暁烏敏賞 平成7年第2部門本文「教え育てる真の"教育"をめざして」2

ページ番号1002619  更新日 2022年2月15日

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写真:暁烏敏像


『現代中学生⊥高校生の生活と意識調査(NHK世論調査部編一九八七年)』によれば、生活の側面で自立できていないということは、将来性や計画性についての意識と行動にも影響する。「将来、何になりたいかを決めている。」「大きくなったらやってみたい計画をもっている。」「テレビの番組は見たいものを決め、だらだら見ない。」「勉強しろと言われなくても、自分で計画をたてて勉強する。」など、将来性や計画性のある中学生・高校生は三人のうち一人というように、かなり少ないのである。

また、「早く大人になりたいか?」という質問で、「そう思う」と答えた中学生・高校生は三人に一人の割合であり、高校生でも中学生とそう変わらない。「大人になりたくない理由」としては、「子どもでいるほうが楽だから」や「大人になることがなんとなく不安だから」などが多く、いまの保護されたままの状態でいたいというモラトリアム的傾向が表れている。今回、初めて調査した「親離れ」についても、「している」と答えたのは、中学生で二割、高校生で四割弱であり、中学生・高校生全体では三人に一人の割合である。

「人に魚を与えれば、一日は彼を満足させることができるが、魚の釣り方を教えれば、彼に一生の満足を与えることができる。」ということわざがある。食べ物を与えられるだけでは、与えられた本人にはなんの進歩もない。アメリカでのカモメの話がある。カモメが毎朝、大西洋に飛び立ち、小魚の群れを見つけ、それを食べて島へ戻ってくることを繰り返していた。そんなある日、エビ漁の船団が港へ入ってきた。船団は毎晩出漁し、大量のエビを水揚げした。あたりはエビの山となり、海岸は選別された後のくずエビであふれた。カモメは飛び立つのをやめ、目の前のエビを口にするようになった。カモメは毎日を怠惰に過ごし、餌をとることを忘れてしまった。エビ漁の船団が数年間仕事を続け、カモメもその生活になじんだ。ところが一定期間の漁を終え、船団は去ってしまった。そして宝の山が消えてしまうと、カモメは飢え始めた。餌をとることができなくなってしまっていた。いかに無償で与えられるものがいい加減で、まやかしであるかがわかる。人間社会も自助努力を怠ってはいけないし、強い依頼心を持つと失敗することになる。教育においてこそまさにそのことを深く考えなければならない。

 親が子どもにしつけや社会の在り方を教える前に、子どもの要求するものをなんでも与えてしまえば、子どもはカモメと同様に飛ぶことを忘れ、人間として生きていく力をも失ってしまう。「いつまでも、あると思うな親と金」ということわざのように、親に対する依頼心の強い子どもは成人してからも社会環境になじめず、脱落していく例が多い。あるときは突き放し、あるときは深い愛情で包んであげることが大切なのである。自立心のない人間、依頼心の強い人間は決して社会生活にとけ込むことはできない。このことは、貧しい人や障害を持つ人、恵まれない地域に住む人についても同じことがいえる。ただかわいそうだからということで、与えるだけでは進歩はない。生き生きとした人間としての生きる力を導いてこそ、本当の教育といえるのである。

このように教えると、過当競争は問題であるが、適正な競争を教育にたずさわるものは見直す必要があるのではないか。世の識者たちが、若者に同情し、受験地獄をしきりに訴えるが、実際に試験をなくした結果、生徒がまったく勉強しなかった例もある。無競争というものは、時として人間を堕落させることがある。もちろん競争にともなう害もあるが、その多くは競争そのものにあるというより、競争に参加する人の心のあり方に原因する場合が多い。そのことは中学生・高校生を対象にした各種の意識調査の結果、過半数を超える子ども達が、受験勉強を肯定的にとらえていることからもいえる。およそ定員があり、またそれを上回る志願者があれば、何らかの選抜が行われることは避けられない。

それは議員の選挙をみても、入学試験や入社試験をみても明らかだ。もっと個人的なことでいえば、配偶者を選ぶときにも競争原理が働く。自分にとっての配偶者の定員は一人だから、多数の候補者の中から何らかの基準によって、一人の相手を選び出して結婚するのである。そしてまた、定員より志願者が多ければ、ポストを求めての競争が生じる。これもまた理の当然である。ところが一切の競争、あらゆる選抜を"非教育的"として否定する風潮がある。それを説く教師自身、定員のある教職を求めて競争してきたのであり、それを説く大学教授自身、入試によって一定以上の学力のある学生だけを選抜している。もしこの競争や選抜を否定するなら、教職志願者全員を教員に採用しなくてはならず、大学は全入制にしなくてはならない。しかし、そんな余裕は社会にはないし、もしあっても不適格者が教師になり、東大は学生でパンクしてしまう。それでは生徒も不幸だし、教育もできない。

すべての子どもにオール5をつけたり、すべての志願者が本人の能力や努力とは無関係なシステムによって選ばれるとすれば、そこには努力放棄や不公平が生じる。意欲のある子や積極性のある子をつぶしてしまうことになる。競争は、定員があり個人差があるという現実がかかえる人類永遠のテーマであるが、競争それ自体は決して悪いものではない。それはチャンスが広範に存在するということであり、民主主義的かつ自由主義的な社会体制によって立つ基盤でもある。つまり、競争とは自由のことだともいえる。

教育の機会は均等でなければならないが、その結果、できる者とできない者が出てくるのは当然のことである。みんな同じようにできるなどということはあり得ない。結果の平等というあり得ないことを求めると、不満が限りなく出てくる。その不満を解消するために、限りなく統制的になる。学校群制度もそのよい例である。競争をなくすと悪貨が良貨を駆逐するということになり、とんでもない結果になる。

また学歴主義は実力主義の原理に反するとして批判、攻撃されるが、その学歴は実力のみによって獲得される。学歴を得るためには、入試に合格しなければならないが、わが国においては入試ほど完全な実力競争はない。裏口入学等の問題はあるにしても、全くの例外にすぎない。縁故採用や有力者の引き立てが、時として大きな力になるような企業などの状況に比べれば、個人の名前を伏せて採点が行われ、一点差によって合否が決定され、誰の助けもなく独力で立ち向かわなければならない入試がいかに公平な実力競争であるかは明らかである。

従って、学歴によって個人を評価し処遇することは、個人の力ではどうしようもない家柄、身分、人種、性などによって社会的地位が決定されるよりはるかにA口理的、近代的であるといってよい。わが国においても、学歴主義が実現したのは、身分社会から近代社会に移行した明治以後のことであり、また学歴主義が力をもっているのは、一般に合理的、近代的な特性が強い官庁や大企業、専門職などである。

もちろん現在でも不合理な点は多く残っているが、もしそんな不合理が完全に解消されて、受験生の学力から人物さらに将来の可能性まで、ピタリとわかるような評価の方法が開発されたとすれば一体どうなるだろうか。そのときには人生から夢も希望もなくなってしまう。評価が完全無欠でないからこそ、低く評価された者もその評価が不当だとか、運がわるかったとかいった旦ハ合に自分をなぐさめ、また周囲からもなぐさめられる。そして将来に夢を託してやり直すこともできる。

適正な競争こそまさに"自然"そのものであり、その意味での"自然"になんらかの規制が加えられた時にゆがみというものが生じる。ところが外面的、社会的評価に左右されやすい人ほど、子どもを競争させることがかわいそうだと言い、その機会を失わすような方向に教育を持って行こうとする。その結果として、心身共に何にも耐えられない虚弱児ができる。そのなりゆきは目に見えている。しかも、その競争たるや人間の全能力、全人格を競うものではなく、ほんの一部分を競うにすぎないし、その過程を通じて自分自身を見つめるよい機会にもなる。

さらにこのことについて私が忘れられないのはあの筋ジストロフィー患者の玉置真人君のことである。裁判の中で、学校側は不合格にした理由を「学力だけでなく総合的能力」から判断したとのことであり、玉置君側は学力を基準にすべきだと訴えた。試験結果は、「受験者上位10%以内」でありながら不合格である。人間が人間を評価することの困難さ、しかもそれに「学力だけでなく総合的能力」などというあいまいなものが入り込むことによってかえって不幸な人間が出てくる。「学力だけでなく総合的能力」を判断するなどということは、考えてみれば、神や仏ならぬ人間にとってこれほど傲慢なことはない。マスコミでこの問題が報道されるたびに、玉置君宅へいやがらせの手紙や無言電話が続いたそうだが、向学心に燃えた少年の気持ちを考えると腹立たしさを感じる。

英語で敵に当たるのはrivalとenemyがあるが、戦争での敵はenemyである。戦場で敵と味方がはっきりと分かれ、直接に戦う関係である。勝つか負けるか、二つに一つであり、敵のミスは味方の利得になる。スポーツでも相僕、レスリング、剣道など個人と個人で勝敗を争うものもあるし、野球やサッカーのようにチームとチームで勝敗を争うものもある。これに対して同じスポーツでも、成績、得点、記録を競い合うものもある。マラソンやゴルフなどは個人と個人で、-ーレーや体操の団体戦などはチームで競い合うが、そこでは一対一の勝負が行われるのではない。敵と味方に分かれてもいないし、直接、同時に対戦するわけでもない。一人ずつ、一チームずつ、順番に出場することも多い。rivalとは好記録を共通目標とする戦友であり、好敵手である。戦争の相手はenemyだが、学問や芸術での競争相手はrivalである。rivalは敵との戦いではなく、記録との戦い、さらには自己との戦いであるともいえる。敵と味方が対戦するスポーツにしても、敵をenemyではなく、rivalと見るのがスポーツマンシップである。そこには競争があるからこそ健全な精神を育むことができる。

高校野球を見て思うが、甲子園出場をめざして、連日汗と砂にまみれて猛練習をし、正月もなくプロ顔負けの野球づけの生活を送る。そしてテレビ、ラジオで放送され、新聞は大きな見出し、選手は英雄あつかい。優勝までは、涙ぐましいほども激しい練習やそれにまつわる様々の美しいエピソードがあり、まさに燃える青春、すばらしい少年たちといった具合に紹介される。ところが、同じ高校生が勉強に情熱を燃やし、暑い夏休みも予備校にかよったり、自宅で猛勉強をして合格が難しい大学に挑戦すべく努力しても、またその結果見事合格を果たしても、どこか冷たい眼でみられる傾向があるのはどうしたことか。

社会やマスコミの一部に受験に情熱を燃やすことは良くないことであり、受験制度は子どもの性格をゆがめ社会全体に悪影響を与えるものであるかのように表現したりもする。受験は子ども達を地獄に導くものと騒ぎたて過ぎるようである。確かに高いレベルで望みを達成しようと思えばやはり過酷な一面があり、しばしば地獄だと思うようなこともあろう。高い山を登るときもつらくて途中で引き返したくもなる。高ければ高いほど、この傾向は強い。スポーツの世界でも学問の世界でも、願望が高ければ高いほど過酷になるのは事実である。しかしそれだからといって、高い目標に向かって挑戦する努力がいけないのなら、社会や個人の発展とか成長はない。受験は一種の競争心理が働くからいけないとするなら、各種のスポーツ大会の存在意義も、甲子園での高校野球の存在意義もない。

単なる感情論的な甘えからはなんら生産的建設的なものは出てこない。エモーショナリズムは往々にして自らの感情に訴えかける対象や現象だけしか受け付けない。そうなるとどうしても主観的、独断的、一面的な認識にとどまりやすい。たとえば、落ちこぼれがいると「かわいそうで気の毒な」存在としてしか見ない。従って"落ちこぼれ"を客観的、理性的に解決しようとせず、"無限の可能性"を盾にして、"落ちこぼれ"などありうべからざる存在であり、どんな"落ちこぼれ"も教師が努力さえすれば"落ちこぼれ"でなくなると考える。あげくのはてに、「社会が悪い」「政治が悪い」というお決まりの論理で片付けてしまう。これではなんの解決にもならない。

"分かる授業"が大切だとよくいわれる。授業が分かる子どもが七・五・三(小学生で七割、中学生で五割、高校生で三割しかいない)といわれる今の学校において"分かる授業"が必要なことは当然のことだ。しかし授業というものは本来、"分からないこと"があるからこそ必要なのである。テレビやマンガのように寝転んで見ていても誰にも分かることばかりなら、わざわざ教室に子どもを集めて、教師という専門家が教える必要はない。だからこそ、教師は授業がどのくらい分かったかを常に確認するために、質問をしたり、テストをしたりするのである。仮にテストをして百点をとった子どもが百%分かったとすれば(もちろんこれだけでは不十分だが)、全員が百%分かった授業とは、全員が百点をとる授業ということになるが、そんなことはありえない。"分かる授業"とはなんでもかんでもかんで含めるように教え、予習も復習も集中的努力もいらない授業ではない。

このように考えると、完全に理想的な環境などありえない。あったとしても、そこには無為、怠惰、退屈が生まれるだけである。人間の 生は絶えざる失敗、挫折の連続であり、常に試練と苦難の中に立たされている。ところが、いかなる環境の中にあっても毅然として身を守り、いかなる悪条件をも敢然として克服していく勇気と態度があれば、豊かな人生を歩めることになる。私たちはその実例を歴史の中にも、周囲の人々の間にも数多く見出すことができる。子どもを守ることが大人の責任であるというよりも、よりいっそう自らを守るような子どもを育てていくことが、本当に子どもを大切にすることになる。今こそもう一度、ルソーの「自然に帰れ」という訴えに耳を傾ける時である。

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