暁烏敏賞 平成9年第2部門本文「相談活動から見えてきたもの」1

ページ番号1002603  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第13回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

  • 論文題名 相談活動から見えてきたもの
  • 氏名 小泉 博
  • 年齢 63歳
  • 住所 神奈川県平塚市
  • 職業 相談員

はじめに

平成六年三月、私は中学校長を最後に三十八年間の教員生活を終わった。無責任極まりない言い方だが、「大過なく」のことばのごとくにである。しかし、思い返せば、大過に近い修羅場を何度かくぐり抜けて来た。

まず昭和五十年代後半、全国的に吹き荒れた校内暴力の嵐があった。

今まで見えていたはずの子どもたちの心が、日一日と見えなくなっていくと同時に、私たちの言葉が、彼らに伝わらなくなったのである。さらに彼らから、「不信」と言う言葉とともに「対教師暴力・施設破壊」という現実を突きつけられた。

狼狽と焦燥、そして教師としての無力感と敗北感。何度もこの現実から逃げ出したい衝動にかられた。しかし、僅か残っていた教師としてのプライドが、かろうじて逃避を思いとどまらせた。

次は当時の記録の一部である。「私は極めて臆病である。だから、荒んだ生徒と真正面から対峙して渡り合うことなど、とてもできそうにない。とすると、私にできることは、そういう生徒を作らない努力をすることだけである。つまり先回り指導の大切さをしっかりと認識することなのだ。そのための苦労なら、どんな大変なことでも、決して厭わない覚悟はできている。

しかし、個人の力には限界のあることを知っていなければならない。

まして、一人で叩き直すなどという発想は、何の役にも立たない思い上がりに過ぎないのである。だから、今、私たちにできることは、金太郎飴のごとくどこを切っても同じ顔が出てくるような、教師集団の同一歩調の結束が必要である」(拙著「だが、甘やかさないそ」白鯨社版昭和五十七年)

続いて、全国的に発生したいじめによる悲劇、とても他人ごととは思えない憂うべき現実である。いつものことながら、世の中の事後の論議はまさに百家争鳴。そして、そのどれもが犯人捜し論と「れば、たら」論に終始した。つまりは、結果に追従する形の後追い指導論に外ならなかった。

川上源太郎氏のことばを借りて自戒の糧にしたい。

「子どもの不出来や失敗の原因を探し始めたら、それはきっとどこまでも広がっていくでしょう。親ばかりではない、先生だって悪い、テレビだって悪い、文筆家だって悪い、政治だって悪い、社会だって悪いとどんどん広がって、最後には誰にも責任がない、ということになってしまいます。

だからこそ、私は言いたいのです。もし親子間の問題を、また子ども自身の問題を解決したいと真剣に願うなら、その理由や原因がどこにどれだけかかっていようと、まず自分だけの責任だと『覚悟』してほしいと。その覚悟がなければ、自分を正当化したり、他人の愚痴をこぼすだけで、問題は一向に解決しないからです」(川上源太郎著「いい人ごっこ」より)

1 病んでいる人々

退職した後、すぐに市青少年相談室嘱託相談員勤務を命じられた。

青少年相談室は、昭和三十九年市の設置条例に基づき市民部所属の補導センターとして発足した。その後、何回かの機構改革を経て、現在の相談室機構が定着したのである。

設立の趣旨に基づいて、一応は非行相談といじめ等の学校生活に関わる相談が、相談領域の中心に据えられている。しかし、子どもたちの複雑な生活実態を反映しているからだろうか、日々持ち込まれる相談内容は、実に広範囲にわたっている。そして、今悩んでいる者が存在している以上、相談領域に拘って相談受理についてためらっているわけにはいかない。

現在、総職員は十一名、三セクションから成り立っている。

  1. 相談部 電話相談と来室相談を受け持つ。
  2. ヤングテレホン部 子どもたちからの電話相談を主に受ける。
  3. 愛護指導部 委嘱補導員とともに市内巡回に当たる。

私の所属は、担当相談員三名から成る相談部である。(うち一名は警察から派遣されている相談員)

平成八年度、相談部で受理した相談は、四〇一件であった。(前年度は三四四件)ここ数年間、右肩上がりの増加傾向は、衰えを見せない。そして、このほぼ半数に当たる一七五件が、長期にわたる継続相談中のケースである。学識別では中学生・高校生が、二五九件で群を抜き、相談内容は学校生活、家族関係、非行関連が上位を占めている。

ちなみに、ヤングテレホン部では、五二八件(前年度一〇六一件)の相談を受理している。主訴は、友人関係、性の問題、男女交際がベスト3である。また愛護指導部では、一四八三人(前年度一二二六人)の子どもたちを街頭指導している。指導理由の大半は怠学と喫煙であった。

これらの相談に直接関わってみると、教員の時に感じていた以上に、病んでいる子どもたちの深刻な実態とその多様性とに、まず驚かされた。

「妊娠しちゃったらしい」と、臆面もなくことばにする女子高校生。「どうする?」と尋ねても「分からない」と答える彼女には、あまり困っている様子がない。「むかついたから先生を殴った」と話す中学生。でも、いわゆる不良少年と呼ばれる子どもではない。くわえ煙草で登下校している子どもたちを目にする。注意などしょうものなら、逆に、信じられないような罵声を浴びせてくるなどなど。病んでいる彼らのことを語り出したら、切りがない。

彼らは、引き起こしたさまざまな失敗に対して、一片の反省も悔悟も表さない。それどころか、傲然とにらみ返してくる彼らの姿に、りつ然とするばかりである。

また、これらの子どもたちの背後には、子育てへの無策と自信のなさに悩んでいる、病めるおとなたちの姿が、重なって見えてくるのである。

例えば、学校で起きた子どもの喧嘩の後始末が、その好例と言える。

今までなら、先生が喧嘩した双方の言い分をよく聞いて、喧嘩はいけないと諭してから仲直りさせれば済むことであった。ところが、最近ではこの単純な解決方法では、まず子どもたちが納得しない。先に暴力を振るったのは相手だと言う。いや、殴った数はそっちの方が多いなどと、ともに被害者を主張して譲らないからである。

やがて親が子どもの喧嘩に介入してくる。「喧嘩両成敗は、人権無視の暴挙」とか「子どもの心を傷つける先生の注意の仕方に問題がある」と、双方の親から強硬なクレームが学校に打ち込まれる。何でもこの調子だから、先生も指導よりも事情聴取を重視する。そして先生は、催促される形でしかたがなく判定を下す。さらに、その判定に不服な側が、今度は、教育委員会や相談室にその不満を持ち込んでくるのである。これでは先生からの指導が、ますます薄くなるばかりである。

かつては、「子どもの喧嘩に親が出る」として、互いに卑怯者の誹りを受けたくないとする子ども同士の暗黙の不文律があった。しかし、今やその気風は消えてしまった。

責任転嫁のこの風潮は、いじめ問題の底流にも強く流れている。よほどの証拠や証言をつきつけないといじめつ子の立場を認めようとはしない。そして、いじめられる側にも問題があったと、親も子も責任転嫁して憧らない。日頃から「弱い者いじめは卑怯な振舞い。人として恥ずべきこと」とおとなたちが教え切れなかった結果であるにもかかわらず、責任を希釈しようと争うおとなたちの姿からは、子どもたちの心の中に反省や悔悟が育たないのは当然の帰結である。

しかし、自らが、病んでいることを認識しない限り、癒しの緒にはつけない。

2 相談事例から学ぶ

相談活動のスタンス

相談活動の開始は、一本の電話相談からはじまることが多い。そして、それが来室相談へと進んでいく。

しかし、来室相談になるまでの間、そのほとんどは匿名である。直面するさまざまな問題で悩み続けた末、一つの選択として電話を手にするのだろうから、せめて、名前だけは伏せておきたいと考えるのも、無理からぬことである。しかし、それは同時に、相談員の対応によっては、たとえ相談の途中であっても、容赦なく相談を打ち切るという意志表示でもある。だから、私たちは、かかってきた電話が途中で切られないように、全神経を集中させなければならない。

電話でも来室でも、私たちは、ひたすら訴える相手の悩みに耳を傾ける。そして、小さな解決の糸口を見い出してくれるまで待ち続ける。当然のことながら、これが相談員の対応の基本的スタンスである。しかし、教員の時の私のスタンスは、明らかに違っていた。端的に言えば、子どもの話を聞くことよりも、話して聞かせるが主力だった。時には、強引に分からせようとする場面すらあった。

両者の相違を一言で表せば、相談員は「聞きに徹して、待つ」であり、教員だった私は「話して聞かせて、分からせる」となる。どちらが正しいのかという議論は別にして、この大きく違うスタンスに、当初、かなりの違和感を持ったのは確かだった。

『私の前の席に、カウンセラー歴七年のベテラン女史が座っている。だいぶ年下の彼女だが、これからはれつきとした直属の先輩上司である。

私ごときほやほやの新米相談員とは違って、彼女への直接の電話相談は、毎日何本も入る。そのうえ、来室相談もである。驚いたことに、一つの相談の所要時間が、短いもので三十分、長いものになると延々一時間に及んだ。教育についてなら、自分の方に一日の長があると自負していたから、長電話の功罪を皮肉っぼく尋ねてみた。ところが「この位時間をかけないと、悩みの元にたどりつけないのです。もっと時間をかけることだってありますし、一回で駄目なら二回でも三回でも続けます。

つまり、こちらが本気で聞いていれば、自分の困っていることが整理されてくるのでしょうね。そうすれば、解決方法も自分で見つけます。

冷たいようですが、解決は自分の力でやってもらわなければなりませんから。ともかくも、私たちの仕事は、相手の話を聞き遂げることだと思うのですが、どうでしょうか」

彼女に軽くいなされたのである。

聞くことに時間をかける。言われてみれば至極当たり前の理屈である。

教員は(自分だけかもしれない)他人に話をしたがるくせに、他人の話を聞くことが下手である。そのことを棚に上げて、「話を聞く態度が悪い」などと生徒に文句をつける。今になって不明の数々を思いしらされた』

これは入室間もない頃、書き綴っておいた雑文の抜粋である。

動けない青年たち

日々寄せられる相談の中で、まず気になるのは閉じ籠り状況にある二十歳前後の青年たちの姿である。もっとも相談に訪れるのはほとんどが母親であるが、そこで聞く彼らの実態は、深刻そのものの感がある。

高校卒業後就職した治夫君(二十三歳)は、三年間勤めた会社を突然辞め、以来家に閉じ籠ってすでに一年になる。昼夜逆転の生活リズム、家族との没交渉、青白い顔付が不気味だと母親は言う。

毎日のように電話をかけてくる孝幸君は十九歳。高校の時はじまった不登校をそのまま引きずった形で現在に至った。外に出ると動悸や冷汗が出て苦しいと、一歩も外に出たことがない。しかも、自分の電話の声が隣家に聞こえるのではないかという恐れから、毛布を被って電話していると、聞き取れないような小声で話す。

大学受験に失敗してから、全てに気力を失った健君(二十歳)の場合は、閉じ籠り症状に加えて、父親の不在時をねらう母親だけに向けられる暴力・暴言がある。さらに彼の場合、不眠症に陥り、大量の睡眠薬を常用している。

このような症状を持つ青年たちの実態は、不登校児童生徒の場合と違って、統計上の数字となって表れてくることはない。しかし、相談ケースとなっているこの数例は、単に氷山の一角であって、同様の状況のもとで苦しんでいる青年は、かなりの数に上るものと思われる。

何故彼らは、この状況に陥ったのだろうか。回復した青年たちに尋ねても、「自分でも、どうしてあんなに落ち込んでいたのか分からない」と異口同音に言う。

一般的に、子どもたちは育っていく過程で、親を初めとするおとなたちから、数々の生き方の基本を教えられる。それぞれが彼らにとって重要な心の糧となる。それを吸収した子どもたちは、成長とともに年齢相応の分別を加わえて、男の子は力強い頼もしさが、女の子は優しい美しさが備わっていく。さらに、自分の個性に磨きをかけ、やがて、何事にも果敢に立ち向かう輝くような青年の姿を創り上げる。しかし、動けない青年たちは、この過程のどこかでつまついたのだろう。でも、自ら癒す術を持たない彼らは、じっと家に籠り続け、悶々と無為の日々を過ごしている。

数年前、カンボジや情勢が悪化した時、病院勤務ナースの職を投げ出し、難民キャンプ医療を志願してさっさと出かけてしまった範子(当時二十一歳)と言う教え子がいる。二年後帰国すると今度は、沖永良部島の離島ナースとして旅立って行った。

「台風が来ると大変です。船も出ないしセスナも飛べません。急患が出ないように祈っていました。こんなことばかりしていると、お嫁に行かれないかもしれません。でも、結構島の人たちに頼りにされています」

近況を伝える短い暑中見舞いには、彼女のファイトが余すことなく綴られていた。

以前であったら(そんな遠い昔でなくとも)こういう青年たちと出会うことは、それほど難しいことではなかった。しかし、残念なことに、近頃では希少価値をもつ青年像になってしまった。

前述の健君が、突然来室するようになってから、一年が過ぎた。来室する気になったのは、私の雑文を古本屋で見つけたのがきっかけだったと言う。そして、あの本(前出、だが、甘やかさないそ)に触発されたとお世辞を言ってくれる。以来、彼は月に一回の来室を続けている。最近、彼はライフセイバーの資格をとって、市営プールへ就職できた。

「今思うと、あの時はどこにも自分のポジションがなかった。高校受験も大学受験も全て親の決めたレールだった。立ち止まれば父親にも教員にも強く叱られた。時には殴られもした。おれをこんな状況に追い込んだのは彼らだって、恨む気持ちで固まっていたのでしょうね。でも、働きはじめてみると、僕を必要としてくれるポジションがあったんです。職場での人間関係でこれから悩むと思いますが、もう大丈夫です」

彼は当時を振り返る。しかし、彼のことばが、原因の全てを物語っているとは思えない。ただし、一つだけ言えることは、成長の過程で学んでいかなければならなかった生き方の基本を、学び損なったということは確かである。つまり、土ハ感できるモデルを見つけられなかった空白を、青年の段階に至っても埋められなかったということなのだろう。

しかしながら、彼らへ向けられる周囲の評価は、「怠け者で、自分勝手で、出来損ないで」と、誠に手厳しい。さらに、近所の思惑を気にするあまり、父親は大きな声を出して叱りつけ、母親は涙ながらに不心得を諭そうとするのも共通的な親の動きである。しかし、親がいくら叱責や哀願を繰り返したところで、彼らの行動は容易に始動しない。なぜなら、叱責や哀願は、彼らがこの状態に至るまでに受けた数々のダメージに対する分析と癒しにはならないからである。

彼らは、常に動かなければならないという自意識を持っている。でも、動けないのである。だから、急がせれば急がせるほど、自身が持つ、目標を持てない焦燥感によって、より強い自縛状態へと追い込まれていく。

では、動けない彼らに何をしてやればいいのだろうか。残念ながら、私たちは特効薬的な手だては何も持ち合わせていない。あるとすれば、親にも本人にも「聞きに徹して、待つ」ことぐらいである。やがて、「こちらから、お世辞っぽく世話などやいてやるものか」とか「いっかは動き出す時がくるだろう」と、親が待つことへの開き直りに気付いてくれた時、共通して彼らが動き出している。しかし、ここに至るまでの道のりは、まさに、気の遠くなるような長さなのである。

非行系の子どもたち

非行系の子どもたちに関する相談は、前述したように子どもたち自身が相談者であることはほとんどない。その多くは保護者であり、教員である。そして、「早く何とかしてほしい」という強い要望が、相談内容の端々に感じられる。極端な場A口は、施設送致相談のためだけに来室してくる学校関係者もいないわけではない。すなわち、「腐ったりんごは、取り除きたい」のが、一つの本音である。

確かに、校内における彼らの我がもの顔の暴虐ぶりを目の当たりにすれば、誰しも取り除きたいと思うのは、やむを得ない感情である。私にしても、かつてそう思ったのは、二度や三度ではなかった。しかし、それは、敗北感とともに強い自己嫌悪をともなう教員のギブアップを意味する。

取り除きたいと思うおとなたちの思惑は、たとえそれがことばに表されなくても、彼らは本能的とも言える素早さで読み取る。そのことによって、彼らは自分たちの存在が誰からも歓迎されていないことを、改めて確認すると同時に、排除の可能性に恐れ、より一層苛立ちを募らせるのである。

本来的に彼らは、集団に受け入れられたいという強い願望を持っている。にもかかわらず、対等に受け入れられないいくつかの要素(学業、部活動、家庭など)のために、だんだんと集団からドロップアウトしていく。彼らにとって唯一対等になるための手段は、不良行動なのである。彼らがよく口にする「どうせ、おれたちなんか」と言うことばが、それを如実に物語っている。
数少ない来室者(中三)の一人が「誰からも相手にされないのはよく分かっていた。だから暴れる。校外で何かやるとバクられるからヤバイけど、学校では平気。先生はおれたちに何にもできないから。先生がずっと側に付いていたけど、話を聞いてくれたことはなかった。きっとおれが悪さをしないように見張ってたんだと思う」と言う。

それでいて私たちは、もっともらしく彼らの内面を知ろうと試みる。

また、彼らレベルに近づこうとする。しかし、彼らはかたくなにそれを拒み、決して彼らの胸の内を見せようとはしないし、信用できない私たちの接近を許そうとはしない。それどころか、無理にでも彼らの内面に踏み込もうとすれば、彼らは牙をむいて反撃してくるのである。親や教員の詰問や叱責、そして、おためごかしのことばには、時には暴力をもってさえ抵抗してくるのはその一例である。

不良少女の心の動きを中心にした谷村志穂著『十四歳のエンゲージ』(東京書籍版)は「何不自由のない家庭にいることが退屈だった」と言う主人公の少女(松永多恵子)のことばで、この物語をはじめている。

そして、もう一人の主人公は同級の不良少女(山中るみ)。正反対の家庭環境にある彼女の自由奔放な生き方に憧れ、その仲間になりたいと願う多恵子の揺れ動く心を克明に綴っている。

まず、「何不自由なくが退屈」と言う主人公のことばに、大きな衝撃を受ける。しかし、物質至上主義時代に於ける彼女の「何不自由なく」は、「精神的飢餓」状態に陥っている彼女の叫びかもしれない。その証拠に、彼女が非行化への曲がり角に立って、さまざまな逡巡を重ねている時、彼女の変化に気付き、声をかけた者は、皆無だった。無論、担任をはじめとして彼女を取り巻く教員たちもであった。心の結び付きが全く感じられない。

途中の変化を全て見落としておいて、後で「相談してほしかった」と繕ったり、髪型や服装などの表面的な校内生活の注意を、結果を見てから散発的に繰り返したところで、何の効果も表さない。このことは、すでに経験済みのことであるにもかかわらず、私たちはまだその愚を重ねている。

では、どうしたらいいのか、何ができるのかと、必ず問い返されることだろう。でも、動けない青年の場合と同様に、非行に対しても、残念ながら即効性のある策は見当たらない。立場を変えた今、私はそのことを強く感じさせられる。

再び、『十四歳のエンゲージ』の一部分を引用する。教員不信の中にあって、彼らが唯一心を開きかけた人物がいた。それは国語教師の上西先生だった。

「マツナガ、いい奴って思うと、みんな死んじゃって、いなくなつちゃうね」
「ねえルー、上西さ年賀状くれたでしょう」
「うん、くれた。私なんかにも年賀状くれてさ。希望現実、それしか書いてなかった」

これは癌で死去した上西先生の葬儀に出席した多恵子とるみの会話の一部である。「私なんかに」と言うるみのことばには、上西先生を失った無念さがにじみ出ている。

私には、一枚の年賀状に込める上西先生流のことば少ない優しさとさりげなさとを表現する自信がない。恐らく私だったら、説教満載の年賀状を送りつけていたことだろう。

彼らが私たちに求めているのは、押し付けの親切ではなくて、さりげない優しさだということを、改めて教えられる。

「一声は揺れる心の道しるべ」

街角で見つけた健全育成標語の立て看板である。前述の問に対する一つの答えとなるかもしれない。

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