暁烏敏賞 平成7年第2部門本文「教え育てる真の"教育"をめざして」1

ページ番号1002618  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第11回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

  • 論文題名 教え育てる真の"教育"をめざして
  • 氏名 小久保 純一
  • 年齢 38歳
  • 住所 三重県鳥羽市
  • 職業 指導員

自立をめざして、自然に帰れ

「あれっ、きょうは○○さんのおばあちゃん、来ていないね。どうしたのかしら。どこか具合でも悪いのかねえ。」これは病院の待合室での会話として、今日の過剰な老人医療を風刺した笑い話である。名医ほど現状の解説に時間を使い、薬や治療は極力少なくするのに対し、ヤブ医者ほど投薬と治療で保険点数を高めている。患者の方でも「大丈夫ですよ。」などと言われるとかえって不安になり、いくつもの病院を回って多くの病名と飲みきれないほどの薬をもらい安心する。病が投薬や注射の洪水によってでなく、患者の自然治癒力によって癒えるし、又その方が後の回復も早いことを理解しようとしない。

このことは教育についてもそのまま言えることであり、ここにこそ教育の歪みの根本があるのではなかろうか。教育は本人の自然の力で自然に進めた方が、先の発展の楽しみがあることを、優れた教育者ほどよく知っている。治癒より予防に力を入れる予防医学と同じで、教育も基礎体力こそが必要となる。子どもをよく勉強"させる"教育者は、実は勉強"させる"のではなく、子どもの"自ら学ぼう"とする力に刺激を与え、援助を与えているのが正しい。

教育−educationに当たるラテン語の語源は"引き出す"という意味をもつeducere(エデュセーレ)であり、"教育者"ということばの原型Paidagogosは、子ども(Pais−パイス)のあとからついていくことを意味する。また、ソクラテスの教育は、産婆が妊婦の出産を手伝うごとく産婆術そのものであり、あくまでも生徒が中心であった。かってルソーが『エミール』のなかで、もっとも優れた教育は、と自問し、それは何もしないことであると自答した。教育しようという意識がなくなったときが、もっとも教育的であるというのが真実だとすれば、意図的ないとなみといわれてきた教育を、根本から考えなおす必要がある。ルソーの時代の学校は、ムチでたたくことが教育の中心で、ゆがんだ子どもができたり、次々に死んでいったものだった。親のそばから子どもを離し、修道院のようなところで、王族や貴族の子弟を教育しはじめたのが、その起こりであった。そんな中で、子どもをもっとのびのびと育てられないかを考えはじめて出版されたのが、あの『エミール』である。

生き物が正常に生育するためには、適度の環境が必要だが、度を越すと異常がくる。植物の成長には土に養分が必要だが、肥料をやりすぎると枯れたり、大きくなるばかりで、花が咲かなかったり、実がならない。

いい母親であるためには子どもに何をしてやるかいくら考えてもダメだ。それより、自分の中に自分を満足させ、安定させる存在価値を作ることである。そうすれば、子どもにのめりこみ、そこに自分の存在価値を求めようともしないし、子ども以外の外部の何かに求めて子どもをほったらかしにすることもない。

母親には特に子どものために犠牲になるなと言いたい。犠牲という心情の底に「この子がいなければ」という気があり、それが「これだけ自分が犠牲になっているのだから」という気をおこし、子どもに過剰な期待を持ち、知らず知らずに母子関係に悪影響を与える。子どもは幼くても、理由はわからないが、自分が原因で母親が不満であることを感じる。

犠牲になるより、やりたいことと両立の方法を考える方が結局は子のためになる。

子どもは成長過程で、自然に親から自立するものだが、親が子ども以外に自分の空虚を満たすものがないと問題である。子が母に密着することより、母が子に密着することにより、親が子どもから自立できず、子どもの自然な自立心を押さえ、いつまでも保護のいる幼児の状態に置いたり、育児の過程で無意識にその状態にしてしまう。まさに、過保護・過干渉の母原病である。親のつとめは「子どもをしあわせにしてあげること」(親にはこの力はないが)よりも「しあわせを自分の力でつかむことができるようにちゃんと自立させること」である。

子どものためとあえていう必要もない。子どもの世界に近づかなくてもいい。逆に自分自身の世界を持ち、その素晴らしさ、感性、生き方に子どもを引きずりこんでいくくらいの姿勢があるだろうかと考える。子どもの前で、自分をさも立派な大人として、あるいは、いかにもわかっているような振りをしても、子どもはそれを見抜いている。子どもから嫌われたくないから機嫌をとり、]見子どもは王様のごとく扱われながら、彼らの内面について本当に目を注ぎ、理解をしょうという姿勢の欠落というものが、彼らの現状の中に出てきているのではないか。

いつもはたから、「もっと食べなさい」とか「食べすぎるな」などと言われているために、食事を自分のものにできず、病気のときでも、幼稚園に行ってよいか、学校を休むべきかといったことが、すべて親の指図で決められていると、からだについての判断が、自分でつきにくくなる。

まして、親までが、その判断をしょうとせず、なんでも医者に行き、決めてもらおうとすれば、子どもは病気のことは医者まかせにしなければならないような気になる。健康というものは、他人から与えられるのでなく、自分でつくり出していくべきものである。すぐに薬を使って、症状を抑えると、自然治癒力がそがれてしまう。

学校の行き帰りでも、たいていのところで通学路が決まっている。おまけにPTAから「通学路からそれて道草している子どもを見つけたら注意しましょう。」といった類の文書が回ってくる。まるで大人の手のひらの上で操られている孫悟空のようだ。さらに集団登校などというのもあって、新入の一年生の前後を五・六年生の上級生で固めて、旗をもち、学校へ歩いていく。しかし、こんなことで一人ひとりの交通意識が育つのだろうか。子どものためによかれ、と思ってやったことが、子どもの自立心を育てることにはならない。

子どもをおもう愛情と過保護のちがいを知らなくてはいけない。〜してくれないと不平ばかり言う"くれない族"が幅をきかすようではいけない。親自体が、テレビ局に「テレビで漫画を放送するのはやめてもらいたい。」というような無責任な投書をすると聞く。テレビはスイッチを切ればいい。子どもが泣こうが喚こうが、スイッチを切る。その抵抗の精神が教育そのものである。戦後社会と教育の特徴の一つである他罰主義をよく示す例である。自らの内に向かって深く反省するということをしない。

また、なにか事があればすぐに押さえ込んだり、規制しようとしてしまう。子ども達がゲームセンターに出入りして、金を使って困るということから、親達がチームを組んでゲームセンターの見回りをする。このことが決して無駄だとは言わないが、これだけでは根本的解決にはならない。対症療法はあくまで目先のことであり、それ以上のものではない。

大人達が、楽しみを金で買う生活をしている。車でパチンコ屋へ行って遊んでいる、休日はやはり家族を乗せ、レジャーランドで金を払って楽しみを買い、帰りはファミリーレストランで食事をする。自分の足でどこか山へ登り、自然の景色を楽しんだり、]日かげて精密な紙飛行機や凧を作って飛ばしてみたりというような、自分で楽しみをかちえるということが極めて少ない。こういう生活環境に育った子ども達が、ゲームセンターで、楽しみを金で買おうとしても、それは無理もなかろう。親達がこのことに気付かずに、ただパトロールによって子どもの行動を規制しようとしても、それは外からの力による強制になるだけで、子ども自身が変わっていくことにはつながらない。厳しい規制でしばるということは、一見、子どもに対して"厳しい"姿勢であるかのようにみられるが、よく考えると、子どもに「自分で判断しなくていい」と言っているわけだから、子どもを甘やかしている過保護な姿勢ということになる。

取り締まりの"厳しさ"は、発達の主体としての子どもを信頼していない姿勢になる。

教育を子ども自身が何かする力をつけていくことを助けること、子どもを自分の人生の主人公として育てることとしてとらえる立場から言えば、子どもとの信頼関係に基づき、子ども自身に判断の機会を与え、そこで葛藤させ、援助的働きかけをしながら、子ども自身が判断するのをじっと待つことこそ、本当の厳しさではないか。

今の子ども達は遊びを知らないからなんとか遊びを教えようということで、地域の親達が休日に伝承遊びの教室を開き、竹馬やこま回しなどを教えて一緒に遊んだが、時間がきて「今日はこれで終わりにします。」

と閉会宣言をしたところ、ある子が「終わりなの。じゃ僕達これから遊んでいいんだね。」と言ったので、親達はショックを受けた。短絡的に「遊びを教えてやる」ことでは解決しない。合宿で毎日十時間を超す勉強漬けにしたり、地獄の特訓などという学習塾もあるが、かえってマイナスのような気がする。いたるところに押しつけ教育が見られる。

今の教育は教育ではなく飼育になってしまっているともいえる。「早く、早く」となに事もやりかけの時に母親のことばが、子どもを追いたてる。親としては次々に言ってないと安心できないのだろう。子どもの成長が少しでも遅れるとひどく心配なくせに、自分の養育態度が子どもの成長に比べてひどく遅れても一向に平気である。ひげのはえている高校生くらいの子に、「おじさんにごあいさつは?」とか言う。いわれた方も気持ちが悪い。親が子の価値を認めず、子どもをただ矯正の対象とみる限り、子どもは自分の価値を認めることができない。専門病院で治らなかった小児ぜんそくが、アルバイトで他人から感謝され、認められて治ったということもある。自信とやる気が子どもを立ち直らせる。叱咤激励より、その子の価値を認め自信を与えることである。

このように考えると、子どもをいつまでも"子ども用"の世界に閉じ込めておくのは考えものである。昔の家庭のように、使いにくい大人用のハサミを一生懸命に小さい手で使っているからこそ、早く一人前にハサミが使えるようになるのではないか。子ども用にこわれにくくつくったプラスチックの皿でなく、大人用の皿を割ってしまった経験を通して、ものを大切にする心や扱い方を身に付けていくのではないか。

自立心、自発性の欠如が今日の教育の大きな問題点であり、まさに「過剰な教育のもとでの教育の不在」がその要因である。たとえば、おけいこごとの多い子は、あらかじめすることが用意されているためか、指示通りの行動はできるが、あまり自分からは遊べない。小学生でも、休み時間に一人でボンヤリして自分から遊ぼうとしないロボットみたいな子がふえている。親の命令、干渉が多すぎて、条件反射的に指示されないと何もできない。子どものやった不完全さを親がとがめて完壁にやってしまうことにより、子どもは不安になり、大人の承認がないとなにもできない。

人間の発達は環境的要因と素質の複雑なからみ合い、環境と素質の相互作用によるが、その個人にとっての環境が、実は私たちが与えたつもりになっている環境とはまったく異なったものになっているということも、考える必要がある。親が意識している時より、無意識の時の教育がはるかに長く影響力も大である。親の背を見て育つともいうことである。太平洋戦争直後、マッカーサーは、「日本人の年齢は十二歳」と言ったが、どうも大人自身に未成熟な人格がいようである。たとえば、交差点で歩行者信号が点滅しはじめると同時に、「これからの横断は危険です。つぎを待ってゆっくり渡りましょう。」というアナウンスが入る。一事が万事である。駅のプラットフォームに立てば、耳を押さえたくなるような音量で拡声器が叫ぶ。「電車がきます。白線の内側へお下がりください。」「押さないでください!乗り降りはこ順に、降りる人が降りてから乗りましょう。」「お忘れ物のないように。」何度叫ぼうと、いくらボリュームを上げても言った通りになったためしはない。そんな社会の中で子どもたちに自立を求めるのは難しい。

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