暁烏敏賞 平成14年第1部門本文「近代の問題としての地球温暖化 個人の自由と責任を問い直す」2

ページ番号1002574  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像

第18回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

3.個人の自由と責任

1、近代は個人の自由を価値原理として掲げてきたわけであるが、個人の自由の意味と価値についていまあらためて問われなければならない。個人の自由は無制限なものでありうるだろうか。
ここで認めなければならないのは、私たちの営む社会生活は、事実上、個人の自由をいろんな形で制約するところに成り立っているということである。社会生活には守るべき法律、規律がつきものであり、各人が欲望のままに、したい放題していては、社会生活は不可能である。各々の個人は自由をほしいままにして生きているのではなく、社会で承認された範囲内においてのみ自分の自由を行使しているわけである。
そうした社会的制約のもとにある各人は、しかし、できればそうした制約を受けないで、自分の思うように何でもやってみたい、人間としてのびのびと生きたい、羽をのばしたいと思う気持ちをどこかに抱いている。自分ひとりのことを考えて、自分だけのために生きたいと願う利己主義、身勝手が、人間の自然・本性に根ざしていることは否めない。
個人の自由と独立を至上のものとする自由主義者(リバタリアン)は、人間のこうした自然的利己心を根拠として、人は自らの私的利益の追求、欲望の満足、自分一人の幸福を目指して生きている存在であると考える。確かに人間の行為は自己中心性、利己性から説明できる面を持つが、人間は単に自分一人の幸福と私的利益の追求のみを目指す存在ではない。どんなに利己的な人でも困った人、苦しむ人を見たら助けてあげたいと思うものである。利己的自由主義の立場からは、こうした人間の心に潜む自然的善意、他者への思いやりを説明できない。思いやりは他者の立場に自分を置いてみる想像力に基づいている。それは自己と他者の間に人間的絆をつくりだし、人間的共同性、連帯性を可能にする。人間の自然・本性としてのエゴイズムを乗り越える地平をひらくのである。
社会に対する個人の独立性、自由を重んじる自由主義者は、人間存在の根底にある共同性の意味を過小評価していると批判されても仕方がない。個々人の持つ人間としての個性は共同性の基盤の上に築かれるのである。「女は女に生まれるのではなく、女になるのだ」と言ったのはシモーヌ・ド・ボーボワール(「第二の性」)であるが、彼女の言葉は人間一般に当てはまるのである。私たちは生まれたことで人間であるのではなく、他者とのコミュニケーションを通して、つまり家庭、学校、社会における教育・学習、さまざまな人間関係を通して、人間になったのである。この意味で、私たちの一人一人が今ある自分というもの、自分の人間性を社会全体に、そして人間の歴史の全体に負っている。一つの言語を話すという行為そのものが、すでに人間の社会共同性を表しているのだ。社会から完全に独立した個人、自由をほしいままにする個人なるものはどこにも存在しない幻影なのである。
しかし、それでも、個人としての人間の自由、独立への要求には根強いものがある。この要求は社会の課す規範や拘束と相いれない面を持つ。個人の自由、独立と社会の課す制約の間のこうした対立は、近代人のかかえる根本問題である。近代人の自我は自然(個人の自由、独立)と社会の間で分裂することになる。近代人のこうした自己分裂を自ら生き、根底まで考え抜いた思想家としてジャン=ジャック・ルソーの名を挙げることができる。彼は近代人における個人主義(自由、独立、幸福の追求)と人間存在の基盤としての社会的共同性の間の対立、葛藤を調停し、解消しようと努力した。彼の「社会契約論」はそうした問題意識を結実している。
現在「社会契約論」として知られているのは決定稿であるが、初稿であるジュネーブ草稿は、決定稿から削除された「人類の一般的社会について」という興味深い章(第1編第2章)を含んでいる。この章でルソーは、個人の自由・独立と社会的共同性の課す法・規範の矛盾を鋭い形で提起している。ルソーは、社会の共同性を重視し法・規範に従うことを説く「賢者」ないし「哲学者」と、個人の自由・独立に固執する「独立人」ないし「乱暴な話相手」との対話を設定して論を進めている。この章でルソーは、「独立人」を支持する立場から次のように言っている。
「独立の状態においては、理性のおかげで各自が自らの利益のために共通の善に協力するに至るというのは誤っている。個別利益は一般的善と調和するどころか、事物の自然秩序においてはこの二つは相互に排除し合う。」(「社会契約論(ジュネーブ草稿)」、「ルソー全集」第5巻、白水社)
「賢者」である「哲学者」は、人類、一般意志、正義という「崇高な観念」を用いて個々の人間の義務を説明する。これに対し、ルソーの「独立人」は、自由、独立への欲求が人間の自然に基づく具体的なものであるという立場から、単に「哲学者」の理性ないし悟性に基づくだけの「崇高な観念」を、その観念性、抽象性を批判するのである。「乱暴な話相手」である「独立人」は「賢者」に向かって、「正しく振舞うことで私にどんな利益があるのか、それを示してほしい」と要求している。ここには、個人が正義に従うことの必然性とは何であるのかについての根本的な問題提起がある。
この議論を「エミール」でルソーは発展させている。ルソーは「正義と善とは抽象的なことばでも悟性によって形づくられる純粋に道徳的な存在でもなく、理性によって導かれた魂の情愛であること、それは我々の原初的な情愛の秩序づけられた進歩に他ならないこと、良心とは別に理性だけではいかなる自然法(loi naturelle)も確立できないこと、あらゆる自然法(droit naturel)は人間の心の自然的欲求に基づかなければ幻想にすぎないこと」を強調するのである。(ルソー、「エミール」、今野一雄訳、岩波文庫、中巻)
ルソーが主張するのは、人間の理性は人間の内的自然としての良心の声を離れれば空理空論に陥るということ、良心に導かれてはじめて理性はそのあるべき働きを発揮しうるということである。人類、一般意志、正義という「崇高な」観念は抽象的理性が立てた自然法に基づくのではなく、人間の心の自然的欲求、良心の声に基づくということである。
ここで、本論文の主題である地球環境問題に立ち戻る。この問題を倫理学的に受け止めて未来の他者への責任や世代間倫理ということが言われるようになって久しい。たとえばドイツの哲学者ハンス・ヨナスは「責任の原理」という著作において、未来の人類への現在世代の責任ということをいまから20年以上も前に提起した。彼のこの著作は、世代間倫理を基礎づけた先駆的業績であるが、彼は未来の人類への現在世代の責任を理性の要請としてカント的に語ったのである。しかし私は、現在の個人・世代の未来への責任は抽象的理性の要請としてあるのではなく、個人と人類の、そして現在と未来の関係ということのうちに含まれているものであり、この関係から導き出されるものでなければならない、と考える。未来への責任や世代間倫理は、未来の人類を現在の自分とはまったく別のものとして理性的、観念的に設定するやりかたでは考えることができないのである。引用したルソーの考察はそのことを示している。ルソーの立場からは、未来の人類の幸福や利益のために現在の自分の幸福や利益を犠牲にするという考え方は、抽象的理性のもとに私たちの義務を抽象的に考えただけのものとして否定されるのである。私たちの具体的な存在、人間の自然・本性とのつながりを欠いた思考は、私たちにとって説得力に欠ける、有効性をもたないということだ。
私たちはここに問題の根をみる。未来への責任、倫理は、現在の私がそもそも人類一般というものから切り離されて存在するものではないという事実、そして人類一般もまた現在の私という具体的個人を離れて存在するものではないという事実の上にのみなりたつのである。ルソーの「社会契約論」草稿の「独立人」とは、現在の自分という個人が人類一般というものから切り離されて独立して存在するものとして考える立場を指している。それは利己的自由主義者の立場でもあるのだ。「独立人」は「人類」という観念の抽象性を批判したわけであるが、人類と切り離されてある個体というものもまた抽象にすぎないこと、つまり自己自身の抽象性が見えていないのである。ルソーが「社会契約論」決定稿から「人類の一般的社会について」を削除した理由もまたそこにもとめられるだろう。

2、現在の個人・世代の未来への責任は個人と人類の関係、そして現在と未来の関係のうちに必然的に含まれているものである。これは、未来の個人および人類は現在の個人および人類を離れては存在しないし、現在の個人および人類もまた未来の個人および人類と切り離して独立した利己的存在として考えてはならないということである。
ここで私は、夏目漱石の一つの言葉を想起したい。彼は「模倣と独立」という講演のなかで、個人としての各人は「人間全体を代表していると同時に自分自身を代表している」と言っている。漱石のこの言葉は、個人と人類の一体性、不可分性を見事に言いあてている。この言葉は、未来への責任、倫理ということにも当てはまるものである。現在の個人の未来への責任は、個人と人類の一体性、不可分性ということから考えられなければならないのであり、そしてさらに拡張して、現在と未来の一体性、不可分性として考えられなければならない。
では、漱石が私という個人は人類を代表すると同時に私自身を代表する存在であると言うとき、「代表する」ということはどういうことを意味するのか。「代表する」は英語ではrepresentである。代表と言うとき、たとえば民主主義における代表制、つまり代議制を連想することができる。普通選挙を通して民衆によって選ばれた各々の代議士の権限は彼を選んだ民衆の委託に基づいている。彼は議会における立法行為において、民衆の意志と利益を代弁し、反映させていくことを期待されている。
現在、世界各国で、民主主義の形骸化が言われている。それは政治家が主権者としての民衆から委託されて有している筈の自らの権力を民衆を支配するために行使しているということによる。民主主義的代表制における「代表」は選ばれた者(議会での立法行為における現前者)による選ぶ者(議会での立法行為における不在者)の支配と殆ど同意義になってきていることがわかる。民主主義的代表制は、不在である者になり代わってその利益を代弁する任務を帯びた政治家(議会に現前する者)が私利追求に励み、そのために、彼に任務を与えた者、議会では不在である民衆を巧みに利用するという構造をあらわにしている。現在=現前の自立と不在への支配は、近代の構造そのものを示すように思われる。
これに対し、漱石の言う「代表」はこうした支配構造を一切含んでいない。それを乗り越える可能性を提示しているのである。これは注目に値する。自己を代表するものとしての私個人とは、自己と一体である現前者(現にここにある者)としての私である。しかしこの私が個人として同時に人類を代表していると考えられるとき、私は、現に目に見えるものとしてあるわけではない人類というもの、その意味では一つの不在の存在を現にある私という形で代表していることになる。私という現にある者は、実は、自分が現にあるというこのこと、その権能、すべてを自由にしうる特権を不在である者(たとえば人類とその歴史という、目に見えないもの)からうけている、委託されていると考えられるのである。であるから、現にある私は自分の力、能力を自分だけのものとして利己的に行使してはならないということになる。
漱石が「個人としての私は人類を代表するとともに私一人を代表する」と言ったとき、この言葉はまさに、現前が力である近代、現前するものが自らを不在であるものから切り離し、自らの力を自らのためにのみ行使する近代そのものを批判していることに、私たちはここで気づくのである。漱石の言う「代表」の観念はこのように、個人と人類、現在と不在(それは未来でもありうる)は一体であり、不可分のものであるということを私たちに教える。現にある私が、いま現にあるということを、分離・独立した自分だけの存在としての自分の私的利益と私的幸福のためにのみ利用することは許されていないということ、私が現にあるということは今ここにはいない不在の者(たとえば先祖や未来の子孫)に代わって現にあるということであり、その意味で大きな歴史的責任を帯びているということ、こうした事柄をもそこに読み取ることができるのである。利己的自由主義者のように私は「独立人」としてしたい放題やっていいのだ、何をやっても許されると思うのは、近代的幻想なのである。こうした近代的幻想から醒め、利己主義、エゴイズムから自己を解き放つ道筋を漱石の言葉は私たちに指し示している。
これは時間論的に言えば、〈まだない〉時間としての未来と、〈すでにそこにある〉時間である現在との一体性、不可分性を言う。〈まだない〉未来、その不在は、つねにすでに現在の〈そこ〉、〈現〉にあるということのなかに入り込んでいる、そこに自らを書き込んでいるということだ。過去と現在の一体性、不可分性は記憶という形であらわれる。記憶は過去と現在のあいだで時間が重なり合っていることをしめす。ところで先に引用したセンが言うように、未来とは私にとっては「潜在的可能性」に属しているものである。これまで私が述べてきたように、私の「潜在能力」=自由は、社会での他者とのコミュニケーションなしには、そして人類の過去の歴史なしにはありえないのであるから、人類の過去および未来は私の「潜在能力」=自由という形で私の現在のうちにつねにすでに自らをしるしているということになるのだ。過去および未来とのこうしたつながりを離れて私の現在というものはありえないのである。
センは「経済学は倫理である」という著作において、「個人の自由は社会の産物である」という観点から、個人の自由は社会的責任を含んでいると主張している。この立場から地球環境問題を考えるならば、私はこの問題の倫理的な核心が、人間の自由ないし欲望の拡大というものは必ずそれに見合うだけの責任をも伴うものである、ということにあると考える。一つのことに責任を持つということは、その事柄にこたえる能力をもつということであると考えてよい。責任という語の英単語はresponsibilityであるが、この語はresponse(応答)という語と結びついている。責任は応答能力として解釈できるのである。
たとえば生物、自然との関係において人間が責任を持つと言う場合、この責任は諸生物種が生存できる自然、生命環境を保全することは、自然の美しさ、かけがえのなさを知る人間が自然に対して応答する行為であるということになる。自然、生物種に対する人間の責任は、このように人間の自由の能力に基づいている。人間はその自由に見合うだけの責任をたえず応答能力として負っている、ということである。これは、人間は自らの拡大する自由に限界を定め、自らの自由を自己規制する義務を負うということにつながっていく。いま生命科学の現場で起きていることを考えるならば、このことはすぐ理解できる。近年の遺伝子操作技術や生命医療の進歩(この意味での人間の自由の拡大)とともに、新たな生命倫理の枠組みが絶えず問いなおされ、法的規制が絶えず設定されているのである。
自由なものとしての個人は一定の社会において責任=応答能力を負うのみでなく、時間軸に沿って世代間の関係においても責任=応答能力を負うことをここで強調しておきたい。個人は過去の世代および未来の世代との関係のなかで存在しているからである。
個人の責任としての自由という考え方から、地球環境問題、特に地球温暖化という問題に立ち返り、これを見つめなおしてみよう。この論文を読む読者のなかには、こうしたグローバルな問題に対し、各個人がなしうることは微々たるものに過ぎない、この私がいったい何をなしうるだろうか、と疑問を持つ人もいるかもしれない。福沢諭吉の次の言葉はこうした疑問に対する回答としてある。
「人間社会は一人一個の個々相集て体を成したるものにして、某社会の進歩は即ち個々の進歩の相集て一般の有様に顕はれたるものなれば、一個人の智は積て天下の智と成る可く、一個人の愚は積て天下の愚と成る可し。」(「人事は徐々に非ざれば進まざる事」、「福沢諭吉全集」第20巻所収。坂本多加雄、「新しい福沢諭吉」、講談社新書、1997年、の引用による)
私という個人を離れて社会とか人類とかいうものが抽象的にあるのではないのである。とすれば、私の日々の行為、何気ない選択が、社会のありよう、福沢のいう「人事」を「徐々に」変えていく上で、大きな意味を持つということになる。地球環境と人類の未来を私の日々の行動と結び付けて考える個人が増えていけばいくほど、そうした個々人の「智」が積もり積もって「天下の智」、つまり人間社会全体の「智」となってそのありようを変えていくことができるのである。地球環境の汚染、悪化、破壊は、人類社会全体の問題であるが、こうしたことを、集団的なレヴェル(ここでは人類社会全体)に帰すのみで、個人はこうした事柄には無力である、個人はそれに対し責任=応答義務・能力がないとする立場を乗り越えていかなければならない。そのためには、福沢諭吉の言葉にあるように、集団的な責任を個々人のレヴェルに引き戻して考えるということが必要である。
しかし、そうは言っても、私たちは自分の生活とか、身辺にいる人たち(家族や友人)の生活との関わりといった狭い範囲でどうしても物事を見がちである。個人としての私たちが未来の人類に責任を持つとしても、そうした問題は自分とは縁遠い事柄と考える人は少なからずいる。「私たちからひじょうに遠い人々の、運不運について、私たちがわずかしか関心をもたない」と言ったのはアダム・スミスであるが、将来の人類の生活や、その「運不運」といったことは、私たちからはとても遠いことであるのは否定しえない。スミスはこの事実を踏まえて、人々の心のなかの「善意」に頼るだけでは社会を支えることは不可能であると指摘している。(アダム・スミス、「道徳感情論」、水田洋訳、筑摩書房)
地球温暖化問題を個人レヴェルにおいて考える、この問題の責任を個人化するということは、各人の意識が変わるのを待つということでもあり、各人の「善意」に頼るということでもある。各人の意識の変化、善意は人間社会全体を変えていく上で必要なことだが、それだけでは不十分なことは明らかである。集団レヴェルにおいて適切な措置、政策を取る必要がある。私たちは個人レヴェルと人類レヴェル(集団レヴェル)を切り離すことなく、この両方において同時に行動しなければならないのだ。各国内で、そして国際政治のレヴェルにおいて、この間題に対処するための一定の決断、選択がなされるべきである。地球温暖化を防止するために、1997年12月の京都議定書で先進各国に対し、2010年の二酸化炭素ガス排出総量を1990年比で削減する目標値が割り当てられた。日本は6%の削減義務を負ったわけだが、地球温暖化が年々進行しているのは今やまぎれもない事実なのだから、削減努力は一刻も早く始めなければならない。ヨーロッパ各国ですでに導入されている炭素税を日本でも導入する必要がある。これまでタダだったCO2の排出にこうして課税することで、社会全体の排出総量を効果的に抑制できるのである。
従来は環境問題とは縁の薄かった「エコノミスト」(イギリス)のような雑誌の編集長が2001年にこうした環境税制の必要性を訴えて次のように書いている。「政府は化石燃料に対する莫大な、目に見えにくい補助金を廃止することにより、また、化石燃料の価格が環境と人間の健康に及ぼすコストを反映するように炭素税などの措置を導入することにより、公平な競争の場を整えるべきである。」(レスター・ブラウン、前掲書参照)
地球環境を保全するためには、コストの安さだけを唯一の基準とする現在の市場経済を改めること、現在市場に委ねられている多くのことを市場の〈レッセ・フェール〉(自由放任)に任せることなく、国際政治の管轄下に置き、自由競争の弊害を是正していかなければならない。食糧や大量消費財の生産については、遠隔地で生産しそれを輸送するいまの経済システムを見直すことが最低限必要ではないだろうか。消費するだけの量を消費地ないしその近くで生産するローカルな経済システムの構築は、地球温暖化へのグローバルな対策として、近い将来避けて通れなくなるだろう。市場の自由競争の是正とは、市場経済の近視眼的コスト計算の誤りを是正するということでもある。二酸化炭素ガスの排出が将来引き起こすことになる地球温暖化による災害の補償コスト、被害者の救援費用をコスト計算に含めるならば、食糧や大量消費財の地域生産・地域消費のシステムは、遠隔地生産・大量輸送の現在のグローバルシステムよりより安価であるということが証明できるはずなのであるから。市場が政治に代わって社会秩序、国際世界秩序を支えてきたのがこれまでのグローバル経済である。今後の人類社会は、市場のなしえない選択を政治がそれに代わっておこない、人類の生存環境の保全に努めなければならないだろう。
21世紀の人類は、経済成長が環境破壊を引き起こした20世紀を教訓とし、経済成長至上主義を克服し、生命圏としての地球環境を保全して未来世代に引き渡す義務を負っている。そのために私たちは多方面の知を結集し、近代的エコノミーの、さらには人間の思考一般のコペルニクス的転回をなし遂げていかなければならないのである。

文献一覧

  • 石 弘光、「環境税とは何か」、岩波新書、1999年
  • 字沢弘文、「地球温暖化を考える」、岩波新書、1995年
  • 佐和隆光、「地球温暖化を防ぐ」、岩波新書、1997年
  • 佐和隆光、「市場主義の終焉」、岩波新書、2000年
  • 金子 勝、「市場」、岩波書店、1999年
  • 加藤尚武、「環境倫理学のすすめ」、丸善ライブラリー、1991年
  • ケインズ、「自由放任の終焉」、宮崎義一訳、「世界の名著 ケインズ・ハロッド」、中央公論社所収
  • 坂本多加雄、「新しい福沢諭吉」、講談社新書、1997年
  • さがら邦夫、「地球温暖化とCO2の恐怖」、藤原書店、1997年
  • アダム・スミス、大内兵衛他訳、「諸国民の富」、岩波文庫
  • アダム・スミス、水田洋訳、「道徳感情論」、筑摩書房
  • アマルティア・セン、石塚訳、「自由と経済開発」、日本経済新聞社、2000年
  • アマルティア・セン、「経済学は倫理である」、パリ
  • 夏目漱石、「漱石文明論集」、岩波文庫
  • ディーター・ビルンバッヒャー、「未来世代に対する責任」、1988年、シュトュットガット、レクラム文庫
  • 広井良典、「定常型社会 新しい「豊かさ」の構想」、岩波新書、2001年
  • レスター・ブラウン、「エコ・エコノミー」、福岡克也監修北濃秋子訳、家の光協会、2002年
  • フランシス・ベーコン、「学問の進歩について」、服部英次郎、多田英次訳、岩波文庫、星野芳郎、「自然・人間 危機と共存の風景」、講談社+α新書、2001年
  • 三橋規宏、「地球の限界とつきあう法」、日経ビジネス人文庫、2000年
  • ジョン=スチュワート・ミル、「経済学原理」、末永茂喜訳、岩波文庫
  • ハンス・ヨナス、「責任という原理 科学技術文明のための倫理学の試み」、東信堂、2000年
  • ジャン=ジャック・ルソー、「社会契約論(ジュネーブ草稿)」、「ルソー全集」第5巻、白水社
  • ジャン=ジャック・ルソー、「エミール」、今野一雄訳、岩波文庫
  • 柳沢幸雄、「CO2ダブル」、三五館、1997年

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