きな負担をともなうからである。したがって、そういう方法をとらないでも、彼らの思いを実現させてやれる方法はないのだろうか。
「このまま今の学校には留まれない」と言う彼のことばの中には、本当は転校したくないと言う気持ちが潜んでいる。彼にとって山村留学は、不本意な選択だったかもしれない。
そして、最も大きな課題と責任は、子どもの変化を見落としたおとなたちの不注意である。子どもたちの至近距離にいるのは、親であり教員であることを忘れてはならない。つまり、子どもの変化をいち早くキャッチできる好位置にいる。しかし、変化を見抜くおとなたちの観察は、疑い深い目で子どもたちを見つめることではない。信頼関係の元で営まれる日常活動によってのみ、子どもは変化を見せるのである。
4.外因を考える
今まで述べてきた多くの事例から教えられたのは、子どもの変化が自身の持つ内因によるものより、周囲の影響を受ける、いわゆる外因による場合の方が圧倒的に多いということである。まさに「朱に交われば赤くなる」の古諺のごとくにである。
その外因の多くは、本間友巳氏の言う「子どもたちを取り巻いている現実の世界は、弛まぬ前進や向上や効率を、常に要求している。休息や退行は必要最小限に止められる。ときには、強迫的なまでに前進や向上が強いられることさえある。子どもたちの最大の居場所であるはずの学校や家庭も、前進や向上や効率のみを追い求ある場になりつつある」に起因していると思われる。
特に教員という立場を退いて、相談員として数々の事象を見つめてみた時、氏のことばの重みを、改めて、反省とともに感じないわけにはいかない。
極論すれば、子どもたちの気質を変え、子どもらしさや青年の気迫を失わせたのは、子どもたちに、立ち止まることを許さなかった私たち自身だったのかもしれない。
ことば
必要なことばと不必要なことばとの関連に於けることばの量の問題である。
小六のU君は、内向的で引っ込み思案、だから勉強への取り組みが遅い。日常ほとんど喋らないから、U君が何を考えているのか分からない。
要約すればこの四行で済む相談内容を、この母親は遠々と三十分、立て板に水のごとく話し続けた。
「心配で、お母さんは、U君にたくさん注意をされますよね」
「言わないと分かりませんから」
「お母さんが話をしている時、U君はどんな様子でいますか?」
「ちゃんと聞いています。でも、時々涙なんか流しています。黙っているだけですが」
「それなのに、U君は動かない?」
「だから、悔しくなって叱るんです」
母親の話を聞く限り、U君の問題であると言うより、母親の方に問題がある。毎日、子どもにとって不必要なことばばかりが、母親から大量に浴びせられていたことになる。これでは、U君は黙らざるを得なかっただろう。何か言えば、それに倍する母親のことばを恐れ、彼は黙ってしまったに違いない。子どもにとっての悲しい生活の知恵だったと言える。私も、最後には黙ってしまった。
小四のT君は、学校で算数のプリントを破り捨てたと先生から、強く叱られた。以後、学校に行きたくないと言い出した。そこで親子で来室。
これだけなら、T君は先生に叱られて当然である。しかし、話を聞いてみると次のことが判った。
T君は、どちらかと言うとやや行動が遅い。だから、この日も時間内にプリントが仕上がらなかったらしい。先生は続けてやってしまうように指示して、給食の時間になった。T君は給食を後回しにして、ようやくプリントを完成、得意気に先生のところに持って行ったのである。彼は先生の「よくやったね」のことばを期待した。
ところが、先生のことばは「今、その時間ではないでしょう。早く給食を食べなさい」だった。これで、彼は先生の目の前でプリントを、こなごなに破いて捨てたという。
来室した相談者には言えないことだが、これもまた、先生の方に外因があると秘かに思った。「先生、もっとしっかりしてよ」と、この教員に言ってやりたい。
もし、この先生が「よくやったね」と言ってくれて、「給食終わったら、お丸つけるね」と結んでくれたら、「話して分からせる」ことになったのである。そしてT君は待つことの大切さも学んだことだろう。それだけではない。もし、「今度はもうちょっと早くやろうね」とでも先生が声をかけてくれたなら、T君のやる気も育ったはずである。
しかし、これも所詮は、私の「れば、たら論」に過ぎない。
この場合は、大事なことばが少な過ぎたのである。いらないことばが多過ぎるのも困るが、大事なことばがないのも困る。
両極端の事例ではあったが、いずれの場合も、子どもたちに立ち止まることを許さなかった、おとなたちの心無い言動、すなわち、子どもを変えることになったマイナスの外因である。
「話して、分からせる」を目指すからには、分からせることが主眼である。そのためにはどう話すか、どれだけ相手の立場で話ができるかなど、さらに相手の話に耳を傾けて待つこと、この当たり前の理屈が今忘れられている。
一があるから二が生きる
もう一つ、私たちは忘れている。
人としての生き方の基本を、子どもたちに語り伝えるという作業である。
私事だが、私は小五、六年といじめの苦しみを味わった。中でも、清掃の時間になると繰り返される泥水の洗礼は、耐え難い屈辱だった。昇降口のコンクリートを、掃除当番の私たちは濡れ雑巾で拭き上げる。たちまち雑巾を濯ぐバケツの水は、泥水に変わる。私へのいじめはここからはじまる。まず、生け蟄の私をコンクリートの上に正座させる。その後、級友たちは次々の私の頭上で雑巾を搾る。その後の状況は言うまでもない。
この苦しみから救ってくれたのは、中学受験に失敗してやむなく進んだ尋常高等科一年の時の担任秋山利先生だった。先生は鉄拳制裁全盛の時にあっても、暴力を極端に嫌い軽蔑した。そして、暴力に解決を委ねるその理不尽さと恕に基づく人のあり方を、日に何度も話し続けた。それは、まさに、耳にたこができるほどにであった。
小さな暴力沙汰でも、ことばによるいじめであっても、先生は見逃さなかった。もしそれが起これば、先生は涙を流しながら、私たち全員を叱った。無論、先生は殴ることも大声で怒鳴ることもしない。でも、じゅんじゅんと説く先生の静かなことばに、私たちは身を正してただただ恐れいった。
「今までのこと、ごめんな」と、いじめっ子の一人にそっと言われた時、私の暗黒時代は終わった。
生き方の基本に関わることは、徹底して教え続けるという先生の教えが、私たちの心の中に定着した。だから、子どもたちが間違った時、先生の静かな諭しが生きたのである。
先生のこの理念に憧れて、私はためらうことなく教員の道を選んだ。
五年前先生が亡くなるまで弟子の末席を汚し続けた。生前、先生に教えの意味を尋ねた時、「一があるから、二が生きる」と、まるで禅問答のことばのように語られたのを思い出す。先生の話は続いた。一は教員の抱く教育への理想であり、信念である。二はそれを具現化しようとする日々の活動である。時には、子どもたちへの心をこめた諭しや癒しにもなる、と。
残念ながら、最近の風潮は、おとなたちの一の働きかけがほとんどない。忘れてしまっているのか、それともおとなは、信念を語る自信を失ってしまっているからだろうか。目に入ってくるのは、次々と即効性の対処療法を求めて狂奔するおとなたちの姿である。この姿から、信念を持たず他人のことばに気をとられたあまり、最後は親子でろばを担いだという童話を連想する。
一は、人生を先に歩くおとなたちが、後から来る子どもたちへ、生き方の基本を伝える崇高な行為である。大仰な言い方をすれば、生き方の哲学なのである。だから、一が、打算とご都合主義による押し付けや指示であってはならないのは言うまでもない。そして、二は、間違いを指摘したり、正しさを認めてやるといった具体的行為である。
それを正しく受けた子どもたちは、やがてそれに自分なりの味付けを加えながら、自己の目標を作り上げていくことだろう。場合によっては、受けた一に反発し、乗り越えようともするかもしれない。でも、それでいいのである。少なくとも、今、そこには、子どもたちが越えようとしている目標が存在しているからである。
前述した子どもたちの多くは、生きる目標も越えようとする当面の目標も持っていない。無気力に陥ったり、見通しのない刹那的な反発をただ繰り返している。一を十分に伝えられていない子どもたちの、病める姿そのものと言えないだろうか。
「子は親の背中を見て育つ」とよく言われる。また、「ある人との出会いによって、それからの人生が変わった」とも聞く。事実、私の場合、先生との出会いによって教員の道を選んだ。一は単にことばだけの行為ではない。親の背中に込められた無言の教えも、大切な一の行為である。
今からでも遅くはない。一を子どもたちに伝えるため、さらなる精進を続けなければならないと思う。
終わりに
「こちらが注文を付ければ付けるほど、相談者は私たちから離れていく」
研究会で聞いた講師のことばである。相談活動に限ったことではなく、私たちの日常生活にも当てはまる。
「話して分からせる」という行為は、ともすると、単なる注文伝達に陥りやすい。それを防ぐためには、「話す、分からせる」に「聞くことと待つこと」を加えるとよい。また、おとなの焦りのために、子どもを急がせてはいけない。焦れば、必然的に子どもへの注文が増える。新たに見えてきたことの数々である。いまさらの感もないわけではないが、そのどれもが、耳の痛い現実である。
高校二年のH君のケースの時、それを思い知らされた。生徒会長を務める彼が、「気が付いたら、僕の後ろに誰もいなかった」と孤独感を訴えて来室した。全てに自信を失い、来室の度に落ち込んでいく彼を目の前にして、何とか助けてやりたいという焦りが生じた。
いつの間にか、私は「頑張れ」「負けるな」などの意味のない激励とともに改善点を列挙して、彼の努力を求め続けていた。そのうえ私は、もっともらしく人生論などを語っていた。彼にとって迷惑なことだったろう。いまさら遅いが、穴があれば入りたい。
最後は、自力で明るさを取り戻してくれたものの、明らかに基本を忘れた失敗例の一つになった。
「聞きに徹して、待つ」は、単なる小手先の技術論ではない。何よりも相談者一人一人の個と思考を大切にするという基本理念に基づく相談活動のスタンスである。それを忘れた私の、H君への相談活動は、いたずらに彼を混乱させただけだったと反省している。
引用・参考文献
- 川上源太郎 いい人ごっこ PHP No三二六号
- 谷村志穂 十四歳のエンゲージ 東京書籍
- 本間友巳 子どもと居場所 第十二回暁烏敏賞入選論文集
- 拙著 だが、甘やかさないぞ 白鯨社
- 部分執筆 悲しき山羊たち 葉文館編 葉文館
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