暁烏敏賞 平成7年第1部門本文「「理性」の<深み>へ 合理・王義と教養教育」2

ページ番号1002615  更新日 2022年2月15日

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第11回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

3.「明示的」理性の批判

それでは、明示化されたルールと、それにしたがった批判的思考こそが理性の根拠、ありかであると言い切ってよいのか。

これについては、すでにいく人かの哲学者が批判を加えている。たとえば、M・ポラソニーは、批判的合理的思考の包括性を主張し、「懐疑のテストを通過しない議論は金輪際受け入れない」という「懐疑の教養」を批判する。もし、非批判的に信念を抱くことが受け入れがたいとするならば、言語そのものすら教えてはならないことになろう。なぜなら「言語は、ただ非批判的にのみ学ばれる」のだから。そもそも、言語を含め、すべてスキルを学ぶということは、単に言語的に定式化され明示化されたルール、指示書きに従うということではありえない。

「師匠を見、その例示を前にして、その努力を模倣することによって、弟子は無意識に技芸の規則を−師匠自身にも明らかには知られていないものをふくめて−探り出すのだ。こうした隠れた規則は、ただ非批判的に、他の人の模倣に自らを投げ出す人にのみ同化できるのだ」(25)。

人間のスキルは、その大部分が言語によっては明示できない。たとえば、自転車の乗り方のような日常的な例をみればわかるように、「私は、私の知っているものが何かを明晰には、あるいはほとんどまったく、述べることができないにもかかわらず、私はこれらの事柄を知っている」(26)

我々は自分の語ることばが、いかなる文法規則に支配されているかを「詳記」できなくとも、あることばを操ることができる。つまりは、その言葉を知っているのだ。文法の知識は、あることばを話すという意味で、ことばを知ることの、一つの手引きにはなりえても、我々の会話能力に代わることはできない。ある技能をもって知ることは超言語的な領域に属し、したがって何かについて知っているということと、それについて語りうるということは、はっきりと区別されなければならない。

批判的思考や批判的論証を理性の根拠として推奨し、前述したようなさまざまな規則にしたがって思考を統制するよう求める立場−「批判的思考」こそ教育の目的なりとするような−についても同じことが言えよう。批判的論証とは、言語によってうまく論じ、推論するという意味でひとつのスキルに属するだろう。批判的論証に参加し、論証・推論の妥.当性を鑑識しうるためには、まずは論証に身を委ねなければなるまい。 批判的推論のスキルを、それじたい論証によって説明し、その優位性を説くことはできないのである。

なぜなら、批判的論証に服するためには、すでにあらかじめ論証を受け入れる用意ができていなければならないからだ。我々は、理性の要求に服しうるためにはすでになんらかの形で理性的でなければならず、言語的に明示化された規則に統制されるに先立って、もうすでに理性的な存在として形成されていなければならないのである。我々が論理的でありうるのは、論理学の規則に関する知識に導かれるからではない。我々が論理学の知識にも従いうるのは、それら明示化された論理法則についての命題知に先立って、我々が、すでに論理的であることを非明示的なし方で学びとっているからである。M・オークショットはこのことを次のように述べている。

「何かをするということは、その仕方を知ることに依存し、またその仕方を知ることを指すのである。そして、どうやるかを知ることのほんの一部だけが、引き続いて命題の形式に還元されるに過ぎず、それらの命題は、決してその活動の源泉でもなければ、直接的な意味でその活動を規制するものでもない(27)。

オークショットは人間の知識をテクニカルな知識と、プラクティカルな知識に分けた。テクニカルな知識とは、規則、原理、方針、規範という形式、つまり包括的に言えば、明示的な「命題」の形式をとる知識(「命題知」)である。一方、プラクティカルな知識とは、そのような明示的な規則の形をとらず、物事を行う習慣的、伝統的な仕方という形で示される。プラクティカルな知識は、テクニカルな知識と異なって、伝授することはできても、教授することはできない。

「それを獲得する唯一の方法は師匠を見習うことである。それは、師匠が教えることができるからではなく、ただ、それを継続的に実践している人と、絶え間なく接触することによってのみ獲得できるからである。(28)」

F・A・ハイエクは、このようなプラクティカルな知識について、「局所的知識」という名を与えている。つまり、個々人の技能、記憶、動作、心理のうちに蓄積された知識である。(合)理性をもって、明示化されたルールによって厳格に統制された思考、推論と見なす観念は、ハイエクが批判する「構成主義的合理主義」と同じ方向にあるものだと言えよう。社会理論における構成主義的合理主義とは、およそ合理的な制度とはすべて、意識的・意図的に構成されたものでなければならないとするものである。これは、社会制度へとふり向けられた「方法信仰」である。このような構成主義的合理主義は啓蒙時代にその源をもち、科学主義とは一体のものとして発展した。これは、フランス革命を導いた急進思想から、現代の社会主義・共産主義へと受け継がれたのである。認識が明示化されたルールによって厳格に統制されるとき、初めて理性的でありうると考えられたように、全く同様に社会もまた、明示化されたルールによって厳格に統制され、導かれるとき初めて理性的な秩序が可能になるというわけである。これが直ちに中央政府や単一政党による指令・独裁を正当化することはいうまでもない。

明示化されたルールに厳格に統制された思考をもって理性のありかとみなす考え方は、それらのルールが言語的に定式化されたものでなければならない以上、つねに現実の思考や行為の過程に対しては「外在」的なもの(行為に内在的なパターンではなく外挿されたパターン)にとどまらざるを得ない。我々の思考や行為の過程そのものに内在するスキルパは、決して完全には言語的に定式化しえず、「個人的な」(ポラソニー)、「プラクティカルな」(オークショット)、「局所的な」知識にとどまるからだ。ここでは、ある行為や思考を導く「理」(reason)は、その行為や思考の過程に内在し、行為や志向の「理」についての知識は、その行為をまさに「する」ということと全く一体である。そこでは、知識はガーダマーのいうように、直覚的かつ、時に応じて働くセンスと一体になったものとして初めて意味を持つ。

ところが、言語的に明示化されたルールによって統制された思考をもって理性とするならば、理性は常に我々の思考過程に対して、いつまでも「外」にあり、外からこれをコントロールするファクターとして位置づけられざるを得ない。ここでは、我々の精神、あるいは生は二分化され、あたかも我々自身の中に統制される思考と統制する思考の二つの住人がいるような形になることとなる。比喩的にいえば、一方に思考し、判断し推論し、批判する「私1」がいて、その上に、その「私1」の思考や推論や批判を、明示化されたルール、あるいは演算規則を片手に、監視し統制するもう一つの「私2」が一あたかも構成主義的な合理・王義に基づく社会理論において中央政府や単一政党が監視統制するように一いるというような形である。だが、これは全くの虚構であろう。

我々が批判的な思考、推論をするとき、それはつねに一つの働きとして進行する。ある論証、例えば他人の書いた論文を批判的に読むとき、我々はその論文を読み、考える過程の中で当の論文の論理性や整合性を同時に精査する。これは我々の思考という営みじたいに内在する暗黙のルールによって行われるのであって、いちいち、マニュアルブックを体現したもう一つの「私2」に相談をするわけではない。明示化されたルールは予め存在するのではなく、我々の成功した思考や推論をあとから再構成して、「後知恵」的に初めて取り出せるものなのだ。そしてそれは成功した推論や思考の不完全な見取図に過ぎない。

さらに、合理性を、言語による論証、推論の過程に基づかせるとしても、そこにはつねに同時に、ある感情の働き、変化が働いている。たとえば、真理への関心は、それなしでは科学的な論証の営みを理解できないものであろう。真理への関心は、「情動的に決して中立的ではない、一連の評価において明確化される。(30)」真理への強い関心は、科学の、合理的な推論の「外」にあるのではなく、したがって「外」から思考の過程に押しつけられるものではなく、学問的な問題意識を限定し形成するという意味で、決して単なる自己表出ではない。むしろ、学問の知的合理的営みを形成する不可欠の一部となるのである。

たとえば、学問において重要なことはくである〉と「断言」することである。断言という言表の仕方は、論証の過程の不可欠な要素である。

なぜ断言が必要なのか。それは、断言によってはじめて、ある事実の成起または存在のみが認められ、それ以外の事実は排除されるからだ。このことによって、その言明は「潜在的反証者(31)」をもっこととなり、反証可能な科学的合理的言明としての資格を得るのだ。何も断言しないということは、何が起こっても言い抜けが可能であるということであり、決して反証することはできないということである。ポパーが論じたように、決して反証できない言明は科学的言明とは言いえない。そして「断言」とは、それじたい[精神的な態度、心の持ちかたL、「覚悟」の問題であって、したがって「情動的に決して中立的でない。(32)」

こうして、理性の在りかを論理的批判的思考に求めたとしても、それは思考過程に対して外在的な、明示化されたマニュアル的規則に従うということではない。むしろ、感情を含めた人間の精神全体のありようにかかわってくるのである。論理的批判的思考とは、われわれの思考と感情の全体における傾向性、「習慣」だということもできよう。そしてそういう精神の「習慣」は、「習慣」であるがゆえに、さらに明示化されたルールに還元することはできない。言い換えると、科学や論理についての「命題知」はこういう習慣のかわりになることはできないのである。

むしろ、このような精神の習慣は、文化的な交流のあらゆる形式、たとえば科学、芸術、道徳、政治などにおいて示されている批判的で創造的な思考の伝統に参入することで初めて可能になる。

「批判的思考という精神の習慣は、実際には人々が想像的に、哲学、歴史、文学の中に入り込み、内側からそれらを味わうようになるときに発達してくる。つまり、そこで表現された問題について注意を払い、論証の説得力、説明の洗練、事柄の不可避性といったことを味わうことにならなければならない。しかし、これは内側からのみなしうるのであって、こういう導き入れなしでは、『批判的思考』も所詮は皮相な二番煎じおに陥ってしまう。(33)」

ピータースが批判するように「理性」とは、われわれにとって外在的な、明示化されたルールを、つねに参照するような機械的演算過程ではないのだ。理性とはむしろ、我々の思考も感情も含めて内在的に形成された秩序、つまりさまざまな文化の中に自己を投入し、またそれらの文化の伝統を体現する人の例示に、模倣を通じて身を委ねた結果形成されてくる「生きた教養」なのだと言い換えてもよいのではないか。

4.科学的合理主義と現代教育

道徳教育の充実はわが国教育の大きな課題とされているが、これに対して戦後一貫して科学的合理主義の立場からの批判が投げかけられてきた。そもそも、道徳教育とは、道徳的な態度の形成、つまり、道徳的な価値への個人の感情的なコミットメントを求めるものである。それに対し、近代公教育原理に立つ学校教育では、道徳的態度や心情に関わる教育は排除されるべきだというのである。

個人の内面に関わる道徳を強調することは、「道徳をもっぱらに個人の領域に属するものとして科学の領域から峻別し、ひいては科学を政治や宗教に従属させる傾向を助長する」ことで、「科学に裏づけられた合理的で、発展的な判断の成立を阻止することに」なると(34)。むしろ、「外に向かっての科学的判断を主体的な力、行動の基準にまで高める」ことが、「唯一」の道徳に関する「問題解決の道」だ。と(35)。このような思想傾向は、道徳的「心情」の育成に対して、公教育における「科学的」「批判的」「合理的」思考の優位を称揚するものだといえよう。公教育においては、人間の内面に関わる心情、感情の教育は越権行為であり、批判的、合理的、科学的認識と思考に関する学習過程のみを提供すべきだというのである。たとえば、ある論者は、天皇に対する「敬愛の念」を深めるよう求めた「学習指導要領」に対して次のように批判する。

「人間が自己の生き方を自ら導くのは、事物を正確に知り、それを資め料とするという形を取るのであり」(36)、「事実認識が感情の土台となっていをるのである」(37)。したがって、「何かを知ることなしに心情や態度を持つことはできず(38)」、また教育は、その「事実」を知ることを助けるだけであって、感情そのものの形成を目標としてはならないのだ(39)、と。

「人間は、自己の生き方を自ら選び導く権利があるがゆえに、事実を知る権利がある。感情というものはそれじたいを分析、検討する力を持っていないのだから、つまり、自己満足的なものなのだから、ある感情を持たせることを目標とした教育をうけるのは、事実をできるだけ広く正ぜ確に知る権利を奪われることになる」(40)、と。言い換えると、事実を知り、よく考える過程のみが、公教育の目標であり、そこから先は個人の内面に関わる「自由」に任されるべきだというのである。

このような方向を「個人と社会の生活を、理性の原理に適うよう規制むすることを目的とする(41)」という意味での(啓蒙主義以来の)「合理主義」の、教育における展開例と見なすことができよう。これはまた、「科学的探求者から日常の実際的活動を行う行為者を類推する」という観点に立つものである。つまり、「行為の主観的側面のうち認知的要素が強調され(42)」、「科学を中心としたインストラクション(43)」や「事実を広く正確に知ること」が強調されることになる。ここでは、「知ること」と個人の内面的・感情的コミットメントとは完全に分離されてしまう。しかし、そもそも「科学的」に事実を知るということそれじたいもまた、ある感情的コミットメントを要求するのである。

合理主義者たちが前提とする批判的思考者、探求者という人間モデルは、同時に推論や論証、批判、事実の発見に主体的な関与、コミットメントをしている存在である。「合理的に思考すること」への強いコミットメントがなければ、そもそも合理的に思考しようという意志は生まれない。ある事柄に粘り強く取り組み、批判的に思考推論し、考え抜くためには、そもそも思考し推論し考え抜くということじたいへの強い関心と意欲とがなければならないだろう。つまりは、「合理的な思考」、多くの事実に基づいて、形式的によく整序された思考推論過程にそって考え、行動するという「生活の様式(ウェイ・オブ・ライフ)」を取るということである。

推論や批判的論証を、ヴィトゲンシュタインがいう言語ゲームととらもえるならば、それは「一つの活動ないしは生活様式の一部である。(44)」何が正しく何が誤っているかは人間の一致によって決まる。そして「言語によって人間は一致するのだ。それは意見の一致ではなく、生活様式の一致なのである(45)」。ところが、ある生活様式を取ることについての「合理的な」reasonはそもそもありえない。なぜなら、まず「ある人のコミットメントが、何がreasonであるかを決定」するのであるから。事実がどうなっているのかという知識が生活様式へのコミットメントに対する「reasonを与えるのではない。むしろ「コミットメントが、何が事実として、ゆまた現実として勘案されるべきかを決定するのである。(46)」

たとえば、科学的合理性へのコミットメントによって、ある種の経験、情報のみが「現実」として、「事実」として選び取られてくるのである。

あらゆる知識は、ある生活の様式、言語ゲームを受入れ、そこにまず参入することによってはじめて可能になるのである。ヴィトゲンシュタインがいうように、「私は無数のことを学び、他人の権威にしたがってそれを受け入れた。しかるのちに、私自身の経験によってそれらの多くが確ゼ認され、またあるものは反証される」(47)。

カール・ポパーの科学論もまた、そもそも科学じたいが「決定(決断)」に依存することを主張し、合理性それじたいがコミットメントによって成り立つことを例証している。

科学の理論をテストするためには、テストの裏づけとなる経験的「基礎言明」が必要となる。それは、「『観察』によって、相互主観的にテスホト可能でなければならない。(48)」しかし、「そのテストに際して我々はある基礎言明または、我々が受け入れることを決定する他の言明で停止せざるを得ない(49)」。

すなわち、科学の経験的基礎は「決定または合意の結果として受け入れられる。そのかぎりで基礎言明は約束である。(50)」しかも決定は経験によって正当化することはできない。なぜ、ある経験的基礎言明が選ばれるべきか、それじたいを当の経験的基礎言明によって根拠づけることはできないのである。我々はどこかで停止せざるをえず、あるところで停止することに根底的な根拠づけはありえない。つまり、ここには、つねに「ドグマの性格」があるとポパーはいう(51)。

ポパーに従えば、科学は「その方法によって、すなわち科学的体系をお取り扱う我々のやり方、それらの処理の仕方によって特徴づけられる(52)」。

そして科学的方法は、「選択」され、「決定」されなければならず、「決定」はそれじたい「可能な多くの目的のうちから我々が選び取る目的によって左右される(53)」。科学者は、方法論的規則、科学というゲームのルールを「約束」と見なし、それを受容することを「決断」する。

ポパー的な科学理論によれば、その規則、最高のルールとは「科学におけるいかなる言明をも反証に逆らって弁護しないという」ことであり、「経験的方法を特徴づけるものは、テストされるべき体系を、考えうるあらゆる反証にさらす(54)」ことである。そして、そういう規則に反するような策略を避ける唯一の道は、ただ科学者自身が「決意する」ことであるとポパーはいう。そして、このような科学的方法についての約束は、「どんなものでも、その適切性について意見が異なりうる。そして、こういう問題についての合理的討論は、ある目的を共通にもっている当事者たちの間でのみ可能である。このような目的の選択は、いうまでもなく、決意の問題であって、A口理的な論証を超えたものである。(55)」。

かりに科学の方法が合理性についてひとつのモデルを与えるとしても、その方法の基礎は、それじたい合理的に論証し、基礎付けることができない。もしそれをやろうとすると、無限後退に陥るか、循環論法に陥るしかないのである。我々は決定し、態度を取り、反証に逆らって自説を弁護する策略を拒否しなければならない。つまりは、批判的方法にコミットしなければならない。これは、まさしく合理的論証をこえて、ある「生活の様式」を取るということである。

福田恒存は、E・S・エリオットを引きながら、文化についてこう書いている。

「文化とは、私たちの生き方であります。生活の様式であります。が、それはこれこれかういふものだと目の前に客体化しえぬものなのです。

目的として示しえぬもの、意識的に追求しえぬもの、合理的に説明しえぬものなのです。言わば、理屈抜き、問答無益の領域にのみ、それは成熟します。なぜ、そんな行動に出るのか、何のためにさういふやり方をするのか、問はれても当人には答えやうがない。……ただ昔からさうしてきたから、あるいはさうするやうに教えられてきたから、それだけのことでせう。それとも、さうしたいから、それが本音でありませう。さういふものが文化であり、教養であります。(56)」

「科学的合理性」もまた、「生活の様式」であり、なぜそのような様式が選ばれるべきなのかは、ただ「西欧的近代的科学の伝統においてはそうしてきたから、あるいはそうするように教えられてきたから」、また「ただそうすべきだから」というしかないのである。「科学的合理性」を選び、決意することにおいて、もはや理由(reason)は尽きる。そして、「理由の連鎖の終わるところには説得がくる」(57)。まず、コミットメントが起こり、また形成され共有され、しかるのち理由の連鎖が始まるのである。

コミットメントとは、「ある信念を前提とし、その信念によって含意された行為への献身をともなう」(58)。したがって、「科学的・合理的に思考し行為する」ためには、科学的合理性を成りたたせる方法的決定を受入れ、義務を引き受け、さらにその方法的決定に反する行為に対しては拒否する感情を持たなければなるまい。コミットメントがまずあって、しかるのち科学的合理的なreasonの連鎖が始まるのだから、科学的合理性へのコミットそのものはreasonによって論証し、教えることは不可能だということになる。つまりは、科学的合理性そのものは「問答無益」「理屈抜き」に身につけさせなければならないということになるのである。

科学的合理主義を推奨する人々は、道徳価値へのコミットメントは個人の内面に関わることだから教育の目的にはなりえないという。それでは、科学的合理性へのコミットメント、決定だけは教えうるし、また教えるべきだというのだろうか。科学的合理的な思考は、科学的合理的思考そのものへのコミットメントなくして成り立ちえず、そしてコミットメントは、ある行為への献身や義務の引受けではないか。行為への献身や、義務の引受けや、決定・決断はまさに個人の「内面」には関わらないのか。極言すれば、「科学的合理性」へのコミットメントは、それじたいの「超・合理性」によって、道徳や宗教における「改心」や「信仰」と原理的に同じ地位にあるのではないか、ということだ。理性の尽きるところに説得が始まるとしたら、コミットさせることは合理的な説明や論証ではなく説得的な働きかけによってのみ可能だということになる。

つまり、科学や科学的方法についての命題知を教示し、科学的事実をいくら提示しても、科学的合理性を形成することはできないということなのである。

道徳的価値や国家や神へのコミットメントは排除されながら、近代科学の教授だけは特権的な地位を与えられた。しかも、それは道徳や神や国家へのコミットメントの教育は人間の内面にかかわるが、科学の教育は「そうではない」という前提の下で成り立ちえた議論であった。こうして、「科学的」「合理的」であることは、いかなる意味でも「決意」や「信念」や「献身」や「義務」などという内面的価値とは関わらないかのような見せかけが取られざるを得ない。

科学に対する、個人の内面に関わる感情的なコミットメントの側面が隠されることで、科学的思考、合理的思考は個人にとってよそよそしく、「外在的」な、個人の生や人格と無縁な体系としてのみ現れた。また、科学もまた道徳や宗教や芸術同様、福田が書いた意味で「文化」の、「生活様式」の一つであることが見失われ、したがってより広い文化的交流の諸形態と切り離されてしまったのである。最近、生徒学生の科学離れ、技術ばなれが注目を引いているが、それは科学技術が広汎な生活、文化との生き生きとしたつながりをもって教育されていないからであろう。

また、科学の名の下で、実はかなりいかがわしいイデオロギーが大手を振ってまかり通ってきた。他方科学的合理性、近代性の名のもとにたとえば日本神話の例などを見ればわかるように多様な思考のタイプ、文化の諸様式は教育から排除されて行った。もしも科学の教育が現代社会に不可欠だというのなら、わが国は歴史的にみて神道と仏教と儒教の国だから、神仏儒の思想、教義、儀礼についての知識も、社会生活や文化理解のために不可欠だということができよう。それが、個人の内面に触れるというのなら、進化論も日本神話の取扱いも、個人の内面や信仰に触れるのであり、「科学的合理性」のみは文句なしに教えなければならないとするのも、それじたい個人の内面に触れることなのである。

つまり、現代の科学的合理主義は、(1)科学と、広汎な文化、生きた教養とのつながりの喪失、(2)科学の名のもとでの非合理なイデオロギーの正当化、(3)科学的という名のもとでの教育の文化的貧困化、をもたらした。ここにオウム真理教などカルトの蔓延する土壌があったというのは言い過ぎだろうか。

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