暁烏敏賞 平成9年第1部門本文「日本の芸道に含む感性とモラル」1

ページ番号1002600  更新日 2022年2月15日

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第13回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

  • 論文題名 日本の芸道に含む感性とモラル
  • 氏名 室 弥太郎
  • 年齢 66歳
  • 住所 金沢市
  • 職業 会社非常勤役員

1 芸道における道の自覚

芸道においては技術や技法が重要であることはいうまでもありませんが、同時にそこには、厳然たる理念とこれを実現するための方法の自覚、つまり道の自覚が存在しなければなりません。こうした道の自覚はいつごろに芽生えたのかと考えますと、平安中期の歌論や説話文学にも見出されるのですが、それが明確な自覚として表出されたのは平安末期の藤原定家(一一六二〜一二四一)の歌道意識にはじまるといってよいと思います。

以来、伝統的な諸芸術・諸技芸も歌道の影響をうけて、しだいに芸道意識というものをもちはじめて、管弦の道・能楽・連歌・茶道・華道・香道・俳諧・絵画工芸・武芸など、江戸時代のはじめの頃までに多種多様な芸道が発達することになったわけです。

芸道における感性とモラルを論述するためには、諸芸道全般にわたる個別の研究を踏まえたうえでの論究であることがもちろん望ましいのですが、ここでの考察は、主として能楽および侘び茶の伝書にもとつくものであることを予めお断わりさせていただきます。

さて「芸術」という日本語は、芸術の制作、創造、表現といった芸術活動を意味しますが、それとともに、そうした芸術活動が産みだした芸術作品をも意味するのが普通であります。偉大な芸術といえば、偉大な芸術作品というのが一般的な意味でしょう。芸術ということばの原語にあたる英語のArtやドイツ語のKunstにしても事情は同じことでしょう。

これに対して芸道という言葉は芸を実践する道を意味しますが、鑑賞の対象となる芸術作品という意味が稀薄になると思います。芸術作品としての意味をもった言葉としては、むしろ芸とか、もしくは芸能という言葉の方が適当かと思われます。芸道という言葉には文化的価値や芸術的価値を創造したり再創造したりする表現主体の、自覚的実践的立場が強く反映しているのではないかと考えるのです。要するに道を究めようとする姿が強く打ち出されるのです。

はじめにも申しあげましたように、芸道の歴史が始まったのは藤原定家における和歌の道、つまり歌道の自覚からだとみられるのですが、この場合、道の意識というものは仏教、これは天台宗の仏教ですが、その仏教における道、つまり仏の道に暗示されたものであることが理解できると思います。と言いますのは、和歌の修業錬成の厳しさが、仏道修業になぞらえられていることからもうかがい知ることができるのです。仏道における「道」とは、サンスクリット語のgatiつまり、場所とか、世界とか、国土というものがもともとの意味なのですが、それから転じて、得道、すなわち悟りを開くための「道」のように、内面化され、理想化ねはんされた世界であります。悟りの境地、あるいは涅槃、もしくは、悟りの智恵、菩提と言ってもよいでしょう、その様なことを意味すると共に、至高の境地に到達する方法をも意味するようになったのです。

芸道の意識には、このような仏道における道の意味が深くひそんでいるとみて差しつかえないと思います。

こうした道の意識は、室町期において禅の洗礼をうけた能や茶の湯において、一段と内面的に深められたのです。室町時代初期の能役者であり、能作者でもあった世阿弥(十三六四?〜一四四三)が、その後期の伝書である『花鏡』の末尾で、老後の初心を説き、

老後の初心を忘るべからずとは、命には終りあり、能には果てあるべからず。

と語っています。この意味するところは、仏の道における悟りの境地というものの深さは限りなく深遠なものであり、悟りへの道には終りというものがない。それと同じように、芸道というものにも、究極としての至高の境地、言いかえれば美的な悟りへの道もまた果てしがないという自覚がなければならないのだ、と解釈されます。「日常の全生活面をあげて能の稽古たらしめるという境地」「全生活をつらぬく修道精神」、そこに中世芸術の人間性を確立した世阿弥の姿を、まざまざと見てしまうのです。同じようなことですが、江戸中期の俳人上島鬼貫(一六六一〜一七三八)が、その著書『独言』のなかで

「修行の道に限りあらざれば、至りて止まる奥もあらず、又臨終の夕までの修行と知るべし」

と説いているのも同様の道の自覚といえるでしょう。

ここで一つだけ、どうしても付け加えておきたいことがあるのですが、古代ギリシャの医学者ヒポクラテス(HipokratesBC六〇頃〜BC三五七頃)の金言にarslonga vita breis(芸術は永く人生は短い)という言葉がありますが、この金言の真の意味は、人の一生は短く、技芸、彼の場合は医術ですが、この技法を修得するには永い年月が必要です。だから寸暇を惜しんで学習に励まなければいけません。という技術中心の常識的な教訓であります。本来この技芸という言葉は技術という意味で、現代で言うような芸術という意味ではありません。したがって世阿弥や鬼貫の深遠な道の自覚とは次元を異にしていることを指摘しておきます。

それはともかくとして、仏道修行によって悟りを開くということは、仏陀、すなわち、存在の真理を知見して人格を完成した人になることを意味します。これと同じように、芸道修行によって芸の至上の境地に到達することは、いわば芸道的悟りでありまして、美的人間の本来的在り方の実現といえるのです。ですから芸道修行の目標というものは、目に見える美的価値としての芸の、もしくは芸術作品の、完成であるとともに、至高の芸境において体験される、目に見えない美的人間の理想像の達成でもあるわけです。日本人の美意識は、芸術作品を自律的な存在とは見ないで、作品の美しさの背景に作者の像を思い浮かべて、その人品の美しさと作品の美しさの接点に「美」を求めている、あるいは認識している(山本健吉氏『日本の美について』)といわれますのは、作品の対象的な美的価値とともに、作品において実現される内的な人格価値を重視するという、伝統的な芸道意識の反映と見てよいでしょう。

西欧の美意識の歴史において、古典古代の美意識は、カロカガティアkaλokaraθia(美にしてかつ善なること)の理念によって代表されていますように、美意識の汎律性(Pantonomie)すなわち、美・善・真等の諸価値の融合を特徴とする(山本正男氏『感性の論理』)といわれていますが、芸道における美意識も一種の汎律性として、特徴づけられている、といえなくはないと考えるのですが、ただし、この汎律性は、近代における諸価値の自律以前の、素朴な汎律性ではなく、仏教によって媒介された、根源的・自覚的な汎律性というべきでしょう。

2.美的自然主義

ひろく知られているように日本の伝統的文学、ことに詩歌においては、万葉の昔から四季折々の自然の風物に対する美的情趣や感懐にみたされたものが多く、花鳥風月に対する愛着と喜びが時には狂熱的な高まりを示すことさえ珍しくはありません。そこには感情移人的に自然に傾倒する態度が顕著なのです。こうした自然との親近性は、比較的温和な気候・風土に恵まれ、幾千年の農耕生活を通して培われた民族的な心情というべきでしょう。

日本人にとって自然は、やすらぎの与えられる住処であり、心情を吐露しうる友でもあったし、恵みの母、神的造化、永遠なる理法・存在でもあったわけです。

「見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出。鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」(「笈の小文」)

(見るものすべてが花であり、思うことすべてが月でないものはない。iすべては、俗事にかかわらぬことのみである。人はその見る物が花でないならば、すなわち物を花として見ないならば、野蛮人と同様であり、心に思うところが花のような優雅さでないならば、たぐい鳥獣の類である。だから、野蛮人や、鳥獣のような境涯から抜け出のつとて、天地自然に則り、天地自然に帰一せよというのである。)

と芭蕉も語っているように、芸道における美意識とは、いうなれば汎神論的自然感情によって深く浸透された美的自然主義として特徴づけられるでしょう。

世阿弥は能芸美を自然の花にたとえて「花」とよびましたが、その花について次のように語っています。

ソモソモ、花トイフニ、万木千草二於イテ、四季折節二咲ク物ナレバ、ソノ時ヲ得テメヅラシキユヱニ、モテアソブナリ。申楽モ、人ノ心ニメヅラシキト知ル所、スナハチ面白キ心ナリ。花ト、面白キト、メヅラシキト、コレ三ツハ同ジ心ナリ。イヅレノ花カ散ラデ残ルベキ。散ルユヱニヨリテ、咲ク頃アレバメヅラシキナリ。能モ、住スル所ナキヲ、マヅ花ト知ルベシ。住セズシテ、余ノ〔風体〕二移レバ、メヅラシキナリ。(「花伝第七別紙口伝」)

身近な自然の美しさのなかで花の美しさが最たるものであることに異論を唱える人はないでしょう。古来幾多の歌人が珠玉の言葉をつらねて花への讃歌を奏でたり、また、ひそかに人への憧れを花に託してきましたが、それというのも花が汲めどもつきせぬ美しさの源泉だからです。

自然の花には豪華絢爛から地味素朴に至るまで限りなく多彩な美しさが見出されますが、能芸美を花にたとえた世阿弥は、自然の花にも似た多彩多様な演技の美しさを舞台の上に実現しようとしたに違いありません。舞台の花が咲く花のような美しさを基調としなければならないとしたのは、世阿弥の切実な要求であったと思います。

たしかに「花」というものは、たとえば、演者が舞台の上に登場した瞬間に、ぱっと観客の心をとらえてしまうような力があります。それは、フランス語なら「プレザンス」といういささか哲学的な倍音をもつ言葉で表現するような、ふしぎなものであると思います。世阿弥における「花の公案」も、すべては、「花」を「観客」の視線との関係で把握しようとする立場を雄弁に語っているのではないでしょうか。いささか、やっかいな言い方になりますが、世阿弥にとって、「まことの花」とは、単に統計学的・社会学的成功によって、いうなれば、外から保証されるだけのものに留まることができるものでしょうか。「第七別紙口伝」が、「申楽モ、人ノ心ニメヅラシキト知ル所、スナハチ面白キ心ナリ。花ト、面白キト、メヅラシキト、コレ三ツハ同ジ心ナリ」という、有名な、そして、ほとんど近代的といっても差しつかえのない定義を下したのち、最後に「花トテ別ナキモノナリ」とか、「人々心々ノ花」とか、「イツレオマコトニセンヤ。タダ、時二用ユルヲ以テ花ト知ルベシ」とか、つまり「別紙口伝」は、ある意味では、〈花・相対論〉を一つの論理的帰結のその極限にまでもっていっていると考えます。

能芸美の美的理念である幽玄が花のような美しさを意味する言葉であることは、

たとへば、人に於いては、女御・更衣、又は遊女・好色・美男、草木には花の類、かやうの数々は、その形幽玄の物なり。(花伝第六花修云)

からもうかがうことができるでしょう。世阿弥の幽玄美への志向は、彼の自然美への、とりわけ花の美への感情移入的傾倒を反映しているとみてよいでしょう。

ところで、世阿弥における自然との緊密な関わりは、表現内容である能芸美においてだけでなく、その表現方法である演出論においても自覚されていることに注目したいのです。

世阿弥は『花伝書』および『花鏡』のなかで、一日の演目構成の根本的秩序として、序破急の構想に立ち、それぞれの演目の幽趣や演じかたについて教えています。序破急というのは元来、舞楽演奏上の三段階を意味する術語で、世阿弥はこれを能楽の演出理論に転用したのです。

世阿弥の場合、序破急は芸術作品である曲に内在する根本的な生のリズムであり、このリズムが役者の演技表現を通して再現され、観客の美的生に内在するリズムを喚起して、これと微妙に共鳴するとき、役者と観客に美的共感の場が実現されるとするものです。これが、序破急の成就であると説いています。この序破急のリズムを世阿弥は後年、神的自覚を踏まえて拡大深化させ、森羅万象に内在する根本秩序とする見解を打ち出しています。

能々案見るするに、万象・森羅、是非・大小、有生・非生、ことごとく、
おのおの序破急をそなへたり。鳥のさへづり、虫の鳴く音に至るまで、其分其分の理を鳴くは、序破急也。しかれば、面白き音感もあり、あはれを催す心も有。是、成就なくば、「面白し」とも「あはれさ」とも思ふべからず。(『拾玉得花』)

これは、いわば序破急成就の自然観であり、元来、芸術表現に内在する秩序であった序破急は、今や森羅万象に内在する宇宙的秩序のうちに根拠づけられることになりました。芸道の美意識の根本的特徴とみなされる汎神論的な美的自然主義は、この序破急成就の自然観において最深の自覚に達していると思います。芸道における感性は、その根源においては、大自然の言わば永遠なるモラル−−序破急の理法に深く合一するといえるでしょう。

さて、芸道における美的自然主義として看過できないのは、侘び茶におけるそれであります。よく知られているように侘び茶は、村田珠光(一四四二〜一五〇二)によって創始され、武野紹鴎(一五〇四〜一五五五)、千利休(一五二二〜一五九】)によって成された新しい茶の湯ですが、この世界においても自然への美的傾倒にはなみなみならぬものがありました。このことは、侘び茶が草庵の茶と称されることによって象徴されているといえるでしょう。侘び茶における自然主義としてとりわけ注目したいのは、茶人における、山居への切実な憧れであったわけです。

武野紹鴎の遺文といわれる『門弟への法度』十二条は、彼が弟子に与えた茶の湯に対する心構えですが、そのなかに

「数奇者というは隠遁の心第一に侘て、仏法の意味をも得知り和歌の情を感じ候へかし」

という一条があります。紹鴎は三十歳の頃、連歌から転じて茶の湯に打ち込むようになりましたが、ちょうど同じ頃、出家の身ともなっています。出家とは俗世を離脱して仏門に入ることですから、そこには宗教的な隠遁という性格もある筈ですが、紹鴎の場合は実際に俗世間を離脱したわけではありませんから在俗出家とみなされます。だが、それにしても彼の本格的茶の湯が出家の時点から始まったということは、彼の茶の湯が隠遁の心によって、つまり、山居への願望によって、深く動機づけられていたことを推察させます。

侘び茶と山居願望との結び付きば、しかし紹鴎に固有の現象だったわけではむろんありません。侘び茶の創始者村田珠光の跡目相続者は村田宗珠ですが、当代の連歌師宗長(一四四八〜一五三二)の手記(『宗長手記』大永六年(一五二六)八月十五日の条)によりますと、宗珠は数奇と自称して下京に閑雅な茶室を構え、四畳半ないし六畳の小座敷で茶会を催し、これを下京茶湯(者)と称していたということです。同じ頃、中納言鷲尾隆康もその茶室を見物し、日記『二水記』大永六年八月二十三日条のなかでその印象を

「山居の躰、尤も感有り、誠に市中の隠といふべし。当時数奇の張本なり」

と記していますが、よほど深い感銘を受けた様子がうかがわれます。

下京というのは当時京都三条通り以南の新興商業地区で、町衆の店屋が軒を並べていたと想像されるのですが、そうした繁華街の中に山里の草庵をおもわせるような住居スタイル、つまり「山居の躰」の茶室が混つていたというわけです。上京からやってきた公卿の鷲尾隆康にとって、この草庵風の屋敷と繁華街とのコントラストは格別に珍しく見えたのでしょう。そしてそれが意味深長に思われたにちがいありません。「市中の隠」という評は、彼の鮮烈な印象を物語っているといえるでしょう。

ところで、山里の草庵は、いうまでもなく俗世間を離脱した隠遁者の住居スタイルではありますが、そのスタイルを町のなかに持ち込み、あたかも隠者の山住いを気取っているのが、宗珠をはじめとする下京の茶湯著たちの「市中の隠」、つまり、町なかの隠遁なのです。思いようによっては、そこには、どこか擬制的隠者のあまりにも風流めかした嫌味な感じが想像されぬでもありません。しかし、それはそれとして、彼らの茶室スタイルは、町衆として都市の世俗生活に拘束されながらも、これを捨てて山里の静寂のうちに身を置きたいという山居願望の、つまり、隠遁の心の、造型的表現であったことは否定できないと思います。

下京茶湯者のこうした草庵式茶室のスタイルは、やがて紹鴎や利休の時代には堺の町にも波及して、茶の湯ブームを引き起こすことになったわけです。彼らはその茶室を「市中の山居」と称していました。一五七七年(天正五年)に来日したポルトガルのイエズス会士、ジョアン・ロドリーゲス(一五六一頃〜一六三四)は、その著書『日本教会史』のなかで、Xichu no sankio「市中の山居」と記して、外人の目に映じた茶湯あるいは茶室の理解度を興味深く述べています。

古代末期から中世はじめにかけて輩出した西行(=一八〜一一九〇)や長明(一一五五〜一=六)、および室町期の心敬(一四○六〜一四七五)のような純粋な隠遁者は、いうまでもなく実際に世俗生活を抛棄し、人里離れた大自然のただなかで草庵生活を営みました。彼らは貧苦と孤独と寂寥の、いわば極限状況のなかで、根本的な自己変革を求めながら、原初的な自然美や草庵の素朴美の醸し出す情趣に魂をふるわせたにちがいありません。彼らこそ伝統的な美的自然主義的心情の最も切実な体験者であったといえるでしょう。

これに対して、俗人である町衆茶人は、都市の繁華街に草庵茶室を構えて、ひとときの茶会を通して、そこからあたかも大自然のただなかに居るかの如く、純粋な隠者の美的実存心情に想いを馳せて、現実生活からのしばしの解放を享受するという、いわば擬制的隠遁者であります。言い換えるならば、現実の都市生活と虚構的な草庵生活の対比によって醸し出されるムードを楽しむ美的観照的人間といってもよいでしょう。つまりここでは、都=現実生活の方へ山里が引き寄せられ、そのなかに取り込まれています。隠遁という行為の思想というか、むしろ生活の美意識といってもよいと思うのですが、その伝統を負いながらも、受けとめ方は逆なのです。その根底に都市生活の展開があったことはいうまでもないでしょう。

そのように考えてきますと、こうした美意識は、応仁・文明の乱後、急速に成長した、京都や堺あるいは奈良といった都市民・町衆の間に受容されるものを、もっていたと容易に推測されるのですが、それがまさに「市中の山居」という美意識に他ならないものと思います。「市中の山居」は言ってみれば、芸術家のアトリエかサロンの類比物であって、そこには純粋な隠遁者のあずかり知らない遊びの気楽さがあったといえなくはないと思います。

それはともあれ、こうした形で、山居への憧れを、つまり根源的存在である大自然への回帰願望を充足するところに、侘び茶に特有の美的自然主義が表現されているといえるでしょう。そして、この「市中の山居」の美意識こそ、草庵茶室・茶湯の、思想・理念であったといえるでしょう。

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