暁烏敏賞 平成10年第1部門本文「自由と主体性を求めて」2
第14回暁烏敏賞入選論文
第1部門:【哲学・思想に関する論文】
無意識の現象学
このように、内的規範は衝動的な欲望を抑制するだけでなく、この抑制によって他者に認められる欲望を満たすことができるのであり、他者に認あられる理想的な自己像に近づくことを可能にする。しかし、社会規範が絶対的な根拠を失い、確かな価値基準を持てない時代になってきたたあに、その中で育てられた子どもは、確かな内的規範を形成することが困難な状況にある。内的規範がなければ、理想的な自己像を抱けない慢性的な虚無感に支配され、抑制されない衝動的な欲望は、極端な行動や違和感を引き起こしてしまうのである。この意識が身体、感情をコントロールできない状態を、ここまで無意識という概念を使って明らかにしてきたわけだが、実際には無意識や外部の世界というものは確認することはできない。そもそも確認できないはずの無意識の存在が信じられているのは、むしろ意識的に身体をコントロールできない状態に直面するからなのである。
例えば、スポーツの訓練や車の運転の場合、自分ではそんなに注意く意識していなくても、身体が勝手に動いてくれることがある。習慣化してしまった行動も同じことで、ほとんど意識しないままに身体を動かしているものである。この場合、身体は意識的なコントロールを超えて動いているのだが、「考える私」の望み通りに身体が動くたあに「感じる私」は強く意識されない。逆に「身体がいうことをきかない」、「感情のコントロールがきかない」ということもある。いつのまにか愛してしまう、楽しいはずなのに悲しくなる、そんな状況は誰もが頻繁に経験することだろう。身体や感情のコントロールがきかないとき、何かによって身体や感情が動かされている、という感じが強くなり、自分の意識の外部に無意識が存在し、それが私をコントロールしている、と考えることになるのだ。というより、私を動かしているように感じさせるものを無意識と呼んでいる、と言ったほうがいいだろう。意識と身体が、あるいは理性と感情が分裂しているように感じるとき、その原因として措定されたものこそ無意識なのである。
こうして、無意識によって動かされている、こんな気分にさせられている、という直観から理論化されているのが構造主義である。すでに見てきたように、それは無意識の構造、社会の見えない構造によって個人の信念や行動が規定されてしまう、という考え方だ。また、身体が意識を生み出している、他者こそ自分の言動を規定しているというような考え方も、結局は「自分以外の何かによって動かされている」という直観から理論化されているのである。しかし、フッサールが主張したように、私たちは意識の外部を確認することは不可能なのだ。意識の外部に無意識や他者を措定する考え方は、優れた仮説としては有効であり、だからこそ、私はここまで構造主義的な視点から述べてもきた。しかし、そのことは外部の構造を自明なものと考えることとは違うのである。
無意識という仮説を使わずに考えるなら、何かによって動かされているという直観は、ただ身体、感情が自分の意志によっては動かないことだけを示している。そのことを被殻性という概念によって、気分は考えるより先に動いてしまうのだと主張したのがハイデガーである。この考えは、人間の主体的選択という自由の可能性に疑問を投げ掛けることになり、後期の主体性に批判的な言説へと転回してゆくことになる。そして、この後期ハイデガーの思想は、戦後の主体性批判、理性批判に大きな影響を与えてきたのである。つまり、他者、身体、無意識によって主体性が規定され、理性の判断に限界があることを主張するような現代思想は、その基本的発想をハイデガーから受け継いでいると言っても過言ではないのだ。
しかし、外部の構造を前提にした考えでは、私たちの内的な実感が考慮されないことになる。すでに述べたように、主体性が無意識や他者によって規定されてしまうのだとしても、私たち自身が納得し、満足できていれば問題はないはずだ。敬虔なキリスト教徒が誰に迷惑をかけることもなく幸福を感じて生きているとすれば、彼から神を奪う権利など誰にもありはしないのだ。もちろん、規範なら何でもいいわけではない。身体的な快楽、性的な欲望を極度に抑圧した西欧の近代社会では、意識と身体の極度な分裂によって、多くのヒステリーや強迫神経症を生み出している。衝動的な欲望を抑えることで、社会的な承認への欲望を満たすことができるとしても、極度な抑圧はどこかで無理を生じさせるのであり、その内容とバランスが問題なのである。
社会規範の根拠が確かなものでなければ、子を育てる親自身の内的規範も根拠を失い、自信を持って社会のルールやモラルを教えることができなくなる。したがって、いま必要なのは、子どもたちが確かな内的規範を形成できるよう、私たちが共通に了解できる社会規範の可能性を考えることであるはずだ。言うまでもなく、客観的に絶対正しい社会規範などというものは存在し得ない。だからこそポストモダン的な相対主義が強くなったのであり、社会規範の絶対性を求あれば、それはイデオロギーという信仰対象に変質する危険性が高くなる。それは得てして極度な抑圧を引き起こし、意識と身体の乖離を引き起こすのだ。したがって必要なのは、私たち自身が選び取った規範、私たちの欲望に見合った規範なのである。
では、私たちの欲望とは何なのだろうか?それを知るたあには、私たちは欲望に関する様々な仮説に頼ることをやめ、自分自身の意識に問わねばならない。欲望を内在的な視点から捉え直すことで、私たちは「自分が何を求あているのか」を明らかにすることができるはずだ。そこで有効になるのがハイデガーの実存論的な考え方と、ヘーゲルの相互承認の欲望についての考え方である。自分自身の欲望がはっきりしてくれば、その欲望に即して社会規範を考える可能性が開かれる。私たちが求めているような規範を作ることで、極度な抑圧が生じない内的規範を持つことができるだろう。そして、この客観的に正しいわけではない規範、それでいて多くの人が認あ得る規範を考えるたあには、フッサールの現象学的方法が必要になるのである。
欲望と共通了解
ハイデガーの『存在と時間』によれば、目の前の「いま、ここ」においては、私たちの関心(気遣い)に応じて様々な意味が現れていることになる。言い換えれば、世界の意味は自分自身の欲望に相関して現れているのである。それらの意味は相互に連関しており、この意味連関を辿れば、私たちが何であり何でありうるかという、存在の可能性に繋がっている。それは、これまで自分が「何であったか」という了解から、今後「何でありうるか」という可能性をめがけて生きている、ということでもある。例えば「いま、ここ」において、嫌いな相手と会ってムカムカした気分になったとしたら、自分がその相手と「会いたくない」という欲望を抱いているのだと、即座に了解するだろう。しかし、ずっと先の自分の姿を思い浮かべ、人生を長い時間において捉え直すことができるなら、その場限りの衝動的な欲望を超えた、自分の将来における大きな可能性を求あることもできるのだ。可能性への欲望、それは内的規範が衝動的な欲望を抑制し、理想的な自我像ともなることによって初めて可能になるのである。
さらに突き詰あるなら、私たちの欲望は他者との関係を抜きにしては考えられないことに気づかされる。他者との関係の基本はお互いを認あ合うことによる愉悦にある。つまり私たちは他者に認あられること、他者の欲望するものを欲しているのであり、社会から離れて生きたり、社会とは全く違う価値観を固持して生きることは、多くの人々には絶え難いことなのである。ポストモダニズムでは、あらゆるルールからの解放を自由と考えているが、それは私たちの日常の実感からかけ離れている。行為を主体的に選び取ることができなければ、自由に生きているという感じをもっことはできない。自由を感じるためには、他者と共通に了解できる社会規範が必要であり、ほどよい社会規範を他者と共に選び直す可能性があるのなら、その規範は他者との関係を繋ぎ、自由の感触をもたらすはずなのだ。共通に了解されたルールには自分の意志で選び取ったものだという充足感があり、他者と認あ合える喜びや、自ら選んだ行為だという納得が生じるのである。
しかし、今日のように相対主義的な価値観の強い世の中にあって、絶対的で客観的なルールを持つ出すような愚を繰り返すことなく、誰もが共通に了解し合えるようなルールを作ることなど、一体可能なことだろうか?ここで重要になるのが現象学の本質直観という考え方である。本質直観とは、様々な物事を認識する際、意識に直接与えられた(思い浮かんだ)意味を受け取ることだが、これを自覚的に誰にでも成り立つ共通の本質として取り出す作業でもある。例えば「よいルール」を作ろうとした場合、何が「よいルール」の本質であるのかを本質直観し、はっきりさせる必要がある。その際、宗教や思想的なイデオロギー等、いかなる前提をも持ち込んではならない。「よいルール」という言葉から直接思い浮かぶイメージや意味だけを意識に問い、その意味が誰にとっても成り立つような共通本質を求ある必要があるのだ。
客観的な善悪の基準が有り得ないとしても、誰もが勝手気ままに行動すれば社会は成り立たない。そこで、お互いが共通に認め合うルールが不可欠となる。しかし、いかに民主的に決定されたルールであろうと、自分の欲望を制限するものでしかなければ、「何かが違う…」と感じてしまう。それは自分にとっては「よいルール」とは言えない。しかし、相手が恋人や友人であれば喜んで譲歩もするだろうし、ルールを甘んじて引き受けることができるだろう。子供が衝動的な欲望を、母親に「だあ」と禁止されることで次第にそれを守り始めるのは、一時的な衝動的欲望よりも、母親に喜ばれ、褒あられることを欲望するようになるためだ。こうした他者との関係性のエロスによって、むしろ積極的に他者とルールを含んだ関係を作ってゆくことになるだろう。このとき、そのルールは押し付けられたものではなく、自ら望んだ関係として、「よいルール」だと感じられるようになる。私なりに本質直観するなら、他者に迷惑を掛けないだけでなく、「他者と共に選んだ」という関係性のエロスがあること、それが「よいルール」の本質なのだと思う。
だとすれば、共通に了解できる社会規範を作ることは、その規範に従う義務だけではなく、私たちが他者と認あ合えるものを共有することでもある。そこには単なる規範からの解放よりも、一層大きな喜びがあるのである。こうして自分なりに取り出した本質を他の人たちと話し合うことができるなら、多くの人が納得するような共通本質を取り出すことが可能になるだろう。共通本質から話し合わなければ、根拠のないルールを作ってしまうことになりかねない。個々人の本質直観から共通了解を求あて話し合うこと、そこに私たちの欲望に見合った社会規範を作る可能性が開かれるのである。
勿論、現実に共通了解できるルールを作ることは簡単なことではない。特に社会全体の大きな問題については、私たち一人一人の声は届きにくくなっており、話し合うだけ無駄だという空気が拡がっている。しかも、ポストモダン的な「絶対正しいルールは存在しない」という考え方が、「何をやっても無駄だ」という実感を補強し、社会全体にニヒリズムを蔓延させているのである。そのため、未来の可能性への欲望は断念され、その場限りの欲望を満たすだけの、変わることのない日常を生きるしかない、そんな気にさせられてしまうのだ。しかし、自らが参加して社会規範を作り直すことができるなら、多くの人にとって大きな可能性が開かれることになる。それは、他者と認あ合える社会に変え得るという可能性、平板な日常を打破する可能性であり、この可能性のエロスを感じることが、ニヒリズムを克服することになるのである。
社会規範の根拠が失われ、相対主義の広まった現代においては、各個人の内的規範も共通性が少なくなる。そして、ある程度共通の内的規範が成立していなければ、共通了解といっても簡単にはいかないだろう。しかし、共通了解がなかなかできない人、拒否反応を示す人でも、自分の考えや感じ方を理解してもらいたい、他人と共有したいと感じているものだ。自分たちの欲望が結局は他者を必要とし、可能性を必要とするのだと気づくなら、そしてそのことが確認し合えるなら、それだけで欲望の本質については共通了解ができるのだ。その上で、自分が何故そのような考え方をするのか、その理由を相手に伝えようと努力すれば、相手と自分の考えが全く違うものだとしても、求あているものは同じだと納得できるはずである。そして、相手の考え方をすぐには受け容れらなくとも、もう一度自分の考え方を反省し、もっと相手と分かり合いたいと思い始めるに違いない。そこから少しつつ進んでいけばいいのである。
身体的表出と暗黙の了解
さて、確かな社会規範を作り直す可能性、他者と認め合える社会を作る可能性が、現象学的方法によって開かれ得ることを示してきた。しかし、社会規範は必ずしもはっきりと言語化され、公開された形で機能しているわけではない。私たちの規範は二重性を帯びているのであり、はっきりと意識され、誰もが口に出して認め合っている規範の他に、はっきりと口に出されない規範、暗黙のうちに成り立っている規範があるのだ。暗黙の了解という言葉が示すように、この規範の了解は身体的表出が深く関わっており、言語化されたコミュニケーションとは別の次元で行われる。それは意識的な身体表現というより、なかば無意識的な振る舞いや表情による身体的表出なのである。
日本人はそうした身体的表出に対して、口に出さず、それとなく察することを大事にしている。「日本人は何を考えているの・か分からない」という外国人が多いのは、日本人がこのような暗黙の了解を大事にし、「敢えて口に出すことではない」と考えることが多いからなのである。暗黙の了解がうまく機能している場合は、強い共有感を生み出し、他者から認められたい欲望は、言語化された場合以上に満たされる。また、日本は「罪」の意識よりも「恥」の意識が優位な社会だと言われている。西欧の人たちは社会規範に反する行為をした場合、その規範の命令を発する超越的な他者(神、父)への罪責感が生じるのだが、日本人の場合は世間への羞恥心が生じるというのだ。つまり、日本人は社会規範に準じて行為するというより、その都度の他者との関係性に準じて行為を選択していることになる。その場の雰囲気を察し、「間がわるい」と言われないように気をつけ、他者に対して恥をかかないように振る舞っているのである。だからといって、日本人にとって言語化された社会規範が重要でないわけではない。暗黙の了解は「多分、こう思っているだろう」という不安定な了解なのであり、言語化された社会規範が確かな根拠失っていれば、バランスを失ってしまうのである。
また、身体的表出の意味をどう受け取るかという問題は、言葉を発する行為そのものにもつきまとう。言葉を話すことは単にメッセージを伝えるだけではなく、それ自体が行為を遂行しているのであり、言葉で表現された意味以外の意味を含んでいる。この行為遂行的な発言における暗黙のメッセージを察することができない人は、他人のちょっとしたしぐさや表情から本音を読み取ろうと努力したり、そのことで不安を抱き続けることにもなる。それが過剰な疑心暗鬼に変化すれば、対人恐怖症になることさえある。対人恐怖症は日本人に多い神経症として有名だが、それは日本が暗黙の了解を強く求あられる社会だからであろう。
このように、暗黙の規範が強く機能している社会では、身体的表出によって送られるメッセージの意味を受け取ることは不可欠となり、それができなければ疎外感と対人不安が強くなる。そしてこの他者の身体的表出の受け取り方は、母親の態度から学んでいる面が大きいのだ。最初に述べたダブル・バインド状況にある親子を考えれば分かるように、言動が矛盾した母親に接している状況の中では、身体的表出の意味を理解する力を培うことは非常に困難なのである。日本は父性の欠如した母性中心の社会と言われているが、それは父-母-子の三者関係よりも、母-子の二者関係の方が優位な社会だということである。第三者としての父親の力が弱ければ、言語化されたルールは効力を発揮しにくく、その場の雰囲気、身体的表出の暗黙の了解、そうした確認し得ないメッセージのやりとりが多くなる。
暗黙の了解には他者との強い繋がりを感じさせる力を持っているのだが、それは外部の人間を寄せつけない閉鎖性をも有しており、現実的に効力のあるルールにはなりにくい。言語化された社会規範の根拠が失われれば、暗黙の規範はさらに不確かな了解、不信感の残る意味の受け取り、不安定なコミュニケーションに変質する危険性さえあるのだ。しかし、私はこの暗黙の了解が強く働く日本社会を批判し、西欧的な父権社会の実現を主張したいわけではない。話し合いによっては解決できない暗黙の規範、それが私たちの社会に機能している事実をよく踏まえた上で、話し合いによって成り立つ社会規範を考えてゆくことが必要なのである。十分に納得できる社会規範でなければ、あのダブル・バインド状況の母親のように無理な抑圧が生じ、多くの言動が一致しない人たちを生み出すことになる。そうなれば、いかに言語化された社会規範があっても、暗黙の了解を理解できない子どもたちを生み出してしまい、悪循環に陥ってしまうことにもなる。言語化された規範が確かなものになれば、身体的表出による暗黙の規範もうまく機能し、この二つが調和された形で内面化されるなら、私たちの内的規範はより納得できるもの、理想的なモデルと感じることができるはずだ。そうなれば、「…しなければならない」という義務感より、敢えて「…することを望む」という気持ちの中で行為を選択できるだろう。それこそが自由の実感に繋がっているのである。
自分の人生を自分の意志で選び取り、主体的で自由に生きること、それを全く望まない人はいないはずだ。それなのに、その場の衝動的欲望に振り回されたり、他者を模倣したり、宗教の教祖に絶対服従してしまう人たちが増えている。彼らは自分の意志で自由を放棄したのではなく、内的規範がうまく機能していないだけなのである。そうした社会を少しでも自由な社会に変えてゆくたあに、確かな社会規範を築く必要性、そしてその具体的方策として現象学の有効性を、様々な側面から本論では主張してきた。無論、実際には困難な問題も多いだろう。しかし、「何をやっても無駄だ」という空気の漂う現代社会の中で、「社会は望ましい方向に変えることができる」のだと思えるよう、その可能性を少しでも拡げてゆくべきなのである。
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