暁烏敏賞 平成12年第2部門本文「心の居場所としての保健室 その意味を探る」2

ページ番号1002589  更新日 2022年2月15日

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第16回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

4 考察

(1)子ども達をひきこもらせるもの

保健室登校の生徒と接していて当初、私が最も強く感じることは、彼らの人と関わる不自由さ、頑なさ、社会生活を行う上でのある種の力をもぎ取られたかのようなゆがみである。まるで見えないカプセルの中に身を置いて、からだを固くしているかのようである。外側から見える様子は無気力、身動きできないほどの劣等感、人と関わることへの極度の脅えである。

認知科学者ジャック・メレールと、共同研究者のエマニュエル・デュプーはその共著『人間として生まれる』には赤ん坊が驚くほどの高度な能力をいくつも持っており、生まれた直後から、それらの能力を駆使して、まわりの環境に自分の方から働きかけていることを明らかにした。その一部を紹介すると、大人の表情を模倣したり、人の声を聞き分け自分にとって重要な他者に微笑みかけるといったものである。

子ども達はそのようなまわりの環境に自ら働きかける高度な能力を持ちながら、なぜその能力を手放し、からだを固く七閉じこもってしまうのか。

それには子どもが成長する『人環境』が大きく変化してきていることに着目したい。人間を取り巻く『もの環境』が大きく変化したことは今やここで論じるまでもない。

『もの環境』で変化したのは、実は『人環境』となる大人の意識・感情・行為ではないかと考える。

(a)大人達のアンビバレント

3、アで、大人達は到達度や成果の視点で子ども達をみるようになり、子どもの自発性を阻むことを述べた。しかし子どもの方が到達度や成果の見える活動を好むのだという反論を受けるだろう。ただ群れ遊ぶよりサッカーや野球といった明らかに成果の見える活動をしたがるという。確かに人は闘争心を持っているから、そういった活動に駆り立てられやすい一面を持っていることを私は否定しない。しかしながら大人が、子ども達に対して「やりたいことをやっていいのよ。」と言葉では言いつつ、暗には到達度や成果の見える活動を行うことを求め、かつ成果を上げることを望んでいるのである。しかもそれを大人自身が意識しないで、無意識のメッセージとして、子ども達に送り続けているところが、子ども達がひきこもらざるをえない所以ではないか。相反する二つのメッセージを送り続けられて育つ子どもは、常に満たされない思いを持ち続けなければならない。どちらのメッセージにしたがっても、それを発信する大人達を満足させられないことを感じつつ、大人の暗黙のメッセージにしたがい、早すぎる時期から、自らを到達度や成果の見える活動へと駆り立てていくのではないかと考える。そういった大人のアンビバレントが、乳児期から心理社会的発達の課題の達成を阻み、人として生きるために必要な自尊感情すら持てない子どもにしてしまっている。「今の子どもはガラスのようにもろい。」そういう大人達。その言葉からはもろくしか育ちようがない『人環境』を作る大人自身の自戒の響きはない。

『建前と本音』という言葉があるが、『建前と本音』という時、人は自分の行為や言葉の外に『本音』があることを自覚している。しかし今の大人達のアンビバレントは『本音』に自覚が無いだけに、子ども達を混乱に陥らせている。個性の尊重といいつつ、単一の価値基準で評価し続ける現状もその一つであり、『叱らない子育て』の風潮も大人達が示すアンビバレントの象徴的なものである。子どもがよくない行為を行ったときも叱られず、しかも怒りの暗黙のメッセージだけは届けられる。子どもは不承認を気配で察知するのである。叱られない、しかし不承認であるという体験は不安という不快な体験として蓄積される。子ども達はいつも不安なのである。

(b)子ども像のロボット化

『意味』の見出せない我慢を強いる大人が持つ子ども像は、機械のごとく指示指令に従う従順で完壁な子ども像である。すべてにおいて早く正確であることを求められる現代社会において、私たちは無意識のうちに子どもにも早く正確であることを求めてしまう。それは子どもの行為に止まらず、人格においても優しく、思いやりがあり、勇敢であることを求めている傾向はないだろうか。私は、時折我が子に苛立つとき、自分がどんな人間像を求めて、それに我が子が合致しなくて苛立っているのかを考える。スポーツもやり勉強にも精をだし、それでいて母親の言うことにも従う子を暗黙時に求めていることを知って愕然とする。それではまるでロボットである。

『一人一人を生かす教育』という言葉がよく教育の現場で使われる。「生かす」という言葉は直接的には、命を失ったものにもう一度命を取り戻させるという意味であり、非直接的にはある一定の能力を持っているものを有効に使うという意味である。『一人一人を生かす教育』という言葉には、操作する主体があって子どもはその客体・物化しているという意識が潜在的には含まれている。

(c)「早く早く」の子育てと子どもの多忙化

今、母親が子ども達にかける言葉の第一位は「早く」である。「早く食べなさい。」「早く起きなさい。」「早く学校に行きなさい。」などなど、→日の生活の中で子ども達はどれだけこの「早く」という言葉を聞きながら成長するのだろうか。

「早く」という言葉とともに発せられる指示に動かされる日々である。また、とても多忙である。中学二年の我が子を例に取ると、朝七時三十分に家を出て、学校での授業、部活動で帰宅は毎日夜七時三十分、食事・入浴・宿題等を終え、ベッドに入るのは十一時をとうに過ぎている。これではゆとりも十分に思索する時間も無い。

自分が自分であることを受け入れ、目的意識を明確にするためには十分に思索する時間が必要である。思索する時間を奪われ、「早く」という言葉で思索するチャンスをも奪われているのが今の子どもの現実である。

児童後期の対人関係形成期に群れて遊ぶ時間が無く、青年前期の個人的同一性や性役割同一性の形成期に思索する時間の不足は自己形成を遅らせる。

(a)から(c)の状況が子ども達にもたらすものは、自分が自分であることを受け入れるための基準の源を、自分の外においてしまうということである。現代の『人環境』が求める子どもの価値基準は、子ども達にとって、不当に厳しく、首尾一貫しておらず、あるいは曖昧であるがため、その承認条件に相応しい生き方を試みても、むなしい結果に終わる。それが一層子ども達を不安に陥れ、自信の持てなさから基準の源を外に求めるという悪循環をおこすようである。

自分が自分であることを受け入れるためには、評価の基準を自分の内側に形成することが不可欠である。外側の基準を追い求めていては、いつまでも自分が自分でありえないのである。

現代の日本は、子ども達に自分を受け入れることすらも、大人の基準に合わせることを強いているのかもしれない。それは、子どもを愛情という名の下に、人格を否定し、価値観を押し付けられるだけの対象として物体化し、魂を痛めつけることではないだろうか。保健室登校の子ども達は、その気配をいち早く感じ取っている気がしてくるのである。

(2)子どもを人として成長させるもの

集団から退却し、閉じこもる子どもの現象を評論家の川本三郎氏は「自閉症人間」と呼んでいる。筆者も不登校、保健室登校の子ども達を見ていると、その子を取り巻く環境の中で作られた自閉的傾向ではないかという感を強く持っている。保健室での関わりの当初は、人と関わることを極端に恐れ、硬い表情で今の気持ちを聞いても応えないことがしばしばである。

河合隼雄氏は「病いの意味」について、こう述べている。少々長くなるが引用する。

「病いには意味がある。もちろん、痛いより健康の方がいい。しかし、病いによって深い意味のある体験ができる。人間が成長していくためには、外的な世界とのかかわりをもち、そこで活躍するとともに、内的な世界をも豊かにしてゆかねばならない。痛いは、外的な活動を止めさせる代りに、内的な世界の存在に気をつかせてくれたり、内的な成熟を促進してくれたりするのである。
子どもたちも時に立ち止まって内面を見たり、あるいは内的成熟の進行中はじっと立ち止まっていたりすることが必要である。このようなことは成長の節目に起ることが多く、案外そのようなときに病気になって「よかった」と思ったりする。子どもの場合は、心と体との境界が大人ほどに明確ではないので、そのような意味での休息が、体、心、心身症など、どの痛いとしてあらわれるかわからないほどである。
これは暴論かもしれないが、以前は適当に子どもが病気をして、内面化の機会を与えられていたが、最近は医学が発達して、簡単に病気になれないので、「不登校」などということによって調整しているのか、とさえ思われる。不登校の子どもに、「必要な引きこもり」の感をもつことがよくある。それは広義において非常に健康な反応かもしれない。
(『子どもと学校』)

保健室のドアを叩く子どもの最初は当然のことながら、「身体の不調」である。私が平成八年度に行った「教育相談活動における養護教諭の役割」研究から、相談的支援を必要とする生徒の八十%が身体の不調を切り口としていつの間にか内面の問題に取組んでいるという結果を導いた。この事からも「心の居場所」としての保健室には子どもを病いの状態に止まらせ、内面を見たり、内的成熟の進行を待つ意味があるといえよう。

内面の成熟において私が特に注目している力は「社会力」である。門脇厚司氏は社会的動物ないし社会的存在たるに相応しい人間の資質能力を「社会力」と呼んでいる。それは「人と人とがつながる力」「社会をつくっていく力」といえる。

「社会性」という用語が一般に広く使われているが、「社会性」の概念は「社会が支持する生活習慣、価値規範、行動規範などによって行動できるという社会的適応性」を指しており、狭い意味では「他者との円滑な対人関係を営むことができるという対人関係能力」を意味しているという。わが国の若い人々に欠けているのは社会への適応力というより、自らの意志で社会を作っていく意欲とその社会を維持し発展させていくのに必要な能力であると考えているからである。(『子どもと社会力』)

現代社会そのものが人とつながらない文化の方向に進んできている。Eメールによる交信、インターネットの普及、モバイルフォンの目覚しい普及率はどれを見ても人と直接つながらないことを目的としている。そのような中で集団から身をひいて、引きこもることは現代社会に適応する「社会性」のあらわれではないだろうか。私は社会性を育成するという概念では、今の引きこもり、自閉する子どもたちの傾向を是認するほかはないように思えるのである。

いかに社会が「個」を尊重し、人と直接つながらない傾向に進化しようとも、私は人が活き活きと生きる社会を作っていく上で、一人一人が人とつながり、助け合い、創造的に活動しうる人間形成を目指すことが重要ではないかと考える。

門脇厚司氏は人の社会力は『人環境との相互作用』の繰り返しによって形成され、それは大人が、子どもの行為に含まれる意図にかなう応答を返すことであると述べている。

5 心の居場所としての保健室の意味

(1)心理社会的発達課題をクリアする。

人には、その年代年代に果たすべき発達の課題がある。

ある子どもはまさにその年齢相当の課題をクリアするために苦しんでいる。またはもっと基本的な発達課題を十分に達成されていないがために不安感で集団に出て行けない子どももいる。

不安感の強い生徒は、乳児期に必要な基本的信頼感が欠如しているのかもしれない。そのような生徒は様々な行動で私を試してくる。背中に氷を入れてみたり、声をかけても知らんふりをしたりである。信頼に足りるという実感が得られたらやっと、からだにまとわりついてくる。おんぶをしたり、からだをさすったりという関わりをもう一度丹念に行っていくのである。

無気力で自発性が見られない生徒は、幼児期の自発性の課題が満ちたりていないのかもしれない。他の生徒と同じように動けないことに強い罪悪感にさいなまれている。その心の痛みをこちらも共に感じながら、外圧をかけない中から芽生えてくる行為を待つ。彼らが行いはじめた行為は、共に行い、共に喜びを分かち合うことで、かすかな自発性をより確かなものにしていく。

学童期には勤勉性の獲得の課題がある。学童期は、ちょうど学校というシステムに子ども達が入っていかなければならない年代でもある。次々に示される学習課題に対して達成感を持てないまま流されていくと、劣等感だけがその生徒のなかに積もっていくのではないだろうか。劣等感に押しつぶされそうになったとき、引きこもるという行動で自分自身を守るように思える。なすべき価値あるものは何も学校から与えられる学習課題だけではない。大人の目からはなんの価値もないかのようにみえるものであっても、丹念に成し遂げるとき、劣等感を少しずつ乗り越えていけるように思う。そこにはその達成感を共に喜ぶ大人の存在が必要となる。

発達とは次の段階への前進が喜ばしく、快感を与えるときに生じる。その快感は発達段階の機能を十分に使いきるときもたらされる。成長や発達とは、苦しく耐えることによって成し遂げられるものではない。内発的な成長力にしたがっているかぎり、発達の過程は喜びに満ちたものなのである。発達課題の達成にある程度の忍耐と努力が要求されることはあるが、その努力と忍耐自体が挑戦心を刺激し、充実した喜びをもたらすもので、決して他から強制される類の忍耐ではない。

「つらいときをイメージで表現すると、暗い水のなかにどろどろといる感じ」と表現した生徒があった。とても的を得た表現のように思う。私にはそのイメージは、子どもが母親の子宮の中で育っているように感じる。現実世界においての育ち直しといえよう。だからこそ、そこから性急に助け出そうとしてはならないのではないか。性急に助け出すことは、育ち直すチャンスを奪うことではないかと考える。共にそこに止まり、育っていく過程を見守り続ける大人の忍耐が必要に思う。

(2)思索のための時間を持つ。

思春期の心理社会的発達課題は自己同一性・性役割同一性の獲得である。自分が自分であることを受け入れ、目的意識を明確にすることである。それには今までにつくりあげてきた自己をいったん崩し、再生していくという精神的な意味での「死と再生」の作業でもある。その作業を成し遂げるのは、大きな恐怖を伴う。恐怖と向き合いながら、その発達課題に取り組むためには、十分に思索する時間と傍らに寄り添う人の存在が必要となる。日常の生活で意識せずに行える子もいるだろうが、しかしいったんその恐怖に気がつき、身がすくんでしまった場合、助けを求めるために保健室のドアを開けるのかもしれない。作られた「病」という状況に身をおき、十分に思索して課題を乗り越えていっているように感じる。

自分が自分であることを受け入れるということは、自分の内側に価値基準を形成していくことである。自分の外的な世界と内的な世界の区別がつくようになったとき、自分の価値基準を持つことが必要となる。そのためには、自問自答を繰り返す営みが重要であると考える。

(3)他者とつながっている実感を感じる。

「教室にいてもいいという実感がない。」保健室にくる生徒からそういった言葉を聞く事が多い。自分が他者とつながっている感覚が薄いところがら発せられる言葉であろう。もちろん自分の方から他者に働きかけをして、つながりを求めていく能力を持ってもらいたいのだが、拒否される不安を抱えたままでは、それはできるはずもない。保健室に行けば必ず養護教諭という他者が存在する。まずはその物理的つながりを求めて、保健室を訪れる。そこからすこしずつ心のつながりを感じていくようである。また同じように心の痛みを持っている生徒という他者との出会いでもある。「悩み、苦しんでいるのは自分一人ではなかった。」それを言葉のレベルではなくもつと深い実感として感じることができる。世界中で一人ぼっちであるかのごとく、深い孤独感から解き放たれることが可能となるのである。マルチン・ブーバーは「人間の本質は孤独の深淵にある。それを理解できる人は、孤独の深淵を経験し、なおかつその時の問いを忘れないことである。」という。彼らが経験した孤独感は、その後の彼らの人生をささえるものになるであろうと確信する。

保健室が『心の居場所』と表現される所以は、つながりを得られ、文字通りそのままで「居る」ことのできる場所だからであろう。

(4)他者と共感体験をする。

保健室で交わされる会話はじつに他愛もないものである。日常生活で経験している様々な感情を、思い思いに語っていく。楽しいこと、悲しいこと、つらいこと、いきどおったことなど様々な感情体験をひとりのものとせず、そこに共に居る人々と分かち合っていく。感情を分かち合えるというのは心地よいものである。その心地よさが生きていくエネルギーを満たしていくように思える。

家庭の中で夕食をともにしながら、他愛のない会話をする。そうした光景は今の日本に失われつつある。

人は機械ではないのだから、喜びや、感謝といった肯定的感情だけをいつも持っていられるわけではない。怒りや悲しみといった否定的な感情も自分自身のものなのであるが、それは往々にして否認させ、それによって自分自身をも否定するということが起ってくる。感情体験を共感しあうということは、人に湧き起こる様々な感情を、自分のものとして受け入れることを可能にする。

カタルシスと呼ばれる感情の浄化には、聴き手という他者の存在が必要である。一人で壁に向かって話しても、思考は堂々巡りをおこす。それに一人で話しているのはむなしく、寂しすぎる。

心の居場所としての保健室の意味を私は(1)から(4)の様に具体化してみた。それは、子ども達が自分自身を見つめ、自分が自分であることを受け入れていくための基準の源を、自分の中につくっていく営みとしての意味を持つ。

大人が、子どもの行為に含まれる意図にかなう応答を返すこととは、子どもが幼い頃は子どもの問いかけに応え、思春期においては子どもの自問自答を支えることではないかと考える。

6 まとめ

どんなに社会がスピード化時代を迎えようとも、人が育つためには十分な時間が必要である。そのことを我々大人は見失いがちである。そして我々大人自身も発達の途中にある存在でもある。『もの環境』の急激な変化に伴い、いつしか知らず知らずのうちに大人の意識までもが大きく変化をした。その意識の変化は、大人の行動や発する気配の変化となり、それが人が人として育つのに必要となる『人環境』を損なってしまうにいたったように感じる。

昨今、未成年の残虐な暴力、殺人という事件が後を絶たない。それに対して「教師の威厳を取り戻すべき」という意見もだされている。(二〇〇〇年八月二十二日石川県教育委員会指摘八月二十三日北国新聞報道による)

では教師の威厳とはなんなのであろうか。具体的にイメージ化する必要があるように思う。そうでなければ一部の大人達は、教師という権力による威圧的雰囲気をイメージし、一層子ども達を追い込むことにもなりかねない。暴力や殺人という行為は絶対に許されるものではない。しかし思春期の子どもの抱える「死と再生」の発達課題の苦悩にたいして、大人として心を寄せる必要がある。攻撃は最大の防御といわれる。暴力や殺人という子どもの示す行動は、子ども自身の防衛行動でもある。子ども達は、何から自分を防衛しているのだろうか。暴力という行動にまで至る子どもの行為に含まれる意図に、大人がまっとうに応答することが、今求められているように思うのである。

穏やかに熟考し、人や社会とつながっていく能力を備えた人になること、我々大人が真に願う子どもの成長する姿は、そこにあるのではないかと思う。穏やかさは穏やかな『人環境』の中で育まれるのではないか。

暖かに見守られ、達成や到達だけを子ども達の発達の指標としない、立ち止まることが許され、様々な感情をわかちあう、そういった『人環境』を求め、子ども達は保健室に身を寄せる。それは人の子が人としてより健全に成長しようとする無意識の現われかもしれない。そしてそれは同時に現代社会が、子ども達を暖かに見守り、達成や到達だけを子ども達の発達の指標とせず、立ち止まることを許し、様々な感情をわかちあう、そういった『人環境』を失いつつあることへの警笛ではないだろうか。

7 引用・参考文献

  • 門脇厚司『子どもの社会力』 岩波新書
  • 河合隼雄『子どもと学校』 岩波新書
  • 斎藤環『社会的ひきこもり』 PHP新書
  • 根本橘夫『人と接するのがつらい 人間関係の自我心理学』 PHP新書
  • 中島義道『〈対話〉のない社会』 PHP新書
  • 諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』 講談社現代新書
  • 竹内敏晴『教師のためのからだとことば考』 ちくま学芸文庫
  • A・フロイト『自我と防衛』 誠信書房
  • H・S・サリヴァン『現代精神医学の概念』 みすず書房
  • 吉川武彦「人はなぜ心を病むのか』 太陽企画主出版
  • 神谷美恵子『人間をみつめて』 みすず書房
  • 竹内隆夫『自問活動のすすめ 自らの生き方を問う子ども達』 第一法規

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