暁烏敏賞 平成10年第2部門本文「子育て心温計」1

ページ番号1002597  更新日 2022年2月15日

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第14回暁烏敏賞入選論文

第2部門:【青少年の健全育成に関する論文または実践記録・提言】

  • 論文題名 子育て心温計
  • 氏名 森 紘
  • 年齢 56歳
  • 住所 福岡県糟屋郡
  • 職業 助教授

第一章序の章

今、子どもたちは心の病に懸かっています。社会の激しい流れがまき散らす泥水を避ける術を知らない子どもたちが、もろに被った泥の中に埋まっています。では、子どもたちが被っている泥水とは、具体的にどんなものがあるのでしょうか。多くのものがこれまで指摘されています。受験偏差値優先の学歴社会、合理性と効率性を追求する経済社会、都市型生活による核家族化、息子と結婚したような母親の過保護、知育=成長と思い込んでいる偏向教育、自分勝手な個人主義、遊びの機械化、触れ合いの喪失、不良マスコミ…、挙げればいくらでも出て来るようです。そしてどれもそうだろうなと思い当たり納得がいきます。しかし生活実感の上ではもう一つぴったりと来ません。それは一方では次のように感じているからです。学歴社会は社会の活性化に役立っています。合理性追求社会は大量生産を生み出し生活を豊かにしてくれました。核家族は嫁と姑の争いを無くしました。親の保護本能は自然な姿ですし、個人主義は自由のすばらしさを与えてくれました。つまりどれも両刃の剣になっています。ですから、切れすぎたり余分な所まで切り込んだりする場合に、様々な弊害を生じています。使い方が上手くないたあに力の入れ具合を誤っているだけで、そのもの自体を否定し去るのは行き過ぎです。

第二章子育て心温計の誕生

【2・1】なぜ心温計を必要とするか?

子育てを考える場合に耳に入ってくる声があります。例えば、「現在の家庭教育を見ると、情報化社会という激動の時代の中で価値観が多様化し、自分の子どもをどう育てていけば良いのか親が戸惑っている。しっかりとした価値観・家庭教育観を持つことが必要である」。つまり自分の価値観を持ちなさいということです。しかしそれをどうして手に入れたら良いのかということは教えては頂けません。

現在の子育ての特徴は過保護になっているとも指摘されます。保護的であろうとすることは結果的に自立を妨げていることになると注意されていまいます。また放任も指摘されます。指導すべきことをしていないと。それでは適度の保護をするにはどうしたら良いのかという考え方の提示が全くありません。結論が「適度にしなさい」ということでは振出しに戻っているだけのことです。

青少年組織では健全な子どもを育てようと努力しています。その健全な子どもとはどういう子どもを言うのか、みんなに共通理解されているのでしょうか。明るく元気な子どもが健全な子どもと思われていますが、ではネクラでおとなしい子どもはなぜ健全な子どもではないと思われてしまうのでしょうか。さらに心の豊かなとは。きちんとしたしつけとは。

そもそも子育ての目的とは。分からないことばかりです。辞書を引くとこう書いてあるということではなく、私たちの生活実感として確かに捉えられるような生き生きとしたイメージがなければ、地域社会での青少年健全育成には役に立ちません。

【2・2】何を目盛るか

心温計という名前を付けた以上、目盛りを刻まなければなりません。それには子どものどのような状態を測ればよいのかを決あておく必要があります。

日常の会話の中で

「お宅のお子さんはしっかりしていて、とても良いお子さんですね。」
「いいえ、家にいるときは悪くて、親の言うことなんか聞かないんですよ。」

といったことをよく耳にします。ふだん、私たちは「良い子であるか、悪い子であるか」という形の判断をしています。心温計には「良い、悪い」の目盛りが必要なようです。

いじめの問題が話題になるときなど、「自分の子どもが見えなくなっている」ということが盛んに言われます。見えないということが本当にあるのでしょうか。そんなのんびりした親ではないと誰でも思うことでしょう。しかしもし、指摘されているように子どもに見えていない部分があるとしたら、それが何かということをはっきりとさせて心温計の目盛りに刻み込まなければなりません。

日常の挨拶の中で、「良いお天気ですね」とか、「あいにくの天気ですね」と言うことがあります。所でそれ以外にどちらでもない「はっきりしない天気」というのがあります。良い悪い以外のなんとも言い様のないものが、現実には存在しています。同じように、暑くもなく寒くもない春や秋は過ごしやすい季節ですが、そのたあにかえって暑いか寒いかという点では見えなくなっています。

このように考えて来ますと、良い悪いという価値基準に対して私たちが見落としているものは、「普通の」という視点です。この普通の子が「見えない子ども」の正体です。具体的に考えてみましょう。「嘘をつく子ども」は悪い子どもと言えます。それでは「嘘をつかない子ども」は良い子どもでしょうか。嘘をつかないことは人間として当然のことですから、良い子どもではなく普通の子どもです。他方で「お手伝いをする子ども」は良い子どもです。それでは「お手伝いをしない子ども」は悪い子どもでしょうか。良い子どもではないでしょうが、だからといって悪い子どもでもありません。普通の子どもです。

普通の子どもとは良いこともしないし悪いこともしない、目立つことを何もしない子どもです。そして現実に私たちが育てている子どもたちは、ときどき悪いことをしでかし、ときどき良いこともしてくれる普通の子どもたちです。問題を抱えた子どもたちに直接関わり合っている立場にある人が、「少年非行というものはあるが、非行少年という少年はいない」と力説されているのも、普通の子どもがときどき非行をすることで目立っているにすぎないという考えを持っているからでしょう。

【2・3】善悪の基準

普通の子どもが良い子どもになるときと悪い子どもになるときを明確に区別するためには、二つの基準が必要です。この大きな基準についてここで考えておくことにします。

私たちの日常生活の基準として法律があります。しかしながら私たちはその条文の一つ一つを知らなくても、法に触れない生活をすることができます。何をどのように意識していれば自然に法にかなっていることになるのでしょうか。日常の生活の中で私たちの心の底に横たわっている社会のルールとは、一体どのようなものなのか、ここで改めて問い直してみます。

次のような簡単な疑問が子どもから問いかけられます。

「なぜ、人のものを盗ってはいけないのか?」

突然こんなことを問いかけられたら、どぎまぎしてしまうかもしれません。それでも一応はそれらしい答えをすることはできるでしょう。おそらくさまざまな答え方があると思います。しかし、誰にでも納得のゆく基本的なポイントは一つであるはずです。

例え話で考えてみましょう。空腹の男がある家に忍び込み、食卓の上にあった一個しかないパンを盗って食べたとします。パンを盗まれた人には「生きる権利」があります。一方空腹の男にも生きる権利があり、それを否定することは誰にもできません。両方ともに生きる権利があるにも拘らず、私たちの社会は泥棒の方の「権利の行使」を法によって禁止しています。この盗みをすること以外にも、人を傷つけてはいけないとか、騙してはいけないなどといったことが法によって禁止されています。

ではこの法律とはどのような理念から片方だけの権利を弁護しているのでしょうか。相反する二つの立場を考えてみますと、法は盗まれる人、傷つけられる人、騙される人など、つまり何かをされる「受け身の立場」にある人の方を保護しようとしています。ですから弱い立場にある人を守るために法があると言えます。私たちは社会を作りその中でしか生きてゆけません。そこではどうしても生きるための権利の行使が衝突することは避けられません。そのような場合に、まず弱い立場にある者を保護するという共通のルールを守っていくことで、人間らしい社会を築き上げてきたと言えるようです。

私たちが心の奥に抱いている悪いことの基準が見えてきました。私たちの社会の底にある基本的な考え方は、弱い者が十分に保護されているか、弱い者の権利が犯されていないかという基準です。私たちが最低守るべき基準は、『弱い立場にある者の権利を犯さない』ということです。

これを少しだけゆるめた基準として、よく知られている『他人に迷惑をかけない』という生活の信条があります。

次に良いこととはどのような基準を持つのでしょうか?ノーベル賞を受賞したシュバイツァi、マリア・テレサといった素晴らしい人たち、不幸な災害時に子どもをかばっている親たち、難破した船から子ども・女性を優先して救助しようとする男たち、多くの人が浮かびます。これらの行動例に共通することは、弱い者を積極的に守ろうとする行動であるということです。口先だけではなく身を挺して行動です。自分のことは後回しにしていることに特に注意しておきます。良いことの基準は『弱い者の権利を守る』ということになります。もっとゆるめた場合には『人の役に立とう』という基準になります。

社会のルールつまり道徳と呼ばれるものの善悪の二つの基準が決まりました。私たちの日常生活の中で生きているルールはこの二つの基準です。普通に生活していれば法律を知らなくてもよいのは、私たちが持つているルールに法が合致しているからです。

【2・4】子育て心温計の目盛りの意味

私たちの心の中では道徳上の相対する二つの価値、善と悪とが融合しています。漫画などでときどき目にするように、心の中に純真な天使と邪悪な悪魔が同居しています。この二つの相反する力がしのぎをけずっているとき、私たちの心は千変万化の彩りを持ってきます。子育て心温計は、かわいい天使の微笑みがどのくらいまでの力を持つようになっているかという状態を示すようにしょうと思っています。

一つの心情が生まれるための条件は、必要条件と十分条件とがあります。どちらが欠けても完成できません。例えば料理は良い材料を揃えるという必要条件と、彩りの美しさと味付けの美味しさという十分条件が備わって完成します。子育て心温計でもこれら二つの条件をそれぞれの心情毎に設定し、全体としてのバランスのとれた流れができるように積み上げていきます。成長とは不連続な跳躍ではなくて、一つ一つの階段を昇っていくのと同じであると考えているからです。したがって、一つの目盛りは下位に置かれた心情の十分条件であると同時に、上位に置かれた心情の必要条件でもあるということになります。

第三章子育て心温計の仕様

子育て心温計の全体図は図一(別紙)に示すとおりです。ここでは枚数の制限のたあに、心温計の目盛りの意味を健全育成の部に限定して概観しておくことにします。

【3・1】子育て心温計の読み方

この子育て心温計についての全体的な説明をしておきます。

  1. この心温計は下から上に向かって読めば、成長の高い段階に進みます。
  2. この心温計の目盛りは、中央部の番号付けした質問文です。九つの目盛り、つまり判定の基準があります。これは同時に上位の段階への必要条件であり、さらに下位の段階の十分条件でもあります。
  3. 矢印の先の語句は「状態」を表す言葉です。人間の心情の様式を示しています。例えば〈無法状態〉とかく自立状態〉と呼びます。
  4. 右側は健全な成長状態を示してあります。援助法は親が子どもに対して差し伸べる助けの様式を表してあります。最右端の発達例は人の一生の各年代で到達できているはずの目安を概略的に表しています。もちろん子どもであっても一時的にはより高次な状態に達することもありますし、逆に大人でも場合によっては低次な状態に陥ることがあります。状況によって体温が違うように、この心温計もその場に依存して変わり得ます。発達例は平熱例と考えて下さい。
  5. 左側は不健全な成長状態を示してあります。治療法は子どもがその状態にはまりこんだときに親がなすべき治療の方法を表しています。
  6. 成長の段階を測る場合には、下から目盛りを見ていきます。例えば、[(1)他人の権利を犯さないか]という基準(目盛り)に反した場合、成長矢印は跳ね返って〈無法状態〉に入り込みます。基準に合格しますと目盛りを通過します。通過した矢印は〈孤立状態〉かく孤独状態〉のどちらかに飛び込みます。どちらに飛び込むかはそこで抱いている心情方向(体験の質)に依ります。正しい心情を育んでいないと左側の〈孤立状態〉の方に入ってしまいます。〈孤立状態〉かく孤独状態〉のどちらに入っているかは、次の基準(目盛り)である[(3)自分は他人と比べ同じか]を満足するか否かに依ってしか分かりません。満足していれば〈孤独状態〉、満足していなければ〈孤立状態〉であるということになります。このようにそれぞれの状態は上下の二つの基準によって判定されるようになっています。これが必要条件と十分条件ということの意味です。
  7. 矢印が示していますように、健全な状態(右側)はその個々の状態の中で成熟すれば次の基準(目盛り)に向かって成長することができます。一方で発育不良な状態(左側)は穴蔵に落ち込んでしまうようなもので、入るだけで出口がありません。この状態に入ったままで放置されますと自分の力だけでは成長できなくなり、立ち枯れてしまいます。親の治療という梯子をかけてやることで健全な状態に脱出できるようにしてやらなければなりません。しかし早い時期に症状に気づかないと子どもが自力で梯子も上れなくなってしまいます。幼いときは親が抱えて救い出せますが、大きくなるまで放置すると親の手に余り専門の救助活動(カウンセリング)を要します。この子育て心温計で読みとって頂きたいことは、子どもの行動の奥にある心情です。表面的な行動に親が振り回されて行動だけを矯正しようとしても、子どもは受け付けません。私たち親はまず子どもの気持ちを正しく診断しなければ、子育てはうまくいきません。そこでこの心温計には、行動例・特徴・心情を例示しておきました。心温計を見るときの診断の目安として使って下さい。
【3・2】子育て心温計の健全発育部

右側の健全な発育部について順に説明をしていきます。

(1)他人の権利を犯さないか

これは他人との関係で最低限の基準です。この基準を通過できれば〈対立状態〉です。ここで特に説明を要することがあります。心温計に非対象が見られていることにお気付きでしょう。この基準の前後で右側に状態が欠けています。これには理由があります。人としての成長は次の基準(他人に迷惑をかけない)をクリアした所から始まると考えているからです。人になる以前の段階です。心情として挙げておいた「憎悪感」は他人の権利を侵害することに対して抱くものです。乱暴な行為に対して憎しみが湧いてくるということです。さらに「嫌悪感」とは他人が迷惑するようなことは嫌になるということです。マイナスの成長の状態ですから、健全でない状態しか有り得ません。憎悪感とか嫌悪感といったマイナスの心情としてしか表しようがないということです。つまりこのマイナスの心情を持つことが健全な成長をする出発点に立つたあの資格とも言うことができます。このマイナスの心情については人としての大切な条件ではありますが、別に項を改めて述べるほどの内容を含んでいますので、ここではこれ以上触れません。ただ心情としての表現だけでとりあえずは分かって頂けるものと思います。

(2)他人に迷惑をかけないか

私たちは人の権利を犯さないように、もう一つの緩い基準を設けて暮らしています。迷惑をかけないように心がけて生活することで、人の権利を犯すことがないように過ごせます。人としてしてはならない行為に対して二重のロックが掛かっていると思って下さい。「人様に迷惑をかけないように」と願って暮らすことが普通の人の暮らし方です。これは自分勝手な行動に対する制約になります。人とのつきあいには踏み込んではいけない領域があるということです。自分本位な行動をしてはいけないと他からの抑制を受けることで「疎外感」を持つようになります。結果的に他からの助けという積極的な働きかけがありませんので、不安になってきます。これがく孤独状態〉です。

子どもがこの状態にある幼児期には母親は安全地帯です。その保護があるという後ろだてがあってはじあて、子どもは新しい環境や友達関係にどんどん進出してゆけます。母子一体感がないと、子どもはおもちゃ遊びや一人遊びしかできなくなり、〈孤立状態〉の方にはまりこんでしまいます。

子どもが人見知りをすることは、自分と他人とを識別する能力が現れて来たことを示していますので、健全な発育をしていると考える方が良いと思います。ただしいつまでも続くようでしたら母子一体感の不足です。

(3)自分は他人と比べて同じか

友だちなどの他人との関係の中で自分の気持ちを表に出そうとするとき、その方法とか形式が他人と同質であるかどうかという基準で適否を判断します。内容が同質であるかどうかについて考える能力は未熟ですので、表に現れた形が同じであると思えたら「安心感」を持ちます。

同じと思いまた同じでありたいと願うから礼儀を持てるようになります。朝、おはようと挨拶をしたのに相手が黙っていたらムカッとするでしょう。挨拶をした方は自分が無視されたという疎外感を持ちます。相手を自分と同じと思うからこそ挨拶をしたのに相手はそうは思っていなかったことになります。このような仕打ちは礼を失した行為として社会的に責められます。私たちが生活をしてゆく基盤は、この自分も他人も同じであるという思いであり、この同じであることに互いに気付くことが人間関係の始まりです。

このように互いが同じという関係の中で暮らしていても、いわゆるつきあい関係を持続し維持してゆくためには、完全に自由であってはならず、まだお互いに自分を抑制しなければなりません。自分と他人が完全に同じというわけにはゆかず、どこかで必ず違いが出てきます。そしてこの違いを認めざるを得なくなります。これが我慢です。例えば順番を待つということは、人間関係の集まりである社会の秩序を維持するために必要です。「秩序感」を持たず我慢をしなければ、同じであった部分まで消失してしまいます。

子どもの場合、「おもちゃを貸して」と言われたら、そうそういつも断ってばかりもいられません。たまには我慢して貸してあげなければなりません。この我慢を体験させるためには、親の子離れがなければなりません。大人ばかりですと何でも自分のためにやってくれる人の中にいますし、あるいは自分の意志に関係なく大人の思い通りになってしまい、次の段階へ成長が進まずわき道に逸れてしまいます。

この礼儀と我慢、言い替えますと同じであるという安心感と、その安心感を保つ秩序を維持するために他との違いを我慢できる自制がある状態が〈共存状態〉です。

(4)自分を他人に移せるか

共存状態で人と人との関係の持ち方を経験しますと、目の前の他人に直面しているのが自分であると気付きます。人の振り見て我が振り直せと言われていますように、自分のことは分かりにくいものです。ですから自分のことをすぐ棚に挙げてしまうようなことをしてしまいます。自分と違う他人を見て、自分は他人と同じと思っていたけどそうではないときもあることが分かります。例えばおもちゃを貸して我慢をしている自分、順番待ちの列で人より後ろに並んでいる自分を知ります。このように他人に対する自分を見ることができる「もう一人の自分」が誕生し、そこではじめて自分の思いを他人に移すことができるようになります。

今の子どもたちは人の気持ちが分からないと指摘されることがありますが、私は人の気持ちは誰にも分かるはずはないと思います。簡単に分かると思っていたらそれは思い上がりでしょう。私たちが人の気持ちと思っているのは、自分を他人の立場に置いたときの自分が感じる気持ちです。それをもう一人の自分が見ているのです。例えば町を歩いていてすれ違う人がどんな人であるか全く知らなくても、私たち自身が他人に危害を加えようとは思いもしないので、同じように安心できる人と感じています。所が私たちが人に危害を加えようと思っていたり他人を信じられなくなっていると、すれ違う人が逆に自分に危害を加えようとしていると思えたり、笑っていると自分のことをあざけっていると思い込んでしまいます。このように人の気持ちは、自分の気持ちの裏返しにすぎません。

さて共通な体験を持っているとき、自分の気持ちを他人に移すもう一人の自分が、目の前にいる人を気の毒にと思うと親切な行動を起こします。このとき私たちの気持ちの中には「優越感」が芽生えます。つまりもう一人の自分が自分と他人を比較し、自分の方が優位にあると判断しています。席を譲ってあげる、荷物を持ってあげる、幼い子どもをかばってあげる、この○○してあげるという気持ちがそれです。かわいそうだと思ったから席を譲ってあげたのにありがとうとお礼を言われなかったとき、腹を立てることはないでしょうか。自分の優越感が満たされるためには、相手が自分の劣勢な立場を認めてお礼を言うことを求めます。本当に困っている人であれば相手の優越感など気にするほどのことではありませんから、気にせずに受け入れてもらえますが、それほど困っていると思っていない場合や、あるいは困った状態にあることに気付かなかったり、それを隠そうとしている場合など、「小さな親切・大きなお世話」という言葉が返って来ます。優劣という立場があからさまになることが気に障るようです。

このように他人の立場に自分を置いていく中で、私たちは自分が知らない立場、あるいは自分とは違った立場にある人がいることに気付きます。私たちは子どもの気持ちは良く分かります。ですから思いやりを持ちすぎて過保護になることもあります。所が老人の気持ちは分かりません。私たちには老人の経験がないからです。親の気持ちを子どもが分かってくれないのも同じことで、自分が親の立場になってはじあて親の有難みが分かる経験を必要とします。このように共通の経験を持てない人に対しては、どうしても自分との違いだけが表に現れて来ます。

以上述べてきましたように、相手を正しく理解することによって自分の立場を理解できる状態が<自律状態>です。他との関係の中にある自分をもう一人の自分が見つめることのできる状態です。

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