暁烏敏賞 平成21年第1部門論文「苦悩の倫理学 死なないでいることの<理由>」1

ページ番号1002534  更新日 2022年2月15日

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第25回暁烏敏賞入選論文

第1部門:【哲学・思想に関する論文】

写真:火焔様式楽人像

  • 論文題名 苦悩の倫理学 死なないでいることの<理由>
  • 氏名 梶尾 悠史
  • 住所 東京都西東京市在住
  • 職業 株式会社 日本標準 勤務 東北大学大学院文学研究科博士課程1年

苦悩の倫理学 死なないでいることの<理由>

はじめに

現代社会のさまざまな事象の内に、生のリアリティの揺らぎというべき現象を見て取ることは容易である。日本の自殺者数がこの十年間、毎年三万人を超えているという深刻な事態は、その背景に多くの複雑な問題を蔵しており、一概に論じることは乱暴に過ぎるが、たとえば、「自殺サイト」なる仮想共同体において死への憧憬を紐帯とする奇妙な「連帯感」が醸成され、挙句、この閉鎖的空間が生と死をつなぐ媒介として「利用」されるに至った諸事例は、上述の現象を具現している。この事例は、死のイメージによって統制された閉鎖的な仮構世界が構築されると同時に、私たちのリアルな生そのものがこの仮構世界の内に絡め取られ、イメージ化される、という倒錯した現象を端的に示しているであろう。

目を転じれば、「人は死んでも生き返ることがあるか」と小学生に問うたところ、その三割が肯定的に答えたという調査結果がある。これに対して良識ある大人たちは、生命の尊さについての理解が子供たちから欠落していると言って嘆いたものだが、このような見解は問題の本質を捉えていない。むしろ、時代の空気に敏感な子供たちの反応を通して、現代を生きる私たち一人ひとりの死生観のあり様に思いを致し、自問すべきである。生や死のイメージが肥大化する一方、そうしたイメージが生い立ってくる基盤であるところの生の、本来的に充実した意味が私たちにおいて空疎化しつつあるのではないか、と。

私見では、以上に挙げた諸事象の根底にある「生の意味の空疎化」は、私たちが生を捉える際の、次の二つの傾向と密接にかかわっている。第一に、可処分権が各人に委ねられる所有物と同じ水準で個人の生を捉える「生の物象化」と言うべき傾向である。第二に、この傾向と密接に関係するのだが、生きることには何らかの目的や価値が与えられなければならないとする「生の合理化」の傾向だ。だが、本来〈生きる〉ことは間断のない生の遂行であるはずだ。にもかかわらず、そのような動詞的な〈生〉は、しばしば、おのれの意志に従って自由に処分できる実体的な「生」と混同される。この混同は、対象を実体的に捉える私たちの概念的な思考様式にそもそも起因するものかもしれない。あるいは、生命活動に不可欠な食や、さらには誕生や死までをも含む人生のあらゆる局面が商品として扱われるような、社会の構造に求められるかもしれない。また、人間を「私的所有者(能力を私的に所有する個人)」に徹底化させる新自由主義の思潮と、生の物象化ないし合理化の傾向は根底でつながっているようにもおもわれる。

だが、そうした具体的な分析は本論の範囲を超えている。本論の目的は、上の二つの傾向を克服し、〈生〉の充実した意味を回復することである。より具体的に言えば、「死ぬとわかっていて、なぜ人間は生きてゆけるのか」という究極の問いに対して私なりに答えの方向性を与えることだ。これはある大学の講演で大宅映子氏が提起した問いだが(1)、それは、「いつか確実に死ぬのになぜ、今、死んではならないのか」という、より特殊な問題を含意しているであろう。そして、この問題こそ本論の主題である。実は、大宅氏の先の言葉には続きがある。「このことに答えを与えることが文学部の仕事である」と。洋の東西のさまざまなテクストを通して人間精神を学ぶことの一つの意義は、生の意味を思索する営みの中で、新たな意味付けのもとに捉えられる自身の生を繰り返し生きなおすことにある。

第一節 「死者を偲ぶこと」と「死を思うこと」

昨日こそ君はありしか思はぬに浜松の上に雲にたなびく(2)

「誰も私に尋ねなければ、私は知っている。尋ねる人に説明しようとすると、私は知らない」。時間とは何かという問いを前にしたアウグスティヌスの言葉である(3)。これに擬えて次のように言うことができるであろう。「他者に説明するならば、私は死の概念を知っている。自分自身を納得させようとすると、私は私の死を知らない」。実際、私は、これまでに幾度か身近な人たちの死を目の当たりにしてきた。死とは言うまでもなく、一つの人生の終結を意味する。他者の生は、誕生から死までの一定の期間だけ持続的に生起する生命現象として理解できる。他者の死は、そうした生命現象の終結という一つの出来事であり、それ自体、私の生において現象する出来事である。そのようなわけで、私は他者の死を経験することができるし、他者の死の意味を概念的には明晰に知ってもいる。だが、私自身の死の意味を考える段になると、一挙に概念的な思考の外に連れ出され、とたんに何もかもがわからなくなる。

「死を思え(メメント・モリ) Memento mori」という古来の言葉も、上で述べたような死の概念を抽象的に分析せよと言っているのではあるまい。この言葉は、他でもない「私」の死を自分の生の内部で思い続けるよう訴えている。一見、これは原理的に不可能な事柄を要求しているように思われる。私の死は私の生の消滅である。したがって、死はその定義上、私の生の内部で現象する一つの事実ではありえない。つまりそれは私の経験の対象ではない。ゆえに生きながらにして死を思うことなどできない。そうではないか。

いや、まさにそうした死の不可解さに絡め取られるという仕方で、私はすでに死についての思索を開始しているのだとも言える。思考不可能な死をそれでも私たちはある仕方で了解している。自分の生の核をなす契機として、私たちは常に死を直観的に捉えている。生の核において死と生は融合している。私たちは生を概念によって理解する以前に生を端的に遂行するのであり、同様に、私たちは、いつでもすでに死を生の内部で遂行しているのである。「死につつある生」を生きる存在、これが人間存在に固有のあり方ではないか。

死という捉えどころのない事象が影を落とす生に目を向けることからしか、死について内実を伴う思考を始めることはできない。このことをしっかりと銘記しよう。このようにして、死の問いは死を内包する生についての問いへと折り返される。死によって浸食された生の諸相についての現象学的な考察が始まる。

宗教的なイメージや思想的な観念によって死という事象が意味づけられ価値づけられる手前の、生と死との原初的な関わりのあり様を、あくまでも生活者の生き生きとした感情に即して表現しているものとして、『萬葉集』の挽歌を挙げることができる。われわれは、挽歌を通して、死を思いながら生きてゆく者たちが被る、生の変容の過程を見と取ることができる。たとえば、他者の死を受容するとき、私たちは死をおのれの生の内部の一現象と位置づけることによって、抜き差しならない自身の死の問題に捕らわれる危機を回避する。本節の冒頭に掲げた歌には、たしかに故人を惜しむ詠み手の切実な思いが込められている。しかし、詠み手の関心はすでに、死そのものから在りし日の故人の面影や、その面影が投影される遥かなる雲の存在へと移行している。それらは、今・ここにおいて私自身に現前する諸現象にすぎない。「私」の視点から捉えられる個別的な対象へと意識を集中することによって、それらを通して秘かに感じ取られているであろう、私の視点の消滅としての「私の死そのもの」への問いが封じ込められる。

失った個人(故人)を偲ぶことは、それ自体、死を思うことではない。眼前の現象に失われた生を投影し、そこに固執する態度は、死を思うことの非本来的な姿である。

死者のイメージを私の生の内部の現象に転化することが、死を直視する態度にとって一種の欺瞞であるとすれば、死後の世界を現象の彼岸に想定される実在世界とみなして私たちの生から分離する態度もまた、一つの欺瞞である。死を恐れる人間は、「死はわれわれにとって全く新しい見慣れぬ状態への移行と見なされるべきものではなく」「もともとわれわれ自身のものであった根源的状態への復帰にほかならない」(4)というショーペンハウアーの思想に救いを見出すかもしれない(ただし後に見るように、ショーペンハウアー自身はこの復帰を選択することの倫理的な不可能性へとわれわれを導くのだが)。ここで、生は漆黒の闇に一瞬光を放つ火花のような現象と捉えられる。死は生まれる前の状態への回帰にほかならない。ゆえに、私たちは自分の誕生に先立つ永遠に恐怖を覚えないのと同じように、死を恐れる必要もない。そう考えられるかもしれない。このような思想の典型はルクレティウスに求められる(5)。ルクレティウスの見るところでは、死は誕生に先立つ深淵の対称的な鏡像にすぎないのだから、死を恐れることは非合理なのである(6)。

しかし、私の生世界の向こうに実在する、「死後の永遠」ということを云々したところで、そうした観念は問題から逃避する一時の助けとはなっても、問題に根本的な答えを与えるものでは到底ない。私たちのリアリティを相対化するような「真の」絶対的なリアリティを想定することは、結局、生と死のいずれの内実をも骨抜きにする。無人称的、匿名的な世界へと意識を集中することによって、「『私の』死の意味をどう理解したらよいのか」、「いつか必ず死ぬとわかっていてどうして『私は』生きているのか」という死をめぐる問いの本質をなす、パースペクティヴ性ないし一人称主観性が捨象されるのである。

したがって現象を超えた実在への飛翔もやはり、死を思うことの非本来的な形態である。

ネーゲルの次の指摘こそ、死についての私たちの実感に即している(7)。彼によれば、ある人間にとっての死後の時間とは「死が彼から奪う」時間である。つまり、死後の時間は、生前の時間と違って、彼が死んでいなければ彼が送っていたはずの何らかの「生の喪失」を含意している。死は「不確定に広がる可能的な善きもの〔=生〕の抹消」(8)として悪である。この主張は、現に生を遂行している私が、この掛け替えのない生の内部において死を考えるときの実感に適っている。
だが、ここにも見るべき問題はある。死を悪とみなす根拠が生の喪失の含意にあるとすれば、例えば私の貯金口座から全財産がなくなることと同じ意味で(「程度で」ではなく)私の死は悪いことなのか? 思うに、死の倫理的な悪は、善悪を所有と喪失の対比関係で捉える古典的な議論によって汲み尽くされる性質のものではない。では、どのような原理から死の悪は導き出されるのか。本論を通じて、特に死の選択が倫理的に悪である理由を示したい。

本節の考察を通じて、われわれの思索の立脚点が定まった。それは、生や死をあくまで経験の内側から考察せんとする現象学的な立場である。そして、その考察の対象は、「生きられる生」であり、あるいは「生きられる死」である。生を実体的な所与とみなす考え方を批判するわれわれにとって、前者は冗長な同語反復なのではない。同様に、死をわれわれの経験から隔絶された生の彼岸と見なす考えを論難するわれわれにとって、後者は奇を衒った形容矛盾ではない。以下では専ら、所有と喪失の相克という相貌の下に立ち現れる、生きられる生の力動を明らかにしていく。

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