暁烏敏賞 平成16年第1部門本文「地球時代によみがえるヘーゲルの市民社会論『ネオコンの論理』を超えて」1

ページ番号1002565  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第20回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 地球時代によみがえるヘーゲルの市民社会論 『ネオコンの論理』を超えて
  • 氏名 小川 仁志
  • 住所 愛知県名古屋市守山区在住
  • 職業 公務員

1 はじめに カオスと化す民族紛争

世界には200近くもの国家が存在する。こうした国家のほとんどは、決して神の手になる自然の構築物などではなく、戦争をはじめ何らかの人為的な「力」が働いてつくられた人工的な構築物である。それゆえ、国家を統一、維持していくためにもまた何らかの「力」が必要となってくる。その力とは国家によりさまざまであり、時に宗教であったり、自由主義・民主主義などの政治的イデオロギーであったり、独裁であったりする。この「力」が取り除かれるとどうなるか。そこにはたちまちパンドラの箱を開けてしまったかのごとくカオスが噴出する。冷戦という「力」の取り除かれたアフガニスタン、独裁という「力」の取り除かれたイラクなど…。その後、いずれもカオスのごとき民族の紛争に苛まれている。

しかし、力が取り除かれるとなぜカオスが広がるのか。このカオスの正体は一体何なのであろうか。私はこれを、個々の人間に宿る民族的なアイデンティティに起因する再統合過程であると考える。人為的な強制「力」のたががはずれるや否や、民族的なアイデンティティというもっとも根源的な「力」が運動を始めるのである。『代議制統治論』のなかでジョン・スチュワート・ミルは次のように述べている。「人類のある部分が、共通の諸共感によって結合されていて、その共感が、他のどんな部分とのあいだにも存在しないならば、かれらは一つの民族を形成する、といってよかろう。−中略−この民族感情を生みだしてきた原因は、さまざまなものでありうる。−中略−しかし、すべてのうちでもっとも強力なのは、政治的沿革の同一性であって、それは民族の歴史をもち、その結果として共通の回想をもつこと、すなわち過去の同じできごとに関して、共同の誇りと屈辱、喜びと悔恨をもつことである。」(1)つまり、そもそも民族とは共通の歴史に基づく共通の心情によって結びついた集団であり、この共通した心情こそが民族的なアイデンティティを形成しているというのである。そして、この「アイデンティティの高揚は、政治的には『一つの国家が一つの民族の中に創建されるべきであり、また一つの民族は一つの国家を構成しなければならない』という一民族一国家のナショナリズムに結びつく。」(2)にもかかわらず、たとえば冷戦といった人為的な強制「力」によって、複数の民族が一つの国家のなかに同居を強いられていたわけである。したがって、その人為的な「力」が解ければ、当然もともと存在していた根源的な「力」たる民族的なアイデンティティが、自らの国家を構成しようとする動きを始めることになるのである。

それでは、なぜかかる再統合の過程はカオスと化すのであろうか。民族紛争を伴わずして再統合することはできないのか。各民族の間に確執がなければ比較的スムーズにことは運ぶのであろう。しかし、各民族の間に人為的な「力」の都合でヒエラルキーが構成されていたような場合、特に支配、被支配の関係が存在していたような場合には簡単に済むはずがない。積年のルサンチマンが有限な領土をめぐって爆発するのは必至であろう。したがってこの紛争を仲裁し、再統合過程を平和裏に進めるため、ここでもまた何らかの新たな「力」が必要となってくる。それは歴史の教訓から、紛争が周辺地域に飛び火するのを防ぐためであり、また我々人類の仲間の命が一つでも失われることのないようにするためである。ここに国連の存在意義がある。国家間あるいは民族間において中立な立場で仲裁を行えるのは、現在のところ国連をおいてほかにない。もちろん第三国やNGOがということも考えられるが、第三国やNGOではその性質上、中立性に対する疑義が完全には払拭しきれないし、また人道支援をレゾンデートルとするNGOには仲裁のための「力」が欠けている。

問題は、国連が本来備えているはずの「力」をうまく行使できていない現状と覇権国アメリカの強大すぎる「力」である。国連は、国連憲章第7章において、制度上明確に国連軍を予定している。しかし、この国連軍が正式に編成されたことはいまだかつてないのである。そこには安全保障理事会の本質的な問題が横たわっている。根本的な問題は、第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカ、フランス、イギリス、中国、ロシアのいわゆる五大国のみが国連軍編成の実権を握っており、そのうえ拒否権を有しているということであり、これが「力」の実現を困難にしているという点である。これでは国連の「力」など永遠に抜けない伝家の宝刀である。これに対して、アメリカの「力」はいまや歯止めをもたない。安全装置の壊れた銃のようなものである。ここでの問題は、国連軍とは異なり、アメリカの「力」は一国の利害で発動されるものであるという点、並びに、一度「力」を振るった後の責任を最後までとりきれないという点にある。したがって、地球に同居する我々人類は、一刻も早く伝家の宝刀を抜ける状態、すなわち国連軍が正規に編成されるような仕組みをつくらなければならない。しかし、保安官が役に立たないからカウボーイが治安を守るのだといわんばかりに、世界の警察アメリカを正当化し、国連をないがしろにするのが、ブッシュ政権であり、そしてその背後にあるといわれるネオコンの思想である。すなわち、ネオコンの主張するアメリカの強大すぎる「力」の存在が、国連が「力」をもつことの妨げになっているといえる。したがって、国連が「力」をもつためには、その強大すぎる「力」を抑えることが先決である。そこでまず、ネオコンの主張に耳を傾け、そこから何らかの手がかりを探り出してみたい。

2 ネオコンの論理

ネオコンとは、ネオコンサバティヴ(新保守主義)の略で、チェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官など、ブッシュ政権の主要メンバーを発起人とする「アメリカ新世紀プロジェクト」(PNAC)というシンクタンクが掲げる強硬路線をとる一派をいう。このネオコンの思想的支柱であるロバート・ケーガンの書いた『ネオコンの論理』は世界的なベストセラーとなった。本書のもとになったのはポリシー・レビュー誌2002年6、7月号に掲載された論文「力と弱さ」である。ここでいう「力」とは、アメリカの軍事力、ひいてはアメリカ自身を指しており、他方「弱さ」は直接的にはヨーロッパを指している。しかし、本書の日本語版において解説者が指摘しているように(3)、「弱さ」が象徴しているのはヨーロッパにとどまらず日本とも置き換えられるし、またアメリカ以外の国すべてとも読めるのである。ケーガンはいう。「アメリカは弱い国だったとき、間接的な方法で目標を達成する戦略、弱者の戦略を採用していた。いまではアメリカは強国になり、強国の流儀で行動している。ヨーロッパの大国は強力だったとき、政治力と軍事力の栄光を信じていた。いまでは、ヨーロッパは弱いものの立場から世界をみている。」(4)すなわち、ネオコンによると民族紛争への軍事的仲介をはじめ、アメリカのすべての軍事行動は「力」のある者ゆえの当然の行動であり、戦略なのである。そして、それを非難する国家に対しては、負け犬の遠吠えとでもいわんばかりに、「力」がないからだと嘲る。

なぜこのような発想になるのか。その底流には、国際社会に対する一つの政治哲学的な見方がある。この点についてケーガンは、『ネオコンの論理』の冒頭で次のように解説している。「ヨーロッパは軍事力への関心を失った。少し違った表現を使うなら、力の世界を越えて、法律と規則、国際交渉と国際協力という独自の世界へと移行している。歴史の終わりの後に訪れる平和と繁栄の楽園、18世紀の哲学者、イマヌエル・カントが『永遠の平和のために』に描いた理想の実現に向かっているのだ。これに対してアメリカは、歴史が終わらない世界で苦闘しており、17世紀の哲学者、トマス・ホッブズが『リバイアサン』で論じた万人に対する万人の戦いの世界、国際法や国際規則があてにならず、安全を保障し、自由な秩序を守り拡大するにはいまだに軍事力の維持と行使が不可欠な世界で、力を行使している。」(5)つまり、ヨーロッパは悪い敵のいない楽園でカント的な平和の園を築ける環境にあるが、アメリカは欲望渦巻く現実のホッブズ的世界で必死になって悪と戦っているというのだ(6)。しかも、ヨーロッパの楽園は、ほかでもないこのアメリカの苦闘のおかげで成り立っているという(7)。

国際社会の現実という点では、アメリカが苦闘しているという「歴史の終わらない世界」の方が正しいであろう。おそらくこれは、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を意識した表現だと思われるが、ケーガンのいうとおり歴史は終わっていない。たしかに、冷戦後、自由と民主主義は勝利をおさめた。しかし、それは永遠の勝利ではなかったのである。民族紛争やそれに関係するテロリズムという新たな脅威が、いまなお厳然と立ちはだかっているからである(8)。したがって、ヨーロッパの楽園がアメリカによってもたらされているというのは事実であろう。いや、ヨーロッパだけではない。日本をはじめその他の多くの国々にとってもそうである。ただ、そうであるとしても、我々はこの現状に安堵し、世界の平和と秩序をアメリカに任せきりにしておくわけにはいかない。あくまでもアメリカは一国家にすぎない。国家は自国の利害を第一義として行動するものである。実際2003年3月、他国の反対を押し切り、アメリカは国連安全保障理事会の頭越しにイラク攻撃を開始してしまった。したがって、我々はまずこのアメリカの暴走を抑え、多国間、いや世界中のすべての人間の手で世界の平和と秩序を守る仕組みを考えなければならないのである。

いかにすればこの超大国を世界の枠組みのなかに引き込むことができるのか。ヒントは皮肉にも『ネオコンの論理』のなかにあった。ケーガンは、「現在の問題は(問題だとすればだが)、アメリカが『一国でやっていける』ことに」(9)あるとしたうえで、「安全保障理事会はフランスなどの軍事力が弱い国が少なくとも理論的に、アメリカの行動を管理できる場になっている。ただし、安全保障理事会で問題を議論し、その決定に従うよう、アメリカを説得できればという条件がつく。」(10)と告白している。そしてそれに続けて、ヨーロッパは「微妙で間接的な方法の極致ともいえる道を選び、良心に訴えてアメリカという怪物を管理したいと望んでいるのだ。この方法は健全な戦略だ。アメリカはたしかに、良心をもった怪物である。」(11)とまでいっている。これは非常に重要な点である。そこで、こうした手がかりをもとに、以下ではヘーゲルの市民社会論を応用することで、アメリカの単独行動主義を抑えて国連の「力」を発揮できる仕組みを考えてみたい。

3 ホッブズ、カントからヘーゲルへ

しかし、なぜヘーゲルの市民社会論なのか。国際社会のあり方を政治哲学から理論づける際、まさに前述のケーガンのように、ホッブズの主権者論かカントの永久平和論かという二者択一の議論がされることが多い(12)。ケーガンのいうとおり、前者は現実主義、性悪説にたった考え方であり、アメリカはまさに「主権者」としてこれを実践しようとしている。後者は理想主義、性善説にたった考え方であり、ヨーロッパが目指そうとしている。たしかに、国際社会の現状に鑑みるならば、現実認識に関する限りホッブズが正しいということになろう。しかし、我々はアメリカの「国民」ではない(13)。目指すべき理想としては誰の目から見てもカントの方がいいに決まっているのである。ただ問題は、現実から目をそむけた理想は幻想に帰するということである。カントがいうように、各国家が道徳的義務に基づいて、それのみで永久平和を構築しましょうなどといった試みが実現したことはいまだかつて一度もないし、今後も望めそうにない。国家が、あるいはそれを構成する国民一人ひとりが、道徳という基準を第一義として行動するものであるという前提がそもそも破綻しているのである(14)。永久平和を望むならこの点の発想の転換が必要である。

そこで注目したいのが、国家の枠組みを越えて、地球に共生する一市民として日常生活の平和を望むという考え方である。国連の報告のなかに登場した「人間の安全保障」(15)や、グローバル・ガバナンス委員会の提案する「地球公共財管理理事会」及び「地球市民フォーラム」といった地球市民社会的な発想はまさにその現れであろう(16)。また、市民の側からも、NPOやNGOといったかたちで国際的な問題に参画し始めている。このように、国際関係を国家間の関係としてだけでなく、市民社会としてとらえようとする動きが台頭してきているのが現実である。とするならば、政治哲学として国際関係の枠組みを議論する際にも、主権者論のホッブズや道徳論のカントではなく、市民社会の原理について歴史上もっとも充実した理論を提示し得たヘーゲル(17)を参照する必要が生じてきているのではなかろうか(18)。従来は、国際関係を国と国との関係として考えることを所与のものとしてきたために、ヘーゲルの市民社会論が国際関係で引用されることはありえなかった。これは致し方ないことであろう。しかし、交通技術の高度化、情報化の進展などのおかげで、各国の国民どうしが一人の市民として交流できるようになったのである。その結果、地球自体が単なる国家の集まりではなく、一つの市民社会としてとらえられる時代が到来した。かかる状況においては、市民社会の原理なくして、もはや国際平和などありえないともいえるのではなかろうか。

もっとも、ヘーゲルの市民社会論が高い評価を受けながらも、これまで国際政治理論として参照されなかった理由はほかにもある。すなわち、ヘーゲル自身が、国際関係を論じるにあたり、市民社会の論理をこれに適用していないからである。そればかりか、逆にカントの永久平和論を俎上にのぼし、国家間の平和に懐疑の目を向けるのである。ヘーゲルはいう。「たとえ一群の国家が一つの家族に作りあげられるとしても、この結合体は個体性としては、おのれにとって対立物を作り出し、敵を産み出すにちがいない。」(19)こうしたヘーゲルの認識は当時の国際社会の現状に鑑みればうなずけなくもない。ヨーロッパが境界線をめぐって覇権を競い合っていた時代である。哲学者は夢想家でも予想家でもない。ヘーゲル自身、「ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる。」(20)と語っているように、哲学者は、あくまでもことがらの真理を的確に捉え、その事実を人々の前に淡々とつきつけるだけである。ヘーゲルは、厳しいまでに現実を見据えていた哲学者であったからこそ、当時の国際社会の現状においては国家間の平和などありえないと喝破したのである。しかし、だからといって国際社会の枠組みを考えるうえで、ヘーゲルの哲学を全否定する必要は全くない。そもそもヘーゲルの市民社会論は、それだけで一つの共同体が成り立つためのメカニズムを提示し得た点に卓越性が認められるのである。とするならば、いまや市民社会となった、世界政府なき地球を統治していくうえで、この理論が大いに役立つことは自明である。これを使わない手はない。ヘーゲルの限界、時代の限界は、我々が超えればよいのだ。すなわち、彼の哲学からそのエッセンスを抽出し、現代的な問題状況にこれをあてはめ、今に生きる理論として活用することこそが後世の我々に課せられた使命なのである。そこで、以下においてヘーゲルの市民社会論からそのエッセンスを抽出し、現代国際社会が抱える問題への適用を試みたい。

4 よみがえるヘーゲル市民社会論

ここで私がヘーゲル市民社会論のエッセンスであると考えるのは、(a)市民社会を「全面的依存性の体系」として位置づけたこと、(b)市民社会を貫徹するエートスは「誠実さ(Rechtschaffenheit)」であるとしたこと、(c)「自治的集団(Kreise)」(21)を重視したことの三点である。

以下では、この各々についてその内容を説明しつつ、これがどのように新しい国際社会の枠組みづくりに応用できるのかを検討していく。まず、(a)の全面的依存性の体系とは、市民社会の本質を表現するものであるといえる。ヘーゲルによると、そもそも市民社会とは諸個人の利己的目的が渦巻く場であり、その意味で「欲求の体系」であるという。そのうえで、全面的依存性の体系の必然性を訴える。「利己目的は、おのれを実現するにあたってこのように普遍性によって制約されているために、全面的依存性の体系を設立する。この依存性は、個々人の生計と福祉と法的現存在が、万人の生計と福祉と権利のなかに編み込まれ、これらを基礎とし、この繋がりにおいてのみ現実的であり保障されている、というほどに全面的な依存性である。」(22)すなわち、諸個人の欲求も普遍性としての他者の行為との媒介なしには実現し得ないとして、市民社会においては互いに依存しあうことによってのみ自己の欲求が満たされるという論理である。ここにおいて初めて、諸個人は平等対等な関係を獲得する。こうした論理の背後には、やはりホッブズのいう万人の万人に対する闘争状態が想定されている(23)。しかし、問題の解決方法は異なる。ヘーゲルは、だから主権を誰かに預けようというのではなくて、だからこそ市民が自主的に自らを律しあうような体系を構想するべきだと考えたのである。

この全面的依存性の体系こそが、アメリカの単独行動主義を抑制し、新しい国際社会秩序の構築に応用できるのである。前述したケーガンの言葉を思い出していただきたい。彼は、アメリカも必要に迫られれば国際協調の枠組みに入らざるを得ない場合があることをほのめかしている。そして、そのためにはアメリカの説得という条件をクリアーしなければならないというのである。現実に照らしてみると、イラク戦争の後の復興については、アメリカは攻撃時とはうって変わりかなりてこずった。他国に手を借りたいのはやまやまであったと思われる。こうした部分を事前に交渉のカードとしてもっと有効に使うことができれば、ケーガンのいう条件をクリアーする兆しが見えてくるのではなかろうか。つまり、アメリカは一国でやれるというが、決してそうではないのだということを認識させればよいのである。壊すことは誰にでもできる。世界が永遠の広さをもっていた時代には、「後は野となれゲリラにでもなれ」でよかったのかもしれない。しかし、我々はいまや狭い地球、いわば同じ市民社会に住んでいるのである。後はゲリラにでもなってくれというのでは、即テロという名のしっぺ返しをくらうことになるであろう。したがって、21世紀のこの市民社会の時代に、全面的依存性の体系という思考なしにことをうまく運ぼうというのは不可能であるという認識を、全世界の人々が共有することこそが大事である。いまや欲求の充足は、他者に依存することによってはじめて可能となるのである。そして、かかる認識の共有こそが、アメリカを含めた全世界の国々による新しい国際協調の枠組みを構築するための主要原理となりうるのである。

次に、(b)市民社会を貫徹するエートスは「誠実さ(Rechtschaffenheit)」であるという点について説明する。ヘーゲルは、家族、市民社会、国家という共同体の各々の形態ごとに、そこを貫徹する人間の精神的な心構え、いわばエートスのようなものを想定している。彼はそれを「心構え(Gesinnung)」と表現している(24)。そして、市民社会を貫くエートスは誠実さであるという(25)。つまり、市民社会において、人々は誠実さをもって働く。そして欲求を追求するにしても、ルール無視の騙しあいでは決してなく、誠実さを旨に人と関係する。まさにこれは、相互依存という関係性を維持するための、換言するならば、市民社会で生きていくための不文律なのである。ここでもケーガンの言葉を思い出していただきたい。彼は、良心に訴えることこそが健全な戦略であるといっている。ここでいう「良心」とは、「誠実さ」とも置き換えられよう。とするならば、この誠実さを共通項にして、これに訴えることで我々はひとつになれるのではないか。市民社会に生きる人間は、たとえそれが潜在的であるにせよ、誰もがこのエートスを抱いているのである。問題は、そのことに気づかなくなるときがあるということである。それは目先の利益によるためか、あるいはメディアの影響によるものか、理由はさまざまであろう。しかし、懸命に呼びかけることで、忘れていた良心は目を覚ますはずである。

このことは、相手がアメリカでも全く同じである。全世界が良心的呼びかけを行うべきである。ケーガンがいうように個々のアメリカ人はたしかに良心的である。反戦デモもすれば政権非難もする。アメリカも民主主義国家なのだから、いくら「怪物」であっても個々の国民の良心に訴えかけることは意味のあることである。『ネオコンの論理』は、アメリカとヨーロッパでは「人類についての理念はほぼ変わらない。わずかな点であっても共通の認識があれば大いに役立つと信じても、おそらく甘すぎることにはならないだろう。」という言葉でしめくくられている(26)。ここでいう「人類についての理念」、「共通の認識」の存在に我々は目を向けなければならない。こうしたことから、国家の首脳による声明の発表、民衆による抗議デモ、これらすべてが実はヘーゲルの市民社会原理から意義あるものとして理論づけられるのである。新しい国際協調の枠組みにおける確固たる方法論として、我々はもっと良心的呼びかけを重視しなければならない。

最後に、(c)「自治的集団(Kreise)」の重視についてであるが、これはヘーゲルの市民社会論において従来あまり取り上げられてこなかった部分である。自治的集団とはいわゆる中間団体のことであり、ヘーゲルによると商工業団体などの職業団体のほか、地方自治体や身分団体といった諸団体すべてが含まれる(27)。ヘーゲルは、この自治的集団の代表例である職業団体の意義についてこう主張する。「倫理的人間には、私目的のほかに、普遍的活動を授けてやることがぜひとも必要である。この普遍的なものを、現代国家は倫理的人間に必ずしも与えてはやらないので、彼はそれを職業団体のうちに見いだすのである。」(28)すなわち、ヘーゲルによると、自治的集団における活動を通じて諸個人は公的なことがらに直接、しかも主体性をもって従事できるようになり、その結果国家の人的及び物的有限性が克服されるというのである。あるいは一部の人間による専制を防止することにもつながってこよう。ここで重要なのは、主体性をもってという点である。市民社会は自治が基本であり、そこが国家と異なる点である。したがって、主体性という契機が可及的に重視される。得てして国家は不都合なものである。規模が大きすぎて機動性に欠けていたり、国益という利害が絡み身動きがとれなかったり、財政面やマンパワーにおいて有限であるといった問題を抱えている。これに対し、市民社会における自治的集団は小回りがきき、中立な立場もとれる。さらに、主体性を旨とするのだから、当然有限性の問題に突き当たる心配がない。そして、この主体性という契機は、心構えの面からも重要になってくる。なぜなら、自らかかわっていくということは、他人ごとではなく、あくまでも自分たちの問題としてとらえようとする態度につながっていくからである。そこには責任感も生まれるであろう。こうした理屈はもちろん個人の活動にもあてはまりうるが、個人の力は限られている。何より、ここで大事なのは自治的集団において活動することが公共精神を目覚めさせるきっかけになるという点である。

このように非常に重要な意義を有する自治的集団であるが、では、これがどのように新しい国際協調の枠組みに関係してくるのか。この点については、やはり昨今のNPO、NGOの活動を見逃すわけにはいかないであろう。彼らは、国家の枠組みを越えて、地球という市民社会のなかで主体的に活動を行っている。こうした集団をまさに主要なアクターとして積極的に活用していくことこそが、国家の枠組みを中心とした、行き詰まる国際社会の運営に風穴を開けることになるのである。

以上のように、ヘーゲルの市民社会論は、地球規模で市民社会が展開する時代において、新しい国際協調の枠組みを構築するにあたり、非常に有益な原理を提示してくれるものであることが明確になったと思われる。そこで、最後にヘーゲル市民社会論から帰結するいくつかの点をまとめ、そこから導かれる国連の役割について、一つの提言をするかたちでしめくくりたい。

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