暁烏敏賞 平成17年第1部門論文「ありのまま・そのままの生き方 幾多郎・大拙・啓治の自然法爾」1

ページ番号1002560  更新日 2022年2月15日

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第21回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

写真:火焔様式楽人像

  • 論文題名 ありのまま・そのままの生き方 幾多郎・大拙・啓治の自然法爾
  • 氏名 光明 祐寛
  • 住所 滋賀県東浅井郡びわ町在住
  • 職業 高等学校教諭

(1)はじめに

人はどこから生まれ、どこへ行くのであろうか。人間として生まれたと意識した時には、こういう時代の、こういう国の、こういう両親のもとで、男もしくは女としてすでに生存していたのである。現在、医者は死因をガンとか脳溢血とか書くけれども、本当の死亡原因は生まれたということである。独り生まれ、独り死んでいくのである。これが人生である。一度切りの代わりのきかないこの人生をどう生きるか?これは古くして新しい人類の最大の課題である。現在、日本は物質文明・科学文明で覆い尽くされている。そして、凶悪な犯罪が後を絶たず、精神的に病める人も多く、自ら命を絶つ人が増えている。また世界に目を転じてみれば、冷戦構造が終結した後にも、テロ・民族紛争・地域戦争が頻繁に起きている。そして、世の中は勝ち組・負け組に選別され、独り一人の「いのち」の価値が軽んじられている。それと同時に「ヒト」がモノ化されている。

こうした状況のなかで、世界に名をとどろかした思索家であり、宗教家であり、教育者でもあった西田幾多郎(哲学者)・鈴木大拙(仏教学者)・西谷啓治(宗教哲学者)の遺したものは何なのか。西洋と東洋の学殖を窮め尽くした三人が「人生をおろそかにするな」と願い、そのために打ち鳴らした警鐘の鐘の音に、殺伐とした現在だからこそ、謙虚に耳を傾ける必要がますます出てきたのではないか。

勿論、三人には三人のそれぞれの人生がある。そして、三人とも自分が自分に成るための一生を真剣に歩んだ。しかし、三人には三人の独自性がありながら、三人を貫く共通性もある。こうした点から、現代社会を「梵鐘」とし、三人の生き方を「撞木」にした場合、「永遠の今」を生き抜かねばならない私たちにどんな「音色」を奏でるかを聴いてみたい。そのことが人生をむなしく生きないための大事な糧と思えてならない。

(2)ふるさと

まず、三人に共通していることは、加賀・能登で彼らが育ったことである。その中心の金沢は近世以来学問を重視し、庶民的文化・芸能にも精彩を放っていた。しかし、それとは別に、北陸特有の日照時間の少なさ、高い湿度、長い雨と雪の日々という人を内省させる気象条件もあった。こうした風土が人々に「考える」という習性を与え、粘り強さも培った。そして、そうした地域だからこそ、何よりも生活の隅々に宗教が浸透していたともいえる。「日本のワイマール」といわれる素地があったのである。そうした中で私は特に「学問」と「宗教」に注目したい。

幾多郎が「極小さい頃、淋しくて怖いのだが、独りで土蔵の二階に上がって、昔祖父が読んだという四箱か五箱ばかりの漢文の書物を見るのが好きであった」(1)と言い、大拙が毎朝食事の前に父が薄い本を、家族のみんなに読んで聞かせ、四つか五つの大拙は「何が書かれてあるのか、父が何を話しているのか、なんにも分かりはしなかったが、“わしも早く読みたいものだな、こういう本が書いてみたいなあ”と思った感じが、今に残っている」(2)と言い、啓治には母方の祖父が小学校の校長をしたり、第四高等学校の設立に尽力したり、漢詩や俳句を作る文人であったことが影響している。三つ子の魂百までで、幼い頃の三人の背後に、このような学問の香りが色濃く漂っていたのである。

そして、またそれ以上に、「宗教」にも留意したい。

母が熱心な真宗信者であった幾多郎は五歳頃まで乳をねだっている。そして母から「お文さまをつとめたら乳を進ぜよう」といわれ、「蓮如上人の『御文章』をすらすらと言って乳をもらった」(3)と言われている。「余は真宗の家に生まれ、余の母は真宗の信者である。にもかかわらず余は真宗について多く知るものではない」しかし「私は親鸞聖人の“愚禿”という言葉に大きくうたれる」(4)と西田は言っている。

大拙も少年の日の母親の感化を無視できない。夫を亡くし愛息を失ってからは「一種やっぱり宗教的な気分が母に動いておったと思う。そういう感化をうけたかどうか知らんが、自然わしも宗教に関心を持つことになった」「学校をやめたころから、なんとなく人生に疑いを抱き、草木は無心に成長し、花を開いて自足しているのに、人の生活はなぜそのようにならないのであろうか、こんな考えが起こってきたのが、宗教に入る第一歩であった」(5)と述懐している。

啓治もまた、夏は静かだが、冬になると荒れる日本海の波を見ながら、幼年時代を過ごした。晴れた日には、遠く立山連邦を眺め、自然の四季折々の神秘性を感受した。「浜は広々として、とても清らかな感じだった。人気もなかったが、それ以上に、人間臭さの全くない、古い言葉で言えば『俗塵』から抜け出たような、澄んだ清らかさが感ぜられた」(6)と幼少の頃を振り返っている。柳が緑の葉を垂れ、花が紅く咲き誇る自然のままの世界を体験している。

こうした「ふるさと」での若き日の生活が、次の青年時代に起こる逆境の中をひるむことなく、むしろ一回り大きく成長させていく要素となるのである。つまり、自分は自分だと自覚し、どんな苦労にも耐えて生き抜く力と、どこまでも己に立ち返り、一切の責任を自分で担う能力を身につけていくのである。

(3)試練

幾多郎と大拙は同年で、その30年後に啓治も石川県で生まれているが、三人とも旧家の息子として誕生している。幾多郎は庄屋の総領として、大拙は医者の末子として、啓治は地域の中心的な家柄の一人子である。幼少から少年時代まで、順風な生活をしている。ところが、第二の誕生といわれる人生の最も多感な青春時代に三人とも大変な出来事に遭遇するのである。幾多郎は父との折り合いが合わず、22歳の時西田家は没落し、その後父との壮絶な死別を経験している。大拙もまた6歳の時父を亡くし、20歳で母とも別れ、貧困のため学校もやめ、天涯孤独の身に苛まれている。啓治は祖父とのもめ事から、家族と共に故郷を去った後、15歳の時父を亡くし、その上自分も当時、死病といわれた肺結核に見舞われて、友の歩みとは別の逆風の吹きすさぶ道を歩まざるをえなかった。

しかし、三人の素晴らしい点はその「試練」を逃げることなく、「人身受け難し」と“そのまま”受け入れて、自分の人生を構築していくことである。そのことは後年(昭和九年)作った幾多郎の歌

「人は人 吾は吾なり とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」

や、大拙が「逆縁に遭遇したものは親から生まれたという生物学的な誕生ということの外にもう一つ私の言葉で言うと霊性的にもういっぺん生まれるということがある」(7)といった言葉が見事に具現している。

(4)出会い

こうした厳しい状況のなかで、幾多郎には北條時敬先生、大拙は釈宗演師、啓治は西田幾多郎先生との出会いが、その後の三人の生き方に重要な意味をもってくることになる。まさに、「人に遭う、これ遭うなり」(道元)。出会いとは目の当たりに先師と見えることなのである。

幾多郎は北條先生の薦める数学者ではなく、「哲学する」ことを自ら選んだけれども、人生の歩みそのものは、時敬先生の期待に適うものであった。幾多郎が十七・十八の多感な頃「先生が私に自分の家に来いといわれるので、私は先生のお宅に御厄介になった。…夜には、座敷で、先生のテーブルを真中に、左右に奥さんと私が机を並べて勉強する」「先生は無口で…話し苦い人であった。いつかも、先生が黙っているから、此方も先生が何かいわれるまで黙っていようと思って、夜深くまで黙って対座していたことなどもあった」(8)と感慨深げに振り返っている。後年西田が自分の著書に「今年七十の誕辰を迎えられた北條時敬先生にささぐ」と献辞を添えて刊行したものは『働くものから見るものへ』だけである。このことから幾多郎にとって、北條先生がいかに絶大であり、大きな山のような時敬先生に出会えたことを感謝している。

大拙は二人のあらゆる面で正反対の師に出会った。一人は「夏の朝早く、土鍋から手盛りのお粥を啜る…禅僧というものはこんなものかと、そのとき受けたし印象、深く胸底に潜んで、今に忘れられず」(9)と書いている今北洪川老師(北條先生もこの洪川のもとで禅の道を究めた居士であった)。もう一人は「僧堂の修行をすまして、慶応で学び、セイロンへ出かけるという禅僧としては破天荒な行動」(10)を採られた宗演禅師。その恩師が渡米される時、通訳を仰せつかり、「予が北米生涯中の最も幸福なりし一節なり」(11) と言い切れる運命の巡り合わせを心底喜んでいる。そして、この頃、後に神経衰弱に悩みながら「自己本位」(他人本位の外発的開花は根のない浮き草を生み出す。「ああここにおれの進むべき道があった」という自己の本領に立脚する内発的開花のこと)に目覚めようとした夏目漱石も鎌倉の「円覚寺」に来ている。幾多郎の師である北條先生が洪川老師の下で参禅し、大拙もその老師の弟子になった。啓治が自己と「同じような苦悩の声」(12)を聞いた漱石も釈宗演の下で座禅し(宗演は漱石の葬儀の導師も勤めている)、北條先生の教え子である幾多郎が啓治の恩師になるのである。西洋と東洋の狭間で苦悶したこれらの人々が不思議な出会いの糸で結ばれていると思わざるをえない。

啓治は人生そのもののもつ苦悩に苛まれていた時、たまたま『思索と体験』という本に巡り会った。その本の哲学的な内容は理解できなかったけれども、随想的な文を通して自分より自分に近いものを見出し、その本を通して西田幾多郎先生との出会いを、遠い宿縁として、「人生に於ける最も大きな恵みであり、幸福である」(13)と断言している。「より高い自己を反映するような何ものかに出会うということがなければ、人生は多くの人々の場合のように、あたかも平野を往き来するようなものに止まって、山坂を登るようなものにはならないであろう。…自分を登高へ誘うもの、自分にとって自分自身に至る道になるもの、真実の意味で師であり得るものに出会うと言うことは、稀有の仕合わせである」(14)と独り西田先生の居られる京都に東京から向かった。啓治がたまたま手にし深く心を打たれたこの書物には『愚禿親鸞』や『「国文学史講話」の序』という文章がある。その中には後の啓治の基盤となる西田の言葉がある。

親など愛する者との別れを通して識る世の無常。生身をけずっても生きていかなければならない深い悲しみ。誰も代わってくれない人生を独りで歩まねばならない厳しいさだめ。孤独の痛みが時には哀しみとなって三人の身を責めたのであろう。なんともならない運命で縛られた自分をどうすればよいのか苦悶の日々が、三人とも続いたのであろう。

ところが、こうした状況の中で、人生の師を求める心の準備が整えば、恩師とは出会えるものなのである。なにものにも妨げられないで生きる道はないのかと必死に「よき人のおおせ」を求めていたのである。啓治のいう「憂愁」(15)の苦悩は一人で解決出来るほど底の浅いものではない。

だから、三人とも辛い苦しい状況の中で、何かを成さねばならぬと発心した。この一念の「おもいたつ心」が鼓動の響きを奏でたのであろう。

梵鐘を鳴らすことは、鐘撞きが先で、鐘が鳴るのは後と思いがちであるが、鐘を撞くことと鐘が鳴ることとは同一の瞬間である。ちょうど、プラトンがソクラテスに出会ったように、また親鸞が法然とめぐりあったように、三人とも偶然の出会いを尊い御縁といただいていくのである。そして、その邂逅に究めても究め尽くすことのできない深い宿縁というものを感じるのである。自分の命は無量の命をいただいて、今をもらって生きているのだということを、師と出会うことによって「教外別伝」(真理は心から心へ直接体験によって伝わる)したのであろう。目の前の師を仏身と観ずることによって、仏心を見たとも言える。未来に対する自分の道を会得したのである。

この巡り逢ったという事実、めぐりおうたという感情が、ゆるぎない「信」となって以後の歩みを決定づける。つまり、世俗的な小路を棄てて、自分として成さねばならぬ使命を果たす願成就の大道に就くのである。

この求道する心は、また人間が最も真面目になった姿(至誠心)でもある。そして、その求道する心はやがて菩提心にまで鍛え上げられていき、多大の功績を残すのである。

(5)学んだもの

幾多郎の学んだものを要約すれば、「禅と哲学」である。不立文字で、文字を必要としない禅と、文字による論理を通じて、真理を究める哲学という全く対照的なものである。換言すれば、東洋と西洋‥全く歴史的背景の違う二つの世界を一つにしようという気宇広大な探求である。「禅と哲学」の「と」には途方もない、深遠な究明が、一文字「と」に込められている。

家庭において「人生の悲哀」は始まったけれども、あえて「人生の最もよき時」(16) と言い得た金沢時代。「午前打座・午後打座・夜打座」の座禅三昧と古代のプラトン、アリストテレスから当時の最新哲学であるデューイ、ベルグソンまでを学んだ。そして「我々の最も平凡な日常生活が、何であるかを最も深く掴むことによって、最も深い哲学が生まれる」(17)ことを体認した。そこから平常底道なる道(禅宗でいう「平常心是道」[平常の心がそのまま悟りである]に由来)を歩み「色を見、音を聞く刹那‥未だ主もなく客もない」(18)純粋経験を真の実在と確信して、自己の哲学の出発点としていく。

大拙の学んだものは「禅」である。机上の学問よりも、鎌倉で参禅した。禅は頭での理解よりも、体得がなければならないことを肝に銘じていたのであろう。宗演禅師の人を引きつける魅力は、学的知識もさることながら、座禅で鍛えた人格にあると見ておられたのではないか。我々の一生は日々を日々生きる以外にあり得ない。日常が道場なのだ。そして、洋の東西を問わず、修行の場はどこにでもあることを、師を通して確認された。「随処云々」(いつ、いかなる処にいても心が物に奪われず、主体性が確立していれば、どこでも仏法の真実義は実現出来る。『臨済録』[臨済の法語集]の有名な言葉)である。世界が我が家なのである。そうして、宗演の勧めによって、27歳で渡米し39歳まで異国で暮らしている。その間、ポール・ケ—ラス博士の助手として働いている。その異国での独り暮らしは寂しく辛いものだったと想像されるが、宗演師の講義録や『大乗起信論』の英訳、そして『大乗仏教概論』を英語で著述している。こうして東洋のものを西洋へ伝えることを、大悲の心で実践していく。この歳月が「世界の禅者鈴木大拙」を生み出す基礎となる。

啓治の学んだものは「哲学」である。ドストエフスキーや親鸞・道元・漱石に見られる実存の問題に関する思想から出発した。そして、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲルをはじめとする西洋哲学の高い峰‥なかんずくニーチエ(「神は死んだ」は有名な言葉)(西谷はニーチエの死んだ年に生まれている)のニヒリズムに人間の根源的課題を見い出した。勿論、恩師西田幾多郎がそうであったように西洋思想だけを学んだのではない。東洋思想‥なかでも仏教・道教・日本文化を攻究して、自分が自分を生きる以外にない人生を歩んでいく。つまり自己の探求、ゲーテの「汝があるところのものになれ」、禅で言う「己事究明」に命を懸けていくのである。37歳から39歳までドイツに留学し、「人間は死への存在である」といったハイデッガ—のもとで学んでいる。ドイツで座禅もした。(ハイデッガ—逝去の時の啓治の色紙は「夜深明月弧」である)

この修学の時期、三人とも「学道の人すべからく貧」(19)であった。極貧なるが故に、よけいに志気ますます盛んであった。「貧乏人のわれらは忍耐という主観的財宝よりほかにない」(20)という大拙の言葉に象徴される生活であった。

生きることに傷つき、深い悲しみの中に三人はいた。なんとしても魂の渇きを癒そうとする願望の強さが、厳しい修行に駆り立てたのであろう。水の冷たさ暖かさは、自分が飲んで初めてわかる。つまり自ら実践して自ら知るのである。自分の足下に、自分の心に、自分の日常に目を向けて、「歩々是道場」(悟りを求めて一歩一歩前進することが、すでに悟りの世界を歩んでいる)の歩みをされた。善導のいう「強健有力の時こそ、自策自励して常住を求め」(21)られたのである。

(6)発表したもの

西田幾多郎の世に問うたものは『善の研究』である。「考えるな」という禅と「考えよ」という哲学の相矛盾した裂け目に身を置きながら、思索に思索を重ねて、「純粋経験」という深意に到達し、了解したものを世に捧げたのである。「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたい」(22)という所に西田哲学の根源がある。難渋に難渋を重ねながら、自分の思索の成果を絞り出す、産みの苦しみがその論文の深さとなった。凄まじい精神的苦悶が一文字一文字にちりばめられており、打座一途の求道生活に裏打ちされた生命の息吹が、文章の行間に籠もっている。

西田は「書くことは自分自身と対話することだ」(23)と対話を重視した。思索したことを一気に書くのでなく、「書きながら考える」スタイルを醸造していく。そして、「真理の鉱脈を求めて、深抗で鶴嘴をふるう抗夫」(24)と自らを譬えたように、書きながら、真理の鉱床を次から次へと掘り下げていった。西洋の哲学から学ぶべきものを学びながら、東洋に身を置く自己自身との対話に没頭する。「自己の深さは、世界の深さ」(25)なのである。そうして、「有る」とは何かに「於いて有る」(自分は哲学という学問に於いて自分が有る)ことであり、自己は場所に於いて自己が見えてくる。つまり、それが自覚だという。また、有るものがそこに於いて有るものを「場所」といい、それを更に「絶対無の場所」に深化させていく。すばらしい進化である。

鈴木大拙が学んだ集大成は「即非の論理」によって、「霊性的自覚」に到達したことである。「生は死に即することによって、生に非ずして生である」(26)。「Aは非Aである。ゆえに『A』といわれる」(金剛般若経)、「ひじ、外に曲がらず」ひじは曲がらんでもよいのだ。その不自由(必然))がむしろ自由なのだと悟っていく。松が竹になれないのは不自由かもしれない。しかし、松からすれば、松が松に成ることほど自由なことはないのだと開悟した。今までの心の迷いを一挙に払拭し、「日々是好日」(清らかな無心の境地で今日という日をありのままに受けとめると、かけがえのない一日となる)の生活に勤しむ。人生は生死一如と覚り、毎日毎日を誠実に生きる。三昧境にしたって、苦労をすることが人間を鍛錬するとの信念をもって、何事にも前向きに対処していく。そして、自分の命はこれに使うのだという使命感に基づいた禅経験を通して、禅宗と浄土真宗の一致を仏教思想のなかに見出していく。仏教は大智と大悲の教えである。般若の智を重んじる禅と仏の慈悲を大切にする浄土教。自力と他力、証と信、という相対する概念も「霊性的自覚」に立つ限り、相通ずるものがあると確信する。「矛盾そのものが霊性なのである。信心決定なのである。‥矛盾がそのまま矛盾でないという所が霊性的自覚」(27)で、それは「煩悩即菩提」「佛智不思議」の世界だというのである。そして、「南無阿弥陀仏は不思議にも禅者の安心と相通ずるものがある」(28)と見性してくる。西田幾多郎が「他の書物が一切なくとも『臨済録』と『歎異抄』(親鸞の弟子唯円の書)さえあれば‥」(29)と言っていることとも相通じる。

西谷啓治は「空」の哲学である。「見解が師匠に等しいなら師匠はその徳の半分を減ずる」(『臨済録』)。恩師西田先生の言われていた「自分の思想は君等が思慮する場合、それを乗り越えて行くための足場に過ぎない」(30)という言葉に、自分の人生を深く染めていく。東洋の伝統に根ざしながら、同時に西洋の古代から現代にいたる思想を学び尽くし、「ニヒリズムの超克」を主体的に探求している。「現代文明の根底にはニヒリズムというものがあまねく行き渡って現れつつあると思われる。その現代のニヒリズムとは現代の人間が自らの“心”の落ち着くべき所を持ち得なくなり、安心立命の方途を見失っているということである」(31)。心の所在を失ったということは自己自身を失ったことで神や仏などの超越的なものとの関係も失われるのである。しかし、それでは、生きる意味もないし、退屈なむなしい人生である。気晴らしのみの毎日である。だから、人間には、神又は仏に生かされつつ生きるという「新生」がとても大事なことで、ここにこそ、真の自由があるというのである。「念仏なるものは無碍の一道であるというような宗教的実存は人類が人生について長い間の苦闘と探求を重ねた結果、最後に到達した大きな肯定の立場であって、それが人生に対してもつ重い意味は軽々しく否定されるべくもない」(32)と力説している。そうして、東西の深い思想の全面的な出会いの中で、この世界は煩悩も涅槃も一切が空である事に目覚める。「『空』というのは、目に見えるものでもないし、目に見えないものでもない。しかし、そこには『用』(働き)という事がある」「『自然法爾』ということは『有るべきようにある』ということですが、『法』というのは『有るべき』ということで『爾』というのはただ『状態』を表している言葉」つまり、「自然というのは、あらゆるものがその一番根本の処から有りのままに現れているということで、しかしそれが法爾である」(33)と覚り、精進していく。

(7)願ったもの

「作者はその処女作に向かって成就する」西田幾多郎の残したものを繙くとき、この言葉を思い出す。「自分でなければならない仕事を少しでも多くして後にのこしておきたいとおもい居ります」(34)「私でなければならぬとおもう仕事が多く残り居り、これだけはできるだけして置いて後世にのこしたいとおもい居ります」(35)と言い続けた。幾多郎が激しい情熱と徹底的な論理で、いわば後世への遺言として遺したものが「場所的論理と宗教的世界観」である。

場所とは「絶対無の場所」で、自己の居る場所有限会社が無に照らされて、開かれた場所のうちに自己自身を見い出す「意志的自覚」の自己が本当の自分自身なのである。

「絶対無とは、すべてに対し超越的なると共に、すべてが之によって成立するものでなければならない」(36)「我々は自己の永遠の死を知るとき、始めて真に自己が個であることと自己の生が一回限りのものであることを知る」(37)「宗教的な要求は人心の最深最大の要求である」(38)「我々の宗教心というのは我々の自己から起こるのではなくして、神又は仏の呼び声である。神又は仏の働きである。自己成立の根源から起こるのである」(39)

これらの言葉は、幾多郎の全身全霊からほとばしりでた、書かずにおれないロゴスである。悪戦苦闘しながら、徹底的に西洋文化を学び、咀嚼した幾多郎がたどり着いた立脚地は、東洋の再発見であった。東洋思想に西洋を通して回帰した結果、新たに哲学に課せられる問題は、形なきものに形を見、声なきものの声を聞く、「無」の思想であることに気づいた。そして、「有」や「契約」を重んずる西洋の哲学・宗教にはこの概念が欠けていたことを再認識するのである。場所(無の論理)において明らかにしたのは主語的論理から述語的論理への転換、「私が在る」は「私」が主体ではなく、「在る」が基本で、ここに人間存在の基体があると考えたのである。つまり、自己の側から世界を見るのではなく、世界の側から自己を見ることなのである。また、絶対無は縁起説ともかかわるもので、仏教は自己の存在は縁によって成り立っているという。もともと我々は縁がなければ「ゼロ」で、存在しないのである。だから、「思いのまま」「わがまま」(我中心・主語的)な生き方から「ありのまま」(自ずから在る・述語的)にも思いを寄せる生き方に転回することが大事だと言っているのではないか。それは漱石が大患を煩った後の晩年の境地「則天去私」(晩年の漱石は利己心をも許容する「道」を求め、「自己を離れて天に従う」東洋的な伝統に回帰した)と同じ事を言っているともいえなくはない。

そして、そうしたことは鈴木大拙の「霊性」とも繋がっているように思う。(「鈴木先生の大地性霊地にあたるものを西田哲学は“場所”と呼ぶ」(40))

大拙は幾多郎にとって特別な存在であった。「私は思想上君に負うところが多い」と西田は常々言っていた。その西田が昭和20年ポツタム宣言受託前に突如没した。その時の大拙の悲しみは尋常ではなかった(ビアトリス夫人・佐々木月樵・柳宗悦との別れの落胆と同じかそれ以上‥)。幾多郎は禅について大拙に一目置いている。一方、大拙も学者幾多郎を信頼している。ともに旧制四高の学友であり、また東大の選科の惨めさを味わった仲であり、鎌倉と京都での禅修行、そして、大拙は西洋・東洋の統一を「禅」で、幾多郎は「哲学」でなそうとし、大拙が「即非の論理」といえば、幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と呼応した無二の親友である。その真友であった西田が死んだのである。

時に、大拙は七十五歳を超している。「西田が死んで話し相手がなくて困る。寂しい‥」(41)と言った。心にぽっかりと空洞が出来たのであろう。しかし、大拙の偉大な点は「老いを悔やんでも仕方がない。西田のいないことを嘆いても戻らない」と悟って、逆境をバネにがんばるところである。急逝した西田の願いを、そのまま生きて、戦後の混乱した世の中で、仏教思想を世界に広めたのである。与えられた命を無駄にしないのである。

その大拙は「大地」ということを強調している。人間が苦悩の涙でうるおしてきた大地。人の世の悲しみも喜びもその中に飲み込んでしまう大地。大地はあくまで生死を包摂するし、すべてのものを育むこの上ないものなのである。しかるに、大地を踏み台にして、天に向かって祈り、天に向かって伸ばすゴシックが象徴している文明を建設してきた西欧、あるいは母なる大地を無視して、コンクリートずめの高層ビル・高速交通網を作り、功利のみを追求してきた近代日本。そうした西欧や近代日本は宇宙の摂理を無視し、大地をないがしろにしてきた。そして、思い上がった人間中心(わがまま)が世の中を充満していると大拙は警告しているのである。「大地に関わりのない生命は、本当の意味で生きていない」(42)「霊性の奥の院は実は大地の座に在る」(43)と言うのである。また「『歎異抄』は大地の中から大地に最も接触して居る人々に呼びかける霊性の叫びである」(44)とも言っている。又啓治も「木の根はやはり宙に浮いてはいけない。大地に根がしっかりおろされていて、木のいのちが安全にされている。それが本当の安心」(45)と言い、「大地に帰るという事は自他がなくなり、本当の意味での自己が徹底した形として現れて来るという事です。それが自覚というか、悟りという事ですね」(46)とも言っている。

また、この大地と共に大拙は「自己というものの源底」ということをよく言った。生あるものはいつかは必ず死ななければならないと自覚するとき、人間は自己の源底に思いを寄せざるをえないのである。西田が長男・妻の死、子どもの病気・入院という度重なる家庭の不幸の中で「わが心 深き底あり 喜も憂の波も とどかじと思ふ」(大正十年)と歌った幾多郎の「深き底」を連想する。

自分をして自分たらしめてくれている大地。有るものをして有るものたらしめている無。大拙の言う「霊性」(霊妙不可思議な心の本性)も「大地」や「源底」を了解して、はじめてわかることなのである。川の水源地の奥に、地下にさらに源底がある。水は常に休むことなく源底から湧き出て、水源地を潤している。しかし、水源地や川のことは把握できても、源底には気づかない。源底の恩恵をいつも受けながら無頓着である。大いなる力に生かされながら、人間はそのことに気づきにくいものなのである。

霊性は見えるものでも、見えないものでもない。それらを超えた働きである。我々はそれに浴していながら、それをそれとして自覚していない。我執が邪魔をしているのである。だから、霊性が霊性として表に現れ出るには自己否定、無の自覚を経なければならない。自分の命には、先祖の量り知ることのできない命が流れていることや、その命を維持するためにどれだけのお米や魚や野菜の命をもらって生きているのかという罪の意識とソクラテスのいう無知の自覚、つまり「愚」の認識が必要なのである。どうしても親鸞が比叡山で体験した自力無効に触れなければ、霊性は自覚できないのである。

仏の大悲は、どんなに煩悩に眼がさえられていても、倦むことなく、常に我が身を照らしている。仏の慈悲は母なる大地からほとばしり出ているのである。どんな人でも、無量なる命から「しっかり生きよ」と激励され、願われているのである。

大拙はそうした実例を名もなき一庶民の大地に根を下ろして生活した妙好人(真宗の篤信の信者)の生き方に見出した(妙好人を大拙に紹介したのは啓治)。妙好人は世俗的な善悪を超えた世界に生きている。つまり、妙好人は「ありのまま」なのである。信仰の「純粋経験」の具現者である。「色即是空・空即是色」の世界で生活している。有が無であり、無が有なのである。それは分別の働かない境地である。宗教経験の「事実」はこの「ありのまま」以外にない。自力を捨て、すべてを捨てて、捨てることも捨てるという弁証法的な「行」の果てに現れるのは「ありのまま」の姿だけである。

をのずから(自ずから)、 をのずに、とられる
わしのこころを
なむあみだぶの
慈悲の、をのずに 才市の歌
さいちや、このたび、しやわせよ
悪もとられ、自力もとられ
疑もとられ、みなとられ
さいちが身上(しんしょう)みなとられ
なむあみだぶつをただ貰うて
これで、さいちが苦がないよ
これが浄土にいぬるばかりよ。 才市の歌

真の宗教とは何かを妙好人を通して明らかにしているのである。大拙の面目躍如である。

西谷啓治にとって、尊師西田幾多郎と敬師鈴木大拙は自己のすべてを投げ出して尊敬する特別な人である。

西田が遺稿「宗教論」に書きつづった問題、あるいは鈴木が全生涯をかけて求道し伝道した「仏教」の問題。尊敬する恩師の投げかけてくる問に対する西谷の一つの答えが主著『宗教とは何か』ではなかったか。西田でもない、鈴木でもない、しかし両者を貫くものを一つにしたのが西谷で、その真髄が「空論」なのである。仏教は真理を説くとき常に空の思想をもって説いている。その「空」を世界思想の中軸に据えたのである。

冷ややかな知性の領域で「わしが、わしが」とさまようている間は、空の思想も無我の教えもむなしい響きを伝えるだけである。それに対して、絶対無の世界は、一切が空であるからこそ、一瞬一瞬の今が絶対であって、永遠なるものに触れていると自覚される世界である。「一般に宗教は自己の内に絶対的なものとの繋がりを自覚することである。永遠の生命に生き、またはそれに生かされてあること。永遠の光に貫かれ、またはそれに照らされてあることである」(47)「超歴史的な存在である弥陀から釈尊、釈尊から善導・法然・親鸞へと伝えられた真実はしたがって時と共に歴史をつくっていく永遠である」(48)「生死即涅槃というようなことで、言い換えると人間は単に人間の生活に生きているというだけでなく、生かされて生きているといえるような人間の立場が仏教の根底にある」(49)つまり、生まれたままの姿と永遠の今に目覚めた姿との自己同一が空の立場での実在なのである。「永遠の今という如きことも、永遠なる力が今働くことによってのみ可能である」。(50)

永遠なるものを求めた菩薩の姿をこれらの言葉に見ることが出来る。(ちなみに啓治の学友であった唐木順三は啓治のことを「和尚、和尚」と呼んだ)

また、啓治は最初の論文の結びに良寛の歌「裏を見せ、表を見せて、散る紅葉」を引用し、最初の著作にも「これこそ創造しつつ、没落して行くものの姿であろう」(51)と書いている。「ありのまま」の紅葉に若き日から心惹かれているのである。

西田の「無」と鈴木の「霊性」が、ものの見事に、西谷の「空」に包含されていると言わざるを得ない。

「天上天下唯我独尊」と釈尊は叫んだ。野に叫ぶ声は聞かれることによって、始めて野の声となる。「感応道交」(仏と人との気持ちが通い合うこと)の世界である。

「閑かさや岩にしみいる蝉の声」「古池や蛙飛びこむ水の音」は「岩にしみいる」「飛びこむ音」が眼目で、その瞬間のその音の場というのは、永遠無限な静寂の場である。(52)

称ふれば、われも仏もなかりけり、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

念仏を一心に称えていくところには、自分もない、仏さえもない。ただ、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と称えている心があるだけだ。その心が「空」なのだ。

今のままで、仏は自分を救って下さるのだと信じた時、慈悲の光が自分に届いたのである。そして、その慈悲の光で、私の命としてきた我執(わがまま)が打ち破られ、与えられた無量寿の命を生かされて生きている自分だと素直に目覚めた人は「信に死して願に生きる」(曽我量深)のである。そして、謙虚に、しかも力強く、有限者として、自己に課せられた仕事に「柔軟心」をもって全力を尽くすのである。

三人とも青年期の苦労だけでなく、釈尊のいう「人生は苦である」という生涯であった。しかし

愛宕山入る日の如くあかあかと、燃やし尽さん、残れる命

定年退職後の幾多郎の歌に現れているように、日没に聖なる美しさを観想しながら、人間である限り、どうしても背負わなければならない重い義務と責任を死の直前まで必死に果たした。家庭・職場における苦労は、仏からの激励として、そのまま受け止め、残れる命を完全に燃やし尽くした。人生の最後の最後まで、涙ぐましいほどひたむきに生きた。

西田幾多郎は、昭和20年6月7日亡くなるが、その一週間前まで論理的な論文を執筆している。前日まで次の仕事の準備をしていた鈴木大拙は、昭和41年7月12日逝去する。平成2年11月24日死去した西谷啓治は、5日前、参禅のゆかりの地「相国寺」を訪問し昔を懐かしんでいる。死が突如襲い、行年はそれぞれ違うけれども、三人の死はまさに仏教で言う「示寂」(菩薩や有徳の僧の死)であった。涅槃とは、目覚めた者としてこの世を生きること、命の完全燃焼であることを実証した。大拙の最後の言葉「No,nothing. Thank you」(何もないな。ありがとう)は人生において用を果たした人にしてはじめて言える言葉ではないかと思う。真摯な求道の歩みは死まで続いたのである。その凄まじさと誠実さに驚嘆せざるをえないし、カントの最後の言葉 「Es ist gut」(これでよい)を思い起こす。

(8)響き

真に生命を愛し、真に人生を大事に思う人は、自己よりも大いなる生命や絶対的なものの前に、実に謙虚に教えを受け、これを発展させるものである。そして、真理に対しては燃えるような熱情を注ぎ込む。だから、そういう人の書かれたものは、読者をして、感動を起こさせるのである。また、その一声はただの一点にとどまらないで、百雷の如く、あまねく、響いてやまないのである。己を尽くし切った所にこそ生きたものが生まれるのである。霊性は人間の個の自己に、真に自己として生きる力として働いてくるのである。三人とも大拙の「やらねばならぬ。いま、やらねばならぬ」「わしは死神といつも競争している」(53)という言葉のような毎日であった。学問の鬼が不断に三人をかりたてたのである。だから、精神的に老いるということがなかった。常に目的に向かって歩み続けた。永遠に若いのである。三人の日常は単なる繰り返しではない。一日は一日であり、一回限りの一日であり、かけがえのない一日であり、その故の尊い一日である。三人が散歩で見た、道端に咲く名もなき一輪の花は、それがどんなに束の間の命であるとしても、まさしくこの花以外の何ものによっても代行されないこの花として、現に今ここに咲いているのである。この時この花は「空」の場に咲いているのである。明日散る桜の、今日咲いている美しさである。

三人は自分が自分以外の何ものでもないものとして、自分が本当に自分に成るための一生を歩んだ。そうして、苛酷な運命にひしがれた、苦難と悲哀に満ちた生涯を、歯を食いしばって生き抜き、ついに人間の帰るべき命の故郷へ還った。まことに尊厳なる一生である。

しかし、死んですべてが消えたのではない。「花びらは散っても、花は散らない。人は去っても、面影は去らない」(金子大榮)のである。否、むしろ、一花咲いて、散って、世界が起こるのである。本当の人間の存在は、その人の死によって消え去るものでなく、むしろ死んだ後でより強く働きかけてくるのである。亡くなったが故に、余韻が純粋に聞こえ、香気が芳しく漂うのだ。死してますます生きる力を沸き立たせるのである。西谷が七十歳の頃、つまり、西田没後、二十五年経っても、「今でも西田先生が怖い」(54)と言っている。与えられた尊い命をおろそかにせず、しっかりと生きているかという西田の呼び声が聞こえていたのであろう。この言葉から、消え去ることのない恩師の真影を眼に浮かべながら、緊張して日々生きる啓治の姿がある。幾多郎との真の出会いを智見することができる。

また、真の求道者には、おのずと「自信教人信」(自ら信じ人にも教えて信じさせる)といわれるような境地が現れてくる。人の魂をゆさぶり、その深みに引き寄せ、限りない広い世界に眼を開かせる何ものかがある。「至誠」が人の心を打つのである。そうした人の言葉には魂が込められている。先師は亡くなっても、そこにはその人がおられると感じられる所にその人は生きておられるような気がする。

三人とも長い年月、日々座禅している。参禅にも明け暮れている。公案(禅宗で、悟道のために与えて工夫させる問題)も看破する優れた禅の居士であり、一旦禅の道を歩み始めたら、猛烈にして、徹底的に「禅」を究めている。しかし、禅僧にはならなかった。あくまで、学者・求道者を生業とする禅者である。三人にとって、禅は煩悩に惑わされた生命を正し、意志を研ぎ澄まされたものに鍛錬するものであったのだろうか。禅の場は心を癒す「無」の場所で、そこでエネルギーをもらい、「有」たる学者生活に精魂を込めたのではなかろうか。(「真の無は即ち真の有である」(55))そうして、仏の光に照らされながら、有無を超えた「如是」(そのとうり)の境地、つまり「さわりなき道」に、おのずと三人とも身を染めたのではないか。行き着いてみれば、すべて「ありのまま」であったのである。自然法爾である。他力の発見は、自力の極まりにあるのであり、その自力を超えたところに他力があるのである。大事なことは、超えるとは自力をただ棄てることではないのである。自力を尽くしてはじめて他力がある。自力をして自力たらしめているものが他力なのである。すべての自力は他力に支えられてあったのである。啓治の言う「みずから」が「おのずから」であり、「おのずから」が「みずから」なのである。各自が各自でありながら、自分自身であるのである。

『佛説阿弥陀経』の「青色青光」「黄色黄光」「赤色赤光」「白色白光」の世界である。

釈尊のいう「あなたはあなたのままで」という愛は無条件の愛である。その人の存在を一切の評価なしに、そのまま認める愛である。人間は誰しもこういう絶対愛に触れたなら、生きがいを感じるのではないか。。現にここに生きており、現に今ここに存在する。しかも、そのことがそのまま認められるならば、生きる喜びが湧き出るはずである。

幾多郎も大拙も啓治も、天命に安んじて、誠実に人事をつくした。それは三人三様の生き方であった。しかし、晩年の西田が悪人正機説に関心を示し、「逆対応」(自分がいかに煩悩に迷い、罪深い人間であると自覚すればするほど、阿弥陀仏はそうした人間を救うという本願が成立する)を心の拠り所としている。鈴木は「浄土真宗は仏教思想の頂点を示している」(56)と、90歳を超えてから『教行信証』(親鸞の主著で浄土真宗の経典)の英訳に心血を注いでいる。西谷は京大退職後、幾多郎が非常に尊敬していた清沢満之が初代学長をし、大拙も教授をしていた大学で教鞭をとり、浄土系の思想に親しみを深めている。そして、大拙が夫人の協力で20年にわたって刊行していた英文雑誌『イ—スタン・ブディスト』を復刊し、編集の中心にたずさわっている。

こうしたことは、三人とも長い自己の思索のはての終着駅を、親鸞の創造的な「自然法爾」(「自然法爾ということは創造的でなければならない」(57))に見たのではないか。自己の「いのち」の本源に帰ったのではないか。人生の真(まこと)をそこに見たのではないか。そんな響きが魂の静かなるとき聞こえてくる。

それは啓治が生涯を決定する書物になった『思索と体験』のなかで、幾多郎が「人生の一大事は死の問題を解決することだ」と言い、「後悔の念が生じるのは畢竟自分の力を信じすぎるからで、むしろ深く己れの無力なるを知り、絶対他力に帰依すべき」ことが大事だと書いていることと符合する。

(9)結び

私どもは、生まれ難くして、この世に人間として生まれた。その時、私どもは生が「善い」とも「悪い」とも思わなかった。何も心配せずに生まれてきた。勇ましい産声と共に無事に生まれてきた。今度、浄土に往生するとは、そういう存在の安らかさを、もう一度経験することではないかと思う。だから、「如来にまかせる」ということは、ともかく、与えられた一回限りの人生を、その場その場で「ありのまま」「そのまま」自暴自棄にならず、しっかりと生き切れということだと釈尊、親鸞は教えているのではないか。

そして、不安で、閉塞感の漂う今こそ、「目には見えないけれども、私を支え、生かしてくれている大きな力」があることを、人と人とのつながりの中で確かめ、信じてほしいと念じているのではないか。

  • (1)西田幾多郎全集第十二巻『「続思索と体験」以後』
  • (2)秋月龍民著『世界の禅者 鈴木大拙の生涯』
  • (3)上田久著『祖父 西田幾多郎』
  • (4)西田幾多郎全集第一巻『思索と体験』少し意訳した。
  • (5)鈴木大拙全集第十九巻『文化と宗教』鈴木大拙全集第三十巻『他風流庵自伝』
  • (6)西谷啓治著作集第二十一巻『日月古鑑』「奥能登の風光」
  • (7)鈴木大拙全集第十巻『宗教入門』「宗教に就いて」
  • (8)西田幾多郎全集十二巻『北條先生に始めて教を受けた頃』
  • (9)鈴木大拙全集第二十六巻『今北洪川』「五十年前の思い出」
  • (10)鈴木大拙全集第二十六巻『今北洪川』「老師と釈宗演師」
  • (11)岡村美穂子・上田閑照著『大拙の風景 鈴木大拙とは誰か』
  • (12)西谷啓治著作集第九巻『西田幾多郎』
  • (13)西谷啓治著作集第九巻『西田幾多郎』
  • (14)西谷啓治著作集第九巻『西田幾多郎』
  • (15)西谷啓治著作集第二十巻『風のこころ』
  • (16)上田閑照著『西田幾多郎 人間の生涯」ということ』
  • (17)上田閑照著『西田幾多郎 人間の生涯ということ』
  • (18)西田幾多郎全集第一巻『善の研究』
  • (19)懐装『正法眼蔵随聞記』
  • (20)春秋社鈴木大拙・禅選集別巻『鈴木大拙の人と学問』
  • (21)『往生礼讃』「日没無常偈」
  • (22)西田幾多郎全集第一巻『善の研究』
  • (23)下村寅太郎『遭遭の人』
  • (24)上田閑照著『経験と自覚 西田哲学の「場所」を求めて』
  • (25)岩波『思想 西田幾多郎没後五十年』
  • (26)鈴木大拙全集第八巻『日本的霊性』
  • (27)鈴木大拙全集第九巻『霊性的日本の建設』
  • (28)鈴木大拙全集第二十巻『大拙つれづれ草』
  • (29)西谷啓治著作集第九巻『西田哲学と田辺哲学』
  • (30)高山岩男著『京都哲学の回想 旧師旧友の追憶とわが思索の軌跡』
  • (31)西谷啓治著作集第十一巻『禅の立場』
  • (32)西谷啓治著作集第十一巻『禅の立場』
  • (33)西谷啓治著作集第二十六巻『大谷大学講義3 第2講』
  • (34)西田幾多郎全集第十九巻『書簡』
  • (35)西田幾多郎全集第十九巻『書簡』
  • (36)西田幾多郎全集第九巻『哲学論文集第三』の序』
  • (37)西田幾多郎全集第十一巻『哲学論文集第七』「場所的論理と宗教的世界観」
  • (38)西田幾多郎全集第一巻『善の研究』
  • (39)西田幾多郎全集第十一巻『哲学論文集第七』「場所的論理と宗教的世界観」
  • (40)春秋社鈴木大拙・禅選集別巻『鈴木大拙の人と学問』
  • (41)森清著『大拙と幾多郎』
  • (42)鈴木大拙全集第八巻『日本的霊性』
  • (43)鈴木大拙全集第八巻『日本的霊性』
  • (44)鈴木大拙全集第九巻『霊性的日本の建設』』
  • (45)西谷啓治著作集第十八巻『禅の現代的意義』
  • (46)西谷啓治著作集第二十四巻『大谷大学講義1 第九講』
  • (47)西谷啓治著作集第四巻『現代諸問題と宗教』
  • (48)佐々木徹著『西谷啓治 その思索の道標』
  • (49)西谷啓治著作集第六巻『宗教哲学』「科学と宗教」
  • (50)西谷啓治著作集第十三巻『哲学論攷』
  • (51)西谷啓治著作集第一巻『根源的主体性の哲学』
  • (52)西谷啓治著作集第十七巻『現代の人間の問題と仏教』

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