暁烏敏賞 平成13年第1部門本文「河上肇とこの時代」2

ページ番号1002580  更新日 2022年2月15日

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第17回暁烏敏賞入選論文

第1部門【哲学・思想に関する論文】

人道主義的経済学の魅力

代表的な河上論では、たとえ初期から中期の著作に注目したとしても、単に経済学史的な価値しか認めず、経済学の再生のためにアクチャルな問題提起をしているとは到底読みえていないように思う。

例えば大内兵衛氏は初期の作品である『社会主義評論』を評して、歴史的な文書としての価値を認めつつも、「その内容からは今日の読者が学ぶものは一つもない。」と酷評される。(大内兵衛『河上肇』筑摩書房)あるいは河上中期の代表作である『資本主義経済学の史的発展』について古田光氏も、「リカルドからマルクスへの発展の意義は不明瞭になり、その間にカーライル、ラスキンといった余計な人物が挿入され、ラスキンとマルクスが同列に並べられることになる。ともに『人類全体』の立場、その意味での『利他主義』の立場に立つとされるのである。」と評価される。(古田光『河上肇』東大出版)

マルクスの『資本論』を唯一の基準とすれば、なるほど『史的発展』までの道のりは考察の対象とはなりえないのも無理からぬことであろう、しかし河上は『資本論』のみで割り切ることができない何物かがあり、河上の思想を「マルクス主義」という商で割ってみても、必ずといってよいほど余りが生ずる。しかし商も答えなら、余りも答えのはずである。その余りが河上肇の魅力であるとすれば、そう簡単に切り捨てられるものではない。

そのせいか河上に注目する研究者は、単に経済制度が歴史的世界の発展を→方的に規定し、上部構造は下部構造の反映にすぎないというような、オーソドクスのマルクス解釈には与しない。どちらかというと社会科学の方法として、マルクスと共にヴェーバーの方法に重きをおく大塚史学出身の社会科学者に比較的多いのも、偶然のことではないだろう。

ヴェーバー研究家でもある住谷一彦氏をはじめ、『日本資本主義の思想像』の内田義彦氏、『社会科学の方法と人間学』の山之内靖氏なども、いずれも単に経済学をマルクスの『資本論』だけで割り切ろうとは考えておられない。

杉原四郎氏は「マルクスと同時にウェーバーにも深い関心をもち、意識や精神や思想の人間にとっての積極的な役割を重視する山之内や住谷にとって、日本のマルクス主義者の中でもとりわけ河上肇が注目される存在となるのは自然であった。というのは、河上は学究としての出発点から利己心と利他心との相克というすぐれて思想的な問題意識をもっており、マルクス主義者となってからも終生これにこだわりつづける一面をのこしていたからであり、また河上の場合マルクスの思想と学問は決して単なる知識としてうけ入れられたのではなく、自分の全人格を主体的に形成する精神的支柱として血肉化されていたからである。」と述べておられる。(杉原四郎・一海知義『河上肇学問と詩』新評論)

河上の人道主義の経済学は現代でも充分通用する、いや、今だからこそ読まれるべき確かな根拠が存在していると筆者自身は考えているのであるが、その論拠はマルクスとは一線を画するが、確かに経済学批判と呼びうる内容を有しているからである。住谷一彦氏も中期の河上の代表作である『資本主義経済学の史的発展』がマルクスとは違う立場なれども独自の「近代的経済人」へのラディカルな批判、換言するなら古典派経済学への批判となっている原因とその意義について次のように述べておられるので、少しく引用してみたい。

「マックス・ウェーバ!の有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』におけるプロテスタンティズムの禁欲的エートスが近代資本主義の形成にあたって果たした主体的決定要因としての重みに想到するとき、河上肇が物質的貧困の根絶というテーマに取り組んでそれへの起点に精神的貧困(→利己心)の克服という問題があるのだという点に着目したことは、今日の時点に立って見ますとき、むしろまことに卓見であったと再評価してよいのではないでしょうか。まして現在のソヴイエットをはじめ東欧社会主義諸国では今でも生産力をあげるためには利潤導入方式により人間の利己心に訴えるかたちをとらざるを得ず、隣の中国では毛沢東思想を通じて『闘私批修』のかたちで利己心の克服が国をあげて真剣に行なわれているのをみますとき、河上の『貧乏物語』は却ってすぐれた現代的な意義をもって私たちの前に立ち現れてくるように思われるのです。」(住谷一彦『河上肇の思想』未来社)

マルクス経済学者からはブルジョワ経済学呼ばわりされ、観念的なユートピアと考えられ積極的な意義を認められてはこなかった人道主義の経済学ではあるが、彼らは何をどう批判しようとしたのであろうか。筆者はその原型をほかでもない、「聖書」に根拠すると考えている。

マタイによる福音の中から紹介してみよう。イエスの譬えによれば、ぶどう園の主入が労働者を朝から一日一デナリの約束で雇った。また九時頃、仕事の無い別の人にぶどう園に行くようにすすめ、正午を過ぎ、三時、そして五時と、同じように雇いいれ、いざ賃金を支払う段になると全員一律に朝から働いた者にも、最後に来た者にもおなじ一デナリを支払ったという。しかし承知しないのは最初から額に汗して働いていた着たちであった。最後に来た者は、最後の一時間しか働いていないのに自分たちと同じ俸給を貰うということが何より容認できなかったのである。不平を言う者を前にぶどう園の主人は「君、わたしは何も間違ったことをあなたにした覚えはない。一デナリの約束ではなかったのか。自分の分を取って帰りたまえ。わたしはこの最後の人に、あなたと同じだけやりたいのだ。」と語ったとの讐より、イエスは=一弟子に道すがら「最後の者が一番になり、一番の者が最後になるであろう。」と説いたという。(マタイ福音書第20章)

朝から働いていた者にも、最後の数時間働いた者にも同じ俸給を与えるという、これは私たちを含めて近代的経済人が日常「経済的」として理解している行為に照らしあわせてみると、いかにも現実離れしているように感じられる。仮にこんなことがまかり通れば、社会はどうなるか。競争原理が働かなければ、人は皆怠惰になり、生産は減退し、経済は混乱を来すであろうことは容易に予想される。しかし簡単にこのぶどう園の主人の取った行動が異常な行為だと断言できるだろうか、よくよく考えてみると、「異常」なのは実は私たちの方であって、人が人として働くということの中にどのような積極的な働きかけがあるのかを深く思いをしない自分たちの経済生活とそれを支える精神生活の方なのかもしれない。

すべての人間が世俗的な煩悩を解脱しなければ成り立たないような、ニルヴアーナアプローチ(H・デムセッツ)だと皮肉られそうであるが、しかしその点がわからないと人間の経済生活の行動基準となる経済原則というものが、実は何もわかってはいないということになるのではないか、その点を問題とした経済学がつまりは人道主義の経済思想本来の面目なのではなかろうか。

ラスキンは『聖書』のこの讐から自らの著作に『この最後の者にも』というタイトルを付しているが、このタイトルからも資本主義的、古典派的な分配原理に対する批判意識を読みとることができよう。

巣の中の個々の醜い私欲のかたまりのような蜂たちも、巣の中全体は蜜を蓄え豊かに富み、ダイナミックな社会生活が営まれているように、人間世界も同様に、「私的悪徳が公益につながる」と考えるマンダヴイルに源流をなす利己心是認の経済学は、ヒューム、ハチソン、スミスを経由して、古典派経済学としての礎石が敷かれることになった。これら支配的な経済学は功利主義が基調であったが、河上は功利主義の経済学に対抗する系譜として利他主義の「経済学者」として、カーライルやラスキンに注目したのである。

ラスキンの思想は、河上が理想とした人としての生き方そのものであっただろう。河上の中にある絶対的非利己主義・利他主義の精神が経済思想史の中にラスキンを発見したので、河上とラスキンとの響鳴関係は彼らに共通した生き方の根源に関わっている。

自ら女工員となり、労働に関する深い省察を残したシモーヌ・ヴェイユは次のように述べている。「労働者に必要なものは詩であってパンではない。かれらは自分の生活そのものを一篇の詩にすることが必要なのだ。かれらは永遠から射し込んでくる光を必要としているのだ。……中略……そうでないと、われわれを労働に駆りたてる刺激は、ただ強制か、さもなければ利欲だけになってしまう。強制は民衆を抑圧の虜とし、利欲はかれらを頽廃に追いやる。」(シモーヌ・ヴェイユ『愛と死のパンセ』(野口啓祐訳南窓社)

経済思想も同様であると筆者は思う。自由競争、安価な政府、均衡財政という古い資本主義から、国家介入の増大、公共部門の拡大をその特徴とした組織された資本主義に移行して以来、完全雇用を実現するまではケインズ的な財政支出や租税操作を中心とする財政政策と、公開市場操作や、割引率の操作を中心とした金融政策を駆使することによって完全雇用に限りなく近づける努力をし、実現された後は市場を要としたミクロの自動調節機能で効率的な資源配分を実現するという新古典派的な経済学も、畢竟するに、人間を外的にコントロールしょうとするにすぎない。ではマルクス経済学はどうであろうか。私的所有の廃絶と計画管理によってこそ、経済の合理的で効率的な資源配分が実現されるという「信仰」の不可能性はもはや実証済みである。机上の計画経済の困難は、経済が多様化すればするほど破綻に向わざるをえない命運にある。経済が複雑化すればするほどますます管理機構は肥大化せざるをえず、したがって極度の権力集中をもたらす。管理機構は必然的に既得権益が発生し、組織は腐朽せざるをえないからである。

つまり社会主義もまた人間を外的にコントロールしょうとする点については、資本主義と違いはない。ただ資本主義と社会主義の差異は、アメ(報奨)かムチ(処罰)か、利欲か強制か、の相違にほかならない。

ヒューマニズムの道は空想などではない。私たちの献身こそが可能にする道なのである。ただ、シモーヌが言うように、永遠から射しこんでくる光があるかどうかという点にかかっている。もし光に陰りがさすようなことがあれば、人道主義も名ばかりの紛い物となる。心ならずもアメかムチかを隠蔽する役割を果たすほかはないのである。

河上肇と現代

高度消費社会の誕生によって、コ億総貪欲化」の傾向にある中に、我ら内なる消費欲望こそ、人間破壊と自然破壊を産み出した源凶であることに人々は気づきはじめ、鍔然としている。環境の破壊は単に資本を悪者にすることによっては解決することができず、その責任の一端は高度消費社会のサービスを享受している私たち「消費者」自身も担わなければならない。

熱帯雨林の破壊や、酸性雨の被害が自分たちの生存基盤を破壊し始めたことを契機に、生活者として賢くなくてはならないとやっと自覚しはじめ、自らの生活を見直すべきだとする認識は、国民的なコンセンサスになりつつある。これは河上が当時の社会病理であった「貧乏」の根絶策として提案した方法と共通の問題を提起していないだろうか。河上は貧乏退治の方策として、富者の奢侈廃止を第一策とした。「奢侈贅沢品を拵えて売りに出すと買う人があるから、それで商売人の方ではそういう品物を引き続き拵えて売り出すのである。」とは河上の言葉である。(河上肇『貧乏物語』岩波書店)

奢侈廃止の方法として富者の人間性に訴えようとしたわけだが、現代世界は私たちの消費性向そのものが全世界の人と自然、生きとし生けるすべてのものから問われているのである。地球上の地下系資源やわたしたちの生存基盤は、単に現代を生きる人間たちにのみ私有が許されたものでなく、全地球世代のためにある天与のものなのであるから、全地球世代から問われているというべきなのかもしれない。

河上肇の著作は半世紀を経た現在、再評価されなければならない。そこで、河上を現代に読み直す視点をあげてみたい。

第一に、日本最初期のマルクス経済学の研究者であること。(『経済学大網』『マルクス経済学の基礎理論』『資本論入門』など)

第二に、マルクス主義者でありながら、宗教的真理を承認する「東洋的マルクス主義者」であり、いかに不十分であるとはいえマルクス主義のアキレス腱ともいうべき宗教や倫理的な問題領域にメスを入れたこと。(河上の無我苑での原経験と遺書ともいうべき『獄中贅語』など)

第三に、若き河上は、自己の私心の由来を訪ね、利他主義を貫かんとして、伊藤証信の無我苑に飛び込んだ。すぐさま無我苑とは訣別するものの、河上にはマルクス主義とは異質な、東洋的なコミューン主義が感じられる。陶淵明の桃源郷がそうであるように、淵明の描く桃源郷は現実と離れて存在はしておらず、決して歴史の彼岸にはなかった。どこかで実際にあるような、此岸に実践するものと考える思考の回路が、マルクス社会主義瓦壊以後実にリアリティをもっている。

第四に、日清・日露と戦勝に酔っていた業界や世界の風潮、あるいは民衆の考え方までもが、農の営みを軽く考えたことに対し農業を切り捨てた工業立国論への批判としての『日本尊農論』から『日本農政学』に至る、一貫した賎農主義と、その対極に位置する農本主義への批判としての「農工商併立」論を唱えた点である。

第五に、河上の晩年の作品では、「大国溢民」が幸福へ至る道ではなく、ソヴィエトのコーカサスを念頭において、老子の「小国寡民、其の食を甘しとし、其の服を美しとし、其の居に安んじ、其の俗を楽む」に依拠しつつ、「小国寡民」の道を提唱している。「隣国相望みて、鶏犬の声相聞ゆるも、民、老死に至るまで相住来せず」の理念が、身の丈を基礎にした現代の地域主義に通ずる。
第六点として、以上の河上経済学の基調ともなっている、近代的経済人への根源的批判志向である。その批判視点は、初期にはローマン主義的なラスキンやカーライルとの立場を同じくしたが、つまりは銭金だけが行動の動機になっているのではない、ホモ・ソシオロジクスとしての人間把握がその根底に含まれているのではないだろうか。それは産業主義的生産様式をそもそも超克せんとする現代の志向との共通性が認められる。

河上は晩年「私の自覚するところでは、私をしていったん宗教運動に熱狂せしめた動力が、さらに私を駆ってマルクス主義の研究に専心せしめるに至ったのである。」と述べているが、(『獄中贅語』)以上筆者があげた六点の河上への基礎視座は、河上がマルクス主義者へと脱皮するにあたって、宗教的、東洋的な要素が、彼の中で要領よく清算されたのでも、切り捨てられたのでもなく、河上の内奥で、何か混然一体となって生きて働いていたと考えてさしつかえないのではなかろうか。

おわりに

河上論を終えるにあたって最後に筆者の個人的な感想を述べたいと思う。歴史に「もしも…」ということはありえないのだが、河上があと五年長く生きていたらマルクス主義に対しどのような態度をとっただろうか。若き河上は伊藤証信の「無我苑」が絶対的利他主義を貫いていると信じ、すべてを捨てて飛び込んだが、「無我苑」の実際が理想とかけ離れているのを知ると(ただ事実無我苑がどうであったかは筆者の断定できるものでない、この場合は河上がそう考えた、という事実が重要である。)今度は伊藤の説を「天下の邪説」として]蹴りした。

後に河上は共産党に入党するが、当時の非合法下の共産党は壊滅状態であり、スパイが上層部に入っていたり、また党員同士も疑心暗鬼にかられて理想とはほど遠い存在であった。河上はおそらくそのような事実関係を何も知らなかったであろう、というのは彼が入党したというものの、実質的な活動はほとんどしていないからである。もし仮に党内の事情を河上が知る機会があったなら、またスターリン主義のようなものを事実ありのままに知ったなら河上はマルクス主義に対してどのような態度を取ったであろうか。イデオロギーだけを先立てて、現実社会を見ようとしない世のいわゆる進歩的知識人がそうしたように護教的にマルクス主義やその権威の象徴であるいわゆる前衛党を擁護し、全てを合理化する道を選択しただろうか。筆者にはそうは思われない、河上はマルクス主義の恥部をすべてスターリン個人に還元して、すべての責任を合理的に免罪するとは到底考えられない。

おそらく河上はマルクス主義を捨てたであろう、青年の日に無我苑を飛び出したように、再度猛省し、自己の著作を絶版とし、絶望の淵の中から一筋の光明を目指してもう一度ラスキンに帰ったかもしれない。そんな気さえする。

筆者の河上論は、自分自身の精神史を河上に押し付けているだけの片思いなのかもしれないが、時に筆者はそんなことを想像するのである。

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