暁烏敏賞 平成16年第1部門本文「地球時代によみがえるヘーゲルの市民社会論『ネオコンの論理』を超えて」2

ページ番号1002566  更新日 2022年2月15日

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第20回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

5 結び 問われる国連の役割

まず、ヘーゲル市民社会論からの帰結についてであるが、前述したように、市民社会の本質は「全面的依存性の体系」であり、それは市民社会が地球規模であっても同じである。したがって、地球上のすべての国が、ひいては全市民が、互いに依存しあってはじめて、自らの欲求を満たすことができるのだという認識を共有しなければならない。かかる認識の共有があれば、意思決定は自ずと市民全員でということになるはずである。もちろん「力」の編成、発動も、全市民による全市民のためのものということになる。それでもそこからはみ出す者に対しては、徹底的に「誠実さ」に基づく良心的呼びかけを行うのである。さらに、市民社会を構成するのは全市民であるという事実を再認識し、市民が主役として主体的に国際社会の運営に参画できるシステムを整えなければならない。そうであるならば、個々の市民が意思決定するのが一番というようにも考えられるが、現段階においては技術的に困難であるし、また、たとえ技術的問題が克服されたとしても、議論を十分陶冶する場なくして個人が一票を投じるシステムは危険である(29)。そこで、現実問題としては「自治的集団」の活用ということになる。NGOなどの自治的集団を市民の代表とみなし、地球という市民社会における意思決定をできるだけ多元化することが必要である。ホッブズは市民社会の上にスーパーパワーとして主権者を想定した。しかし、誰もが望む中立公平な主権者は、国際社会には存在しない。カントは国際連盟のかなたに世界政府を思い描いた(30)。しかし、世界政府が人間の自由を奪う独裁体制になりかねないという「カントの難問」(31)にぶちあたってしまった。これに対して、ヘーゲルの市民社会論においては、その上にスーパーパワーなど存在しないような場合でも、それのみで自治を可能とする原理が含まれている。したがって、主権者の問題も「カントの難問」も克服できるのである。

しかし、国際政治は理念だけで存在するものではない。我々は常に現実を直視しなければならない。つまり、地球は完全な市民社会ではなく、国家対国家という枠組みが厳として存在しているのである。そしておそらく、この枠組みは、民族の分裂やEUなどの政策的な統合によってその境界を変えることはあっても、消滅することはないであろう。したがって、やはり国家という枠組みを所与のものとして、可能な限り市民社会原理を生かす方策を模索していかなければならない。その意味で、国連というすでに膨大な試行錯誤の歴史をもつ人類の資産を中心に、この問題に取り組んでいくことには意義があると考える。そこで、上記のヘーゲル市民社会論から導かれる結論を、国連の役割にあてはめて検討する必要がある。すなわち、国連は事実上封印された「力」を「全面的依存性の体系」のもとで発揮できるよう、国連軍編成の意思決定を総会に委ねるべきであると考える。なぜなら、前述したように市民社会の原理においては、全面的依存性という部分が不可欠の要素であるため、安全保障理事会のメンバーを多少増やす程度ではこの条件を満たすことができないのである。どの国を入れるにしても、やはり意思決定に参加できない国の不満は残るであろう。ましてや、ことは軍事という自国の運命をも左右しかねない最重要課題である。したがって、全員で決めるというのが最善の「解」ということになる。その際、市民社会のメンバー全員という視点からは、地球規模の市民社会の主要なアクターとして日夜活動を続ける、NGOなどの「自治的集団」を正式に投票権あるメンバーとして加えることが必要である。もはや世界を動かしているのは国家だけではないのだから。

そして、こうした大きな改革の実現を望むすべての国家、市民は、アメリカをはじめ既得権を有する国々に対し、「誠実さ」に基づく良心的呼びかけを懸命に行わなければならない。国連は単なる国家の寄せ集めであるといった類の揶揄を乗り越え、「説得力ある」ネオコンの論理を超えて立ち上がるときがきたのである。カオスと化した民族の紛争が、再び大きな戦争の引き金になるようなことのないように、いま地球規模での市民社会の「力」が求められている。その一助として、ヘーゲルの市民社会論が新たな光を放ちつつ、時空を越えてよみがえるときがやってきたのである。

  • (1) J.S.ミル『代議制統治論』水田洋訳、岩波書店、1997年、374頁。
  • (2) 松本博一『国際関係の思想と現実』、高文堂出版社、1995年、134頁。
  • (3) ロバート・ケーガン『ネオコンの論理』山岡洋一訳、光文社、2003年、154頁。
  • (4) 同書、16頁。
  • (5) 同書、7頁。
  • (6) なお、ケーガンも明言しているように、ネオコンがホッブズ的な世界認識を有していることは確かだが、このほか彼らの「先制攻撃戦略」などの背景には、古典的政治哲学で知られるレオ・シュトラウスの思想的影響があると指摘されている(たとえば、田原牧『ネオコンとは何か』、世界書院、2003年、14頁、佐伯啓思『人間は進歩してきたのか』、PHP研究所、2003年、33頁など)。
  • (7) ケーガン、『ネオコンの論理』、73頁以下。
  • (8) 佐伯、『人間は進歩してきたのか』、23頁参照。
  • (9) ケーガン、『ネオコンの論理』、54頁。
  • (10) 同書、55頁。
  • (11) 同書、56頁。
  • (12) たしかに、国際関係論などの専門分野における学問的類型化としては、これに加えて、たとえば国家間の協調による世界秩序の形成に期待するグロティウス的視座や、資本主義・世界経済システムの矛盾に注目するマルクス的視座なども提示されている。(この点については、初瀬龍平『国際政治学』、同文館、1993年、5頁以下を参照した。)しかし、国際関係を類型化する視点はさまざまであり、まさにケーガンのような、ホッブズかカントかという二項対立的な議論の立て方も、学問の領域を越えて普遍的にコンセンサスを得ているものと考える。よって、本稿では、ケーガンの主張に対して反論するという趣旨からも、かかる二項対立的な問題の立て方にのっとって論を展開している。
  • (13) ホッブズは、多数の人々が一個の人格に結合統一されたとき、それをコモンウェルスというとしたうえで、次のように述べる。「この人格を担う者が《主権者》と呼ばれ、『主権』を持つといわれる。そして彼以外のすべての者は、彼の《国民》である。」(ホッブズ「リヴァイアサン」、永井道雄編『世界の名著23ホッブズ』所収、中央公論社、1971年、197頁)すなわち、アメリカが主権者であるとすれば、その他の国々はそれに服する国民ととらえられてしまう危険性があるのである。
  • (14) 小牧治氏は、著書『カント』(志水書院、1967年)のなかで、カントにとって国家は「自主的道徳的存在者」であったとしたうえで、永久平和論の倫理的基礎について次のように解説している。「なすべきであるがゆえに、なすことができるはずである。われわれは、一歩一歩、永久の平和に向かって、無限の努力をしなくてはならない。永遠平和へのこの努力は、カントにとって、人類の福祉とか、世の功利のためとか、あるいは博愛主義に基づくといったものではなく、実践理性に基づく人間の無条件的な義務そのものであったのである。」(204頁)
  • (15) 勝俣誠編著『グローバル化と人間の安全保障』(日本経済評論社、2001年)によると、「この用語が国際社会で明確に登場したのは、冷戦終焉直後の94年であり、国連開発計画(UNDP)によって毎年刊行される人間開発報告において」(8頁)であるという。また、同書では、人間の安全保障の実現の担い手として市民社会をとらえ、論を展開している(10頁以下参照)。
  • (16) 吉田康彦『国連改革』、集英社、2003年、82、172頁。
  • (17) この点については、ヘーゲル『法の哲学2』藤野渉・赤沢正敏訳(中央公論新社、2001年)90頁の訳注において、こう述べられている。「ヘーゲルの功績は政治的国家と市民社会を区別したことであり、この区別はマルクスをも含めて(しかしマルクスの場合は市民社会のほうが基礎)今日まで踏襲されている。国家論に対する評価が毀誉褒貶常ならぬのに対して、市民社会論は『法の哲学』の白眉といわれ、変わることのない称賛が捧げられてきた。」
    なお、ヘーゲル『法の哲学1』及び『法の哲学2』からの引用に際しては、原典であるG.W.F.Hegel,Grundlinien der Philosophie des Rechts oder
    Naturrecht und Staatswissenschaft im Grundrisse,Werke[in 20 Banden],Bd.7.,Suhrkamp Verlag Frankfurt am Main 1970.を参照し、訳文を一部変更した。
  • (18) なお、注(12)で言及したグロティウス的視座は、相互依存的な国際協調を志向するものではあるが、あくまで国家を主要なアクターとしてとらえ、国家間の協調による世界秩序の形成にこだわっているように思われる。この点で、本稿で展開するヘーゲル市民社会論による視座とは基本的に異なる(初瀬、『国際政治学』、9頁以下参照)。
  • (19) ヘーゲル、『法の哲学2』、407頁。
  • (20) ヘーゲル『法の哲学1』藤野渉・赤沢正敏訳、中央公論新社、2001年、30頁。
  • (21) 自治的集団の原語であるKreiseについては、藤井哲郎氏が「ヘーゲル『法の哲学』における国家・団体・市民」(東京経済大学会誌201、1997年)のなかで、以下のように解説している。「『要綱』のKreiseを仲間集団と訳しているのは、藤野・赤沢訳だけである。たとえば高峯訳では、サークルあるいは諸圏としてSphareとほぼ同義に訳している。しかし、本文でとりあげた箇所とりわけ303節においては、職業団体のみならず地域集団をも含めた諸団体が倫理的共同体と規定され、Kreiseと国家との深い関係が明示されており、仲間集団という独自の範疇をヘーゲルが構想していると解するのが妥当と思われる。」たしかに仲間集団という語は、中間団体等のあたかも単なる媒介物にすぎないかのような感のある表現とは異なって、ヘーゲルの意図をより汲んでいるものであると思われる。しかし、この諸集団のなかには地方自治体レベルの規模の相当大きいものも含まれているのであり、私的な小集団を想起させるような訳語ではその本質について誤解を与えるおそれがある。そこで本稿では、政治権力としての国家に対して、独立して自らを律するKreiseの自治集団としての本質そのものに着目し、これを「自治的集団」と表現している。
  • (22) ヘーゲル、『法の哲学2』、91頁。
  • (23) ヘーゲルはホッブズを引用しているわけではないが、『法の哲学2』338頁において、「市民社会は、万人に対する万人の個人的利益の闘争場である」と明確に論じている。
  • (24) 福吉勝男氏は、著書『ヘーゲルに還る』(中央公論新社、1999年)のなかで、この「心構え(Gesinnung)」について以下のように説明している。「人々の行動または思考に方向と目標を与え、人々の内面から一定の方向に推し動かす起動力という意味をもつ言葉で、M・ウェーバーの『エートス』に近いものであろう。従来は心がけ、心構え、心情、心術などと訳されていた。」(118頁)
  • (25) ヘーゲル、『法の哲学2』、132、208、210頁など。
  • (26) ケーガン、『ネオコンの論理』、139頁。
  • (27) ヘーゲル、『法の哲学2』、336頁参照。
  • (28) 同書、212頁。
  • (29) ヘーゲルが自治的集団を重視する理由のうちの一つが、この多数の諸個人に対する悲観的な、しかし冷静な見方なのである。この点につきヘーゲルは、多数の諸個人による「政治生活の土台はただ、恣意と私見との抽象的個別性、したがって偶然的なものにすぎず、即自的かつ対自的に堅固で正当な基礎ではないであろう」(ヘーゲル、『法の哲学2』、368頁)と論じている。
  • (30) この点につき、カントは次のように述べている。「一つの世界共和国という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する連合という消極的な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである。」(カント『永遠平和のために』宇都宮芳明訳、岩波書店、1985年、45頁)
  • (31) ケーガンは、これを「カントの難問」と呼び、ヨーロッパにおいてこの問題を解決してくれているものこそがアメリカの軍事力であるとする(ケーガン、『ネオコンの論理』、78頁)。しかし、まさにそのアメリカが独裁体制をつくりかねないという問題が依然として残るのである。

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