暁烏敏賞 平成16年第2部門本文「『つながり』という支援 教育相談機関における電話相談の実践を振り返って」2

ページ番号1002569  更新日 2022年2月15日

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第20回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

話す口調や投げやりな態度から、子どもの側の問題を云々し、家出と聞けば、それはとにかく非行であり、問題行動であると決めつけてしまうことは多いが、場合によっては事例6のように、子どもにとってそれ以外の選択肢がなく、やむを得ずとる行動が反社会的なものである場合も決して少なくはないだろう。この相談のCaが、その後どうなったのかは知る由もないが、筆者は電話の後に次のようなストーリーを思い浮かべた。【その晩、友だちの家に戻ったCaに友だちがわけを尋ねたことから、電話相談の話題になり、Caは思い切って性的な虐待の事実を話す。それを聞いた友だちが何とかしようと、学校で養護教諭に相談し、そこから本人への支援が始まる…】或いは【その晩、意を決して帰宅したCaを母親が強く叱責すると、Caはいつものように反抗せず、思いがけず泣き崩れる。それを目の当たりにした母親が問いただすと、電話相談で話した内容を繰り返し、母親もその様子から娘の様子に嘘がないことに気づき、娘を抱きしめる…】、そして、そのように展開することを祈るのみであった。

この電話は、女性WoがCaの訴えを真剣に受け止め、Caの安全と心身の健康とを守りたいという率直な思いを誠実に訴え、Caがそれに応えたことで成り立っている。CaとWoとの間で信頼を交換しあった、そんなつながりの事例である。

3 つながりについて

(1) 電話相談でのつながり

前章では、先ず6年間の統計結果から電話相談のおおよその傾向を示した。そして、6事例を通して電話相談の内容を明らかにし、子どもの教育にかかわる様々な悩みの実際を紹介した。

さて、それではこのような電話相談の取り組みからは、一体何が示唆されるのだろうか。

それは、事例の中でも何度か言及したが、筆者は「つながり」という一語に集約されるものと思われる。これらの電話相談を振り返ってみると、そこには必ず何らかのつながりやつながりへの志向があった。図4をみていただきたい。

図4 電話相談の中にあるつながり(親の場合)

図:電話相談の中にあるつながり(親の場合)


電話相談とは、問題を解決しようという意志と、伝える意欲と能力を持っているCaの電話をかけるという行為に始まり、それを受け止めながら、問題の解決に向けてともに歩もうとするWoとの共同作業に他ならない。それを成り立たせるのはやりとりを通して確かめ合うお互いへの信頼であり、ここに関係性のべースとしてのつながりが生まれる。「電話カウンセリング」の役割を果たしたと思われる事例1や事例6は勿論のことだが、紹介した全ての事例において、先ずWoがCaの相談に真剣に耳を傾け、同じ人間としての人格の尊重を基盤に、共感的な理解をめざしながら、「いま・ここ」での応答に取り組んだ。その過程を通して生まれてくるのがつながり【A】ではないだろうか。尚、事例2や事例6のように、子ども本人がCaの場合には、図中の「子」の位置が親と入れ替わることになる。
そして、子どもの教育にかかわる相談では多くの場合、問題の提起者と問題の対象者とは別であり、その間のつながり【B】を如何に結ぶかが解決の鍵となる(事例3では携帯電話を欲しがる娘さんが問題の対象者であるが、困っている問題の提起者はCaの母親であった例を思い出していただきたい)。両者のやりとりが深まれば、気持ちのずれや誤解も解かれ、問題に対する納得や妥協の着地点も見いだされることになるのである。またその裏付けに、問題の提起者と、配偶者などの家族の他の構成員との間にコミュニケーションが確保できれば、つながり【B】も維持しやすいことは経験的に知られている。事例3や事例4ではWoの側からそれを促しているが、図2「親の性別」でも示したとおり、受信した相談の多くはCaが母親であり、父親が問題に向き合うことによって解決の糸口が見つかることが期待できそうな相談も少なくなかった。事例4でも、母親からの求めに応じて、娘のいじめの問題に父親が立ち上がったことによって、その後の展開が早まったといえよう。

更に、事例5でも示したとおり、支援のための外部の人的資源へと橋渡しをするつながり【C】も電話相談では大切な役割である。

このように、CaとWoとのやりとりの中でCaが自ら問題を捉え直したり【A】、電話をきっかけにCaが子ども(親)と向き合い始めたり【B】、或いはCaが家庭の外にある支援を求めたり【C】と、動きは様々だったが、いずれにせよ、悩みや問題を抱える人が解決に向けての一歩を踏み出していく過程では、つながりやつながりへの志向は明らかに存在した。電話相談の活動を通して、子どもの教育では、つながりという視点が重要であることが確認できたのである。

それでは、我々の社会において、子どもを取り巻くつながりの現状は一体どうなっているのだろうか。

(2) 子どもを取り巻くつながりの現状

出生に始まり、続く乳幼児期を経て、その後に学校教育をおくり、やがて子どもは成人する。哺乳という母親とのつながりを先ずはじめとして、父親や兄弟姉妹などの家族から、次には家族外の子どもや大人へと対象を拡げつつ、様々な他者とのつながりを体験し、子どもは成長していくのである。そしてその間、元気な時の子どもは親を喜ばせたい、親に褒められたいと、出会う物事に積極的にかかわろうとする。つながりが子ども本来の自己成長力を引き出してくれるのである。逆に、困った時には親にしがみついたり、弱音を吐いたりしながら、つながりからエネルギーを補給し、守られている安心感をバネに不調から立ち直っていく。学校に入ってからの先生との関係でも同様である。それからやがては、友だちとのつながりが子どもの成長にとって大きな役割を果たしはじめる。家族や先生には言えない秘密も、友だち同士で共有しあい、それが子どもを支えていることも現実には多い。そして、この一連の成長過程は、昔から変わらないことなのだろう。

しかし、周りを眺めると、このようなつながりを断ち切ろうとするかのように、便利さ、快適さを売りものにする様々な商品(以下、モノ)や刺激的な情報メディア(以下、メディア)が巷には溢れ、我々はそれに目を奪われて暮らしているのが現状ではないだろうか。それでも、電話相談に至るような悩みや問題のない親子が多数を占めているには違いないが、一方で、次に記すようなつながり不全の親子も確かに存在しており、今後増加していくことが懸念されるのである。

それでは、先ず、つながりを感じにくくなっている子どもの日常とは一体どんな様子なのだろうか、それをみてみよう。

「休みの日には、朝からエアコンの効いた自分専用の部屋で、ファストフードを頬ばりながら大きなペットボトルから炭酸飲料をがぶ飲みし、刺激的なテレビゲームに興じたり、インターネットで様々な世界を徘徊する。友だちとのかかわりといえば、携帯電話でのメール交換かゲームカードなどの情報交換型のやりとりが中心、昨日と今日の違いといえば、借りてきたビデオと夜のテレビの番組だけ…」。ここでは学校教育段階での子どもの極端な例を示したが、子育てに悩みや問題を持たない家庭であっても、実際には、モノやメディアの洪水に溺れている子どもも決して稀ではないようだ。逆に、大量生産・消費社会のモノやメディアに影響されずに育っていると言い切れる子どもはほとんどいないだろう。

確かに、ある意味快適な環境には違いない。しかし、そこでは、「自分」だけに閉じていく可能性しか見いだせず、生身の他者と喜びを共有したり、逆に葛藤をぶつけ合う機会がほとんどないのではないだろうか。まるでコンピュータに制御された、ビニールハウスの温室のような、そんな環境なのかも知れない。そこにどっぷりと身を置くと、筆者には、体だけでなく、心にも贅肉がつくようにも思える。そしてその結果、つながりの感覚がより一層鈍くなるのではないだろうか。大人が用意したモノやメディアに振り回され、人間本来のつながりを忘れているともいえるだろう。

次は、そんな子どもを家庭で育てる親の側である。親自身が自分の欲するモノやメディアに目を奪われているのは勿論のことだが、子どもの成長のためと信じてか、幼いうちからビデオやテレビゲームをはじめ、モノを豊富に買い与えることが当たり前になっている。そして、それが自分たち親の満足感のためであることに気づかない。また、学力という一つのものさしが子どもの価値の全てであるかのように錯覚している、そんな親たちもいる。これらの親に共通するのは、先ず自分の思いや考え方を優先させることであり、更に子どもからの不調を示すシグナルを見逃していることも、併せて指摘できるだろう。このような親の子どもへのかかわりは、幼いうちは、過保護・過干渉になりがちだが、成長するに連れ、子どもが自分たち親の手に余りだすと一転放任するという、表面的には全く反対のあらわれになる。しかし、どの時期にも共通するのは、溢れるモノやメディアによって、親自身が外から与えられた、商品としての子育てイメージに振り回されていることである。見方を変えれば、自分たち親の信念や価値観を自覚し、それを子どもに伝えようとしていないのである。

また、父親と母親との子育ての役割分担がうまく行われていない家庭も見受けられる。事例3で示したように、子育ての責任を一身に負わされ、不安を抱えている母親からの相談が電話相談の活動の中では多かった。家庭の中で、いわゆる「母子カプセル」のように母子が密着し、一方で父親が子育てから逃避して仕事や趣味など、家庭の外だけを向いている、家族=(子+母)+父と、このような関係式で表現できそうな家族の構図が浮かんでくる。勿論、三世代同居や母(父)子家庭など、色々な形態はあるだろうが、この式が家族の核として、入れ子構造になっている場合も結構多いのではあるまいか。

そしてはからずも、子育てをモノやメディアに任せきってしまい、上に述べたようなつながりの希薄な親子関係のままに子どもが育っていけば、子どもは「守られている」「受け止められている」と実感できずに成長することになる。そのため、「今の自分でいいんだ」という自己肯定感が育たず、外界の人や物事に対して、自信を持って積極的にかかわろうとする能動性も弱くなる。そして結果的には、子ども本来の成長過程を歩めず、感情表現がうまくできない、いわゆる「失感情言語症」の状態になったり、衝動性を発散できずに突発的な暴力の芽を内にため込んでしまったりすることになる。それは子どもが様々な問題行動を引き起こす一因となるが、不登校やひきこもりなどの内向きの問題行動を示したり、非行という外向きの問題行動があらわれた場合には、事例で一部示したように、問題に応じて何らかの対応をとることもできるが、表面的には不適応を示さない、いわゆる「よい子」が内包する問題性は見落とされがちになる。テレビゲームなどのバーチャルな世界に身を任せていることで、生活実感を伴わない妄想が膨らみ、それをあたかも現実のように取り違えて「キレ」る、そんな子どもたちは潜在的にはかなりいるのではないだろうか。

実際、近年の突発的な少年犯罪の加害者の多くに共通するのは、ここで強調しているつながりの感覚の希薄さである。物質的には恵まれていても、子どもがひとり家族の中で孤立していたり、母子や家族が地域内で他とのかかわりを断っていたりと、個々の状況は様々ではあるが、共通してつながりに問題を抱えているには違いない。この子どもたちは、学業成績ではほとんど問題を示さないが、一方で社会性が育っておらず、対人関係での葛藤状況に直面しても対処方法を学んでいないため、ゲームなどで身に付いた手段で解決しようとし、「むかつく」「ぶっ殺す」「死ね」「消してやる」「リセットするぞ」、そんなことばを繰り返し心の中で相手に向けてしまうのが特徴である。そして、親からはこんなコメントが事件の後に繰り返されている。「もう少し子どもの気持ちを知るべきでした」「子どもが考えていることを全く知りませんでした」と。

しかし、だからといって、我々はその度に不安に駆られる必要はあるまい。意識しようとしまいとにかかわらず、大多数の家庭には親と子どもとの間に既につながりが根付いているのだし、たとえ子どものことで何らかの悩みや問題を抱えていようとも、つながるための資源は、子どもの側にも大人の側にも、それぞれの内に必ず存在しているからである。マスコミが不安を煽る「心の闇」「少年犯罪の凶悪化」などの論調に右往左往するよりは、自分の目の前にいる「いま・ここ」の子どもに向き合うことから、先ず始めてみてはどうだろうか。解決はその問題に気づいた時がスタートである。筆者には数多くの電話相談の経験から、子どもとのつながりにタイムリミットがあるとは思えないのである。

(3) つながりを取り戻すために

それでは、万が一子どもとの間につながりが途切れてしまっている場合、それを取り戻すには一体どうしたらよいだろうか。最後にその解法について述べたい。
それには、先ずは大人の側が便利さ、快適さだけに目を奪われないことだろう。確かに、情報化がすすみ、高度な科学技術の恩恵が浸透している、この社会を生き抜いていくためには、便利で快適なモノやメディアをうまく使いこなす必要はあろう。しかし、その一方で、子どもを育てるという、とても非効率的で、手間のかかる営みがあることもしっかり自覚しておく必要があるのではないか。子どもは「こうすればこうなる」式の因果関係が必ず成り立ったり、時や処にかかわらずいつでも状態が同じというモノとは違い、関係のありようで変わりうる存在なのである。モノに関することは、効率で割り切ればよいだろうが、それを生身の子どもにあてはめてはいけない。便利さが溢れる世界に身をおいて、その一方で思い通りにならないものがあることは、ある意味とても苦痛だが、それに耐える力、いわゆる「葛藤保持力」も大人には必要なのかも知れない。モノやディアを使いこなし、それで産み出した余力や時間を手間暇のかかる子どもに向ける。そんなメリハリが我々大人の暮らしには望まれよう。実は、その手間暇から得られる見返りは大人にとっても思いがけず大きいものなのである。仕事の忙しさやストレスを、ふと思い出す子どもの笑顔が救ってくれたことはないだろうか。
そしてもう一つ、子どものことは、子どもから教えてもらうことである。面と向き合っての会話だけではなく、子どもの仕草や振る舞い、表情や声の調子など、関心を持って接していると、そこには沢山の情報が溢れている。「この子は何が好き(嫌い)なのか」「どんなことが得意で、どんな分野は苦手なのか」「何にこだわるのか、逆に頓着しないことは何なのか」「友だちのだれに影響を受けているのか、だれとトラブルを抱えているのか」「いまの調子はどうなのか」等々。もしも、悩みや問題に突き当たったならば、先ずは関心を持って子どもに向き合ってみることである。電話相談においても、何かをアドバイスすることよりも、相手の心情を理解することが最も重要な営みであった。何故なら、十分な理解には、問題解決の手がかりが自ずから隠れているからである。しかし場合によっては、それまでは何でも伝えてくれたものが、思春期を迎えると、子どもは親や先生など大人に対して口を閉ざすことがあるかも知れない。その場合でも、色々な問いの答えが分かるかどうかという結果ではなく、子どもに対して、このような問いを常に持ち続けながら「おまえのことを気にかけているよ」「あなたのことを心配しているよ」と真っ直ぐに子どもに向き合っているかどうかが大切なのではないだろうか。そもそも子どものこと全てが分かると思うのは大人の奢りであり、ここでも分からないことに耐える力が必要なのかも知れない。
そうすれば、子どもからは必ず何らかのサインが発せられる。子どもは自分に向き合ってくれる相手にはその器の大きさに応じてメッセージを送ってくれるものだからである。それを見逃さず、理解のためのかかわりを続けて欲しい。そこには、新たなつながりがうまれるだろう。きっと子どもと向き合いながらモノやメディアを話題にする機会もできるに違いない。モノやメディアに踊らされる子どもにするのではなく、モノやメディアを使いこなす子どもに育てるためにも、先ず子どもとのつながりをしっかりと作って欲しいのである。
考えてみると、このようにつながりが鍵となるのは、悩みや問題のある時だけのことではない。前節でも述べたが、家庭、学校を問わず子どもの教育の様々な場面でつながりが果たす役目は大きい。順境においても逆境においても、生きていく上で人とのつながりは必要不可欠なものなのだろう。あたかも、空気や水、食物など生命維持に必須なものと同等にである。そして、きっとそれは子どもの時だけではなく、成長して、次の時代を担う子どもを育てる大人の立場になっても変わらずあてはまるに違いない。
モノやメディアが溢れている今この時代だからこそ、我々大人の努力によって、子どもの日常へ、そして社会の隅々へとつながりを浸透させることが求められているのでははないだろうか。

4 おわりに

本稿では、教育相談機関における電話相談の実践を紹介し、子どもの教育におけるつながりの重要性を指摘した。「母さんがいてくれる」「父さんが受け止めてくれる」「先生が守ってくれる」「友だちが分かってくれる」、子どもを取り巻く人間関係のどこかに何らかのつながりが確保されれば、子どもは自分を勇気づけたり、立ち直らせることができるはずである。電話相談の活動を通してこのつながりの大切さをひしひしと感じた。

紹介したように、6年間で3000件を超える、多くの電話相談を受信してきたが、できれば電話以前に家族や学校の中で問題が解決されれば、とも思う。近しい人ではないからかえって話せるということも確かに相談事にはあるにはある。しかし、逆説的かも知れないが、電話相談が必要ない、そんな社会が理想だろう。

尚、本稿ではつながりということばを使い、敢えて親子の場合にも「絆」ということばは使わなかった。プラス面が強調されることの多い、絆ということばが持っている、束縛というマイナス面「ほだし」を親子の双方が受け止めるには、両者の関係の深まりが前提となるが、先ずは、その一歩手前の関係そのものを再構築する必要性を感じるからである。但し、つながりから絆へとその関係性が更に深まることを願ってはいるが。

これまで、細い頼りない一本の糸ではあるが、先ず通話者の心に寄り添いながら、子どもの教育につながりが満ちることを願い、そしてその一助となることをめざして、電話相談を行ってきた。続けてきたのは、「つながり」という支援である。

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